first love


 すっと背筋の伸びた彼の姿勢は美しい。
 真直ぐに前方を見据えるその瞳も、とても美しい。
 何処かしら彼を見る人に、魂の純粋さと言う目に見えない不可思議な感慨を持たせるその立ち居振る舞い。そんな人物の横に並ぶ己がどんな風に見られているかなどはこの際問題ではない。自分についての評判が聞こえてこないわけではないのだが、それよりも彼に関する噂話の方につい耳を傾けてしまう。

 だから彼に恋人が出来たと言う噂を耳にしたのも、比較的早い時期だった。

 足早に廊下を進んでいる。いっそ駆けだしたとしても代わり映えのしない速度だろう。城内では走ってはならず常に背を正して歩かねばならないが、この時のカミューはとてもではないがゆっくり歩いてなどいられなかった。
 そしてそのままの勢いでノックもせずに部屋に飛び込む。だがそこに目的の人物はいなかった。
 途端に力が抜けてカミューは部屋の中に入ると、後ろ手に閉じた扉を背に溜息を落とした。
「……くそ」
 乱れた前髪を掻き揚げて悪態をつく。
 自分はいったいどう言うつもりでこの部屋に飛び込んだのだろう。もしマイクロトフがいたら何を言うつもりだったのか。

 ―――やぁマイクロトフ。おまえにもとうとう恋人が出来たって? おめでとう。

 何がめでたい。

 ―――水臭いじゃないか。恋人が出来たなら一番に紹介してくれるものと思っていたよ。

 馬鹿な。
 多分きっと、もしマイクロトフがいたなら自分は彼を責めていただろう。そんな権利も無いのに、どういうつもりだと詰っていたかも知れない。本当は心の何処かで信じていたのに、マイクロトフが女性など相手にしないものだと。そんな確約などかけらもありはしなかったのに。
 今更になって思い知らされる。
 本当は何もないのだ。
 何もしてこなかったのはカミューなのだから、何もないのは当然だろう。
 何も。何も始まっていない。
 怖がって何も始められない臆病な自分がいるだけだ。
 胸が痛い。
 拒絶されたらどうしよう。あの美しい瞳に嫌悪が宿る様など見たくも無い。だから始められない。
「すまない、マイクロトフ」
 こんな想いの中におまえを置くことこそ、おまえへの侮辱になるだろうに。だがこの想いを諦めることなど出来よう筈が無く、それどころか益々募るばかりだ。
「ほんと……すまないな…」
 吐息を落とした時だった。背を預けていた扉が押され、身体が浮いた。
「あ」
 カミューは慌てて飛び退き、内側から扉を開ける。するとその向こうに少し驚いた顔のマイクロトフがいた。
「マイクロトフ」
「なんだカミューか。どうした?」
 カミューの横を通り抜けながらマイクロトフは頓着無く聞いてくる。今更勝手に部屋に入っているのをあれこれ言う仲でもない。カミューが留守中に邪魔をして本を読んでいようが寝ていようがマイクロトフに五月蝿く言われた覚えは無い。だがこの時ばかりはカミューは気まずくてうろたえた。
「あ、いや、これと言って用は無いんだが」
「そうなのか? 扉の前で何をしていたんだ」
 騎士服の白手袋を脱ぎながらマイクロトフは振り返る。その親しげな表情を見ながらカミューは呆然と呟きを落とした。
「何を……」
 マイクロトフの事を考えていた。
 痛む胸に苛まれながら、そのマイクロトフに詫びながら。
 恋人が出来たと聞いて信じたくなくて。
「マイクロトフ……」
「なんだ」
 真直ぐに見詰めてくる黒い瞳を虚ろに見上げてカミューはそれを口にしていた。
「恋人が、出来たそうじゃないか」
「あぁ…その話か」
 こくりとマイクロトフが頷く。それを見た刹那喉を絞められたような心地になってカミューは僅かに眉を顰めた。噂は本当だったのか。本当にマイクロトフは―――。
 しかし気鬱に俯きかけたカミューの耳にマイクロトフの声が届く。
