flower rainy day 5
同盟軍軍師が、いざという時を考えて率いてきた軍勢と、カミューがマチルダから連れて来た離反騎士たちと、この人数で一気に本拠地まで行くのは無理だとして、とりあえずトゥーリバー市の川を越えた平原に、野営を構える事となった。
流石に、トゥーリバーまではゴルドーの手勢も追ってこないだろう。第一カミューは騎士たちに戦闘体勢を整えて離反するように命じてあった。今追ってきたとしても、確実に勝ち伏せるだけの力がある。それは、居残った騎士たちが知らない筈は無い。
カミューとマイクロトフは、同盟軍主の好意によって、大きな天幕を二人で貸し与えられたために、身一つで出てきたマイクロトフなどは、有難い反面恐縮しきりだった。
その天幕に二人が腰を落ち着けたのは、日暮れて簡単な夕食を軍主たちと共に食べてからだった。
「いやぁ…同盟軍の糧食って美味しかったんだなぁ」
組み立てて作った簡易の寝台に腰掛けて、カミューがまだ舌の上に残る香草のスープと噛み応えのあるパン、そして香辛料のたっぷり入った魚肉ハムとまろやかなチーズの味を思い出して、ほうっと溜息をつく。するとマイクロトフがうむ、と頷いた。
「下味が確りとついているのだろうか。携帯のものとは思えんくらいに美味かったな」
騎士団のそれも決して不味いものではなかった。だが、顔が綻ぶほど美味しいものでもなかった。
今夜、マイクロトフとカミューは、まだ知らぬ宿星の仲間である料理人の神業を、ほんの指先程度味わったのである。
「……この食事だけでも、同盟軍に来て良かったかも…」
「こらカミュー」
ポツリとつぶやいたカミューに、流石にそれはまずいだろうとマイクロトフが顔をしかめる。だが、そう言ってしまいたくなるほどに食事が美味しかったのは否めない。
そしてうっかりまた極上の味わいを思い出しかけたのか、マイクロトフが咳払いをする。
「それよりもな、カミュー。これからの事なのだが」
「…ん? ああ、これからね」
「俺たちはもはや騎士団長ではない―――今までどおりにはいかんのだろうが、それでは付いてきてくれた騎士たちをどう扱えば良いのだろう」
「いや、今までどおりで良いと思うよ」
カミューがあっさりと答えると、マイクロトフは怒ったような顔をして睨んだ。それに肩を竦めて仕方がないじゃないかと、首を傾げる。
「確かにエンブレムを捨てて忠誠に背いたけれどね、部下たちが付いてきたからには、やっぱり俺たちは騎士団長のままなんだよ。それに―――」
「それに?」
「そっくりそのまま、多少は変わるだろうが今までどおりの命令系統を維持しなければ、これだけの数の騎士を纏めろったって無理だよ。多分、あの軍師も当然俺たちが騎士を纏めるものと思っている筈だよ」
「し、しかし俺はもう騎士ではなくて……」
「マチルダの騎士でなくなっただけだよ。誇りと信念がある限り、騎士の廃業にはまだ早いさ、マイクロトフ」
「だが、こんな俺が今までのように団長だと言って、彼らを指揮して良いものだろうか」
「ははは、離反騎士たちの先駆けが何を言うんだい。忘れているようだから言ってやるが、彼らだって同じ騎士のエンブレムを捨ててきた者達なんだよ」
「う、そ……そうか」
「それに一晩経ったら隊長たちがやってきて、俺たちに指示を仰ぎにくるよ。極自然に当たり前のようにね。賭けても良い」
迷う以前に、もう周囲が完全にそうと認めているのだ。
「だが俺は、身一つで飛び出してくる思いで、ゴルドー様に逆らったのだが……」
「独りじゃなくって良かったな。俺もいるし、部下たちもいるし。心強いだろう?」
「それはそうなんだが」
なんとなく腑に落ちないといった具合でマイクロトフは難しい顔をしていた。それを見てカミューは、仕方がないなぁと苦笑する。
「本当におまえは薄情者だよ。俺を置いて自分独りだけ同盟軍に来た方が良かったなんて言うんじゃないだろうな?」
「そんな事は言わん! その……カミューが居てくれて、嬉しい」
「そ、良かった」
