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夢の中で大嫌いな友達が出てくる。 今度の日曜日にあげるから家に来てくれると言われて、 ▼
夢はあなたに真の現実認識を見せることもありますが そのような現実認識の枠組みでよいのかと問いかけたり、疑問を投げかけたりもします。 ときには真意とは反対の夢表現をする場合があります。 つまり、夢は「うそ」をつくことがあるということです。 しかも、それがはっきりと「嘘」と分かるように表現するのです。 この場合の嘘は、現実認識とのかかわりにおいてではなく 夢の状況設定における「うそ」となります。なぜ、そのような表現をとるのでしょうか。 ふむふむは夢における遊びであると感じています。 その表現でなければ、夢見者に伝わりにくいものがある。 というより、伝えにくいものがあるとき、「Aである」といわずに、「Aでない」と言い切るのです。 そんなことはないと夢見者は思い現実認識を再確認しようとします。 そこが夢の当初の「ねらい」であるわけです。 「Aである」を「Aでない」とし、そして「やはりAである」と 戻ってくる過程において、現実認識が明確に枠組みをもってくる。 そこに「面白さ」が見えてくる。 素直な「Aである」という表現では、夢見者は記憶に残そうとしないからでしょう。 起きてから思い出すことにつながらない。 あなたの無意識はあなたを現実認識の枠組みへと誘導し 夢に配置された夢要素をひとつひとつ否定する。 そしてあなたを混乱させ、変幻きわまりない世界へと視点を切り替えるのである。 あなたの現実認識の枠組みを少しずつずらして イメージを転用し、結果的に意味までもがずらされる。 それが夢における「反語」の効果であるといえますね。 by エリカ
▼ その服を誉め、ニコニコと愛想笑いをし、同じ服をもらうという展開になっている。 そんなはずはないのに、どうしてという夢見者の違和感が残る夢である。 いったい夢の本来のねらいは何だったのかは、あなたにはお見通しのはずである。 現実認識とは全く正反対のことがらが夢で起きている。 それは「うそ」のイメージかもしれないし、そうであってはならないという 現実を否定するメッセージかもしれない。 そこに、夢が伝えたがっている「わざとらしさ」が見えてくる。 「わざとらしさ」はときには「真実」であったりするから、厄介である。 ふむふむはその見極めのために、ある一定の基準を設けている。 夢に結末が示されているか、そうでないかである。 示されていれば「うそ」であることが多く 示されていなければ「当たり前の現実」であると区別している。 by ふむふむ
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