first love
すっと背筋の伸びた彼の姿勢は美しい。
真直ぐに前方を見据えるその瞳も、とても美しい。
何処かしら彼を見る人に、魂の純粋さと言う目に見えない不可思議な感慨を持たせるその立ち居振る舞い。そんな人物の横に並ぶ己がどんな風に見られているかなどはこの際問題ではない。自分についての評判が聞こえてこないわけではないのだが、それよりも彼に関する噂話の方につい耳を傾けてしまう。
だから彼に恋人が出来たと言う噂を耳にしたのも、比較的早い時期だった。
足早に廊下を進んでいる。いっそ駆けだしたとしても代わり映えのしない速度だろう。城内では走ってはならず常に背を正して歩かねばならないが、この時のカミューはとてもではないがゆっくり歩いてなどいられなかった。
そしてそのままの勢いでノックもせずに部屋に飛び込む。だがそこに目的の人物はいなかった。
途端に力が抜けてカミューは部屋の中に入ると、後ろ手に閉じた扉を背に溜息を落とした。
「……くそ」
乱れた前髪を掻き揚げて悪態をつく。
自分はいったいどう言うつもりでこの部屋に飛び込んだのだろう。もしマイクロトフがいたら何を言うつもりだったのか。
―――やぁマイクロトフ。おまえにもとうとう恋人が出来たって? おめでとう。
何がめでたい。
―――水臭いじゃないか。恋人が出来たなら一番に紹介してくれるものと思っていたよ。
馬鹿な。
多分きっと、もしマイクロトフがいたなら自分は彼を責めていただろう。そんな権利も無いのに、どういうつもりだと詰っていたかも知れない。本当は心の何処かで信じていたのに、マイクロトフが女性など相手にしないものだと。そんな確約などかけらもありはしなかったのに。
今更になって思い知らされる。
本当は何もないのだ。
何もしてこなかったのはカミューなのだから、何もないのは当然だろう。
何も。何も始まっていない。
怖がって何も始められない臆病な自分がいるだけだ。
胸が痛い。
拒絶されたらどうしよう。あの美しい瞳に嫌悪が宿る様など見たくも無い。だから始められない。
「すまない、マイクロトフ」
こんな想いの中におまえを置くことこそ、おまえへの侮辱になるだろうに。だがこの想いを諦めることなど出来よう筈が無く、それどころか益々募るばかりだ。
「ほんと……すまないな…」
吐息を落とした時だった。背を預けていた扉が押され、身体が浮いた。
「あ」
カミューは慌てて飛び退き、内側から扉を開ける。するとその向こうに少し驚いた顔のマイクロトフがいた。
「マイクロトフ」
「なんだカミューか。どうした?」
カミューの横を通り抜けながらマイクロトフは頓着無く聞いてくる。今更勝手に部屋に入っているのをあれこれ言う仲でもない。カミューが留守中に邪魔をして本を読んでいようが寝ていようがマイクロトフに五月蝿く言われた覚えは無い。だがこの時ばかりはカミューは気まずくてうろたえた。
「あ、いや、これと言って用は無いんだが」
「そうなのか? 扉の前で何をしていたんだ」
騎士服の白手袋を脱ぎながらマイクロトフは振り返る。その親しげな表情を見ながらカミューは呆然と呟きを落とした。
「何を……」
マイクロトフの事を考えていた。
痛む胸に苛まれながら、そのマイクロトフに詫びながら。
恋人が出来たと聞いて信じたくなくて。
「マイクロトフ……」
「なんだ」
真直ぐに見詰めてくる黒い瞳を虚ろに見上げてカミューはそれを口にしていた。
「恋人が、出来たそうじゃないか」
「あぁ…その話か」
こくりとマイクロトフが頷く。それを見た刹那喉を絞められたような心地になってカミューは僅かに眉を顰めた。噂は本当だったのか。本当にマイクロトフは―――。
しかし気鬱に俯きかけたカミューの耳にマイクロトフの声が届く。
「何故そんな噂が出たのだろうな。今日は皆にその話ばかり聞かれて参った」
「え?」
顔を上げてカミューはぽかんと口を開いた。
「俺に恋人などとんでもない話だ。まさかカミュー、信じたのか?」
苦笑を浮かべるマイクロトフに、つられてカミューも口元を引き攣らせて笑みを浮かべた。
「そんな……こと、あるわけないだろう。まさかと思って確認しただけだ。マイクロトフに恋人が出来るなら俺なんかもう結婚くらいしてる筈だ」
「良く言う。それこそおまえのような不実な男が結婚出来るのなら、俺の方こそ子供がいてもおかしくない」
「ひどいなマイクロトフ」
マイクロトフの軽口に漸くカミューは顔を硬直させていた緊張をほぐして笑い声を漏らした。しかしマイクロトフは軽く目を眇めると咎めるようにカミューを指差した。
「その通りだろう。おまえを取り巻く噂に比べたら俺の噂など瑣末だ。カミューこそひどい」
「うう」
確かに反論できなくてカミューは呻いた。
マイクロトフを想う気持ちとは裏腹に、成人男性の欲求というものがある。だがそうして求めた相手とは本気にはなれず、いつも長続きしなかった。結果、世間で噂されるようにとっかえひっかえとまではいかなくても、多く不実を重ねたことになる。
「だがマイクロトフ」
「まぁ、それがおまえと言う奴だ。俺とて分かっている」
「マイクロトフ……」
うむ、と頷く男にカミューはそれはないよとがっくりと項垂れる。と、そこへ追い討ちのような言葉が投げかけられた。
「しかし俺も今回の噂は参った……何処で話が変わったのだろう」
「なんだって?」
首を傾げるマイクロトフに、カミューはどう言う意味だと目を瞠る。
