imitative lover


 赤騎士団長のカミュー様は騎士として女性への礼節溢れ、秀麗なる面差しは誰をも魅了する。
 彼を評する美辞麗句は概ね似たり寄ったりであるが、言わずもがなその存在はマチルダ全土の乙女の憧れであり、また貴族の父兄にとっては異国出にもかかわらず独身の彼を是非に一族にと願うものであった。
 いわゆる有望な独身男性の中でも結婚したい男の首位なのである。
 しかし浮いた噂は数多くあれど、たった一人の定めた相手を持たない赤騎士団長である。それだけにそのひとつだけ空いているのであろう特別な位置に着くのは容易ではないと誰もが考えていた。
 だから誰もが、それが空席である以上は等しく可能性を与えられているのだと考えており、いつしかそれは空席が当たり前の状態で、未来においても埋まる事は無いのだと、そんな奇妙な前提が設けられるようになっていたのだった。
 そしてそんなマチルダ領内に、激震のように人々の心を揺さぶる噂がある朝突然に持ち上がったのだった。



「おい、聞いたか」
「あれか……? あのカミュー団長にあの、という」
「あぁ、やはり知っているか」
「皆知っているぞ。騎士として噂話は控えたいところだが、ことカミュー様の噂話となればなぁ」
 二人の赤騎士が廊下の端に立ち止まりそんな言葉を交わしている。噂の中心には彼らの尊崇する赤騎士団長がいる。不敬にあたってはならないと言うので彼らも声をひそめているものの、実際このロックアックスの中でその噂を知らない者の方が少なかったので、囁きも意味が無かった。
「しかし、本当の事だろうか……」
「噂の元はマイクロトフ様のお言葉だ。間違いなかろう」
「うむ」
 赤騎士団長カミューの無二の親友で、且つ同じ団長職を預かる青騎士団のマイクロトフ。彼の言葉に二心を疑う者はまずいないと言うほどの、真面目で一本気な性格の男である。そんな男の言葉が噂の元となっているのなら、まず間違いは無いというので、よりいっそう噂が広がっているのだとも言えた。
「しかし、俺はまだ信じられんよ」
「俺もだ。よもやあのカミュー団長が……」
「ああ……婚約を結ぶとはな…」
 赤騎士たちはぼんやりと天井を仰ぎ、魂の抜けるような吐息をもらした。
 そう、今ロックアックスの街を賑わす一大事な噂とは、赤騎士団長カミューがただ一人の乙女と将来を誓い合ったという、およそ信じられないような内容だったのであった。
 これまでに華やかな噂の多かったカミューであったが、このところすっかりとなりを潜めていたから随分と落ち着いてきたのだなと周囲は思っていた。赤騎士団長としての分を弁えて、公私共に安定してきたのだろうと―――。そこへ来てのこの婚約話である。とうとう年貢の納め時かと思われると同時に、肝心の相手はいったい誰なのだろうとロックアックスの街中はその噂で持ち切りになった。
 だが不思議な事に、カミューの婚約という事実は確からしいのにその相手の素性が全くの霧の中だった。



「……で、誰なのですか?」
 仕官専用食堂、などという選民意識の顕著な場所で、カミューがハーブチキンを口中に放り込んだところでそんな問い掛けが真正面からなされた。
 声の正体は青騎士団第一隊長―――フェイスターはその正面席を光栄にも得て、スープを啜りつつ目線だけちらりとカミューを見詰めていた。カミューはチキンをじっくりと咀嚼し終えてからフェイスターの瞳を見詰め返した。
「何の話かな」
「お分かりでしょう。今や城内ならぬロックアックスの街中で知らぬ者などいない噂の事ですよ。当事者殿」
「ああ、あれね」
 分かり切っているくせにわざわざ今得心したように鷹揚に頷いたカミューに、フェイスターは相変わらずの無表情で口の端だけを僅かに持ち上げた。
「騎士団内では軽々しい噂話は禁じられておりますが、事が事だけに流石の青騎士でも放っては置けぬようで。しかも噂の元はマイクロトフ様のお言葉……団長まで利用なさって、いったい何を考えておいでですか」
 ひたりと冷たい眼差しを向けられて、カミューはそれをかわすように柔らかな微笑を浮かべた。フェイスターは冷静で何を考えているか分からない男だが、これでいてマイクロトフには絶対の忠誠を捧げており、彼の為にならないことは一切見逃さず秘密裏に処理してしまうような周到な男である。
 カミューが一人で食事しようとしているところを見計らって同席を願い出たのは、なるほどあまりに蔓延しすぎた噂の真実を付き止める為かと、カミューは微笑を浮かべたままチキンにフォークを付き刺した。
「何って、おそらく君が聞いたままの通りだと思うんだが」
「私が聞いたまま、と仰られますと―――カミュー様が旅芸人の娘に手を出して孕ませた挙句に捨てようとしているところでその親族がはるばる殴り込んできてどうにもならずに婚約をこぎ付けられたとか言う……」
「そんなところまでいっているのか?」
 カミューはぽかんとして、次に大声を上げて笑った。
「大したものだな。ちなみに一番マシなのは?」
「『結婚するかもしれんとカミューが言っていた』ですかね」
「あぁ、それが一番正しいな。もしかしてマイクロトフの言葉そのままかな」
「はい。一言一句間違いありません、が、その時のお顔の表情までは再現できないのが残念です。苦虫どころか刺激物満載の丸薬でも噛み潰したようなお顔でしたから」
「ほう、良く知っているじゃないか」
「その場におりましたもので。それに、ここまで最悪な尾ひれがついたのも、ひとえにあの時のマイクロトフ団長の表情が酷かったからでしょう。これが笑顔で仰っておられたら、今頃もっと平和的で花でも舞いそうな噂になっていたのでしょうな」
「……なるほど」
 フォークを持つ手で顎を支えてカミューは考え込んだ。それを正面から冷ややかな眼差しで見詰めるフェイスターは変わらずスープを飲みながら、また訊ねる。
「それで、件の婚約相手とはいったい何処のどなたですか」
「知りたいか」
「大変興味深いですからね」
「マイクロトフには聞いてみたかい?」
「はい」
 即答にカミューが僅かに目を丸くする。まさかそう返ってくるとは思っていなかった反応である。フェイスターはしかしそんなカミューの態度を心得ていたかのように、またもや口の端だけを歪めて笑うと、その薄い灰色の瞳に生真面目なほどの表情を浮かべて見詰めた。
「あの方は素直な方ですから、こちらが疑問に思う事を聞いたとしても何の不思議も感じられません。カミュー様に婚約話が持ち上がったのならば、当然皆その相手が誰だか気になりますから、代表しましてこの不詳の身が問い掛けさせて頂きました」
「答えは?」
「『それはまだ言えんのだ』です」
「はぁー、そうかい」
 カミューは何度か軽く頷きを繰り返すと、残っていたチキンを平らげて口元をナプキンで拭った。そしてグラスの水をごくりと飲み込む。暫しそんなカミューを黙って見ていたフェイスターは何を考えているのかやはり落ち着いてスープの残りをスプーンで掬っている。
 そんな彼らを遠巻きに見ていた他の仕官位にある騎士たちの心境は平穏ではない。そう大声で話してもいないカミューとフェイスターなのに、嫌なくらいの存在感があり、聞きたくなくてもつい耳をそばだてて彼らの会話を聞いてしまうのである。その内容が今のところ騎士団内で一番の噂のネタで、しかも当事者の赤騎士団長に、青騎士団内随一の曲者と名高い第一隊長がその真意を問うているのだ。この先を聞かない方が良いのか、それとも聞いておいた方が良いのか、判断の付き難い状況である。もしも聞いてしまって他言出来ないような内容なら赤騎士団長が怖く、聞かずに逃げ出したら青騎士第一隊長が怖い。
 しかしそんな彼らの言い知れぬ不安を誘う杞憂は、カミューが静かに席を立ったことで晴らされた。
「フェイスター」
「はい」
 愉快気な色を含むカミューの呼び掛けにフェイスターが律儀に応える。灰色の瞳を見下ろすカミューの瞳は細く笑っていた。
「マイクロトフが答えない事を、わたしが教えるわけがないだろう?」
 言ってカミューはくるりと踵を返すと食堂を去って行く。その背を見送るフェイスターの顔はそれでも相変わらず無表情だった。だが、一番近くの席にいた青騎士が、微かに洩れ聞こえてきた青騎士第一隊長の呟きを聞いて、その夜悪夢を見たとか見なかったとか。
 結局の所、噂の真意は当事者の胸以外に知られる事もなく、ただその話だけが大きく独り歩きをして行くのだった。


* * * * *


 偽りもいつしか真になるのだと彼は知らない。そもそも、己で始末をつけられない偽りは成してはならない。いっそその偽りに魂まで浸るのならば別だが。
 偽りを偽りのままとして済ませるには、生半可な覚悟では務まらない。
 ―――もっとも覚悟は既に決めたあとではあるのだが。



 フェイスターと別れてから、カミューは真っ直ぐに自室へと向かっていた。その顔は平素と変わり無いように見えて実のところ瞳が不穏であった。
 機巧(からくり)の舞台は回り始めた。仕掛け人が計った筋書きよりも上手く。
 かえって上手く進みすぎて面白くなかった。元からこの仕掛けは気が進まなかったのだが、どうしてもと望むあの声にカミューは決して逆らえない。思う限りの説得をして反対したが、まるで頑是無い彼の心は解きほぐせなかった。
 良いだろう。結末をその目で見て精々後悔するが良い。
 私はただ、おまえの望むままに―――。

 自室に到着するとカミューはマントと肩当てをかなぐり捨ててベッドにどさりと腰掛けた。そしてそのまま仰向けに倒れ込み、徐にこめかみを揉み上げる。
 気の滅入ることだ。
 声なく呟きを漏らして息を吐く。
「さて……どうしようか」
 誰ともなしにかけられた問いは天井へと吸い込まれた。



 時を同じくしてマイクロトフもまた自分の執務室で機嫌が悪かった。
 これと言って当り散らしたり険のある言動をするわけでは無い。ぎゅっと寄った眉間の縦皺がいつもより一、二本多い程度だった。それでも食堂から戻ったフェイスターに溜息をつかせるに充分だった。
「ご機嫌麗しく」
 しかしマイクロトフはそんな第一隊長の言葉には何の反応も返さなかった。ただむっつりと書類に何か書きこんでいる。それを横目にフェイスターは傍に居た副官にちらりと目をやった。
 と、ぱちりと目が合った副官はなんとも言えない情け無いような泣き出しそうな、かと思えば笑い出しそうな微妙な表情を浮かべた。さぞかし居心地が悪いのだろう。
 マイクロトフと言う青騎士団長は中々上にたつものとして優れた人格を持っている。が、些か直情で没頭するタイプである。一つ事に囚われると他の一切をないがしろにしてしまう癖があった。表面上、手は動いているので仕事は進んでいるのだろうが実際は上の空に違いない。
 それに不機嫌が滲み出ている。絶対に部下に八つ当たりはしないだろう事は青騎士の誰もが承知しているが、しかし恐いことは恐い。あの赤騎士団長の底の見えない恐さとは違う、マイクロトフのこれはいつ爆発するか分からない恐さだ。一度切れるとこの上司は見境なく誰の制止をも振り切って飛び出してしまうのだ。しかもその行動の先が全く読めない突飛さときている。彼を上官と仰ぎ、忠誠を誓いその存在を守るべく剣を持つ身としては、肝が冷やされる現状だった。
 第一隊長はその緊張感に少々苛立ちが来ていて、言わなくて良いことを敢えてもらした。
「先程、カミュー様とお会いしましたよ」
 ぴくりとマイクロトフの肩が振れた。
「食事を一緒に。その席であの噂の真意を問うてみたのですが……」
 バッと音でも聞こえてきそうなほど勢い良くマイクロトフが顔を上げて、その黒い瞳がフェイスターを射抜いた。だが、何も言わない。
「団長?」
 怪訝に眉を寄せると、ふいっとマイクロトフの顔が反らされた。その眉間が益々険しくなっていくのが見えてフェイスターはおやおやと肩を竦めた。
「ご心配なさらずとも、カミュー様は何も教えては下さいませんでしたよ。団長が仰らないことをご自身が言うわけが無いそうです」
 実際のところは、言わないのではなくて言えないのでは無いかと考えているフェイスターだったが、それは胸の内にしまっておく事にした。こうしてマイクロトフとカミューが双方口を噤んでいることに嘴を突っ込むのが良いのか悪のかくらいの判断はつく。
 だが見過ごせないこともあるので釘を刺すのは忘れない。
「話は変わりますが最近騎士団内に流布する噂をご存知ですか」
 マイクロトフは肯定も否定もしなかった。第一隊長は構わず続ける。
「騎士たるもの噂に振り回されるのは見苦しい事この上なく。明日の朝議で隊長以下を叱り付けて下さいますか」
「……分かった」
 マイクロトフが応じた瞬間、その目に痛みを覚えたような感情が流れたが、フェイスターは敢えてそれを見過ごした。
「そのうち噂が独り歩きどころか、走り出して手の届かない処まで行ってしまわないようにしませんと。暴れだした噂ほど手のつけられない厄介物はありませんよ」
「………」
 マイクロトフはやはり何も応えずに、置いていたペンを再び取り上げると、また書類に向き直った。その常に無い歯切れの悪さに、フェイスターもまた胸の辺りに痛みでも感じた気がして表情を少しばかり曇らせた。





 ところが、青騎士団第一隊長の懸念をあざ笑うかのように、噂は見事に独走をはじめた。
 噂の中だけに存在していた筈の婚約者の素性が明らかになったのである。相手はなんと前赤騎士団長の姪御、若干十六歳という現在二十五歳のカミューとでは九つも年が違う、少女であった。
 前赤騎士団長との縁続きであることと年齢以外、その少女の名や人物などは一切洩れ聞こえてはこないものの、それだけで充分騎士たちは盛り上がった。
 相手が若すぎる気もするがそんなものはあと数年もすれば気にならなくなる。九つ程度の年の差は実のところそう大したことでは無い。それになにより、当人であるカミューが毎週足繁く前赤騎士団長の邸に訪問しているのである。また快く招き入れられているとの目撃情報もあり、これはもしかして華やかな噂の絶えなかった赤騎士団長も年貢の納め時かと誰もが考えた。
 前赤騎士団長との縁戚であれば、それは相手として申し分なく、他国出身のカミューにとっては充分すぎるほどの後ろ盾となるだろう。これは誰からも祝福される婚姻となるだろうと思われた。