「…だが、カミューはマチルダを捨てて、本当に良かったのか。こうなったからには、もうなかなか帰れないと思うぞ……グラスランドには」
情報では、都市同盟領からグラスランドへと至る道には、ハイランドに与するグラスランドの部族が関所を作っていると言う。完全にハイランドと敵対している同盟軍に居ては、もう完全にグラスランドには渡れないだろう。
だが、そんなものとカミューはかぶりを振る。
「俺にとっての故郷は、ここにあるから」
とんと胸にこぶしを当てて、カミューは笑った。
マイクロトフは知らない。カミューにとってグラスランドがどんな意味を持つ故郷であるのか。今更郷愁を誘うようなものはなく、どちらかといえばカミューにとっての帰る場所とは、ただ一人の男が居る場所なのだ。
それほどの執着をまだ分かっていないらしい男に、カミューはにやりと笑ってみせる。
「愛してやまないマイクロトフさえいれば、俺には何処だって故郷さ」
「カミュー!」
ふざけているんじゃないんだぞ! とマイクロトフが怒鳴る。その口を慌てて塞ぎながらカミューは笑った。
「莫迦、もう遅いんだぞ。騒いで誰かが覗きにきたらどうするんだ」
「む」
むっつりとして黙り込むマイクロトフに、カミューは困ったなとこめかみを掻く。どうやって納得させれば良いのだろう。
「そうだなぁ。それじゃあひとつ、懐かしい思い出話をしてやろう」
「カミューの?」
「そう、俺の。あれは、カマロの自由騎士団で過ごすようになって直ぐの頃かな」
「自由騎士団?」
そうだった。マイクロトフは知らないのだった。
「ああ……グラスランドでは大きな騎士団でね。父がそこの騎士だったから、その関係で。そこで俺は大抵の事を身に着けたんだ。馬術だとか剣術だとか。それから、マチルダに来たんだよ」
そうやってカミューが語り始めると、マイクロトフはぴったりと口を閉じて真っ直ぐな目で聞き入り始めた。その視線を心地良く感じながら、遠い過去の記憶を呼び出した。
事情があって、カミューは幼い頃からカマロの自由騎士団で兄と二人で従騎士のようなことをしていたのだ。マイクロトフに話すのは、その時に、騎士たちの遠出について出た先で、カミューが一人はぐれて草原で置いてきぼりにされたことだった。
「俺はまだほんの子供で、馬も乗りこなせなくて、騎士の背中に引っ付いてその場所まで来ていたんだ。ところが、不意に土砂降りが降り出して、皆てんでばらばらに雨宿りを始めた。俺も、急いで大きな岩の張り出した下に潜り込んだんだ」
その場所は狭くて、子供のカミューが一人すっぽりと入り込めば隙間も無かった。だが近くに他の騎士たちの気配も話し声もしたし、安心して雨が小降りになるのを待っていたのだ。
だが。
「いつの間にか寝ちゃってたんだよ」
雨はずっと降り続いていた。
岩肌を滑り落ちる雨雫の音が、眠気を誘ったのだろう。目が覚めた時には周囲に人の気配は無かった。
「たぶん、岩の陰に隠れて見落とされたんだと思うよ」
はっと目が覚めて、岩陰から飛び出したカミューが見たのは、自分以外誰の気配も無い、雨の降り頻る広大な草原だった。
大声を出しても、声は飛沫に吸い込まれるばかり。土砂降りの雨に遮られて方角さえも定かにならない。無闇に駆け出しても、やっぱり人影どころ他の獣の気配すらなかった。
「信じられないくらい、頭が真っ白になったよ。どっちに向いて叫んで良いかも分からなかったし、馬で駆けてきていたから、そこから騎士団の城砦まで歩いて直ぐに辿り着けるような距離じゃないことくらいは分かっていたし」
少年だった自分にとって、その草原はまるで自分の常識の通じない異世界にでも放り出されてしまったような恐怖を与えた。
「そのうちに雨に打たれっ放しじゃ寒いと気付いて、元の岩陰に潜り込んだんだよ。けれど、今度は少しも眠れなかった」
雨の音だけがして、耳を塞いでも雨の気配は全身を包み込んでくる。
怖くて怖くて、叫んでもやっぱり何の応えも無い。