「うむ。俺は恋人が出来たとは一言も言ってはおらんのだ」
「とは……って」
「あぁ、好きな相手が出来たとは言ったがな」
嘘だろう。
そんな、嘘だ。
カミューは絶望的な気分でマイクロトフを見詰めた。そこに黒い瞳が照れたように笑う。
「何だカミュー。俺がそんな気持ちを抱くのはおかしいか?」
「誰だ……その相手とは、誰なんだ」
心臓が潰れそうな気分だった。頭の奥が熱く痺れて焼け焦げてしまいそうだ。しかしマイクロトフはそんなカミューの事などまるで気付かないかのように、何処か幸せそうに微笑を浮かべる。それはかつてカミューが見たことも無いような優しげな笑みだった。
「無粋な奴だなカミュー。おまえには教えてやらん」
「なぜだ?」
「いつも散々俺を振り回してくれる礼代わりだ。その内教えてやるが今は秘密だ」
「良いじゃないか。教えてくれ」
だがマイクロトフはこの話はこれっきりだとでも言うように、ただ黙って首を振った。カミューにしてみればいつも振り回されているのは自分の方なのにと思う。こんなマイクロトフの些細な言葉ひとつで、こんなにも胸が痛い。張り裂けそうだ。
「マイクロトフ……」
「どうしたカミュー。そうだ、夕食はまだだろう? 一緒にどうだ」
「いや、今夜は俺は…良い」
「そうか?」
「あぁ……おやすみ…」
力無く言い残してカミューは扉を開ける。その背にマイクロトフが心配そうな声をかけてくる。
「カミュー?」
だがカミューは振り返る気力など無く、ただ右手をひらひらと振り扉をくぐると静かに閉めた。そして冷えた空気が滞る廊下を進む。
彼が想う相手とは誰なのだろう。あの彼が想う相手だ。さぞかし、魂の美しい人に違いない。こんな、自分のような不実な翳りなど無いに違いない。もしその想いが成就したならば友人として喜んで祝ってやらねばならないだろう。
出来るかな。
でも、やらねばならないだろう。
大丈夫。まだ何も始めていないから。始める前だから。
この愛はまだ始まってもいないのだから。
* * * * *
己の魅力を知らぬことほど、他者に対して罪作りはないだろう。
若輩ながらも他の追随を許さぬ実力と、そして羨望と尊敬を寄せられるに相応しい人格。彼ほど、素晴らしい騎士はいない。
午後の一番眠気の深い時。カミューは必死で睡魔と闘いながら、目の前を通り過ぎて行く何枚もの書類を片付けていた。そこへ。
「カミュー様」
膨大な量ゆえに、カミュー一人では追いつかない処理を、手分けして手伝ってくれている副長が、とうとう堪え切れぬように声をかけた。
「体調が優れられぬようでしたら、少しお休みになられては如何ですか」
「え?」
常の赤騎士団長らしからぬ反応の遅さで、しかもまだ理解しきれていない表情で返されて、赤騎士団副長はその眉を心配に寄せた。
「カミュー様。休憩にいたしましょう」
言うなり副長は立ち上がり、素早くカミューから書類とペンを取り上げる。
「え?」
そして突然の事に戸惑いを見せる団長を立ち上がらせ、部屋の中ほどにあるソファーへと導いた。
「何だ?」
「お休みになってください」
「ちょっと待ってくれ。いきなりどうしたんだ」
ソファーに座らされて漸くカミューがハッとして立ち上がろうとするのを押し留めて、副長は仮眠用の毛布を手にする。
「いきなりではありません。今朝ほどからカミュー様におかれましてはずっと何事か別の事に意識を囚われているご様子。執務も何処か上の空で、カミュー様に限って何か失敗などあろうはずもございませんでしょうが、私としましては僭越ながら心配になって―――」
「あぁ、すまない。分かった。悪かった。そこまで」
押し付けられる毛布を受け取りながらカミューは慌てて副長の言葉を遮った。
「心配をかけたようだが別に何処か具合が悪いわけでは無いんだ」
「ですが顔色が少々青いように見受けますが」
言い逃れは出来ないと言うかのように副長はカミューの顔色の悪さを指摘する。そこに鏡が無いために自分でどれほど悪いのか確かめようが無いが、多分その指摘は正しいのだろうとカミューも思う。なのでそこは素直に頷いてはみせた。
「あぁそうだろうな。白状すると実は昨夜寝る前に少し本でもと思って寝床で読み始めたんだが、それが中々面白くてつい夜更かしをしてしまったんだ。ただの寝不足だよ」
しかし本当の事を言うつもりも無く適当な事を言う。しかし副長はそれでも追及をやめてはくれなかった。
「お眠りになったのはいつ頃ですか」
実は寝ていないのだが。
「夜明け前にはすっかり夢の中だったよ」
「さようですか。それでも睡眠が足りなければ集中力も出ません。少しで構いませんから仮眠をお取りになってください」
「……分かった」
常日頃から充分な睡眠を取っていてこそ、確たる仕事も出来ると言うものである。副長の言うとおり不安定な集中力のまま書類の決裁を進めて、もし何か間違いがあれば大なり小なり騎士団の何処かに影響が出てしまうだろう。カミューは渋々頷いてソファーへと寝転がった。
「きちんと起こして差し上げますから、気にせずお休みください」
「あぁ。それではお言葉に甘えさせてもらうよ」
実際、眠くて仕方なかったのもあったため、カミューは毛布を目元まで引き寄せると、直ぐに目を閉じた。するとどうやら本当に眠かったらしい。少しも経たない内に眠りの淵へと落ち込んでしまった。
その眠りは夢も見ないほど深かった。