 だが、一人だけそんな赤騎士団長の慶事に暗鬱たる想いで過ごす男がいた。
 言わずもがな、その親友としてある青騎士団長である。彼ならば親友の喜ばしい話には間違いなく純粋な祝辞を告げるに違いなかった筈が、連日もうその不機嫌を隠すどころか前面に押しやって始終うそ寒い気配を撒き散らしていた。
 第一隊長はそして腹を決めた。
「……馬鹿げた噂だ。カミュー様も団長も決して認めたわけでも無いのに、さも真実のように口から口へと伝えられている」
 怒りを含んだ口調でフェイスターは団長たるマイクロトフを見詰めた。彼はやはり数日前と同じく執務室の机で書類相手に仕事をしていた。
「何だ、フェイスター」
「怒りますよ、と言っているんです」
「だから何だ」
「しらばっくれても現実は変わりませんよ。いつまでそんな玩具を失くした子供のように不貞腐れているんです」
「……フェイ…―――」
「カミュー様もだ。ご存知ですか? 今のあの方はまるで道化師の如く。自ら伸ばした操り糸で自らを動かして、言動全てが造り物のようで気味が悪い」
「フェイスター!」
 マイクロトフの怒声に、しかし第一隊長は怯まない。
「前に私はご忠告申し上げた筈。もう噂は暴れはじめている。いつまで見て見ぬ振りをするおつもりか」
「………」
 黙り込んだマイクロトフに、第一隊長はふと溜息をついた。
「団長。本来のあなたなら、ご親友がめでたい時にそんな顔はなさらないはずです。私は、そんな顔をするあなたを見ているのが辛い」
 恐らくはマイクロトフが今の噂の全ての鍵を握っているに違いないと、フェイスターはそう睨んでいた。そうでなければあの赤騎士団長がこんなマイクロトフを放り出したまま、噂が大きくなるのをそのままに、どころか増長を煽るような真似をするはずが無い。きっと何か、この二人の間にあるのだろう。
 だがそれを聞き出すまではしてはならない。
 こうして、マイクロトフの背を押してやるだけだ。物事は人が絡めば絡むほど複雑になっていくもので、やはり余計な差出口は出来るだけ控えた方が良い。
「……団長。ひとつ、情報を差し上げます」
 厳かに告げた第一隊長に、マイクロトフはふと瞬いた。滅多に無い、団長のそんな幼げな仕草に微かな苦笑を漏らしつつ、フェイスターは人差し指を立てた。
「今夜のカミュー様のご予定は白紙。ですが外出許可は赤の副長殿が差し止めております」
 一度じっくりとお話なさい。
 第一隊長の言葉に、マイクロトフはまたその瞳に痛みを浮かべたが、次の瞬間こくりと頷いた拍子にそれは消えていた。


* * * * *


 不快だと感じるのはきっと自分の中にある感情の所為に違いない。
 時折過ぎる不吉は、仮定の世界を巡らせる。だが、もしもと考える以前に現実の世界は己が望んで手中にしたもの。今更否定する気はなく取り消すつもりもない。
 不快な気分はだから自分の勝手なのだ。
 相手にあたるのは、筋違いも良いところなのだ。



 気が進まないまま、それでもマイクロトフはカミューの私室の戸を叩いた。些か乱暴になったのは敢えて知らぬ振りをする。相手も僅かばかり乱暴な所作で扉を開いたのだからお相子だろう。
「遅くにすまんが、カミュー」
「あぁマイクロトフ、良く来たね」
 部下の情報どおりに珍しくもカミューは居た。その顔には白々しい微笑を貼り付けて、なるほど少し気味が悪い。マイクロトフは軽く眉間に皺を作ると背を向けたカミューの後を追って部屋に入った。
 カミューはマイクロトフのためにか手前の椅子を引いて行き、自分はそのままキャビネットへ向かって奥からボトルとグラスを取り出した。
「飲むだろう?」
「ああ」
 マイクロトフが椅子に座ると戻ってきたカミューがテーブルにボトルを置く。室内の灯りを反射して黒く光る中身は赤ワインか。じっと無言で見詰めていると、手際良くコルクが引き抜かれて、途端に芳しい香りが鼻腔を掠めた。
 まだ若いワインのようだがこの香りでは早くに飲んでも良いかもしれない。埒もなく考えている目の前で、二つのグラスにワインが満ちた。
「安かったから大量買いしたんだ―――ほら、あれ」
 カミューが指差す先には木箱がひとつ。相変わらず、と思いながらマイクロトフはグラスを手に取った。
 酒の味にこだわりはなく質より量を求めるカミューである。それでも好みも若干あるらしく安くて気に入った品が見つかれば、時折こうして箱ごと買い入れているのだ。
「どこのだ」
「カナカン」
「そうか……」
 しまった会話が途切れた。とマイクロトフは焦りつつ、とりあえずワインに口をつける。もごもごと言葉を飲み込んだ喉に、硬い舌触りのワインはするすると入ってきた。
「これはまた、飲みやすいな―――」
 苦味が少なく香りそのままの味わいだ。すいすいと飲み下しているとあっという間にグラスが空になる。
「……マイクロトフ、茶じゃないんだからさ」
「すまん。いや、俺はそれほど飲むつもりでは―――」
 ボトルをその手に取りかけたカミューに、慌ててマイクロトフは制止をかける。そうだ、今夜は酒を飲みに来たわけではなかった。
「あのなカミュー」
「リディア嬢は元気だよ」
 切り出した途端、それを遮るようにカミューが言った。その言葉に、名前にマイクロトフの肩が自分でも滑稽に思うほどびくんと揺れる。
「カ……」
「あれ以来お前が来ないから、どうしているのかといつも聞かれるよ」
 マイクロトフは開けた口をそのままの形にして、それ以上うんともすんとも声に出せずにいる。それに対してカミューは薄らと笑みを浮かべつつ「あぁ、そうそう」と続けた。
「彼女の体調が最近すごく良いから、今度屋敷の庭に出てみてそこで食事でもしようと言う話になってね。時間が合うのならおまえも来るといい」
 にっこりと笑みを交えて誘われたが、マイクロトフは緩く左右に首を振った。
「いや、俺は……」
「そうかい? だがそうすると、おまえと一緒に過ごさない休日がまた増えるね……」
「カミュー」
 マイクロトフはぎゅっと眉根を寄せた。
「今だって、こうして二人でいるのは久しぶりなんだよマイクロトフ」
 空のグラスを握り締めたままの掌が、汗で湿る。マイクロトフはそんな自分の手を見下ろしたままぐっと奥歯を噛んだ。
「マイクロトフ……お前が望んだんだよ」
 耳に届く声はいつものカミューの声だ。そこに切なさなどあるはずがない。あってはならない。
「これからも、俺はおまえの望む通りにするよ。だから、マイクロトフ……そんな顔をするくらいなら今からでも―――」
「それだけは駄目だ」
 ある言葉を言いかけたカミューに、マイクロトフはそこだけははっきりと断言した。頑ななほどに、一切の迷いを断ち切るかのように。途端にカミューは口を噤んでふいと顔を逸らした。
「相変わらず……」
 呟いて顔を顰めるのを、ふと顔をあげたマイクロトフの瞳が写す。その黒い瞳が本当の痛みに揺れた。いつの間にかグラスから外れていた掌が拳を握り締め、食い込んだ指先が皮膚を裂く。しかしそれよりも、ずきりと胸を襲った痛みの方が辛かった。
 だから、それを誤魔化すために、つい口走ったのは酷い言葉だった。
「やると言ったのはカミューだ。それを途中でやめるなど、許さん」
 違うのだ。カミューはただ、自分の愚かな願いを聞き入れてくれただけだ。どこまでも優しく、頷いてくれただけだ。
「そうだね……おまえを嘘吐きにはさせられないね……」
「……」
 反射的に目を閉じた。そうしなければ口を開いてしまいそうだったからだ。
 胸の内で何度も叫ぶ。カミュー、カミュー。
「良いよ。後は任せろと言ったのは確かに俺だし。だけどその代わりマイクロトフ……」
 ついとカミューの手が伸びて握り締めていたマイクロトフの拳に触れる。そして宥めるようにその指を開かせて、赤く血の滲んだそこを撫でた。
「最後は助けてあげられない」
「ああ」
 頷くと微かな吐息が聞こえた。顔を上げると苦笑したカミューがじっとマイクロトフを見詰めて、まだ何か言いたげな様子でいる。しかし結局それ以上は何も言わなかった。
 ただ黙って立ち上がり棚の手前から簡易の薬箱を取り出した。
 それから努めて明るい口調で語りかけてくる。
「おまえは本当に不器用だな」
 消毒液でマイクロトフの掌を拭いながら笑う。
「だけど、俺はそんなおまえの方が好きだよやっぱり。器用で割り切るのが上手いマイクロトフなんて、それは別人だからね」
 マイクロトフは軽やかなカミューの声を聞きながら、黙って治療されていた。しかし手にガーゼをあてられても、綺麗に包帯で巻かれても、胸の痛みは消えるどころか痛みを増した。
 済まない。
 詫びそうになるのを堪えるたびに痛みはよりいっそう強くなった。
「ほら、続きをやろうか」
 白い包帯の上からマイクロトフの手を撫でて、カミューは空いていたグラスにワインを注ぎ足す。その顔にはもうどこにも、先程まであった切なさは伺えなかった。こんな男に、今詫びる事は限りない無礼だと言う事くらい分かっているのだ。
「あぁ。久しぶりだったなそう言えば」
「そうだよ」
 くすりと笑ってカミューは乾杯の仕草をしてワインを呷った。
「せめて、今夜だけはね。ゆっくり過ごそうマイクロトフ」
 俺はまた今度、いかなければならないから。
 声なき言葉はそれでも確かにマイクロトフの心に聞こえてきた。刹那再び蘇る痛み。
 だが今更何を悔やむという。
 始めたのは己であり、自ずと巻き込まれたのはカミューだ。
 後悔ならあとで幾らでもしてやる。だが後悔を、したくとも出来ない者はどうすれば良い。
 これが正しい選択だったのか、間違った事だったのかなんて今は分からない。無性に我慢がならなかっただけだった。判断など結果が出てから生まれるものではないか。ならば自分は正直に突っ走るだけだ。
 今感じる胸の痛みなど―――。
「……些細な事だ」
 囁きにカミューの瞳が軽く細められる。
「どうしたの、マイクロトフ」
「なんでもない。俺は、なんでもない」
「うん……そうだね」
 優しく微笑んでカミューはまたマイクロトフの手を撫でた。
「でも大切してくれ。自分で傷つけては、駄目だよ」
 それは掌か、それとも心か。或いは両方か。
 マイクロトフはぎこちなく頷いて、グラスに揺れる赤い酒を黙って見詰め続けた。そしてそこに、小さな白い面影がふと過ぎった気がしてまた目を閉じる。



 リディア。十六歳の純真な少女―――心の臓に、病魔をとり憑かせたまま僅かな命を生きる少女―――。


* * * * *


 あの日は小雨のそぼ降る、薄暗い灰色がかった空が低く広がる、しっとりと温かい水滴がずっと肌を覆うような感覚にとらわれる日だった。心なしか騎士服が重く感じられるような、陰鬱たる気配が足元に這うような、そんな日だったのだ。





 こんな日はあいつの機嫌が良くないんだ―――そんな事をぼんやり考えながらマイクロトフは執務をこなし、午後の休憩に入るなり立ち上がっていた。偶々書類の微調整に現れていた第一隊長が首を傾げる。
「団長、どちらへ」
「ちょっとな」
 脱いでいた上着を腕に取り、着る間も惜しんで部屋の扉に手をかける。
「団長?」
 振り仰いでいぶかしむ第一隊長フェイスターに、青騎士団長付き文官がさり気なく窓の外を指差した。窓硝子を濡らす雨雫、途端に「ああ」と納得して口の端を皮肉げに歪めた。
「ぐずるんでしたな」
 それはあんまりな、としかし文官は笑みを堪え切れずに、扉が閉まった途端に小さな笑い声をこぼした。第一隊長の口に掛かれば、優秀で聞こえた赤騎士団長殿も幼子と同列扱いであるらしい。



 実際のところ青騎士第一隊長の表現は言い得て妙であった。
 マイクロトフがややもなく赤騎士団長の執務室の扉をくぐった時、常ならば優美な微笑に彩られているはずの顔が、無表情を通り越した無機質な色を乗せて振り返ったからだ。
 しかしそれもマイクロトフの顔を確認するなり、嬉しげなものに入れ替わる。
「いらっしゃいマイクロトフ」
 しかしこの時間。てっきり呑気に茶など飲んでいるだろうと思われたカミューは、雨天時外出用の上着を副官から受け取ったところだった。
「……出掛ける、のか」
 驚きを隠せずに問うマイクロトフに、カミューは曖昧に頷いた。
「前からの約束なんだよ」
 そしてカミューは前赤騎士団長の名前を出した。
「今日の午後、お訪ねすることになっていてね」
 いかにも気の乗らなさそうな顔で言うからつい苦笑が漏れた。
「雨なのにご苦労なことだな。もの凄く面倒そうだぞ」
「うんまぁ……雨だから、というだけでもないんだけ、ど―――あ」
 ふとマイクロトフを見たカミューが声を上げる。なんだと首を傾げたら途端にぱぁっと明るい表情に変わった。
「マイクロトフも一緒に行こう」
「はあ?」
「そうだよ、どうして思いつかなかったんだろう。あぁ、マイクロトフと一緒なら何処に行くんだって楽しいに決まってる」
 一転してうきうきとし始めるカミューを、マイクロトフがわけも分からぬままに見守っていると、彼は部下にもう一人分の雨用の外套を用意させるように言い付けた。
「馬車があるから濡れないんだけどね。寒いから」
 にっこり優しく。
 マイクロトフが覿面に弱るその微笑を向けられて絶句するが、このまま成り行き任せにどこぞに連れて行かれるわけにはいかない。
「ま、待て。俺は執務の途中でここに来ているのだぞ?」
「なに、休憩が数分から数時間に変わったところで些少の問題もないだろう」
「ある! 些少どころか多いにあるぞ!」
 勢い込んで否定を叫ぶとカミューは微笑を引っ込めて哀しそうな面持ちになった。そしていじいじと指先で壁の継ぎ目をつつき始める。
「……実を言うと、行きたくないんだよ本当は。こんな雨の日に、わざわざ目の上のたんこぶに、どうしてわざわざ」
 ぶつぶつとカミューが言うのに、それまで黙って見ていた副官が一歩踏み出して恐れながらと口を挟んだ。
「今日こそご訪問に行って頂かねば困りますよ」
 なかなかに強い口調で訴えるのにマイクロトフが疑問を覚える。どうしてだ? と視線を向けると副官は肩をすくめてみせ、己の上司をみやってから事情を説明してくれた。
 実はさる地方領主の方から毎年赤騎士団に軍馬にするための仔馬を数頭寄贈してもらっているのだが、その取り決めをしたのが前赤騎士団長であるのだ。互いの友好と利益のために成された取り交わしだったのだが、その引渡しの際には確認用の書類を互いに見せる約束となっている。
 その書類を。
「カミュー様が誤って破棄しておしまいに」
「……私だけの責任では…」
 あんな場所に置いてある方が、とかなんとか言っている。
「先方との大切な取り決めの一部である重要書類をあろう事か塵屑と一緒にしたお詫びと共に、新たに作成した書類に前赤騎士団長の署名を出来るだけ早く頂きに行かねばならないのですが、今まであれこれと理由をつけては先延ばしにされて、ほとほと困り果てているところです」
「う……」
 上司の言葉を素で無視をした副官が発した容赦のない言葉に、カミューが胸を押さえて壁に懐く。しかしマイクロトフも事情を聞けばそんな風情を見ても到底庇う真似は出来ない。
「それはいかんぞカミュー」
「だってマイクロトフ」
「だってではない。何をそんなに渋っているのだ。前赤騎士団長とおまえは、それほど反りが合わなかったか?」
「いや立派な騎士だった方だし、騎士を辞された今でも人物として尊敬しているよ。けれどねぇ……」
 ぼんやりと呟いてカミューはふっと微笑んだ。
「話が長いんだよ」
「なんだと?」
「だから趣味の庭弄りの話題ばかり、一度話し出すと止まらないんだあの御仁は。黙って聞いていれば何時間もずっとなんだぞ? 魂が抜けそうになる」
 はぁっと壁に向かって盛大なため息を吐いた男は、そしてくるりとマイクロトフに向き直るとがしっと肩を掴んだ。
「頼むよ、おまえと一緒ならどんな無駄話だって楽しいから」
「どういう理屈だそれは」
 肩を掴む手から逃れながらマイクロトフが喚くと、カミューは途端にふくれたような幼い顔つきをしてじっと見詰めてきた。
「……おまえは、俺がこんな天気の日に憂鬱な目にあっても構わないと言うんだな」
「ぐ―――」
「興味のない話に延々相槌を打って、どこもかしこも疲れ果てて落ち込んだ気分のまま帰ってきても良いと言うんだな」
「いや、俺は別に……」
「この降る雨のように俺の心がさめざめと泣いているのを知らない振りをするつもりなんだな……」
 窓外の雨のようにじっとりと鬱陶しいことこの上ない訴えに、だがしかしマイクロトフはうろたえた。そもそもから、この天気に機嫌を悪くするカミューを見舞って現れたところである。引き合いに出されると弱い。
「……分かったカミュー」
 分かったからそんな目で見るのは止めてくれとマイクロトフは情けない顔をする。薄い琥珀の瞳が恨みがましい色を宿した時、正視に耐えられる人物は少ない。尤も、それがそんな風に感情をむき出しに誰かを見るなど滅多にある事ではないのだが。
 途端にカミューの面差しが再びぱぁっと花開く。
「副長に言ってくる。外套も自分のを用意するから、少し待ってくれるか」
「うん分かった」
 それこそ幼い子供のようにこっくりと頷いて、もしも犬なら振り千切れんばかりの尻尾が見えそうなほどの喜び具合だ。前赤騎士団長の邸宅はそう遠い場所ではないし、あまり面識の無いその人物と親交を深めるのも悪い事では無いだろう。先人に学ぶ機会は幾らあっても無駄は無い。