「結局、騎士たちは直ぐに俺がいないのに気付いて、土砂降りの中だったのに探しに戻ってきてくれたんだ。でも、馬の蹄の音を聞くまでの間、俺には果てしなく長い時間を過ごしたように感じていたし、最初は馬の音も幻聴かと思っていたんだ」
探しに来た騎士たちが、雨の音に掻き消されまいと大声でカミューを呼んでいたが、ずっとガタガタと寒さに震えながら岩肌から落ちる雨垂れを凝視していたのだ。
「騎士のほうが俺を見つけて、岩陰から引っ張り出してくれた時も、俺は震えっぱなしでまともな受け答えなんか出来なかった」
歯の根も噛み合わなくなって、ただただ自分で自分の肩を抱いていた事だけは良く覚えている。それから正気に戻ったのは、自分の寝台の上で兄が心配そうに自分の額に手のひらを当てていた時だった。
「いったい何がそんなに怖かったのか。ただ雨の中に置いてきぼりにされただけなんだけど、それだけの事があの時の俺には絶望的な孤独を感じさせたんだよ」
「カミュー」
口を閉ざすと、マイクロトフが泣きそうな顔をしていた。
「笑わないのかい?」
「……笑う?」
「そんなことで怖がって、いまだに雨がちょっと苦手な俺を」
「馬鹿を言うな。無力な子供が、保護者に置いて行かれれば怖くなって当然だ。俺とて幼い頃に街中で迷子になって、心細くて堪らなくなった事がある」
きっぱりとそう言い切ったマイクロトフに、カミューは「へぇ」と目を見開いた。初耳だった。
聞かせてほしい、と目で語るとマイクロトフはごくりと唾を飲み込んだ。
「本当に小さい頃だ。珍しく父上と二人で、父上の知人の家を訪ねた時だった。今にして思えば、その知人は騎士だったと思う。俺がずっと騎士になりたいと言っていたから、会わせてくれようとしたんだろう」
「うん」
優しい父上だな、とカミューは相槌を打つ。それにこくりと頷いてマイクロトフは続けた。
「ロックアックスの街は広いだろう。小さい俺の行動範囲など狭いもので、その日は父に連れられて初めての道を歩いて、どきどきしたのを覚えている。だが、その帰り道に俺は父とはぐれてしまったんだ」
「それで、どうしたの」
「知らない道で、知らない人ばかりが通り過ぎて、俺は心細くて泣きたくなった」
「泣いたのかい」
「いや、帰りがけに父の知人の騎士が、強い男になれと言って俺の頭を撫でてくれて。だから意地でも泣かなかった」
「それはおまえらしいな」
笑うと、マイクロトフは少し顔を赤らめて呟いた。
「からかうな」
「からかってないよ。それで? 父上とは直ぐに会えたのかい」
「いや。だが俺が迷子だったのは傍目に丸分かりだったらしくてな、知らない女性が声をかけてくれて、そこへ巡回中の騎士がやってきて、それで急遽騎士たちが父を呼び回ってくれて」
「なるほど」
「俺は嬉しいやら恥ずかしいやら泣きたいやら、わけが分からなくなったぞ」
確かに、憧れの騎士にあれこれ親切にされるのは嬉しいだろう。しかし自分のためにその騎士たちの手を煩わせるのは苦痛だろう。幼いマイクロトフの気持ちが手に取るように分かるカミューだ。
「あの時も、ほんの一瞬だったが、俺は孤独を感じた。周囲に行き交う人が大勢いたのに、孤独だったんだ」
「うん」
「だから、俺がカミューを笑うなど有り得ん」
言ったマイクロトフを、カミューの方が泣きたい気分で見つめ返した。
「敵わないなマイクロトフにはさ。仕方ない、白状するよ」
「何を」
「俺の雨嫌いがましになった理由。おまえは覚えていないんだろうけど―――」
「俺が?」
首を傾げたマイクロトフの表情が、昔のそれと重なるのをカミューは懐かしい気分で思い出す。
「そう、マイクロトフが。実は、俺はマチルダに来て初めて天気雨っていうのを知ったんだ。向こうじゃ降るときは降る。晴れるときは晴れるから」
天気雨というのは、日差しがあるのに雨が降ることだ。暖かな日向でぱらぱらと冷たい水が降ってくるのを、カミューは呆然と見上げていたのだ。その時。
「吃驚している俺の前で、おまえが言ったんだ。花が降ってるみたいだって」