だから小さな話し声に目覚めを誘われた時、己がどれほど眠っていたかなど自覚がまるでなかった。そもそも自分が眠っていた事すら忘れて、寝起きのぼんやりとした思考で、かすかに聞こえてくるその囁き声で交わされる会話を何ともなしに聞いていた。
「……カミューは………」
私の事を話しているのか。いったい誰だ。
「お疲れで……―――…伝言は私が……」
「いや……た事では……」
誰だ。この声は。
聞き覚えのあるその声に、眠りの淵に意識を囚われながらカミューの心は焦燥に焼けた。
目覚めなければ。
思った途端、ぱちりと目が開いた。
「お?」
「おや」
揃って驚きの声がかかる。
「お目覚めになられましたかカミュー様」
「すまんな、もしかして五月蝿かったか?」
直前まで副長と机越しに立って会話をしていたらしいのは、目に鮮やかな色の青騎士団長の服を着た男。
「マイクロトフ……」
驚いて身を起こすと身体からずるりと毛布がずり落ちた。
「良く休めたか? 疲れているようだと聞いたが。大丈夫か」
「…あぁ、うん。良く寝たけど……どうしておまえがここに…」
「俺は、確かめたいことがあってな。この書類のこの記述のところだ」
マイクロトフはそして手に持っていた数枚の書類をカミューの目の前に広げた。とりあえずカミューは乱れた前髪を掻き揚げながら示された記述を読む。そして納得が言ったように頷いた。
「これか。すまない、あとで連絡をよこすつもりだったんだが」
「構わん。で、どうなんだ?」
「そのままで良い。訂正する必要は無いよ」
「そうか」
頷いてマイクロトフは書類を畳んで懐にしまいこんだ。そしておもむろにその手が伸びてカミューの頭を撫でた。
「起こして済まなかった。まだ寝ていても構わんぞ」
優しく労わるように指先がカミューの髪を梳いて、近寄った黒い瞳が笑みを浮かべる。
「マイクロトフ」
見上げてカミューは思わず眉を少しだけ顰めて苦笑を浮かべた。
「いや、起きるよ。眠気も消えたし」
「そうか?」
「あぁ……」
身体の上の毛布を退けてカミューはソファーから床へと足を下ろした。しかし右手で目元を覆うとそのまま前屈みに項垂れてしまう。
「カミュー?」
どうかしたかと問うてくるマイクロトフの声をカミューは故意に無視をする。
「カミュー様?」
水でもお持ちしましょうかと言う副長の言葉も、今は応える余裕がない。
カミューは少しだけ息を止めて奥歯をかみ締めていた。
僅かなだけの接触に、ふわふわと掴み所のない雲のように舞い上がる心と、かっと火がついた香油のように焼ける心がある。それはカミューに限りない喜びと共に、果てのない苦しみを同時にもたらす。
勘弁してくれと、誰に向けてか心の中で吐き出した。
もっと触れてくれと思いながら、絶対に触れてくれるなとも思うなんて、ただ辛いだけだ。
「カミュー?」
案じるような声が降って来るのに、カミューはほっと息を吐くと顔を上げた。
「まだ、寝起きでぼんやりしているみたいだ」
「そうなのか? 目眩でもしたのかと思ったが」
目眩ならもう随分前から。マイクロトフを見るたびに、触れるたびに感じてはいるが。
「寝惚けただけだ」
微笑んで告げると、マイクロトフの向こうから副長が水を持って戻ってきた。
「カミュー様」
「あぁ、ありがとう。さ、仕事に戻らねばならないな。マイクロトフももう用は済んだんだろう。早く戻らなくて良いのか?」
水を受け取りながら傍らに立つマイクロトフを仰ぎ見れば、彼は生真面目に頷き返した。
「そうだな。では俺はこれで失礼する」
「うん」
微笑のままその背を見送る。
だが、ソファーから立ち上がれたのはその背が扉の向こうに消えてしまってからだった。
* * * * *
日々、己に厳しく。私利に走ることなく常から固く戒めをもち。それこそが騎士としてあるべき姿。
誰がそんな事を言い始めたのだろう。
最近の赤騎士団長はどこか覇気に欠けると、そんな噂が出始めたのは当の赤騎士団からだった。しかも隊長格の幹部たちの間からである。
三色ある騎士団の中で特に身軽で紋章の能力に長ける者が集う赤騎士団においては、他の騎士団と比べあまり勇猛な感は無い。しかしその実、彼らもまた騎士として間違えようの無い気力と誇りを胸に秘めている。
そんな赤騎士団において団長の座を極めたカミューもまた、一見柔和な外見をしているのだが、実際の所剣技においては騎士団でも屈指の実力で、戦闘にあれば敵に恐れられる程の覇気を持っている。
そのため、若くして団長の座にあろうとも彼は充分に赤騎士たちから忠誠を捧げられていた。
そんなカミューが、最近ひどく疲れている様子で、それまでの彼ならば自覚があれば上に立つ者としてそれを上手く覆い隠して、部下に悟らせるような羽目にならないものを、どうやらそんな疲労を隠すことも忘れているような有様なのである。
「カミュー様はいったいどうされたのでありましょうか」
空前絶後の出来事に赤騎士団の幹部たちは動揺を隠せないでいた。
カミューとて人の子。何かに想いをとらわれ悩む日々もあろうが、これまでが完璧すぎたためにその綻びが目立ってならない。しかも誰一人としてその原因に思い当たれないのも彼らの動揺を深くしていた。
騎士団で何か衝撃的な事件が起きたわけでもなく。また他国との関係も今のところという限定付ではあるが和平状態にあり、戦闘も少ない。いったいカミューに何があり、何を考えているのかまったくもって不明に尽きた。