 そして副長と、やはり偶々そこにいた第一隊長に呆れた目で見られつつマイクロトフは外套を手に取り出掛ける旨を伝えると、さっさとカミューの元へと舞い戻った。
「フェイスターから伝言だ『おやつの駄賃も持たせましょうか』だと」
 せいぜい馬鹿にするなと怒るくらいするだろうと思われたが、なんのその。カミューは鼻で笑って一蹴すると、相変わらず上機嫌でマイクロトフの背をぐいぐいと押して馬車に乗り込むや雨模様の景色を鼻歌混じりで見やるくらいだった。
 そして到着したのはロックアックスの町外れにある邸宅。広い敷地に豊かな緑が茂り、門を抜けた奥にはこじんまりとではあるが、住みやすそうな屋敷が控えていた。
 正面扉を叩くと執事が姿を現して二人を招き入れた。
 前赤騎士団長はマチルダでも由緒のある名門の出である。騎士を辞したあとは悠々自適の隠居生活を営んでいるらしいが、資産を元手に交易に手を出し堅実な利益を得ているという。しかも独身であるのだが目下の所あらゆる筋から娘の嫁入り先にと申し出が絶えないらしい。曰く、騎士を辞したとはいえまだ壮年の域を出ていないのだから、赤騎士団長まで務め上げた経歴で、もう戦場での命の危機もあり得ないと言えば当然の結果らしい。
 通された応接間でカミューからそれらの情報を得たマイクロトフである。なんとなく相槌を打っていると、唐突に扉の向こうから盛大な物音がして思わずびくっと腰を上げた。
「な、何事だ…っ」
 しかしカミューはと言えばソファーの背にゆったりと凭れたまま暢気な様子を崩していない。
「落ち着けマイクロトフ。これはあの方の登場の決まりごとみたいなものでね」
 カミューの言葉に重なるように応接室の扉が開かれた。
「良く来たな二人とも」
 入るなり両手を開き歓迎の言葉を示したのは、マイクロトフにも見覚えのある愛嬌のある前赤騎士団長の顔だった。しかし右足の裾が盛大に濡れていて、その背後には点々と足跡が続いている。ふと伺えば使用人が慌てて倒れた花瓶を立て直していた。
「足元を見ずに角を曲がるのが悪い癖なんだ」
 立ち上がりざまカミューがぼそりと教えてくれる。ところが二人の正面にどっかりと座り込んだ男は、地獄耳だったらしい。
「雨だとぐずるのがおまえの癖だったな。直ったのか?」
「ジェラード様」
「マイクロトフ殿も良く来てくれた。こうして近くで顔を合わすのはもしかして初めてかな」
 マイクロトフがまだ下位の隊長であった頃に騎士団を辞したのだから、それもそうである。深々と頭を下げると敬意を表して胸に手をやる。
 それを手で往なすようにしてジェラードはまぁ座りなさいと言う。
「カミュー、書類は持ってきたんだろうな? やっと来たのに忘れたでは笑い話だ」
「抜かりはございません」
「抜かりだらけで良く言う。知っているかマイクロトフ殿、こやつ書類を食う癖があるんだ」
 カミューがすかさず取り出した紙片を受け取りながら、軽い調子でジェラードが言った言葉にマイクロトフの思考が一瞬空白になる。
「は?」
「馬鹿げた噂を真に受けるなよ。誰が紙なんぞ食うか」
 横から脇を突付かれて正気に戻ると、ジェラードの笑みに細められた瞳とかち合った。
「と、言うのはまあ冗談で、ただこやつもの覚えが阿呆ほど良くてな」
 矛盾した言葉にまた相槌が打てないマイクロトフである。しかしカミューの記憶力が抜群なのは知っている。かろうじて目線で同意を示すとジェラードはにこにこと頷いた。
「覚えてしまうと書類を用無しとして処分してしまうのだ。それで付いた噂が書類食いだ。どこへかと消えてしまう書類の行方を謎に思った周りの連中が、こやつを山羊と勘違いでもしたかな。ま、今でもその悪癖は健在のようだな、山羊」
「相変わらずものを蹴飛ばす粗忽者に言われたくはございません」
 重要書類を失った事を揶揄されて、カミューが憮然と答えるのにジェラードはゆるく首を振って嘆息した。
「見ろこれだ。可愛げのない……あぁ、まったくインクが乾くまでその口を閉じていろよ。また食われては敵わん」
 誰が食うか、とは流石にもう反論しなかったカミューだが、なるほどこの調子ではここに来るのにあれほど渋った理由が分かる気がした。口巧者のカミューですら負かすこの御仁を相手に何時間も趣味の話題に付き合わされては精神が疲労するばかりか磨耗してしまいそうだ。
 そんな事を考えながら、どこと無く呆然と二人の応酬を見ていたマイクロトフだったが、不意に落ちた沈黙の後、ジェラードが思いついたように顔を上げた。
「あぁ、ところでマイクロトフ殿。貴殿、我が家にある写真を幾つか持って帰らんか」
「お断りします」
 間髪入れずに答えたのはカミューである。
「誰もおまえには言っていない。マイクロトフ殿にどうかと言っているんだ」
「先日私にも同じ事を言った癖に何を白々しい。駄目ですよ、マイクロトフにまで迷惑をかけないで下さい」
「迷惑かどうかなど分からんだろうが、どれもこれも美しいぞ?」
「お断りします」
 何の話なのだろう、と思いながらも一切の口を挟めずにいるマイクロトフである。しかし頑として受付けないカミューの態度が気になる。仮にも相手は前任の騎士団長だ、敬意を損なってはならない。
「カミュー、おまえ良さないか」
「甘いよマイクロトフ。ここで厳しくしておかないとおまえ、明日には見合い攻めに合うぞ」
 良いのかそれでも、と唐突に脅されてひやりと背に悪寒が走る。反射的に激しく首を左右に振っていた。
「そうだろう? 見ての通りですジェラード様。ご自身に来た見合いは全てご自身で処理なさってくださいね」
 なるほど、最前のカミューの情報を合わせて漸く合点がいった。そして現在まさしく見合い攻めにあっているのだろう男は、だがそれほど残念がってもいない様子であっさりと引き下がった。
「ま、良いさ。最近減ってきているしな」
 ぼそりと零してジェラードは署名を施した書類をパタパタと空気に煽らせる。真横でカミューが首を傾げるのにマイクロトフが内心で同調していると、そんなジェラードが意味深に笑った。
「知りたいか」
「そんな言い方をされますとね」
「では教えてあげよう。今我が屋敷には素晴らしい虫除けがいるんだ」
 リディアと言ってね、彼女の滞在からこっち見る間に手紙の数が減ったんだよ。
 嬉しげに語るジェラードの面差しにはしかし、色恋の類は見えずただ慈しみの影しか見えなかった。
「黙っていると皆面白いように誤解をしてくれる。リディアはただの姪なんだが身体が弱くてね。我が家はご覧の通り手塩にかけた庭があって場所も郊外だから静かだろう? 療養には持って来いでね」
 さっさと一人でぽんぽんと事情を説明してくれる。
 なるほど、とマイクロトフが一人納得をしているとカミューが何気なくそわそわと落ち着かない様子を醸し出した。どうかしたのだろうか、と思っていると。
「ところでだな。先日整え終えた花壇が漸く蕾を付け始めたんだ、見て行かないか」
 これまでとは格段に声音の違う、一層陽気なジェラードの言葉にカミューがガックリと肩を落とした。そしてぼそりとマイクロトフに呟いた。
「もう逃げられないぞ。くそ……気をつけていたのに絶対この話題になるんだ」
 それから少しばかり引きつった笑みを浮かべてカミューはジェラードに答えた。
「拝見、致しましょうとも」
「何だそんなに嬉しそうに。まぁあとで姪にも会わせてやるからな、言っとくが美人だぞ」
 にやにやと笑うジェラードと早々に消沈し始めたカミューとを見比べて、マイクロトフは思わず笑みがこぼれ出るのを抑えられなかった。どうやらこの前任の赤騎士団長は後任をこうして翻弄するのがたまらなく楽しいらしい。
 だがそうしてマイクロトフがカミューと共にジェラードに連れられて中庭へと足を踏み入れた時、そこには既に先客がいたのである。最初はあまりの存在感のなさに気付かなかった。だからジェラードがその陽気な声でその名を呼ばわった時に初めて気付いて驚いた。
 木陰にひっそりと、白く色を抜かれた籐で編みこまれた椅子よりも白い面差しの、生成りの綿生地で覆われた羽毛のクッションよりも柔らかく脆そうな肌の―――それがリディアだった。


* * * * *


 マイクロトフは初めて出会った少女から、なかなか目が離せなかった。
 雨を避けてひさしの張り出たその場所で、滴に濡れる植物を見ていたのだろう。膝にかけられていた膝掛けを手に握り締めて、じっと座っていた。その手首の細さに驚きを隠せない。
 これほどに細く儚い少女を、これまでに見た事がなかった。尤もマイクロトフのこれまでの人生で、それほどに多くの女性と出会った機会も無いのだが、それでもこんなに消えて無くなりそうな存在は知らなかった。
 人形のように手足の細さは衣服を通しても分かるほどで、肌の色も白を通り越して陶器のような青みを帯びていた。如何にも病弱と思わせるそれらの要素が、殊更少女を弱く脆く見せているのだ。
 しかし反面、生まれてから一度も鋏をいれたことがないのではないかと思えるほどの、長く真っ直ぐに伸びた髪は艶やかである。そして軽く伏せられた瞼から覗く薄い青の瞳は、大きく揺らめいていた。

「リディア、いたのか」
 大きな声にハッとする。
 同時に視線の先にあった青い宝石のような瞳もまた、驚いたように広く見開かれた。その瞳がジェラードを見、それから一人遅れてやってくるカミューを見た。
 僅か振り返った方向に、湿気を含んでしっとりと垂れる前髪に触れるカミューの姿がある。かかる白い手袋越しに、小雨に煙る中庭をどこか眩しそうに見詰めるぼんやりとした眼差しが見えた。そして、ふいと俯きがちに顎を引くと、そのすっきりとした長身はマントを払いゆっくりと中庭へと足を踏み入れた。

 一瞬。
 少女の瞳に宿ったそれを、マイクロトフは見逃さなかった。良く見知ったそれだったからだろうか。

 ―――あぁ。

 漠然と知った。
 彼女は今、カミューに恋をした。
 薄青い玉石の瞳を薄く包むようなその煌きは、紛う事無く熱を帯びた恋心だ。夢に見るほど良く知った、あの瞳とまるで同じの―――。
「マイクロトフ?」
 追いついて肩に触れ、どうかしたかい、と覗きこんでくる瞳に常に宿っているのだ。何年も見続けてきたのだから、間違えるわけがない。
「どうもせん」
 ふいと思わず目を逸らした先、ジェラードが姪の元へと向かう背中が映る。よほどこの姪を可愛がっているのか、そぼ降る小雨も気にすることなく、進む足取りが弾むようだ。
「二人とも予定が変わったがちょうど良かった。先に紹介しよう。姪のリディアだ」
 籐椅子に座ったままの少女の肩に、そっと手を置いてマイクロトフたちを手招く仕草はとても優しげで。とても花瓶を蹴倒す粗忽者には見えない。
「それから、こっちの赤いのがカミューで、青い方がマイクロトフだよ」
 ジェラードのあまりな紹介の方法に隣でカミューが情けない顔をする。だがそこへ鈴の音が転がるような笑い声がこぼれて再び意識がそちらへと向く。
 リディアが小さく微笑んでいた。
「叔父様ったら」
 印象よりはずっと確りした発音で。しかし柔らかくて綺麗な声をしていた。そして青い瞳がマイクロトフたちを見てふわりと笑みを浮かべた。
「お初にお目にかかります、カミュー様―――マイクロトフ様」
 マイクロトフを見て微笑んだときには、もうその瞳には熱っぽい色は無く、マチルダの青騎士団長に向けられるべき尊敬と礼儀の篭もった感情だけがあった。
「初めましてレディ」
 傍らで礼節に満ちたカミューの声が響く。こちらは上辺ばかりの優しさはあっても、親しみは欠片も含まれてはいない。儀礼的なだけの声だ。

 残酷な。

 何を思うでもなく、漠然とそんな言葉を思い浮かべたマイクロトフであった。



 それから夕食を終えるまで邸宅に引き止められ、マイクロトフは当然ながら殆ど会話に加わる事は無かったのだが、カミューと、そしてジェラードが二人して掛け合いのように愉快なやり取りを繰り広げていたから、リディアと二人笑うだけで精一杯だった。
 邸宅を辞する時にも、一同は笑顔を浮かべていて、楽しいひと時だったと言うに充分な時間を過ごした。
 そのはずだったのだが。