「そんな事を言った覚えは無いが……」
「ああ、やっぱり覚えていないんだな。でも些細な事だもんね」
「カミュー」
「責めているんじゃないよ。ただ、俺にとっては印象的過ぎてね。雨を花に例えるなんてさ、あんまりにも意外じゃないか」
言われても、マイクロトフには皆目思い出せるよすががなく、戸惑ったように俯いている。そっと手を伸ばしてカミューはその黒い髪をぽんぽんと撫でた。
「教えてあげるよ。ちゃんと雨を花だと言った理由があるんだ。あの時、慌てておまえが言ったんだ」
思い出す。意外に感じてカミューがじっとマイクロトフを見たものだから、彼は真っ赤な顔をして自分の発言の理由を告げた。
「数日前に、教会での結婚式をたまたま目撃したんだよ」
え、とマイクロトフが顔を上げる。
「教会から出てくる新郎新婦に、階段の両側に並んだ参列者が小さな花を雨のように降らせていたとか。それを思い出して、おまえは天気雨を花のようだと言ったんだ」
「俺が―――」
少しは思い出したのか、ぼうっとしてマイクロトフが言葉を途切れさせる。カミューはその顔に微笑みかけて、当時を思い出した。
雨が花だと言われて、途端にそれまで胸を覆っていた気鬱が、するすると消えてなくなった。まるで魔法のように、暗い気分が晴れ晴れとしたそれになった時、世界が少しだけ違って見えた。
あれから、前ほど雨は嫌いではなくなった。
置いていかれるのは、まだ苦手だけれど。
「だからおかげで今の俺は、雨だろうがなんだろうが、何処へだっておまえを探しに出て行けるんだよ。おまえは俺をどれだけ導いてくれたか知れない。だから安心して何処へでも飛び出して構わないんだ、マイクロトフ。俺はそんなおまえについて行く」
つまりは、それが言いたかったのだ。
マイクロトフだけがカミューを導くことが出来る。
その、マイクロトフの立つ場所が、カミューの立つべき場所になる。
そして黙り込んだマイクロトフの肩を、カミューは優しく叩いて促した。
「もう、眠ろうか」
「……カミュー」
「うん?」
「俺は、カミューに甘えている」
「なんだって?」
思わず目を瞠って顎を引く。
「何を言ってるんだマイクロトフ。甘えているというんなら、それは俺の方で」
「違う。俺は、無自覚にカミューに甘えている。いつもいつも無鉄砲な真似をして、そのつけを全部カミューに押し付けている。それで、いつも後から気付いて俺は―――」
強く言葉を遮って、マイクロトフは沈痛な表情で言葉を詰まらせた。
「マイクロトフ…」
「そうやって、昔の嫌な話をしてまでも俺を安心させようと心を尽くしてくれる。俺は、そんなおまえに何を返せる」
「マイクロトフ、俺はそんな」
「感謝する。どんな言葉に代えても、足りないかもしれん。俺はカミュー……おまえが居てくれて、本当に幸せだと思うんだ」
そしてマイクロトフの手が、すうっとカミューの首にかかったかと思うと、間近に迫った彼の唇が震えながら「好きだ」と囁いた。
「………っ」
キスが。
ほっとしたような暖かな吐息が、カミューの唇に触れて、柔らかな感触が覆った。
そこでカミューは唐突に気付いた。
置いていかれた事が苦しくて、自分のことばかりだったカミューだった。だが、ミューズへ出向き、そしてゴルドーに背いてここに来るまで、マイクロトフもまた苦しみ続けてきたのだと。
置いていかれる者だけではない。
置き去りにしなければならない側もまた、痛みを抱えるのだ。
だがその苦しみも、たった今の口付けで、解けたのかもしれない。マイクロトフの身体がそうっとカミューに触れて、その強張りの無い体温が泣きそうなほどぴたりと合った。
「マイクロトフ、愛してるよ」
抱き締めて目を閉じれば、あの晴天の雨が目蓋に浮かぶ。
太陽の日差しを受けて、雨粒がきらきらと虹色に光っていた。
そして、桃色や紫や青や黄色や、色とりどりの小さな花が、ふわふわと降り注ぐ情景が、見たことも無いのに見えた気がした。
end
4 ← 5 → next 1
2004/11/05