しかし、ただひとつだけカミューを取り巻くものにそれらしい要因があったのだが、あまりに単純すぎて誰もが口にするのを憚っていた。ところが、隊長の一人がついうっかりと言った態でぽろりと零した。
「恋愛……でありましょうか」
するとまた別の隊長が直ぐに反論を返した。
「あのカミュー様が恋愛でああも不甲斐無いお姿になると言うのか」
「不甲斐無いとは何だ。その発言は失礼に当たるぞ。情けない、くらいにしておけ」
「それもどうかと思うが……しかしあのカミュー様が恋愛などでああなるとは考えられんな」
その言葉に皆が頷く。
事、恋愛に関してはあの赤騎士団長ほど世慣れた男はいないと言えた。
その秀麗な顔立ちに洗練された立ち居振る舞いは、社交界の花を摘み取るのになんの妨げにならず、どちらかと言えば花の方が自ら彼の手に手折れてくるほどである。そして幾多もの恋を重ねて、別れてはまた新たな愛を探し、とその華やかな噂は絶えなかった。
そんな男が今更恋愛で悩むと言うのか。
しかし言い出した隊長は「だが」と首を傾げた。
「カミュー様もそろそろ結婚を考えてもおかしくは無い筈だが」
「結婚!」
「カミュー様が結婚だと!?」
それこそ考えられないと、そこにいた全員が上官に対して無礼極まりない態度を取る。
「在り得んぞそれは。カミュー様に限って結婚! この二つが結びつくなど、もしあったとすれば城下のどれだけのご婦人が嘆くか怒るか分からんではないか」
「全くだ。みだりにそんな言葉を口にするものではない。もし噂にでもなって見ろ、赤騎士団はご婦人とその父君の抗議文の対処だけで執務が終わってしまうではないか」
つくづく、そちらの方面では部下に信頼の無い赤騎士団長であった。
「それでは何だと言うのだ。よもや、今になって本気で愛する相手が出来て、あの年で恋煩いでもしているなど、それこそ在り得ないだろう?」
「寒い事を言うな。青騎士団長のマイクロトフ様がそうなるのならともかく、あのカミュー様だぞ? そんな恋煩いをしている様など、想像すら出来ん」
「確かに」
一同がうむ、と深々と頷いた。
だが、彼らは自分たちが図らずも的を得ていた事に最後まで気付けなかった。
赤騎士団長カミューは、その年で、今更になって、本気で愛する相手に告白も出来ずに延々と恋煩いを続けているのである。しかもその相手と言うのが、偶々会話の引き合いに出された青騎士団長マイクロトフであるとは、それこそ誰も気付きようがなかった。
「しかし問題は、このまま待って何とかなるものならともかく、もしかすると悪化して行くかも知れぬと言う懸念だ」
「あぁ、何とかして復調していただかねば赤騎士団全体の士気にも関わる。どうにかせねばなるまい」
「だが我々がいくら問い詰めたところで、カミュー様が答えてくれるとは思えんぞ」
「とすれば我らが頼るのは一人しかおらんではないか」
顔をつき合わせていた面々は同時に一人の顔を思い浮かべた。
「では私が青騎士団長殿にお願い申し上げてこよう」
一人が手を上げてそう宣言すると、素早く視線が行き交った。
「頼めるか。だが内密にな。決してカミュー様には悟られるなよ」
「大丈夫だ。幸い私には青騎士団の隊長に知り合いがいる」
「そうか。では頼んだぞ」
そして頷きあった彼らは、ただ一人カミューに意見出来る男に全てを任せようと、神頼みにも似た想いで何とかしてくれと密かに願うのだった。
しかし唯一の望みだった男、マイクロトフは「俺でも力になれないようだ」と出向いた赤騎士に深々と詫びた。
共に騎士団に入団した縁から、彼ら二人の交流は長い。団を超えて、互いに騎士団長となってもそれは変わらずいっそうの友情を深めていた。だからカミューにとってのマイクロトフとは誰よりも信を置け、何よりも安心出来る相手と言えた。
そのマイクロトフが、不調のカミューになんの働きかけもしていなかったわけがなく、それでもカミューに何の変化も無くそれどころか悪化しているという現在は、そのマイクロトフの力が及ばなかったことを示していた。
「カミューは、あれでとても頑固者だからな」
赤騎士を相手にマイクロトフは苦笑を浮かべてそんな事を言った。
「俺がどれだけ何があったと聞いても、カミュー自身が言わないと心に決めた事は、絶対に洩らしてはくれない」
だからこそのカミューであるともマイクロトフは思うのだが、赤騎士は今ひとつ納得出来ない様子だった。
「ですがカミュー様も、周囲がどれだけ案じているかをお知りになれば、そして我らがその憂いに少しでもお力になれるとお分かりになれば或いは」
根気良く説けば打ち明けてくれるのではないかと。だがマイクロトフは緩やかに首を振った。
「カミューが、カミュー自身に誓った沈黙ならば、それはあいつにとって神に誓うものよりも神聖で犯せないものだ。周りがどう言おうと決して覆されることはないだろう」
例えそれが俺でもと、マイクロトフは付け足した。しかしその表情には打ち明けられない事への不満も焦りも無く、赤騎士はそんな青騎士団長の態度が不思議でならなかった。
「ではカミュー様がご自身で解決されるのを、ただ我々は傍観せねばならないのですか」
「そうは言わない。カミューもそこまで愚かではない」
マイクロトフは少しだけ笑って首を振った。
「俺たちが心配しているのだと告げるのは構わないし、それがカミューに通じないわけはない。それはあいつだって分かっているし、何とかしようとは考えてくれる。ただ理由を言わないだけだ」