 馬車に乗り込んで直ぐ、カミューの表情がみるみる不機嫌へと移り変わっていった。
「もう二度と、来たくないな」
 ぽつりと呟くのに、マイクロトフがらちらりと見ると、彼は己の前髪をくしゃりと掌で抑えて唸っていた。
「ああいうのは苦手なんだ。病弱な女性というのが、どうにもね」
 昔から苦手なんだ、と言う。
「どう扱えば良いのか分からないんだよ」
 女性全般の扱いに長けていると思っていた男の、意外な一面だった。理由を問えば、だが「さぁ」と肩を竦めて見せる。だがそれからふと何気なく呟いた。
「口説く対象ではないからかもしれない」
 途端マイクロトフはこめかみを押さえて俯いた。
「おまえは……女性をなんだと思っている」
「あー…いや、誤解をしないでくれ」
 カミューはハハハと誤魔化すように笑って、両手を意味なく摺り合わせた。
「レディを相手にする時、どうも俺はこの人ならどう口説かれれば喜ぶかと言うところから入るんだ。おまえには、分からない理屈かもしれないが、そうすると人付き合いがとても上手く行くんだよ」
「分からんな」
 まったく、と疼痛を覚えて頭を押さえた。
「だろうなぁ。でも、悪くはないよ? つまりはレディの良いところをすかさず見つけ出して、それを褒めてくすぐって……あ、えと」
 マイクロトフの沈黙にカミューの口が固まって行く。その、とかえっととか何やらもごもごと言っているが、どうやらマイクロトフの機嫌を損ねたと思っているらしい。
 そうではない、と内心で否定しながらも沈黙を破らないマイクロトフだった。
 まったくこいつは。完全無欠人のような振りをしているくせして、これほどに欠陥だらけな者も珍しい。カミューの言葉に隠された真実が、マイクロトフに酷い空しさを感じさせた。
 こいつはこれまで、数多の女性を口説きながらただの一度も、愛しいと思って口説いた事がないのだ。相対した女性に、甘い睦言を囁きかけながらその実、言葉ほどの陶酔の欠片も持ち合わせていなかった。
「ばか者が……」
「マイクロトフ……あ…怒った?」
「怒る気などない。ただ、呆れているだけだ」
「……そう」
 なんか、冷たい。とかなんとかまたぶつぶつ言っている。それが更に呆れを誘ってマイクロトフは瞳を眇めてそんなカミューを見た。
 そして不意に手を伸べると、その髪に触れて少しばかり乱暴に掻き回した。
「俺にまで、そのような馬鹿げた真似をすれば怒るがな。生憎俺はおまえに口説かれた覚えがないから、それで良い」
「え、あれ?」
 なすがまま髪を乱されながらカミューは間抜けな顔でぽかんとしている。
「く…口説いてなかったっけ……」
「ああ」
「あ、うわ、そう言えば―――」
 みるみる目を瞠って驚愕する様から目を逸らしてマイクロトフはぼそりともらす。
「必要ないぞ」
「でもマイクロトフ」
「俺には、分かりやすい言葉ひとつで充分だ。それに……」
 おまえの瞳が。
 声にしなかった部分を、聞き取れなかったと勘違いしたのかカミューが「なに?」と聞き返す。だがマイクロトフはそれきり黙り込んで窓の外へと視線を転じた。
 すっかりと暮れた外は、まだ降り止まぬ雨の音に包まれている。
 湿気の所為か、吐息を吹きかければ硝子の窓が白く曇る。だがそこからそれた場所には、不安そうなままの表情でいるカミューの顔がおぼろげに映っていた。
 ちらりと硝子越しに見た、その瞳にも宿っている。
 熱く焦がれるような眼差し。
 分かり難い捏ね回した言葉で口説かれるよりも、ずっと芯にくる。その瀟洒な舌よりも雄弁な瞳。
「敵わん」
 誰も。
 この瞳に、勝るなにものも、知らない。

 呟きは、カミューにも聞こえたのだろうか。
 しかしそれきり、城に辿り着くまで交わされる言葉はなかった。


* * * * *


 大切なものは少なくて良い。
 右手と左手、それしかない。両手で包めるものの大きさなんて些細なものだ。腕を伸ばして抱え込める広さも、限られている。
 だから大切なものは少なくて良い。
 この身ひとつで守れるだけのものを、大切に―――。
 だけどそれでも、目に映る、耳に聞こえる全てを救ってやりたいと、そう思うのは……。



「彼女?」
 今朝早くに己宛に届いた手紙を、片手に握り締め乗り込んだマイクロトフに、カミューは軽く眉を寄せてから「あぁ」と気怠く頷いた。
「確かにリディア嬢は胸を患っている。ここ、心臓だよ。生まれつき普通より弱く脆く出来ているらしい」
 事も無げに、報告書でも読むように素っ気無く教えてくれる。
「カミューは知っていたのか…?」
「ああ、あの直後にジェラード様から手紙が来てね。それに書いてあった。彼女の余命はあと一年もないそうだよ」
「この手紙には、是非顔を見せに来てくれと―――」
 手に握り締めた手紙を見下ろしながら言うマイクロトフに、カミューは苦笑を浮かべた。
「ジェラード様も困ったものだな。おまえにまで訴えるなんて少し違反じゃないか?」
「カミュー、おまえ一度も応じていないのか」
「当然だ。用もないのに出向く暇など無いからね」
「しかしリディア殿はおまえの顔が見たいと言って……っ」
 ジェラードからの手紙には、あれから日毎リディアは意気消沈していって益々元気をなくしているらしく、食が細り寝たきりになっているのだと。原因が分からないだけに余計心配で、せめて一番最近で楽しく過ごしたカミューたちの顔を見ればまた元気になるかもしれないと、それらのような事を書いてあった。
 マイクロトフは、これは恋わずらいなのではと思った。リディアはあの時きっとカミューに一目惚れをしたのだろう。何せ外見だけは随一の美男子である。その上に微笑まれれば何を言われなくても引き込まれてしまう。そして赤騎士団長と言う地位と共に退屈させない巧みな話術だ。年頃の世慣れない娘などひとたまりも無い……と思う。
 ともかく。碌に食事もままならぬような気の毒な有様なら、見舞うくらいどうと言う事は無いだろうに。前赤騎士団長たっての頼みでもあるのだから。
 しかしカミューは厳しい眼差しで首を振った。
「見舞って一時慰めてそれでどうなる。彼女の穏やかな僅かな時間に割り込んで騒がしくするだけだ」
「カミュー…?」
「マイクロトフ、ジェラード様の思惑に乗せられるな。彼があの姪にとことん甘いのは先日見たばかりだろう。レディ・リディアだって会わずに過ごせば我らのことなど直ぐに忘れるものを、わざわざ大袈裟にしようとしている」
 そして書類を一枚、指先でぴしっと弾いた。
「大体ね、一人の少女より優先させるべき事項は多いよ?」
 それからその手をマイクロトフへと伸ばした。なんだ、といぶかしむ視線を向けるとカミューは指先を手紙へと定めた。
「手紙、寄越せ。読んだ上でジェラード様へ返事を書いておくから」
「返事だけで済ますつもりか」
「いけないか?」
「当たり前だ。何とか時間を作ってもう一度訪ねるんだ」
「どうしてそこまで」
 カミューがさもうんざりだと言う風に聞いてくる。対するマイクロトフの答えはと言えば。
「気の毒ではないか……」
 それしかなかった。
 他に理由は思い浮かばない。ただ、気の毒で。療養中の彼女の僅かな気休めにでもなればと思う。そんな事を考えるのはただの傲慢だろうか。
「マイクロトフ……」
 困ったようなカミューの声にハッとすると、彼は目が合った途端に大袈裟な溜息を吐いた。
「仕方ないな。副長に言って暇を作ってもらうよ」
「カミュー?」
「俺は、おまえのそう言う目に弱いんだ」
 いったいどんな目をしていたのか、とマイクロトフが眉根をぎゅっと寄せると、カミューは掌を上にして肩を竦める。
「それ、その目だ。ずるいなマイクロトフは」
「なんだと?」
「あ、やめてくれ。本当にそれ以上見詰められたら熱が出そう」
 一転して揶揄混じりにそんなことを言うカミューに、マイクロトフは思わずむっとして拳を握り締める。
「カミュー!」
 ふざけた気持ちで話しているわけではないのに。だがカミューはさも愉快そうに笑いながらマイクロトフの手から手紙を抜き取ると、話はこれまでだとでも言う風に肩を竦めた。
「……予定がついたらまた言うから、マイクロトフ」
「分かった―――」
 むすりと答えて、マイクロトフはくるりと踵を返すと、むかむかとした気分のまま部屋を辞した。ともあれ、カミューがその気になっただけでも良かったのだ。あれでいて約束したからには必ず守る男だから、反故にされることはないだろう。
 取り敢えずはここに出向いた当初の希望通りに事が進んだだけでも良しとしなければ。そう、少し浮上した気分で廊下を進むマイクロトフであったが、閉じた扉の向こう―――室内に居残って手紙を片手にしたカミューの呟きを聞けば、またその気分も変わっていたかもしれない。

「……俺は、苦手だと言ったのにな」

 ポツリとこぼし、僅かばかりの気鬱を纏って、カミューは手紙の文面を確かめるために便箋を開いたのだった。





 ところが、互いの予定を合わせていざジェラードの屋敷へと出向こうとしたその当日。既に相手にも訪問を伝えて後は馬車に乗り込むだけとなった時だった。
 青騎士団内部で問題が起きて、マイクロトフは居残らざるをえなくなってしまった。どうも騎士同士で私闘があったとかで団長がいなくては収拾がつかないとか。
 ところがその話を聞いたカミューが、それなら自分も行かないと言い出した。すかさずマイクロトフはそんな男を馬車に詰め込むと叱りつける。
「馬鹿者、ジェラード様は今日俺たちが来るものと思って用意しておられるに違いないのだぞ。俺だけならまだしも、二人ともいかんわけにいくか」
「でもマイクロトフ。それでは俺ひとりに、ジェラード様とリディア嬢二人の相手をしろと言うのかい?」
 片足だけ馬車から乗り出すカミューの返しにグッと詰まる。
 だがここでカミューが予定を変えて訪問しないとなれば、待ち侘びているに違いないリディアなど更なる消沈を誘ってもっと具合が悪くなってしまうかもしれないではないか。
「カ、カミューなら平気だろう」
「日を改めてはいけないのか?」
「約束を違えるなど、いかん」
「マイクロトフと一緒でなければそもそも願い下げなんだけどね」
 これでは堂々巡りだ。そんなマイクロトフが頭を抱えたい気持ちになったところで、カミューが仰々しく溜息を吐いた。
「分かった、もう良いよマイクロトフ」
「何がだ」
「行って来れば良いんだろう? それでレディのご機嫌でも伺ってくるさ」
 投げ遣りな言い草にまたカチンと来るものの、カミューがそう言うのなら間違いなくそうしてくれるだろう。
「あぁ、頼む」
「仰せのままに」
 むすっとしたマイクロトフの態度とは裏腹に、カミューはこの上もなく優雅に頷くと馬車の扉を閉めたのだった。





 そしてカミューは夜半、戻ってきた。
 もう就寝すべきはずの時間だったが、何故か眠る気になれずに僅かな明かりの元で頭に入ってこない読書をしていたマイクロトフは、突然に部屋へとやってきたカミューに驚く。
 晩餐も共にしてきたのだろう、しかし満足できるもてなしを受けたはずが、僅かな酒精を漂わせた瞳は苛立ちもあらわにマイクロトフに詰め寄った。
「…カミュー?」
「最悪だ」
 不機嫌な声音で一言吐き捨ててカミューは上着を椅子の上に放り投げる。
「まったく、やっぱり行かなければ良かった」
 タイも剥ぎ取って上着に叩き付ける。
「何があったんだ」
 するとカミューは鼻先で笑ってマイクロトフを横目にちらりと見た。
「……別に、大した事じゃない。レディ・リディアに心を込めて想いとやらを打ち明けられただけだ」
「………」
「当然、丁寧に断らせてもらうつもりだった筈が、相手が相手だからいつもと違って調子が狂った。実に後味が悪い」
「どうした」
「どうもこうも。断ろうとした最中に突然発作を起こされてしまったんだ。ジェラード様は取り乱すし、本当に最悪だった」
「それは……」
「幸い薬を飲んだらすぐに落ち着いたが、冷や冷やしたよ―――」
 それでやっと帰ってきたがと引いた椅子にどかりと腰掛けてカミューは首を振るう。その明るい髪の色を見つめながらマイクロトフは複雑な気分で眉根を寄せていた。
「それでカミュー、どうするんだ」
「……何がだい?」
「結局断りはできないまま帰ってきたんだろう」
「そうだけど、どうせ断るものなんだから、また手紙でも送るさ」
 もう二度と出向きたくないね。
 肩を竦めてそんな事を言うカミューを、しかしマイクロトフはわけの分からない不快感に衝き動かされて怒鳴っていた。
「駄目だ!」
 カミューがぱちりと瞬く。
「マイクロトフ…?」
「そんな酷い真似は許さん!」
「……ええ?」
「リディア殿は本気でお前を好いている。ご自身の体の事も全て理解した上で勇気を振り絞ってお前に告白したんだろうに、それを素気無く断るなど、あんまりだ」
「でも、マイクロトフ」
「何だ!」
 語気も荒く振り返ると、なんとも情けない顔のカミューがそこにいた。下手をすると突付けば泣きそうな風情でもある。
「マイクロトフ……でも、俺はお前が好きなんだけど…」
 それ、分かってくれてるのかい?
 カミューに気弱に問いかけられて、思わず返す言葉をなくしたマイクロトフだった。


* * * * *


 何をもって駄目だと言うのか。
 そして良しと言うのか。
 その判断は結局個人の勝手な価値観からでしかない。
 だから我を通すとは、実際には酷く独善的な行為なのだ。
 たとえそれがどれほど他人を思っての事だとしても。



 雨の日の屋内訓練は大変なものだ。
 屋外で訓練する予定だった者が屋内の訓練場へと移ってくるのもある。だがそれ以前に大勢の人間がもたらす熱気と湿気が、通常のそれにも増してすごいことになるのだ。
 だからといってその篭った暑苦しい室内さに挫けていいわけではない。よりいっそうの心身の鍛錬を怠らんと、自然指導にも厳しさが増す―――はずなのだが。
 この日ばかりは少々勝手が違った。

 騎士団内に例の噂が蔓延して数日。
 リディアの存在は明らかなところとなり、この上婚姻の事実を疑う者などいない。噂は既に噂ではなくなり、公然の事として騎士たちの口にのぼるようになった。
 そんな埒もない現在の状況をつらつらと考えながら、そういえばカミューと最近剣を合わせていないなと、マイクロトフは思った。
 お互いに忙しい上に、ここ最近は休日となればカミューが出掛けていってしまうからだ。尤も、暇があるのなら通えと仕向けたのはマイクロトフなのだからそれに対して不満などあるはずもない。
 だが―――。

