touch me
己の魅力を知らぬことほど、他者に対して罪作りはないだろう。
若輩ながらも他の追随を許さぬ実力と、そして羨望と尊敬を寄せられるに相応しい人格。彼ほど、素晴らしい騎士はいない。
午後の一番眠気の深い時。カミューは必死で睡魔と闘いながら、目の前を通り過ぎて行く何枚もの書類を片付けていた。そこへ。
「カミュー様」
膨大な量ゆえに、カミュー一人では追いつかない処理を、手分けして手伝ってくれている副長が、とうとう堪え切れぬように声をかけた。
「体調が優れられぬようでしたら、少しお休みになられては如何ですか」
「え?」
常の赤騎士団長らしからぬ反応の遅さで、しかもまだ理解しきれていない表情で返されて、赤騎士団副長はその眉を心配に寄せた。
「カミュー様。休憩にいたしましょう」
言うなり副長は立ち上がり、素早くカミューから書類とペンを取り上げる。
「え?」
そして突然の事に戸惑いを見せる団長を立ち上がらせ、部屋の中ほどにあるソファーへと導いた。
「何だ?」
「お休みになってください」
「ちょっと待ってくれ。いきなりどうしたんだ」
ソファーに座らされて漸くカミューがハッとして立ち上がろうとするのを押し留めて、副長は仮眠用の毛布を手にする。
「いきなりではありません。今朝ほどからカミュー様におかれましてはずっと何事か別の事に意識を囚われているご様子。執務も何処か上の空で、カミュー様に限って何か失敗などあろうはずもございませんでしょうが、私としましては僭越ながら心配になって―――」
「あぁ、すまない。分かった。悪かった。そこまで」
押し付けられる毛布を受け取りながらカミューは慌てて副長の言葉を遮った。
「心配をかけたようだが別に何処か具合が悪いわけでは無いんだ」
「ですが顔色が少々青いように見受けますが」
言い逃れは出来ないと言うかのように副長はカミューの顔色の悪さを指摘する。そこに鏡が無いために自分でどれほど悪いのか確かめようが無いが、多分その指摘は正しいのだろうとカミューも思う。なのでそこは素直に頷いてはみせた。
「あぁそうだろうな。白状すると実は昨夜寝る前に少し本でもと思って寝床で読み始めたんだが、それが中々面白くてつい夜更かしをしてしまったんだ。ただの寝不足だよ」
しかし本当の事を言うつもりも無く適当な事を言う。しかし副長はそれでも追及をやめてはくれなかった。
「お眠りになったのはいつ頃ですか」
実は寝ていないのだが。
「夜明け前にはすっかり夢の中だったよ」
「さようですか。それでも睡眠が足りなければ集中力も出ません。少しで構いませんから仮眠をお取りになってください」
「……分かった」
常日頃から充分な睡眠を取っていてこそ、確たる仕事も出来ると言うものである。副長の言うとおり不安定な集中力のまま書類の決裁を進めて、もし何か間違いがあれば大なり小なり騎士団の何処かに影響が出てしまうだろう。カミューは渋々頷いてソファーへと寝転がった。
「きちんと起こして差し上げますから、気にせずお休みください」
「あぁ。それではお言葉に甘えさせてもらうよ」
実際、眠くて仕方なかったのもあったため、カミューは毛布を目元まで引き寄せると、直ぐに目を閉じた。するとどうやら本当に眠かったらしい。少しも経たない内に眠りの淵へと落ち込んでしまった。
その眠りは夢も見ないほど深かった。
だから小さな話し声に目覚めを誘われた時、己がどれほど眠っていたかなど自覚がまるでなかった。そもそも自分が眠っていた事すら忘れて、寝起きのぼんやりとした思考で、かすかに聞こえてくるその囁き声で交わされる会話を何ともなしに聞いていた。
「……カミューは………」
私の事を話しているのか。いったい誰だ。
「お疲れで……―――…伝言は私が……」
「いや……た事では……」
誰だ。この声は。
聞き覚えのあるその声に、眠りの淵に意識を囚われながらカミューの心は焦燥に焼けた。
目覚めなければ。
思った途端、ぱちりと目が開いた。
「お?」
「おや」
揃って驚きの声がかかる。
「お目覚めになられましたかカミュー様」
「すまんな、もしかして五月蝿かったか?」
直前まで副長と机越しに立って会話をしていたらしいのは、目に鮮やかな色の青騎士団長の服を着た男。
「マイクロトフ……」
驚いて身を起こすと身体からずるりと毛布がずり落ちた。
「良く休めたか? 疲れているようだと聞いたが。大丈夫か」
「…あぁ、うん。良く寝たけど……どうしておまえがここに…」
「俺は、確かめたいことがあってな。この書類のこの記述のところだ」
マイクロトフはそして手に持っていた数枚の書類をカミューの目の前に広げた。とりあえずカミューは乱れた前髪を掻き揚げながら示された記述を読む。そして納得が言ったように頷いた。
「これか。すまない、あとで連絡をよこすつもりだったんだが」
「構わん。で、どうなんだ?」
「そのままで良い。訂正する必要は無いよ」
「そうか」
頷いてマイクロトフは書類を畳んで懐にしまいこんだ。そしておもむろにその手が伸びてカミューの頭を撫でた。
「起こして済まなかった。まだ寝ていても構わんぞ」
優しく労わるように指先がカミューの髪を梳いて、近寄った黒い瞳が笑みを浮かべる。
「マイクロトフ」
見上げてカミューは思わず眉を少しだけ顰めて苦笑を浮かべた。
「いや、起きるよ。眠気も消えたし」
「そうか?」
「あぁ……」
身体の上の毛布を退けてカミューはソファーから床へと足を下ろした。しかし右手で目元を覆うとそのまま前屈みに項垂れてしまう。
「カミュー?」
どうかしたかと問うてくるマイクロトフの声をカミューは故意に無視をする。
「カミュー様?」
水でもお持ちしましょうかと言う副長の言葉も、今は応える余裕がない。
カミューは少しだけ息を止めて奥歯をかみ締めていた。
僅かなだけの接触に、ふわふわと掴み所のない雲のように舞い上がる心と、かっと火がついた香油のように焼ける心がある。それはカミューに限りない喜びと共に、果てのない苦しみを同時にもたらす。
勘弁してくれと、誰に向けてか心の中で吐き出した。
もっと触れてくれと思いながら、絶対に触れてくれるなとも思うなんて、ただ辛いだけだ。
「カミュー?」
案じるような声が降って来るのに、カミューはほっと息を吐くと顔を上げた。
「まだ、寝起きでぼんやりしているみたいだ」
「そうなのか? 目眩でもしたのかと思ったが」
目眩ならもう随分前から。マイクロトフを見るたびに、触れるたびに感じてはいるが。
「寝惚けただけだ」
微笑んで告げると、マイクロトフの向こうから副長が水を持って戻ってきた。
「カミュー様」
「あぁ、ありがとう。さ、仕事に戻らねばならないな。マイクロトフももう用は済んだんだろう。早く戻らなくて良いのか?」
水を受け取りながら傍らに立つマイクロトフを仰ぎ見れば、彼は生真面目に頷き返した。
「そうだな。では俺はこれで失礼する」
「うん」
微笑のままその背を見送る。
だが、ソファーから立ち上がれたのはその背が扉の向こうに消えてしまってからだった。
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2002/05/03