その理由こそを知りたいのに、マイクロトフは赤騎士が思うよりも気にしていないようだった。だが次のマイクロトフの一言に赤騎士ははっと目が覚めるような思いになった。
「カミューを信じろ」
マイクロトフはカミューを信じているのだ。
「あいつの沈黙は、俺たちを信用していないからではない。言うべきことではないとカミュー自身が判断したからだ。だから信じろ」
「マイクロトフ様」
赤騎士はマイクロトフの言葉に感銘を受けた様子で、深く頭を下げた。何とも赤騎士一同不徳の致すところであると。
「どうやら我々が焦りすぎたようです。仰せの通り、カミュー様を信じましょう」
そんな赤騎士の言葉にマイクロトフは頷いて見せた。だが最後にふと苦笑を浮かべて言った。
「だがカミューが頑固すぎて見ていられなくなった時は、俺が馬鹿力で叩き折ってやるからな」
「期待しております」
赤騎士は笑って青騎士団を去ったのだった。
* * * * *
綻びを見つけた時、なぜかそこに手を伸ばしたくなる。鉄壁の傷ひとつ無いはずのそこに見つけたほんの僅かな綻び。だが本当は知っているのだ。わざわざ手を伸ばさなくとも、そうして出来た綻びは放っておいても次第に大きく裂けて行くものだ。
だが、やはり手を伸ばして引き裂きたくなる衝動は、抑えるのが難しい。
その夜、珍しく赤騎士団長は酒が過ぎたようだった。
流石に赤騎士団長ともなれば、城下の裏通りにある場末の酒場などに出入りは出来ない。だが一旦騎士服を脱いで、多少髪型などに変化を与えて口調などに気を付ければ、案外誰も気付かないものである。
今宵、赤騎士団長が人知れず杯を重ねてきたのは、そんな酒場でのことだった。
騎士団の中枢を担うロックアックス城。その城内において見張りの騎士が出入りするための門にふらりと現れた赤騎士団長の姿に、番をしていた当直の騎士は肝を抜かれた。
「カミュー様!?」
「やぁ、務めご苦労」
一見して衣服に乱れはないし、顔色もいたって素のまま。しかし漂ってくる酒精の香りは紛れも無く、彼が少量ではない酒を干しているのだと教えた。これは、酒を頭から被っているのでなければ、飲んでいるとしか思えない。
そして城下の店でカミューを赤騎士団長と知ってここまで酒をすすめる不埒者はいない。そもそも一人で酒を飲みに出るなど無用心他ならなかった。
「どうなされたのですか」
「どうもしない……すまない、わたしが悪い……」
「いったい、どれほど召されたのです」
「―――戻る。騒ぐ必要は無い……」
そこへ現れた時と同じように、まるで幽鬼のようにふらりと門をくぐり場内へと消えていく赤騎士団長を、騎士は黙って見送らざるを得なかった。しかし、いくら騒ぐなと言われても見なかったことには職務上出来ない。彼はただちに赤騎士団副長へと、その出来事を伝えた。
そして報せを聞いて、夕刻から姿の見えぬ団長を案じていた副長は酷い形相で深夜の赤騎士団長の私室へと踏み込んだ。その上で、部屋の中ほどにある広いソファーにだらしなくも潰れたカミューを見つけて言葉を無くして震えた。
「おや、何か危急の用かい?」
物音に薄っすらと目を開けたカミューが横たわったままそんな事を聞いてくる。そこで副長の堪忍袋の緒が切れた。
「大概になされよ!」
滅多に無い赤騎士団副長の怒声は、部屋の外、廊下を曲がった先にも聞こえただろう。
「あ、あなたはこの赤騎士団を率いるお方ですぞ!? どれほどの騎士があなたに忠誠を捧げているかご理解されておらぬわけがないっ!! 単身泥酔して城下をふらつくなど、もしも万が一、賊の刃にでも倒れるような事があればどうなる事か……!」
「あぁ……酔っていても、賊に不覚は取らない」
「あぁそうでしょうとも! ですが今問題にしているのは左様な事ではありません」
「分かって……いるよ」
「いいえ、あなたは分かっておられない!!」
副長の憤激にカミューはよろよろと身を起こした。そして部屋に入るなり着崩していた服の合わせを、気まずさからか引き寄せた。
「そう、怒鳴らないでくれ。軽率は認めるし連絡もせずに出て悪かった。だが、一人で考え事をしたくなったんだよ。わたしにはそんな自由もないのかな」
「それなら態々城下へなど出ず、この部屋でなされば宜しい」
「……そうだな…」
同意は返しても、決してそうとは思っていないのが見え見えで副長はつい溜息を落としていた。だいたい分かっているのなら初めから外出などしない。何か理由があるのだろうとは副長にも分かるのだが、あまりにも分を弁えないカミューの振る舞いにどうしても責める気持ちが立つ。
「今後一切、このような事は認めませぬ。どうぞ心に留め置きください」
「あぁ……すまなかった。反省するよ」
そしてカミューは手振りでもう下がってくれと示す。副長もこれ以上はどうにもなるまいと一礼して踵を返した。しかし辞去するために扉を開けたそこで、思い掛けぬ人物と鉢合わせをしてつい声を上げていた。
「マイクロトフ様」
「すごい声だったな。いつもは物静かなあなたをあそこまで怒らせるなどカミューくらいのものだろう」
「お恥ずかしいところを……―――」
苦笑で見下ろしてくるマイクロトフに、副長は恥じ入って俯いた。しかしその肩を掴まれて部屋の中へ押し戻され、慌てて顔を上げる。
「カミューは、いるのだろう?」
「は、いえ、その」
いるにはいるが泥酔状態の何とも情けない姿である。そんな上司の醜態を見せても良いものかと慌てる副長であったが、マイクロトフとカミューの付き合いは長い。今更この程度の事で悪くする心証など持ち合わせていないだろう。