「……っ!」
 視界を掠めたそれに、マイクロトフの意識よりも先に身体が反応する。あ、と思った時にはダンスニーが対戦相手の腕を切り裂いていた。
「マイクロトフ様!」
 訓練場の床に飛び散った鮮血に、部下たちが顔色を変えて飛んでくる。だが怪我をしたのは相手の方で、しかも重症だ。ただマイクロトフの方がより怪我人のように青褪めていたが。
 そこへ常の平静な顔で第一隊長が緩やかに歩み寄ってきた。しかしその声は皮肉屋のこの男にしては冷徹である。
「マイクロトフ団長」
「…フェイスター……」
「訓練への集中がお出来にならないのなら、邪魔ですから出て行って下さい」
 不敬といえば不敬に過ぎる言葉だ。仮にも団長に対して隊長職の者が言うべき言葉ではない。しかし言われた方は悄然と項垂れて血に汚れてしまった剣をしまう。
「すまない」
「見当外れの謝罪など結構」
 普段からの捏ね繰り回された物言いとは違った、率直過ぎる言葉の理由は怒りだ。口の端に皮肉な笑みすら浮かべていないこの第一隊長は、怒りが心頭に達した時ほど言い回しに容赦がなくなる。それを知っているマイクロトフも、今の彼の怒りの理由が嫌と言うほど分かっているので大人しく詫びの言葉を飲み込んだ。
「後を任せても構わないか……?」
「無論の事―――して団長はどうなされるおつもりで」
 そこで漸く第一隊長の顔に見慣れた皮肉が宿るのを見て、マイクロトフは苦笑を浮かべた。上の空で全く訓練に身の入っていなかった上司に対して、はじめは手厳しくとも結局は甘く接してくれるのだ。
「…俺は少し頭を冷やしてくる」
「それは良いですね。なんでしたら洛帝山の万年雪にでも頭を突っ込んでこられると良い」
「……流石にそこまで能天気な真似は出来んが…」
「明日の朝議までに復活して下されば問題はありませんので、それくらいの時間はございますが?」
 揶揄混じりの言葉に、さしものマイクロトフも顔を顰めて手を振った。
「勘弁してくれフェイスター。分かった、明日の朝までにはどうにかするから、今日のところは頼んだぞ」
「承知いたしました」
 いってらっしゃいませ。
 典雅に頭を下げて送り出すのに、マイクロトフは生真面目に頷いて返し、訓練場を後にした。
 実のところ去り行くその団長の背を、心配そうな眼差しで見送ったのは第一隊長のみならずその場にいた青騎士全員であったわけだが、今のところそれは関係のない話である。





 かくして訓練場を追い出されたマイクロトフは、唐突に生まれた空白の時間を持て余して思わず慣れた存在を探そうとして止まった。
 そうだ、あいつは今日もいないんだった。
 声もなく呟いてマイクロトフは俯いた。

 駄目だ、と言ったマイクロトフに哀しそうな顔をしていたカミュー。
 でも、俺はおまえが好きなんだけど。そう言った言葉が何故かマイクロトフの胸に重く圧し掛かった。あの時は咄嗟に分かっていると憮然と返したが、それにカミューは「そう?」と首を傾げた。
 誠実たれ。その言葉の裏にはしかしなんと巧妙な偽りが潜んでいることか。
 マイクロトフは、リディアの真剣な告白に対してカミューに誠実な態度を返せと言ったのだ。だがそれと同時に、あの少女に真実は言って欲しくないとも言った。
 あの病弱な少女がたった一目で恋に落ちた赤騎士団長が、よもやこんな無粋な男と恋人関係にあるのだとは、とてもではないが教えられない。いったいどれほどの衝撃を受けるか知れないし、今度こそ重大な発作を起こして大変な事になるとも限らない。
 そんなマイクロトフの考えは直ぐに理解したのだろう。カミューは微かな笑みを浮かべて頷いてくれた。

 分かったよマイクロトフ…。

 どこか諦めたように微苦笑を浮かべてカミューはマイクロトフの言葉に従ってくれたのだ。
 そしてそれから僅かも経たずカミューはジェラードの屋敷へと出掛けたのである。リディアに会いに、誠実に彼女の想いを否定するために。ところが、それでこの面倒な話が終わる筈が、再びカミューが帰った時の一言でぐるりと違う方へと向いてしまった。

「なんだって…?」
 マイクロトフはカミューの言葉を聞き直した。今、なんと言った?
「だから、また行く羽目になった」
「ま…た?」
 そんな、カミューは今日リディアに想いは受け入れられないと断ったはずだ。それがどうしてまた会いに行くのだ。もしかして、実はまだ断っていないのか―――。
「いや、きちんと断ったよ。レディ・リディアには悪いけれどね」
 肩を竦めたカミューは、にこりと笑ってマイクロトフを見ると「俺にはお前がいるからね」と囁いた。その瞬間にきらりと光った瞳に鼓動がどきりと跳ねる。
「……また、お前はそんな事を…っ」
「本当のことだからね」
 真っ赤になったマイクロトフにカミューはくすくすと笑って手を伸ばしてくる。
「キスしても良いかい?」
 だが唇が触れる直前、マイクロトフは眉を顰めた。
「待て、話が終わっていない」
 その肩をぐいと押しやって不満げに瞳を眇めるカミューを見つめた。
「またジェラード様の所へ行くと言うのはどうした理屈だ」
「ああ……別にそんなのは後でも…」
「駄目だ、きちんと答えろ」
「別に大した事ではないよ。ただこれからも良ければ話し相手になって欲しいと言われたのさ」
「それで、お前は行くのか……?」
 途端に胸が冷やりとした気がした。しかしカミューは相変わらずの微笑のまま頷く。
「ああ、確り交際を断って拘りをなくしてみると、レディ・リディアはあれで明朗快活で思ったよりも話しやすいからね。流石にそんな些細な願いすら断るのは悪い気もするから」
 変なところで女性には優しいカミューだ。けれど、それ以上にマイクロトフに優しい。
「でもお前が嫌なら、行かないよ」
 そんな事を言う。だがその言葉の意味が良く分からなかった。
「どうして」
「うん? 嫌じゃない?」
 首を傾げて聞いてくるのに、マイクロトフは黙り込む。何故、嫌だと思わなければならない。余命幾ばくもない少女に僅かばかりの慰めを与えられるのなら、それを勧めこそすれ嫌がるなどあるか。
 良く考えてから、言葉を纏めてそんなように答えるとカミューは何とも言えない微妙な表情をして笑った。
「マイクロトフは、それで良いの?」
「無論だ」
「なら休みのたびにレディ・リディアの見舞いに行っても構わないとか、言うわけかい」
 休みのたびに。
 カミューがリディアに会いに行く?
「…行けば良い、何よりだ。なんなら毎週でも行けば良いだろう」
 気が付くとそう答えていた。
「……あ、そう」
 ふと、カミューの瞳に見慣れた熱が篭った気がした。だがそれは直ぐに消え失せて、また微笑が宿る。
「分かった。マイクロトフがそう言うのなら、そうするよ」
「ああ……」
 そうしろ。

 囁きは、カミューの唇に消える。待ったをかけられていたキスが再開して、目を伏せたマイクロトフは、何だかもやもやとした気分を抱えたまま、カミューの柔らかな唇の感触だけを追った。

 そしてそれ以来、カミューは暇さえあればリディアを見舞うようになり、マイクロトフは絶えずそんなカミューの姿を探すようになった。


* * * * *


 カミューはリディアの見舞いから戻るたびにマイクロトフにキスをする。愛しているよマイクロトフと臆面もなく告げて、優しいキスをする。
 だがそれだけだ。繰り返される日常は、何故だか日毎マイクロトフを憂鬱に誘い、しかもそんな自分を省みれば更に気が沈んでいく。カミューが彼女を見舞うのを勧めたのは他ならない自分だ。だからこんな風に落ち込むのは間違っている。

「あああ、くそ!!」
 ぐるぐるした気分のままマイクロトフは遣り切れず唐突に叫んだ。握りこんでいた拳は同時にドンと机の天板を叩いていたので、随分と騒々しかったろう。部下たちの瞠られた目がそれを物語っていた。
「マイクロトフ様…?」
 書類仕事をしている文官の一人が書面に走らせていたペンを止めてそろそろと伺ってくる。慌ててなんでもないから仕事を続けてくれと促して、マイクロトフはまた思考に没頭する。
 そもそもカミューがリディアの見舞いに通う前は、彼の休日は全てマイクロトフが占めていた。それに比べればこうして外出して病気の娘の相手をする方がよほど有意義ではないか。碌な話し相手にもならなければ、キス以上の事もまだの恋人と言っては些かお粗末なこんな男と過ごすより―――。
 いやだが、もちろん問題はある。
 例の噂にまでなってしまった婚約話だ。

 実のところリディアの容態はますます悪くなっているらしい。
 最初の訪問以来、一度も見舞いには行っていないマイクロトフだが、頻繁に行っては戻ってくるカミューが必ず教えてくれる。つい先日庭で食事をしたと話に聞いたが、それだってほんの僅かの時間、体力と相談しての実現だったらしい。もしかするとこれ以降、二度と彼女は陽の光が降り注ぐ下での食事は望めないかもしれない。
 そんなリディアの病状もマイクロトフの憂鬱に拍車をかけていた。だが予断を許さない彼女の境遇に、哀れみを覚えたのはその叔父のジェラードだ。
 カミューが純粋な行為だけで下心なしに見舞いに通っていると充分に心得ているこの前赤騎士団長は、それでも姪には随分と甘くかける情も深かった。
 彼は己の考えが馬鹿げた茶番に過ぎないと知った上で、深刻にその話をカミューに持ちかけてきたらしい。先のない姪に一時の夢を見させてやってくれないか、と。それがこの噂の元となっている婚約話だった。

 カミューはジェラードからその話を聞かされた時、その場での即答は避けて何故かマイクロトフに相談した。
「どう思う?」
 相変わらずの笑顔で聞いてくる。その瞬間、どうしてだか抑えの利かない苛立ちがマイクロトフを埋め尽くしたが、何とか堪えて低い声で返した。
「そんな話、俺に聞くまでもない」
「……じゃあマイクロトフはかりそめの、あくまで偽りでなら俺がリディア嬢と婚約しても構わないと言う訳かい」
 誰もそこまで言っていない。咄嗟にそう言い返そうとしてマイクロトフは言葉に詰まった。何を怒る事があるんだ。本当に婚約するわけではないのだから―――。
 するとその無言をどう受け取ったか、カミューは不意に笑みを消すとそんなマイクロトフから視線を逸らした。
「ま、確かに聞くまでもないけれどね。分かった、せいぜい誠実に振舞えるよう努力するさ」
「カミュー…?」
「でもマイクロトフ。お前が少しでも嫌だとか、止めたいとか思ったならいつでも構わないから直ぐに言ってくれ、頼む」
「な……それは、どういう意味だ」
「分からないか? ああ、まぁそうかもしれない、おまえはね―――……でも今の俺の言葉は忘れてくれるなよ」
「カミュー、おい」
 やけに真剣味を帯びた目で言い据えられて、マイクロトフは怪訝に眉根を寄せた。相変わらず、遠まわしな言い方をするカミューに大概焦れてくる。
「ハッキリと言え、俺がどうして嫌がるんだ」
 だがカミューは結局答えてくれなかった。
 そしてそんな話はどうでも良いとばかりに、有耶無耶のうちにまたキスをされる。そうして置いてからまるで幼子に言い含めるかのように言うのだ。
「俺はおまえの望むようにするからな」
 最後までカミューの真意が今ひとつ見えないマイクロトフだった。

 それはまるで幼子のごっこ遊びのように稚拙なものだった。リディアに対してだけの口約束であり、決して未来を誓う合う日など来ないのだ。
 だが彼女も自身の命があと僅かとあって本当に結婚できるとは考えていなかっただろう。それでもささやかな幸せに身を浸して、寝たきりの生活の中でもカミューが訪ねるたびに痩せた青白い顔に、心からの笑みを浮かべてくれるのが何とも言えないのだと。
 カミューがそんな事をポツリと言ったのはいつ頃だっただろう。
 明らかに情にほだされたような口調で言ったカミューは、それ以来、以前は良く話して聞かせてくれたリディアの事をあまり言わなくなった。そして休日ともなれば出掛けて、日暮れてから沈痛な色を宿した目をしてマイクロトフにただいまとなんとか微笑んでみせる。
 女性に優しいカミューのことだ。日々弱り死に近付いていくリディアに憐憫以上の何かを感じずにはいられないのだろう。病気の女性は苦手だと言っていたのは、そんな彼の優しさが起因しているのかもしれない。
 そんなカミューの様子に、マイクロトフがある日ポツリと呟いたのを部下に聞き咎められてしまった。
 思ったのだ。
 このままカミューがリディアを訪ね続けていれば、その内本当に結婚してしまうかもしれないと。有り得ないと思いつつ、もしかしてと―――カミューが知ったら怒りそうだがそう考えてしまうのは仕方ないのではないか。
 いつもいつも、何にも優先してリディアをカミューが見舞うのは何故か。好意があるからに決まっている。いくらマイクロトフがそうしろと言ったからといって、あれで確りと自我をもった男なのだから、嫌な事はしない。にもかかわらず、噂が蔓延するほどにカミューの見舞いは間断がなかった。
 ならば……―――万が一、が起こるかもしれない。



「マイクロトフ団長!」
 突然頭上から鋭い声が振って、漸くマイクロトフは自分が思考に埋没していたのだと気付いた。最前と同じく文官たちが気遣わしげな表情で見ているのが気まずい。だがそれよりも真正面にいつの間にか立っていた第一隊長の方が気になった。
「フェイスター。どうした」
 見上げれば彼は通常通りの皮肉な笑みを口の端に貼り付けてマイクロトフを見下ろしている。手に何やら書類が数枚あるからには、執務関連で訪れたのだろうが、暫くその口からは書類の用件は語られなさそうだ。
 第一隊長は広い執務机に片手を付くと、上体を曲げてマイクロトフに近接すると、囁くような小声で言った。
「団長、最近私にはひとつとても気になる事がありましてね」
「なんだ」
 ちらりと見やれば二人の小声に文官たちは慌てて目を逸らし、己の仕事に戻っている。それを知ってかフェイスターは以下にも重要な案件を語るかのような生真面目な顔だった。しかし、出てくる言葉はまるで裏腹である。
「まだお若いのにお顔の真ん中に深いシワを刻む癖のある方がいらっしゃいましてね。顔のシワというのは案外取れにくいと言うので、ただでさえ無愛想なのが、殊更強面になるんじゃないかと心配で夜も眠れぬ有様ですよ」
「……フェイスター」
 マイクロトフはがっくりと項垂れて、思わず片手を挙げて指先で己の眉間に触れていた。部下の言わんとしている事は良く分かるのだが、どうしてこうも遠まわしなのだろう。
 しかし続くフェイスターの言葉に指先の下の眉間にまたシワが寄った。
「ですが実のところ、心配なのはシワよりもその原因ですね。悩み事がそのまま顔の相に表われてしまうのは良くない兆候です。よほど深刻ならば誰でも構いませんから一度、城の医者なりご家族なりご親友なりに相談してくだされば良いと思う次第で」
 その声音には揶揄の響きも軽薄な感じもなく、ひたすら真面目に案じているのが分かった。
「考え事に耽る時間も多くなって、周囲が見えぬ事も頻繁のようです。誤って何か事故など起きる前に何とか復調して頂きたいものですね」
「すまん。善処する」
 短く詫びたマイクロトフに、ところが第一隊長はにやりと笑う。
「おや、何故団長が謝るのです。私は誰がとは申しておりませんよ」
 確りと上の者に使う言葉を用いていたくせにそんな事を言う。この騎士団内で青騎士団の第一隊長たる彼が敬意を払う相手はそう多くない。だが、それも彼なりの気遣いなのだと知ってマイクロトフは苦笑めいた微笑みを浮かべた。
「そうだな。だが、おまえの話を聞いて俺も思うところがあった。感謝する」
「それは良うございました。では団長、こちらの書類ですが目を通して署名をお願い致します」
「ああ」
 置いていたペンを手に取り、第一隊長が机上に置いた書類に目を落とす。
 そして文面を読みながらマイクロトフはとある決心をしていた。
 仕事を終えたら、まずはカミューを探さねば。