「何故そんな噂が出たのだろうな。今日は皆にその話ばかり聞かれて参った」
「え?」
 顔を上げてカミューはぽかんと口を開いた。
「俺に恋人などとんでもない話だ。まさかカミュー、信じたのか?」
 苦笑を浮かべるマイクロトフに、つられてカミューも口元を引き攣らせて笑みを浮かべた。
「そんな……こと、あるわけないだろう。まさかと思って確認しただけだ。マイクロトフに恋人が出来るなら俺なんかもう結婚くらいしてる筈だ」
「良く言う。それこそおまえのような不実な男が結婚出来るのなら、俺の方こそ子供がいてもおかしくない」
「ひどいなマイクロトフ」
 マイクロトフの軽口に漸くカミューは顔を硬直させていた緊張をほぐして笑い声を漏らした。しかしマイクロトフは軽く目を眇めると咎めるようにカミューを指差した。
「その通りだろう。おまえを取り巻く噂に比べたら俺の噂など瑣末だ。カミューこそひどい」
「うう」
 確かに反論できなくてカミューは呻いた。
 マイクロトフを想う気持ちとは裏腹に、成人男性の欲求というものがある。だがそうして求めた相手とは本気にはなれず、いつも長続きしなかった。結果、世間で噂されるようにとっかえひっかえとまではいかなくても、多く不実を重ねたことになる。
「だがマイクロトフ」
「まぁ、それがおまえと言う奴だ。俺とて分かっている」
「マイクロトフ……」
 うむ、と頷く男にカミューはそれはないよとがっくりと項垂れる。と、そこへ追い討ちのような言葉が投げかけられた。
「しかし俺も今回の噂は参った……何処で話が変わったのだろう」
「なんだって?」
 首を傾げるマイクロトフに、カミューはどう言う意味だと目を瞠る。
「うむ。俺は恋人が出来たとは一言も言ってはおらんのだ」
「とは……って」
「あぁ、好きな相手が出来たとは言ったがな」
 嘘だろう。
 そんな、嘘だ。
 カミューは絶望的な気分でマイクロトフを見詰めた。そこに黒い瞳が照れたように笑う。
「何だカミュー。俺がそんな気持ちを抱くのはおかしいか?」
「誰だ……その相手とは、誰なんだ」
 心臓が潰れそうな気分だった。頭の奥が熱く痺れて焼け焦げてしまいそうだ。しかしマイクロトフはそんなカミューの事などまるで気付かないかのように、何処か幸せそうに微笑を浮かべる。それはかつてカミューが見たことも無いような優しげな笑みだった。
「無粋な奴だなカミュー。おまえには教えてやらん」
「なぜだ?」
「いつも散々俺を振り回してくれる礼代わりだ。その内教えてやるが今は秘密だ」
「良いじゃないか。教えてくれ」
 だがマイクロトフはこの話はこれっきりだとでも言うように、ただ黙って首を振った。カミューにしてみればいつも振り回されているのは自分の方なのにと思う。こんなマイクロトフの些細な言葉ひとつで、こんなにも胸が痛い。張り裂けそうだ。
「マイクロトフ……」
「どうしたカミュー。そうだ、夕食はまだだろう? 一緒にどうだ」
「いや、今夜は俺は…良い」
「そうか?」
「あぁ……おやすみ…」
 力無く言い残してカミューは扉を開ける。その背にマイクロトフが心配そうな声をかけてくる。
「カミュー?」
 だがカミューは振り返る気力など無く、ただ右手をひらひらと振り扉をくぐると静かに閉めた。そして冷えた空気が滞る廊下を進む。
 彼が想う相手とは誰なのだろう。あの彼が想う相手だ。さぞかし、魂の美しい人に違いない。こんな、自分のような不実な翳りなど無いに違いない。もしその想いが成就したならば友人として喜んで祝ってやらねばならないだろう。
 出来るかな。
 でも、やらねばならないだろう。
 大丈夫。まだ何も始めていないから。始める前だから。
 この愛はまだ始まってもいないのだから。



1 → 2

2002/05/01