「おられるにはおられますが、随分と酒を召されているご様子です」
「そうか。仕方の無い奴だな」
そして笑うマイクロトフに副長も苦笑を返した。この青騎士団長の明快なところが、今の赤騎士団長のやけに廃れた具合と、ひどく対照的に映る。この調子で何とか落ち込んでしまっているらしいカミューを引き上げてくれると助かるのだがと思いながら、副長はマイクロトフに道を譲った。
「それではマイクロトフ様。私はこれで失礼しますが、カミュー様をお願いできますでしょうか?」
「もとより、そのつもりだが」
あっけらかんとして聞いてくるマイクロトフに副長も気負いを削がれて笑みを溢した。そしてそのまま再び一礼するとマイクロトフを残して扉を閉めたのだった。
反省するよと、言葉だけ告げて目を閉じ、副長の遠ざかる足音を聞いてカミューは再びぐったりとソファーへと倒れ込んだ。気の所為か雑音が聞こえるが、酒精で全身が痺れたようになっていて、雑音だか耳鳴りだか区別がつかなかった。
だが不意に静かになって、続いて頬を触れる何かがあった。
「カミュー。大丈夫か」
放っておいてくれ。このまま眠ってしまいたいのに。
だが続けざまに頬を数度叩かれてカミューは渋々目を開けた。そして屈み込むようにして覗き込んでくる漆黒の瞳にかち合って息を呑んだ。
「……マイクロトフ」
「起きろ、ここで寝るな」
そして上になっている左腕をぐいぐいと引っ張り上げられ、カミューは促されるままにソファーの上に起き上がった。するとマイクロトフが目の前で苦笑と共に溜息を吐いた。
「本当に飲みすぎているようだな。なんてざまだおまえ」
「マイクロトフ」
「ともかくそのまま寝るのは良くない。水でも飲むか」
そして水差しの置いてあるキャビネットまで行こうとする。それを。
「マイクロトフ……」
カミューは咄嗟に手首を掴んで引き止めていた。マイクロトフはしかし逆らわずに足を止めると振り向いた。
「なんだ。さっきからカミューは俺を呼んでばかりだな」
そして笑うのを、カミューは目を細めて見上げた。
「……マイクロトフ…」
「何だ、カミュー」
マイクロトフは床に膝をついてカミューと目を合わせてきた。そして首を傾げる。カミューは誘われるようにその首に腕を伸ばしていた。抱き付くと、抵抗もなくマイクロトフはやはり「どうした」と背を撫でてくる。その感触に、瞬間、カミューは我に戻ってがばっと身を離した。
「す、すまない」
「カミュー」
突き飛ばされマイクロトフが驚いた顔をする。カミューは慌ててそれを取り繕おうと手を伸ばしかけたが、躊躇してその指先を握り込んだ。
「すまない……頭が、ぼうっとしていて…」
「構わないが、大丈夫か?」
案じるマイクロトフの声にカミューはかろうじて頷いて応えた。だがそれ以上は無理だった。つい先程の自分の無意識の行動がかなりの動揺を与えていて、いくら酔っていたとは言えカミューにとってしてはならない接触だった。
「マイクロトフ……帰って、くれないか」
頷いたきり床に視線を落としてカミューはそう頼んだ。だがマイクロトフはそんなカミューを覗き込むように近寄る。
「何故そんな事を言う。なぁ、カミュー。最近おまえの様子がおかしいと赤騎士たちから聞いたが、確かにこれほどに飲むのはおまえらしくない。何か問題を抱えているのなら俺はちゃんと相談に乗るぞ」
親友としてこれ以上はない労わりの言葉だろう。だがカミューにとってそれは触れられたくない生傷を抉るような行為に等しかった。
「やめてくれ!」
思わず痛みを覚えたかのように顔を顰め、叫んでいた。それからまた我に返る。支離滅裂な己の醜態にカミューは絶望的な気分に陥った。だがそんなカミューの精神状態を知る由もないマイクロトフはただ目を瞠っているばかりだ。
「カミュー……」
「ごめん、俺。もう、わけが分からなくなってるみたいだ。最近滅入る事ばかりで……―――おまえに嫌な事を言う前に頼むから俺を一人にしてくれよ」
両手で顔を覆ってカミューはそう洩らした。これでマイクロトフが出て行ってくれれば良いのにと思うが、しかし傍の男が身動きする気配は一向になかった。
「頼むよ、マイクロトフ」
重ねるように言うがマイクロトフは動かない。それどころか顔を覆っている手の手首をいきなり掴まれた。
「マイクロトフ…っ」
ぐいと引かれて抗う間もなく手を顔から引き離されて、有無を言わさず視線を合わされる。そして見たマイクロトフの顔は少し怒っているようだった。恐らく心配をして来てくれたのだろうに、素気無く追い返そうとしているのだから怒るのは当然かとカミューは哀しくなる。だがそれは違った。
「カミュー、俺を見くびるなよ」
「………」
「おまえが抱えているものくらい、気付かない俺と思うな。おまえが自分から打ち明けてくれれば良いと思っていたが、そうまで俺に隠すと言うのなら無理にでも聞き出すぞ」
それは親友として、そうせねばらないとの義務感からなのか。第一カミューは赤騎士団の団長なのだし、このような体たらくは同じ団長を務めるマイクロトフからすればとても見過ごせないのかもしれない。前から潔癖なきらいのある男でもあったし。
思ってカミューはそんな風にマイクロトフを煩わせている自分が情けなくなった。
「そんな、見るからに不調だったかい? 心配をかけてすまないが、マイクロトフ。そう大した事があったわけじゃない。聞き出すような事は何もないんだよ」