 もしもそんなマイクロトフの心の呟きが、傍の第一隊長に聞こえたならばきっと、やれやれと腕を組んで溜息を落とされたに違いない。


* * * * *


 はじめから守られるために存在する者がいる。
 そしてそうした存在を守るためにもまた、存在する者がいる。
 ずっと幼い頃から漠然と感じていたその理屈を、自分なりに受け止めていたはずだった。
 それなのに、どうして今その理屈がこの上なく理不尽に思えるのだろうか。
 守られるべき者には、何の悪意もないのに。
 ―――弱さ、という罪があったとしても。



「マイクロトフ様はご存知? カミュー様ったら照れた時、少しはにかむ様に笑うんです」
 言って幸せそうに微笑む少女に、マイクロトフは苦く笑みを浮かべて相槌を打つ。知っているも何も、カミューは照れた時はそれを誤魔化すようにそっぽを向いて少し困ったような顔をする。
 はにかむなんて……あいつが寝ぼけた時くらいにする顔だ。
「マイクロトフ様?」
 少女が、リディアがふと言葉を止めてうかがってくるの、マイクロトフはいや、と首を振る。なんでもないと身振りで応えるとリディアの可憐な唇はまた笑みを湛えてカミューのアレコレを美しく幸せな夢のように語るのだ。
 先ほどからずっとこの調子だった。
 マイクロトフの二度目の訪問は、一度目のそれから随分と時が経ってからの事だった。それを実感したのは初めに出会った頃の記憶と比べて、リディアが驚くほどに痩せ細っていたのを目にした時だった。
 カミューに、俺も行くと言って無理やりについてきたのだ。
 屋敷に着いて早々、リディアにお定まりらしい挨拶を告げると直ぐにカミューはジェラードと話があると言って引っ込んでしまい、取り残されたマイクロトフはひとり、寝台に身を起こした少女の話を聞くこととなった。
 そしてそんな少女がする話と言ったら専らカミューの事ばかりで、聞かされるその全てに何故か反射的に否定を思い浮かべているマイクロトフだった。しかもリディアの言葉の端々には、何故だかマイクロトフの関心を引こうとでも言うのか、あからさまな表現が散りばめられていた。

「あんなに優しく接してくださる方ははじめて。もし私がこんな身体ではなくてもっと丈夫だったのなら、カミュー様と穏やかなお付き合いが出来るのに」
 穏やか……。違う、カミューほど激しく人を愛する男はいない。またそんな事を咄嗟に考えていたマイクロトフだが、続いたリディアの言葉に思わず息を詰めた。
「でもカミュー様って恋人がいらしたんですってね」
「……は…」
「あら、知らなかったんですの? でもそれが、とてもつれない恋人だったんだそうですよ。滅多に手も握らせてくれなくって、愛の言葉もあまり返して下さらなかったんですって」
 恋人なのに冷たいですよねぇ、とリディアが言う。それに対してマイクロトフは汗がだらだらと吹き出してくるのを隠すのに精一杯だ。リディアの言うのはきっと自分の事に違いなかった。だとすればカミューはこの少女にあれこれと自分の事を打ち明けていたと……。
「どんな方かは教えては下さらなかったんですけど」
 不意のリディアの言葉に思わず詰めていた息を吐く。
「でもカミュー様のように素敵な方にそんな冷たい仕打ちが出来るなんて、その人はきっと自分がどれくらい幸福な立場にいたのか分かっていなかったのだと思うの」
 リディアはその小さな手で拳を作り、むうっと唇を尖らせてそんな事を強い口調で言う。本当に心からカミューを敬愛して、恋情を捧げているのだと思わせるそんな仕草がいじらしい。
 だが一転、そんなリディアの表情が酷く真剣なそれへと変わった。
「マイクロトフ様は、私の身体の事をご存知でしたよね…」
「ああ……」
 いったい何を言い出すのかと黙っていると、リディアはそっと掌を己の胸へと宛がって目を伏せた。
「これまで接した誰もが、決して私と病気とを切り離しては考えては下さらなかった……仕方のない事ですけれど、でも私個人の事よりも先ず病気の事を案じられて、何をするにも病気と相談してからでした。それなのにカミュー様は違ったんです」
 そっと覗い見たリディアの瞳は穏やかに潤んでいた。
「カミュー様は私を普通の女性として接してくださるの。私はなによりもそれが一番嬉しい」
「リディア殿……」
 そこで少女はにこりと微笑んだ。
「だから、カミュー様にはそんな薄情で冷たい人の事なんて忘れて頂きたいの。こんな私でも、いいえこんな私だからこそ精一杯カミュー様のお気持ちに応えたいと思うんです」
「………」
「応援、してくださいますよねマイクロトフ様?」
 え、とマイクロトフは瞬いた。するとリディアは「あら?」と目を瞠る。
「マイクロトフ様は、カミュー様のご親友でしょう? 私、カミュー様の婚約者としてまだまだ不足なところがあると思うんです。だから色々とマイクロトフ様に教えていただこうと思っていたの」
 やっと訪ねて来て下さって、だからとても嬉しいの。
 無邪気にニコニコと笑顔を浮かべながら少女はそんな健気な事を言う。しかしその、まるで病などないような気丈な言葉と、見た目の蒼白さが相反して余計に切ない。
 そしてそれだけに、マイクロトフの胸を強く抉る衝動があった。
「リディア殿、俺は……」
「あら、駄目ですか?」
「いやそういう事では」
 こめかみを指先で押さえてマイクロトフは言葉に詰まる。
 違うのだ。自分はリディアのこんな話を聞くためにここに来たのではないのだ。決意をしてやってきたはずなのに、なんなのだろうこの有様は。

 本当は、自分の気持ちを正直に言うつもりでここにやってきたのだ。一切を偽ることなく、誠実に。
 だがその決意が挫けた。
 この少女を前に何を言えと言うのだろう。
 マイクロトフが武骨な手で掴むなり押すなりしただけで折れてしまいそうに儚く細い身体を寝台に横たえて。表情だけはきらきらと若さに溢れているのに、その肌の蒼白さは少女の溌剌さを裏切っている。
 そんな少女が瞳を煌かせて、カミューへの愛を語るのだ。
 何を語れと……。

 ―――すまないが、協力は出来ん。

 理由は?
 カミューがここに来るようになった原因はマイクロトフの言葉だったのに。仮にとはいえ婚約をすると言った時、反対もしなかったまさに薄情な恋人の分際で。
 第一、彼女が褒め称えるカミューの長所はどれもこれもマイクロトフには馴染みのないことばかりで、まるで別人の話を聞いているようだった。それに対してマイクロトフが教えられるカミューの良いところなど、言ったところで憧れをぶち壊すだけではなかろうか。

 あんな整った造作のくせに、眠いと幼児のようにぞんざいに甘えてきたり。
 理知的なようでいて一度癇癪を起こすと怒鳴るわ喚くわ手がつけられないし。
 時折思い出したように我侭を言って困らせるし。

 ……良いところどころかこれでは欠点ばかりではないか。

 内心で深い溜息をついてマイクロトフはこめかみを指で揉んで微かに首を振るう。素敵な赤騎士団長の顔がなくなってしまう。
「マイクロトフ様?」
「あ、いや…」
 ここで口ごもる自分にたまらなく嫌気がさしてくる。奥歯を噛みしめると苦渋が口の中に染み出してくるようだった。
「……リディア殿、俺は―――」
「気になります」
 不意にリディアはマイクロトフの言葉を遮るように言葉を発した。顔を上げると少女の不満げに揺れる瞳とかち合う。
「カミュー様は、まだその前の恋人をお忘れになっていないみたい。冷たい人なのに、そんなにも思われるなんてどんな方なのか、気になります」
 そしてリディアは寝台から飛び出さんばかりの勢いで、マイクロトフに縋ってきた。
「本当はマイクロトフ様に、これだけを教えて頂きたかったの。カミュー様の恋人ってどんな方だったの? ご存知なんでしょう? お願いします、どうか隠さずに教えて」
 突然の必死さにマイクロトフはうろたえた。
 だがリディアは泣きそうな顔をしてじっと見詰めてくるのだ。
「親友なのでしょう? 絶対知っているはずよ、教えて!」
「俺は……」
「お願い!」
 リディアが訴える。
 マイクロトフは苦味を噛み潰したような顔のまま、そんな少女を見詰め返すばかりだ。
「マイクロトフ様……お願いします……」
 しまいにはぐすぐすと涙混じりに懇願されては、もうマイクロトフに成す術はなかった。
 舌がうまく動かなかったかもしれない。
 だが、ゆるりと見開かれたリディアの、濡れた瞳がきちんと聞こえたらしいと教える。その唇が微かに「うそ」と動くのも。
 気付くとマイクロトフは言っていた。

「俺です」

 言った直後に後悔がどっと押し寄せてきたが、何故だかそれまでずっとマイクロトフを苛んでいた憂鬱の重みが消えた気がした。


* * * * *


「マイクロトフ様? 何を……」
 リディアの困惑が手に取るように分かる。だがマイクロトフは苦笑を滲ませつつなおも続けた。
「俺です、リディア殿」
 自らを指差してマイクロトフは項垂れた。
「カミューがあなたにどのような話をしたかは分からないが、あいつの恋人は紛れもなくこの俺だ」
「冗談でもマイクロトフ様、そのような……」
「いや、冗談などではない。俺は確かに碌に手も握らない薄情な男で、いつもカミューには悪いと思っていた、しかし俺とていつでも応えたい気持ちはあったのだ」
「聞きたくないわ!」
「……リディア殿」
「やめて! まさかそんなマイクロトフ様が……。でも、でも今は私がカミュー様の婚約者なのよ!」
「ああ、そうらしい」
 カミューはリディアに、マイクロトフの事を過去の恋人として話していた。その事実は、彼の心がもう自分から離れて言っていると教えてはいないか。
 自分でも滑稽に思うほど、そんな分析を冷静にしてしまって、しかもさほど衝撃を受けていない事に僅かばかり驚いている。
「カミューの心はもう、あなたにあるのだろう。だが、俺があいつを好きになった事実は消えないし、好きだと告げた言葉は戻せない」
 好きだと告げられた言葉も、記憶からは決して消えないだろう。
 カミューはあれで身内には情け深い男だから、リディアに心が移っていくのをマイクロトフに言えなかったのだろう。馬鹿な奴だ。出来ればこんな風に知るよりも、本人の口から聞かせて欲しいものを。
「俺は、カミューの恋人だった。それは確かな事実だ」
 その関係が崩れても、付き合いがなくなるわけでもなかろうに。それにそう長くはなかったとはいえ恋人として過ごした時間が失せるわけでもない。思い出として胸に残って人生の糧となってくれるだろう。
 それとも、カミューは否定するつもりなのだろうか。
 もう、普通の友人関係すら失くすとでも。
 馬鹿な。互いに団長職を預かっている身分で、そんな態度は許されない。もとよりマイクロトフには最初からそんな事すら思案の内であった。どちらかが騎士団を出ない限り続く付き合いの中で、より濃密な関係を結ぶとはそう言うことだ。分かっていたからこそ、最後の一線を躊躇せずにはいられなかった。
 だからまだ、身体の深いところでの繋がりはない。

 ―――まだ、傷は浅いか。

 それが良かったのか悪かったのか分からないが、痛みは少ない方がきっとどちらにとっても楽だろう。
 マイクロトフは顔をあげると動揺に蒼ざめているリディアに柔らかく微笑みかけた。
「安心してくださいリディア殿。だからと言って俺とカミューが仲違いをするわけでもないし、俺があなたを疎ましく思ったりする事もありません。俺はあなたとカミューを祝福しますよ」
 するとリディアは不意に強い眼差しでマイクロトフを睨み付けてきた。
「それで本当に良いんですか」
「なにがです」
「自分の恋人だった人が、別の人と幸せになるのを本当に祝福できるの? それで良いの?」
 どうやらリディアにはマイクロトフの言葉が信じられないらしい。可笑しな話だ。これで良くなければリディアにとっても都合が悪いだろうに。しかし、わざわざ確認されなくともそれは本音だった。
「かまわない。寂しくはあるが、それが真実ならば仕方のないことだ。それに俺の気持ちまではなくならないからな。俺はまだ変わらずカミューが好きだし、その気持ちはどうあっても否定できんのだから。想うだけなら自由だし、想いが返ってこないからと言って捨てたり諦めたりは、しなくて良いと俺は思う」
 自分に言い聞かせるように話しながらも上手く言えない。だが人の心は誰にも―――おそらく本人にすら、自由には出来ないものだろう。それを責めるのは見当違いで、この場合はマイクロトフの臆病さからの薄情が招いた別れなのだろうから、カミューに詫びこそすれ、祝福しないわけがない。
 それにリディアは真剣にカミューを好いてくれるようだ。ならば、それで良い。マイクロトフは、これからはカミューを好きだという気持ちを大切に自分の中で昇華していけば良い。
 暫くは辛いかもしれないが、大丈夫だ。
「カミューを幸せにしてやってくれ。俺には無理だったようだから、それだけは頼みたい」
 きっと大丈夫だから。気掛かりな事と言えばそれくらいで。
「マイクロトフ様……」
 ただ、少しだけ残念なのは。

 ―――もう、あの瞳を見られない。

 熱く焦がれるような眼差しが、もう二度と自分に向けられることはないのだ。それだけが、些細な強さでマイクロトフの胸を刺す。ちくりと棘のように刺さってなかなか抜けそうにないその痛み。
 我知らず胸を押さえていたのをマイクロトフ自身は気付いていない。リディアだけがそんな様子に眉根を寄せた。
「まだ想いがあるのに、カミュー様を諦めるの……?」
 まだ色々問い詰めたいらしい。マイクロトフは苦味を飲んだ時のように顔を顰めて目を伏せた。
「諦めるわけではない。だが無理強いは、できん」
 カミューが、リディアを選ぶのなら自分に何が出来ると言うのだ。人の心を自由に出来るわけはないのに。それとも、愛していると言った言葉は嘘だったのかと責めれば何かが変わるのか。そんな真似はこの少女の幸せを無為に削ぎ取るだけの行為ではないのか。
 そう思ってちらりとリディアに視線を向けた、その時。
「……もし、私に同情なさって身を引こうとでも仰るのなら」
 冷たい声がマイクロトフの鼓膜を、思いのほか強く震わせる。
「もし、そんな侮辱を私に味わわせようと仰るのなら、私マイクロトフ様を軽蔑しますから」
 マイクロトフは思わず目を瞠ってそんな事を言う少女を見詰めた。
「リディア殿、俺は」
「確かに私の身体はこの通り、一日の大半を寝台の上で休ませなければならないけど、でも私だって生きてるわ。残りの人生はずっと短いかもしれないけれど、私は今ちゃんと生きてるの!」
 突然、少女は悲鳴のように叫んでがばりと己の膝に顔を埋めた。
「……リディア殿…」
 呆然と名を呼べば少女は顔を埋めたまま、ぶんぶんと首を振る。
「生きてるんだから! だから恋だってするし……! 失恋だって当たり前にするの!」
 その最後の言葉にハッとした。そして言葉もなく固まっていると、リディアの声が不意に弱々しくなる。
「失恋して泣き明かしたりも……するんだから…」
 そして、ぐす、と鼻をすする音がしてリディアがゆるりと顔をあげる。
「辛いかったけど恋を諦めた時、私は前より少しだけ大人になれた……」
 そう呟いたリディアの顔は涙でぐちゃぐちゃになっていて、鼻の頭は真っ赤だし髪も乱れてとても大人の女性には程遠かった。だがマイクロトフが今まで見た数少ない少女の表情の中で、一番生き生きとしていたのだ。
 そしてその涙に濡れた瞳が、きっとマイクロトフを見据える。
「なのにどうして私よりもずっと年上のマイクロトフ様が、そんな態度なの!」
「は」
「好きだったら、どうしてそんなに落ち着いているのよ! 恋人が貴方を置いて他の人間と婚約しようとしてるのよっ!」
「あ、いや……」
「あっさり祝福するなんて言わないで! それじゃあカミュー様があんまりにも可哀相よ!」
 リディアの剣幕に呆気にとられたが、その言葉は聞き捨てならなかった。少女相手にと思う間もなく瞬間的に思考が沸騰する。
「俺はあっさり言ったつもりなど毛頭ない!!」
 膝の上で拳を握り締め、気が付くとそう怒鳴り返していた。だが途端に頭が冷える。相手は病床の少女であると言うのに、冷静を欠いて怒鳴るなどなんたる不覚だろう。
「す、すまない。俺は…」
「謝らないで! なによっ!」
 まるで癇癪を起こした子供のようにリディアが叫んだ。
「大ッ嫌い!!」
 またばさっと突っ伏してリディアは今度こそ本当に泣き出した。困惑するのはマイクロトフだ。いったいなにがどうなってこの状態なのかが全く分からなかった。泣く女性を前に、カミュー辺りならハンカチでも差し出すべきところが、マイクロトフは気の利いた台詞ひとつ掛けられないし、これと言った対応も浮かばない。
 困り果てておろおろとする。だいいちこんなに興奮して大丈夫なのだろうか。リディアは青白かった顔を今は真っ赤にして泣きじゃくっているのだ。
「リディア殿、その泣かないで欲しいのだが」
 そろそろと言ってみれば顔を伏せたままのリディアがぶんぶんと首を振る。
「誰か……ああカミューを呼んでくるか」
「いやっ!」
「で、では、ジェラード様を」
「もっといやっ!」
「俺は席を外した方が―――」
「だめっ!」
「リディア殿」
「大ッ嫌い!」
「………」
 どうしろと言うのだ。

 そしてマイクロトフが途方に暮れた時だった。
 一応の礼儀を払ってか扉をノックして、カミューは入ってくるなり言ったのだ。明らかに、これまでのやり取りを聞いていたのだと言わんばかりに。


「レディ・リディア。それ以上マイクロトフを苛めないで下さいね」

 泣きじゃくる少女と、困惑顔のマイクロトフに、カミューはこの上もなく綺麗な顔で笑いかける。

「全く―――まさかまさかとは思っていたけどここまでとは思わなかった」
「…カミュー?」
「俺が不安になるのも当然だよね。ま、でも本音が聞けただけでも良しとするべきなのかな」
「何を、おまえは」
 言っているんだ? そう、首を傾げた時。後ろから大きく息を吐く気配がして思わず振り返る。と、ほうっと肩を下ろして涙に濡れた目元を拭うリディアがいた。
「あー、すっきりした」
 まだ目は赤いし頬も朱がさしていて、いかにも泣いた後の顔であるのに、実にあっけらかんとした口調でリディアはそう言い、目が合ったマイクロトフにニコッと微笑みかけてきた。
「ごめんなさい、マイクロトフ様。でも私も正直な気持ちでお話していたのよ?」
 小首を傾げてリディアは困ったように涙に濡れた瞳でマイクロトフを見詰めてくる。そしてマイクロトフを挟んで扉の前に立っているカミューをちらりと見上げて、一言付け加えたのだ。

「婚約のお話は嘘だったけれど」

 なんだと、とマイクロトフの眉間に深い皺が寄った。


* * * * *


「どう言うことだ」
 振り返りカミューを睨むと彼は肩を竦めて苦笑を浮かべている。
「カミュー?」
「怒らないでマイクロトフ様」
「リディア殿……」
 また振り返ると少女もまた肩を竦めて苦笑していた。マイクロトフは呆然としてそんな二人を見比べる。何が何だか分からないものの、いっぱい食わされていたらしいことは分かる。
 カミューはどうやら部屋の外で今までのやり取りを聞いていたらしく、リディアもそれは承知のようだ。しかも、婚約話が嘘? ひとをからかっていたのか?
「事情を話せ」
「話すよ、勿論。だがそれより先にマイクロトフの言い訳も聞きたいな」
「俺の言い訳?」
 カミューの言葉にマイクロトフは怪訝に眉を寄せた。
「あんなに俺が愛してるって言ったのに、どうしてあっさり身を引こうなんて思ったのかその言い訳。結局おまえにとって俺ってそれだけの存在だったのかと思うと、胸が痛いよ」
 カミューは掌で胸を押さえて、泣く真似をする。そんな素振りにカッとマイクロトフの頭に血が上った。
「誰がふざけてみせろと言った! 俺は事情を話せと言ったはずだ!!」
「怒鳴るなマイクロトフ。レディ・リディアが怯えるじゃないか」
「……ッ!」
 頭が沸騰するみたいに熱い。それをマイクロトフは奥歯を噛みしめて抑え込んだ。しかし視線だけはカミューを睨み据えたまま、今にも掴みかからんばかりの気持ちは抑え切れない。
「落ち着けマイクロトフ。おまえはそうやって直ぐに頭に血が上る」
「誰の所為だ。下手にはぐらかすなら俺はおまえを許さんぞ」
「きちんと説明はさせてもらうさ。だがその前にまずここから失礼しよう。レディ・リディア、構いませんね?」
 カミューがマイクロトフ越しに寝台の少女に優しく微笑みかける。ゆるりと背後を見やると少女も穏やかに微笑み返していて、それを見とめた途端胸が絞られるように痛んだ。
 そんなマイクロトフを挟んで、二人は気心の知れた同士頷き合っている。
「ええ頑張ってね。私はいつだってカミュー様の味方よ」
「有難うございます。心強いですね」
 優雅に会釈なんぞをして、更にマイクロトフの心を波立たせる。堪え切れず立ち上がると、低く失礼すると言い残してカミューの横をすり抜けると扉から外に出た。
 途端に少し頭が冷える。
 肩で息を吐くと直ぐにカミューが追いかけてきた。
「さてマイクロトフ。あちらに日当たりの良いテラスがある。そこで話の続きをしようか」
 廊下の向こうを指差して歩き出したその背がまた腹立たしい。どれ程この屋敷に通い慣れているかが分かろうというものだった。そして、その全てにあの少女と過ごした名残があるのだろうと思うと、また胸が痛かった。
 それなのにマイクロトフはその背に逆らう事も出来ずに、無言で後を追うしかないのだ。



 案内されたテラスは確かに居心地が良さそうで、屋敷の主の趣味らしい観葉植物が整然と手入れされて並べられていた。その中央にある白いベンチへと先に座り込んでカミューはぼんやりと晴れた青空を見上げた。
「いーい天気だなぁ。特に今日はそよ風が吹いて薄い雲がかかっているから暑くもなく涼しくもなく、実に良い」
 マイクロトフはその正面にある椅子に腰掛けてその仰のいた首を睨む。
「天気の話をしに来たわけではあるまい」
「そうだった。マイクロトフの言い訳を聞きにきたんだ」
 カミューはニコニコと笑ってマイクロトフの顔を覗きこんでくる。
「教えて欲しいな。祝福するなんて、あっさり言ったつもりがなくても、どういうつもりで言ったのか」
「聞いていたのか」
「それは、ね。聞くだろう普通」
「そんな普通は知らん」
「マイクロトフ。もしかしてはぐらかしているのかい? 聞いたことにはちゃんと答えて欲しいな」
「おまえが聞いたままの通りだ。それ以外に思惑などない」
「俺が彼女を選ぶなら仕方がないって? 自分には幸せに出来ないから? ふざけるな」
 不意にカミューの語調が荒く変わった。
「よくも俺の気持ちを無視してくれたもんだよ」
「カミュー、何をおまえ…」
 怒っているんだ、とマイクロトフは言いかけて口を噤んだ。真正面にあるその整った顔が子供のように泣き出しそうだったからだ。
 おかしい。怒っているのは自分のはずなのに、どうしてここでガツンと言い返せないのか。マイクロトフは途方に暮れてそんなカミューの顔をじっと見詰めるしかなかった。
 するとカミューは何故だか両手でそんな顔を覆ってしまうと、深々と溜息を落としたのだ。
「マイクロトフ。本当におまえは全然分かっていないみたいだから、ここで妥協して教えてやるけどな。俺は本当に傷ついているんだからな」
「なんだ」
 何に傷ついているという。それを言うなら俺だってわけも分からず蚊帳の外に放り出されて困惑の真っ只中だ。この収拾をどうつけてくれるというんだ。
 そう思ってマイクロトフが不機嫌に返すと、カミューは相変わらず掌で顔を隠したまま言った。
「聞くがマイクロトフ。おまえちっとも疑わなかったのか」
「何がだ」
「レディ・リディアの話をだよ。どうしてあんなにあっさり納得するかなぁ」
 腹蔵無いところがおまえの良い所だけど、それにしたってあんまりだ。カミューはそうぼそぼそと呟いて指の隙間からちらりとマイクロトフを見た。心なしかその瞳が潤んでいるような気がするのは、錯覚か。
「彼女の話が、どうだと言うんだ」
「おまえ、彼女が俺と婚約をしていると言ったのを聞いて、まっすぐ信じ込んだよな?」
「……どういう意味だ。何が言いたい」
「そこでおまえは、本来なら嘘だと思うべきだ、と言っているんだ」
 カミューは焦れたように顔から両手を離して、必死の様子でマイクロトフに詰め寄った。
「なんで祝福するとか言って、俺を頼むとか言って頭を下げる展開になるんだ。俺は、マイクロトフを裏切って別の人間と黙って婚約するような人間じゃない」
 カミューがまた泣きそうな顔をしてそう言い放ったのを聞いた途端、マイクロトフはガツンと頭を殴られたような衝撃を受けて、一瞬石像のように固まってしまった。
「だ、だが……カミューは俺のことを昔の恋人だと彼女に話して…―――」
 上手く動かない舌を駆使して、なんとかそう抗弁するものの、それも途中でカミューにきっぱりと遮られる。
「そこから嘘なんだ」
「なんだと?」
「レディ・リディアの作り話、でっち上げだよ。俺にとっては今も昔もこれからだってマイクロトフだけがただ一人の恋人なのに」
 あんなに愛しているって言ったのに。
 ぶつぶつと言うカミューに、だがマイクロトフの眉がピクリと跳ねる。
「俺とてそう簡単に思い込むわけが無かろう!? おまえはずっと彼女の元に通い詰めてばかりだったではないか」
 信じ込むに足る理由がある。
 いくら口先で愛を囁かれても、行動が伴っていなければそれがどれ程空しく響くか。それに付け加え、広まってしまった噂はどんどん一人歩きして、城の騎士の誰もがカミューが近々リディアと結婚するのだと信じて疑わない。誰も、マイクロトフのことなどただの親友だとしか思わないのだ。
 信じていたいのに、それを不可能にする下地がありすぎた。
 だがカミューはそれにふてぶてしくも反論して来た。
「俺はマイクロトフが止めろと言ったらいつでもこんな茶番は止めると言い続けていたはずだ。なのに他ならぬおまえ自身が、俺をここに来させ続けたんだろう」
 確かにその通りだ。しかし全てをマイクロトフの所為にするその言い方が怒りを煽った。
「だからと言って通う方も通う方だろうが! じゃあ何か、カミューは俺が言ったからと、何でもそれに従うのか。挙句その結末が気に食わなければ俺の責任なのか」
 そんな馬鹿げた理屈があるか。マイクロトフは吐き捨てて拳を握り締めてそれ以上の憤りを抑え込んだ。それなのにカミューはまた腹の立つことを言う。
「一言、マイクロトフが行くのを止めろと言えば良かったんだよ」
「だから、どうして俺が!」
 カッとなって吼え返した。
 ところが、てっきりまたぬけぬけとした言葉を吐くかと思われたカミューの口は、予想外の気弱さでぽつりと呟いたのだ。