「嘘を言うな!」
「…嘘などでは、ないんだよ」
困ったように微笑むと、マイクロトフから発する怒りが益々強みを帯びた。
「言えカミュー!」
「……だから、何もないと…」
「誤魔化すな!!」
間近で怒鳴られて、たまらずカミューはその大声に顔を顰めた。どうしてここまで怒鳴りつけられねばならないのだろう。放っておいてくれと全身で訴えているのに、マイクロトフだってそれに気付かないわけがないのに。そもそも、例え言えたとしてもそれはマイクロトフ以外の人間にで、当の本人に告げられるような内容ではない。
そんな胸の内をぶちまけてしまえたらどんなに楽だろうか。考えてそれが出来ないからこうなってしまっているのだと至ってカミューは大きく溜息を落とした。
「怒鳴らないでくれ……もう、遅い。それに頭に響く」
「カミューが素直に言わんからだ」
「俺の、せいかい?」
それは悪かったな、とカミューはこぼしてそっぽを向いた。もういい加減うんざりして来ていた。いつまでこんなやり取りが続くのだろう。マイクロトフはいつになったら出て言ってくれるのだろう。いつになったら、楽になれるのだろう。
なんだか、唐突に疲労が圧し掛かってきたような気がした。
「分かったよ、俺が悪い。反省する、明日からはいつも通り過ごすし、誰にも心配はかけない。もう話はこれまでだ。だからマイクロトフ……帰れ」
「嫌だ」
「………っ」
「分かっていないなカミュー。それでは何の解決にもならんだろう」
責めるように言われた瞬間、カミューの中でそれまで燻っていたものが火を吹いた。
「分かっていないのはおまえの方だ!!」
苛立ちが思考を赤く染めていく。噴き出した感情は上へ上へと勢いを増して外へと放出し始めた。
「俺は言ったはずだ。おまえに嫌な事を言わないうちに帰れとな! なのにおまえは出て行かない!!」
「だから言えと言っている」
「言えるものかっ」
吐き捨てるがマイクロトフの追求は止まない。
「言うんだ」
静かに促されて、逆にそれがカミューの感情を逆撫でした。感情の震えが身体にも表れ、握り込んだ拳がぶるぶると震えた。
「この……馬鹿! 知らんぞ、俺は……マイクロトフ……俺はおまえを、誰にも渡したくないくらい………愛しているんだ」
震えながら告げた言葉は意外にすんなりと出た。そうしてからカミューはぎゅっと目を閉じ、満足に吐き出せなかった息を漸く吐いた。そして今度こそマイクロトフはこんな自分を不可解に思うか、それとも不快に思って、持て余して出て行くに違いないと思った。だが、返って来たのはそんなカミューの予想外の言葉だった。
「知っている」
思わず、聞き流しそうなほどそれは当たり前のように聞こえた。
* * * * *
自ら科していたのは戒めの鎖。それを解き放つためにある鍵は、ただ一人だけが持っている。決して使われる事はないと、そう思っていた鍵だった。
何故ならその唯一の人は、鍵の守人である自覚などなかったのだから。たとえそれを使える唯一絶対の権利を持っていても、鍵の存在を知らなければ使われるわけもない。
それに、もしその人がそれを知ったとしても、使う前に捨ててしまうと思っていた。
マイクロトフの瞳は相変わらず深い漆黒で、そこに偽りや虚ろな翳りはなかった。だからこそ、彼の言葉には重さがあり、真実として胸に届くのだ。だが今回ばかりはカミューもその言葉の意味に裏があるのではと疑い、急には信じる事が出来なかった。
「え……?」
小さく声に出して聞き返す。するとマイクロトフはよりいっそう瞳に深みを帯びさせてカミューを見つめた。
「俺は、知っていると言ったんだ。おまえが俺に恋情を抱いているのだと、ずっと前から知っていた」
刹那カミューは泣きそうになった。いや、そうではなく怒鳴りそうになったのだろうか。どちらにせよ意識する間もなく理性の箍が弾け飛んだ気がしたのだ。
「マイクロトフ!」
叫んでもマイクロトフの瞳に揺らぎは生まれない。
「マイクロトフ、おまえ……っ」
カミューは左腕で自分の頭を抱え込んで喚いた。
「知っていて…? 知っていておまえは俺に……あんな……!」
カミューが泣きそうに顔を歪めながら言及するのは、マイクロトフの想い人の話である。あの日、確かにこの男はカミューに向かって好きな相手が出来たと言ったのだ。その相手の名さえも教えてくれなかった。
あの時、マイクロトフがカミューの想いを知っていたと言うのなら、なんと言う仕打ちだろう。一瞬でカミューの目の前は赤く染まった。もとより酒精でぐらついていた思考が益々混迷に惑う。そしてそこへ、またもマイクロトフのいっそ冷淡なほど静かに聞こえる声が響く。
「あぁ。俺は知っていて、そしておまえの反応を見ていた」
カミューが言葉をなくす。そのさまに何を覚えたのかマイクロトフが口の端を吊り上げて笑った。
「俺に、気付かれないとでも思っていたか? おまえはもっと自分を知った方が良い。いつも冷静を気取っているが、本当は戦闘好きで負けず嫌いだろう?」
そしてマイクロトフは不意にそれまで絡ませていた視線を断ち切って顔を背けた。
「烈しい性格をしているくせに、それを隠し通そうなど無理に決まっているだろう。カミューの目は、いつも俺を見ていたからな」
そして一度瞬いて、吐息を落とした。それから再びカミューを見詰めて言った。
「いつも、おまえの視線に含まれていたんだ。俺の全身を絡め取るような熱くて、焼け焦げそうなものが……」