「いつもそうだから」

 その気弱さに思わず気勢が削がれる。握りこんでいた拳をそのままに、ぽかんとカミューを見詰めると微かな苦笑がその秀麗な面差しに浮かんだ。
「触れて良いかと聞けば良いと応えてくれる。今日は触れない方が良いねと言ったら、そうだなと言う。マイクロトフ……どうして、いつも俺の言葉を待つんだ?」
「カミュー?」
「いつでも、俺の希望を聞いてくれるのは嬉しい。受け入れてくれてるんだなと思ってた。だけど、本当はそれはちょっと違った」
 カミューは微笑んだ顔を項垂れて、小さく吐息を零した。
「おまえは自分の気持ちに気付いたばかりだから、俺の気持ちに追いつかないと以前に言ったね。でも、俺を好きならどうして求めてくれない?」
 求めて? マイクロトフは胸の裡でカミューの言葉を反芻した。だが、いまいち良く分からなかった。何だか思考が麻痺しているような気分で、上手く理解できない。
 ただカミューの静かな言葉だけが滑っていく。
「薄情とか、冷たいとかそういう次元の問題じゃない。それは、マイクロトフがちゃんと自分の気持ちに向き合っていないからだ」
「向き合っていない……」
「そう。なぁマイクロトフ。おまえは俺をどんな風に好きでいてくれている? 何処が、好きだと思う?」
「俺は……」
「聞かせて欲しいんだ」
 そう問い掛けてくるカミューの瞳は哀しげだった。寂しげとも言うのか、ゆらゆらと揺れる瞳は整った容貌を悲嘆めいて際立たせている。それを見た途端マイクロトフの胸に重く凝ったように居座っていた苛立ちと痛みが消えて、代わりに落ち着かないようなざわめいた痛みが込み上げてきた。
 だからその痛みを何とか鎮めようと、マイクロトフは必死で舌を動かした。まとまらないまでも心の裡を吐き出せば、何とかなるのではないかと思って。
「俺はカミューが好きだ」
「うん」
「おまえが俺を好きだと言って見詰めてくる時の目が好きだと思う」
「そうなんだ。知らなかった」
 ふわ、とカミューが微笑む。
「ああ、おまえにじっと見詰められると落ち着かない。ざわざわして鳥肌が立つ」
「え、それって……」
「どきどきする」
「あぁ……そっちの意味か」
 くす、とカミューが笑う。それから「続けて?」と促された。
「触られるのも、キスされるのも好きだから、カミューがそうしたい時はいつでも俺は―――」
「うん、そうだったよな」
「俺もだからおまえに触れたいと思うが……いつも、傍で見ているだけですぐ頭がぼうっとするから」
「ぼうっとしてるのか?」
 疑わしげな口調だ。
「する。こんな綺麗な奴が俺を見てると思ったら、する」
 言いながら次第にマイクロトフは、ものすごく恥ずかしくなってきた。どうやら徐々に正気に戻ってきたらしい。いったい自分は何を口走っているのだろうか。
「それくらいだ。もう良いだろう」
「ええ、そんなもっと聞かせてくれ」
「駄目だ」
 拒否しながら、自分の言動を思い返して顔がどんどんと熱くなっていく。堪らずそんな顔をカミューから背けて床を睨みつけた。
 すると。
「あれ、マイクロトフもしかして……」
「なんだ」
「照れてるのか?」
「………」
 更に顔が熱くなった気がした。
「もしかして今までそうやって途中で俺を突き離したりしてたのは、照れ隠しか」
「言うな」
 図星を指されて居たたまれなくなる。なのにカミューの顔には何故だか喜色が広がっていくではないか。
「マイクロトフ、そうなのか?」
「……そうだと言ったら何だ」
「嬉しい」
 即答にマイクロトフはがっくりと項垂れた。しかしそれはカミューの本音だったらしい。
「だっていつも直ぐ不機嫌になって繋いだ手とか振り解かれて、マイクロトフはそんなに俺のこと好きじゃないのかなって不安になってたんだ。でも照れ隠しだったら違うって事だろう? それ以上手を繋いでいるのが恥ずかしくて堪らないって事で、俺が嫌だからとか気分が冷めたとか、つまりそういう事じゃない」
「詳しく分析するな」
「マイクロトフ!」
「なんだ!」
「愛しているよ」
 臆面もなく告げられて、それ以上何も言葉が出てこない。しかもそこにきて更に恥ずかしいことを聞いてくる。
「抱きしめても良い?」
「だ、駄目だ!」
「ふふふ、そんなことを言っても、もう通用しない」
 照れ隠しなら遠慮することはないな。
 不穏な事を言ってカミューは立ち上がった。それに思わずマイクロトフは身を引きそうになったが、いや、違うと咄嗟に思ってそんな身体を自ら引き止めた。
 そうだ照れ隠しだ。いつもここで逃げるから、カミューが不安になる。それこそ、駄目だ。
 心を決めた瞬間、ぎゅうとカミューが抱き付いて来た。
「大好きだよ。キスして良い?」
 聞かれてまたうっと詰まる。
 と、言うか。カミューがこうやって一々お伺いをたててくるからこそ、恥ずかしさが煽られるのだと、たった今気付いた。
「わざわざ聞くな!」
 赤い顔をして怒鳴ると、カミューはまた嬉しそうに笑った。

 ところが、その時一瞬マイクロトフは視界に認めたくないものが過ぎるのを見つけてしまった。
「ま、待てカミュー!」
 今しも唇を落とそうとした秀麗な顔を引き剥がそうとして、マイクロトフは汗をだらだらかきながら、視界に治めてしまったそれを凝視していた。
「駄目だ! 本当に駄目だ、離れろ!」
「嫌だ」
 しかしカミューは聞かない。強引に事を進めようとするのを、それでもマイクロトフは必死で振り解こうともがいた。
「ジェラード様がいる!!」
「え」
 ぴたりと止まったカミューがそろそろと振り返る。
 その先、テラスから望む庭の一角に、ニヤニヤと人の悪い笑みを浮かべてこちらを見ている、前赤騎士団長の姿があったのだった。


* * * * *


 ロックアックス城。
 ジェラードの揶揄混じりの追及を漸う逃れて、二人は夜更けに戻ってきた。神妙な顔をして門番の前を通り抜け、予定より遅れて帰城した二人に急ぎの書類を押し付けに来た部下を冷静な声でいなして。カミューの部屋に飛び込んで扉を閉めると、どちらからともなく笑みがこぼれた。

「ならばジェラード様もご存知だったのか」
「当然。でなければ大切な姪御殿を俺と頻繁に合わせてくれるわけはないだろう? おかげで半分ほどはジェラード様の趣味話につき合わされていたんだ」
「そうだったのか……」
「うん」
 しかし部屋の中で向き合って椅子に座りこんで、マイクロトフは詳しい事の次第を聞くにつれ、事実を知れば知るほどにその肩ががっくりと項垂れていくのを感じた。
「リディア殿も最初からご存知だったんだな……」
「うん。実は最初に言っちゃった」
 言っちゃった、って……とマイクロトフは頭を抱えた。対してカミューの表情は明るい。しかし不意に唇を尖らせて瞳を曇らせた。
「だってあの日はマイクロトフが行こうって言ったのに、結局寸前になって行けなくなって。俺だけ馬車に押し込んでさ」
「それは悪かったが」
「そこにきてレディ・リディアに告白されてさ。マイクロトフがいるから駄目ですって思わずね」
「カミュー……」
 抱えた頭をかき乱したい気持ちでマイクロトフは唸る。
 聞けばその後、あろう事かカミューはリディアにマイクロトフのことを色々愚痴っていたと言う。いくら相手が構わないと言ったからと、それはあんまりにも恥知らずではないか? 自分が振った相手に恋人との愚痴を聞かせるなど。
 指摘すればカミューも苦笑いを浮かべて首を傾げた。
「うん、それは思ったんだけどね。応援して協力もしてくれるって言うから、つい」
「つい婚約話をでっち上げて俺を騙したのか」
「別に騙したつもりはなかったんだけど……えっと」
「あぁあぁ、リディア殿が勝手にやったのだったな」
「ちょっとやり過ぎてしまったようだが、でもおかげでマイクロトフの本音が聞けたから良かった」
「俺は良くない……」
 あんな恥ずかしい心情劇など二度と演じたくない。
 だいいち、騎士たちの間で公とまでいかなくとも広まってしまった噂話をどうするつもりなのだろうか。
 だがカミューはそんなもの、と一蹴した。
「人の噂なんていつの間にか消えるものだから、放って置けばいいさ」
「だが、噂の元は俺なんだが」
「そうだったかな。でも大丈夫だよ、俺はもうレディ・リディアの元へは通わないし。おまえに噂の真偽を確かめにくる者もいないだろうから」
「そういうものか?」
「そういうもの」
 何故だかカミューはずっと笑顔だ。ニコニコしっぱなしで大きく頷いてマイクロトフをじっと見詰めている。
「カミュー、さっきから何を笑っているんだ」
「嬉しいからさ」
 間髪入れずに答えてカミューはじっとマイクロトフの顔を凝視してくる。それが何だか恥ずかしくなってきて思わず顔を逸らそうとしたが、一瞬で伸びてきた手がそれを阻んだ。
「駄目だよマイクロトフ。こういう時は見詰め返してくれないと」
 立ち上がったカミューがマイクロトフの頬を掌で捉えて、そう言いながら見下ろしてくる。
「カミュー」
 随分と情けない声だと思いながら、きっと表情も情けないことになっているんだろうと思いながらマイクロトフはそんなカミューを見上げた。
「俺はな」
「うん」
「カミューが好きだ」
 言った途端にカミューの笑みが深まる。その見惚れそうな笑顔に一瞬言葉を詰まらせながらマイクロトフは続けた。
「だが、おまえも知っての通り俺はこうした事には不得手で不器用だ」
「らしいね」
「だ、だからな……これからも至らんことが沢山あるだろうが……その時は今回のような遠まわしな事をせずに、直接俺に言ってくれ」
「……分かった」
「俺とて、流石に面と向かって言われたら理解する」
「そうだな。今回は、俺もちょっと悪かったよ」
「ちょっとか?」
「随分、かな」
 言い直してカミューはまた笑った。
「マイクロトフを試すような真似をしたのは謝る。いくら不安だったからってやり過ぎだったよ。寂しい思いをさせちゃったね」
「別に寂しくなど」
「なかった?」
 あったとも。しかし素直にそうも答えられずマイクロトフはしかめっ面をして黙り込む。するとカミューはいかにも面映そうに笑って、そんなマイクロトフの眉間に指で触れた。
「マイクロトフのそういうところ、好きだよ」
 告げられて滲むように顔に熱が集まる。きっと赤くなっているが、カミューが笑っているのはその所為なのか、それとも一向にしかめっ面がほぐれないからなのかどちらだろう。
「なぁ、今度こそキスしてもいいかい?」
「……だから聞くなと言うんだ!」
 どうして一々そういう恥ずかしい事を臆面もなく聞けるのか、カミューという存在が不思議でならない。しかし、この美形ぶりでこれほど不自然なく、こんな風に口説かれて落ちない美女はきっといなかったのだろう。
「じゃあ不意打ちとかしても良いのかな」
「それは勘弁してくれ」
 心臓が止まる。だいいち、そんな不意打ちを許可したら気の休まる時がないではないか。
「なんだ残念。だったら、やっぱり聞いてからじゃないと駄目ってことか」
 改めてカミューはマイクロトフの頬をやんわりと包むと、間近に見下ろしてくる。
「キスして良いよね」
 答えずにいたら、柔らかな感触が唇に触れた。途端に鼻から吸い込んだ息がカミューの匂いでいっぱいでどきりとする。そして、驚くほど間近で吐息混じりの声が囁いた。

「キスより、もっと違うこともして良いよね」

 そんな問い掛けに、マイクロトフがまともな返事など出来るわけもなかった。










 起きたら朝だった。
 何故かカミューはそこにいなくて。ここはカミューの部屋の、カミューの寝床の筈なのにいなかった。
 マイクロトフは目を開けてやはり室内に人の気配がないのを確かめてまた目を閉じる。だが、身体中を包むのはカミューの匂いだ。
「………」
 どうしていないのだろう。
 なんだか良く分からないままに昨日の夜は過ぎていった気がした。
 マイクロトフは必死で、カミューの求めに応じたような気もするし、わけが分からないままに翻弄されたような気もする。だが不快感は全くと言って良いほどなかった。
 それよりも充足感の方が大きい。
 いったい何を恐れていたのだろう。
 結局自分とカミューの関係になんら変化など生まれなかった。
 これまで通り、共に過ごし続けるだろう予感が深まるばかりだ。
 だがそれにしても、カミューの姿が無いのは気になる。
 朝は苦手なくせに人よりも早く起きだして何処へ消えたのやら。しかもこんな朝に限って。

 だがマイクロトフがそうして寝床の中で唸っていると、不意に寝室の扉が静かに開いた。すかさずそちらに目をやると、カミューの瞳とばっちりと視線が合った。
「あ、おはよう」
 入ってきたカミューは手になにか持っていた。どうやら水差しとグラスのようだ。マイクロトフの視線に気付いてそれを掲げてみせる。
「喉、乾いてるかと思って」
 微笑むその顔を、マイクロトフは思わず睨んで見る。
「カミュー」
「は、はい…?」
「おまえ、寝たか?」
「………」
「寝ていないのか」
 疲れたような顔をして、何処か青白い。髪も乱れた感じでぱさついているように見える。無言で肯定するカミューにマイクロトフは奥歯を噛み締めて色々込み上げてくる言葉を飲み込んだ。
 そして深々と溜息を吐いて、恐る恐るとこちらを窺ってきている顔を見上げた。
「カミュー」
「あ、水飲む?」
「水は良いからここへ来い」
「…はい」
 叱られるのを分かって呼び出しに応じた子供のようにびくびくとしながらカミューはゆっくりとマイクロトフの所に歩み寄ってくる。そして直ぐ傍まで来ると首を傾げて見下ろしてきた。
 昨夜と随分違うものだ。
 思わずくすりと笑うとカミューがぱちりと瞬く。その腕をむんずと掴むと、マイクロトフは有無を言わさずにその身体を自分の方に引っ張りこんだ。
「うわっ」
 カミューは驚いた声を上げるが、その身体はなすすべもなくマイクロトフの横へと倒れこむ。その頭を敷布に押し付けてマイクロトフは上から毛布をばさりとかけた。
「寝ろ」
「マイクロトフ?」
「良いから寝ろ」
 そして毛布の上からカミューの肩を撫でた。すると強張っていた身体から緊張が抜けていくのが分かる。そしてその乱れていた髪も撫でてやって、そろりとこちらを見上げてくる瞳に笑みを送ってやった。
「まだ早い時間なのだろう。間に合うように起こしてやるからこのまま寝ていろ」
「……うん」
 漸くカミューもその瞳に笑みを浮かべて、ゆっくりとその目を閉じる。
 そしてその穏やかな表情から寝息が聞こえてくるまで、そう長い時間ではなかった。マイクロトフは涼しげな朝の風景の中で、暫くそんなカミューの髪を撫で続けていたのだった。















 それから、半年後―――。



「マイクロトフ団長、どちらへ」
 外出着を着た団長を第一隊長の声が引き止める。
「小用だ」
「左様で。先ほどカミュー様もそう仰って出掛けられたらしいですが、ご存知ですか?」
 なに、と振り返ると相変わらず無表情な顔が瞳に僅かだけ笑みを滲ませて見ていた。
「カミューが何処へ」
「ですから野暮用だと言い置いて、どこかへ出掛けておしまいに。気の毒に赤の副長は急ぎの書類を抱えて、猫の子を探すわけでもあるまいに戸棚まで開けて大捜索をしそうなほどの勢いで」
「あいつめ……」
 マイクロトフが唸ると第一隊長フェイスターは、ひょいと片眉を持ち上げて皮肉な笑みを浮かべた。
「ですから、もし、偶然、どこかで、お会いするような事があれば、そのようにお伝えください」
「分かった」
 マイクロトフが苦々しく答えると、第一隊長は行ってらっしゃいませと会釈をして送り出してくれる。ところが、それに手を振ってマイクロトフが背を向けて歩き出そうとしたところで再び呼び止められる。
「ああそうだ団長」
「なんだ」
「白い花ならば、交易所の横の花屋でお求めなさい。上手く花束にしてくれますよ」
「そうなのか?」
「ええ」
 フェイスターは頷いて、それからこの男にしては珍しく優しげな微笑を浮かべて言った。
「レディ・リディアに宜しくお伝え下さい」
「……ああ、分かった」
 今度こそマイクロトフは手を振って歩き出した。



 行く先は小高い丘にある墓地。

 晴れ渡る空が青く目に痛い。それはレディ・リディアが没してちょうど一ヶ月目の日のことである。



end

nothing changed ← imitative lover

2003/01/07-2003/07/21