マイクロトフは目を離さない。そしてその瞳に宿り始めたものに、いつの間にかカミューは引き込まれ始めていた。
「それで、俺はいつも、身体や心を焦がされていたんだ。ずっと、夢に見るほどに、意識せずにはいられなくなるほどにだ」
「……マイクロトフ」
「今、教えてやる」
マイクロトフが微笑む。それをぼんやりと見ながらカミューは彼の言葉を聞いていた。
「俺が好きになった相手は、カミューだ」
「嘘だ」
開口一番にカミューはそんな事を言っていた。途端にマイクロトフは苦笑を浮かべて手を振った。
「カミュー。もっと他に言い様があるだろう」
「だってマイクロトフ。そんな嘘みたいなこと」
「嘘ではない」
きっぱりと断じてマイクロトフは今度は少し怒ったような顔をした。
「なぜ俺がこんな事でおまえに嘘をつかねばならんのだ」
「あぁ、それもそうか……」
つい納得して頷くが、しかしにわかには信じられずカミューはまた否定するように首を振った。
「だけどマイクロトフ! おまえそんな素振りなんて少しも……!」
カミューの意識の中では、マイクロトフと言う男は潔癖で恋愛沙汰に疎く、女性と会話をするのにも苦労をするのだが、それでも彼の恋愛対象は男ではなく女だと思っていた。思慕の対象が男に向けられるなど在り得ない、考えすらしないに違いないと思っていたのだ。
だから好きな相手が出来たと聞いても相手が女性だと信じて疑わなかったカミューだった。それに、噂はあれっきり囁かれることはなくなり、マイクロトフ相手に何よりも気鬱だったその話題を持ち出す事はなかった。
またマイクロトフも「好きな相手が出来た」とは言ったが、先のようにその相手も教えてくれず、話はそれきりとなり、密かにマイクロトフの想う女性はどんな人なのだろうと、針で刺すような小さな痛みを胸に覚えていただけだった。
「秘密だと言っておいて、それを明かすような事をするわけがないだろう?」
「そんな、マイクロトフ……」
意地悪なマイクロトフにカミューが何とも情けない声をあげた。だがマイクロトフは変わらぬ真面目な顔つきのままである。
「俺はなカミュー。いつかはおまえが自分の悩みを俺に打ち明けてくれると思っていたんだ。なのにおまえときたら内に溜め込むばかりで一向に俺に何も言ってこない」
「…言えるわけないじゃないか」
むっつりと怒ったようなマイクロトフの物言いにカミューは首を振る。だが男はそれこそ「何故だ」と首を振って返した。
「おまえが苦しんでいた原因は俺だろう? 俺は、当事者じゃないか。何故言えない」
「だって……そんな…てっきり俺は」
「俺に嫌われるとでも考えていたのだろう」
言い当てられてカミューは言葉を失くして俯いた。その通りである。こんな常識から外れた想いなど、抱いていることさえ知られてしまえば途端にマイクロトフから嫌悪されると思っていた。
しかしマイクロトフはふんと息を吐き出して腕を組んでみせる。
「見くびられたものだ。俺はそんなおまえの心をとうに知っていたが、少しもおまえが嫌いになどならなかったぞ」
それは最初は驚いたがと、マイクロトフは付け足した。そして不意ににやりと笑って言う。
「だが悪い気はしなかったぞ。それに、いつもいつもわけ知り顔で俺をからかってくるカミューが、本当は俺が好きなんだと思ったら、逆に可笑しかった」
「可笑しかった……って、そんなマイクロトフ…」
くすくすと笑うマイクロトフにカミューは唖然とした。それにマイクロトフは慌てたように言い繕う。
「あぁ、いや。可笑しいのとは少し違うか。正直、嬉しかったぞ」
「………」
言って穏やかに笑うマイクロトフに、途端にカミューは見惚れて、その顔はかーっと赤くなった。
「え、と……あの、マイクロトフ?」
「だから言っただろう。それで今度はそう言う目でカミューを見てみた。そうしたら、俺もおまえが好きなのだと気付いてな……。それでぼんやりとしてつい呟いていたんだ。そうだ俺はあいつが好きだったんだと、な。それを傍にいた奴に聞き咎められて噂などになってしまったんだが」
「そうだったのか……」
「あぁ、信じてくれるか?」
さっきは嘘だと言った。それに対する問い掛けだろう。カミューは思わず小さく頷いていた。
「……うん」
するとマイクロトフは良く出来ましたとでも言うかのように、大きく頷いて笑みを深めた。そして。
「で、どうするカミュー?」
聞いてくる。
「え?」
いったい何をとカミューは首を傾げる。するとマイクロトフはほんのり首筋を赤く染め、そこを掌で撫でながら今度は一転、小さな声でもごもごと洩らした。
「一応、俺たちは両想いだ……それで、この後カミューはどうしたいんだ」
照れているのか、両想いのところは聞き取るのも難しいほど囁きに近い小声だったが、そんなマイクロトフが何を言いたいのかは、カミューに充分伝わった。
「あぁ…」
途端にカミューは破顔して、胸の奥底から沸き上がる幸福感に衝き動かされるまま、マイクロトフに腕を伸ばしていた。
「とりあえず、キスしても良いかな?」
腕を掴んで問い掛けると顔までも赤くしたマイクロトフがこくりと頷く。
そしてカミューはこれ以上はないと言うほど心臓を高鳴らせつつ、赤い顔のマイクロトフを引き寄せ、決して手に入らないと思っていた至福を味わったのだった。
end
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2002/05/01-2002/05/11