flower rainy day


 晴れた空から降る雨は、光を弾いて夢のような光景を作り出す。
 俗に天気雨と呼ばれるそれを、彼は花が降っているようだと言い表した。






 午前中は雨が降っていたのに、昼を過ぎてやにわに雷鳴が轟き始め、空は瞬く間に曇天へと変わっていった。
 降るな、とカミューが呟いた途端、雨粒が窓硝子を打ったのには副官だけでなく本人も驚いてしまった。
 雨はあっという間に本降りとなり、洪水のようにざあざあと地上を濡らし尽くした。だが屋内に―――特に堅牢な石造りの城内にあっては、少しばかり空気がひんやりとするな、程度のものしか感じない。
「もうすぐ会議だったかな」
「はい、書類の準備は整っております」
 常と変わらぬ会話を副官と交わし、カミューは立ち上がった。

 ところが、白赤青の長が揃うべきその会議に、青騎士団の面々が遅れてやってきたことにカミューは驚いた。
 時間に厳しい男の事。さては何かあったかと皆が思案するように首を傾げ、周囲を見回し、説明をしてくれる者を探した。そこへ駆け込んできたのは青騎士団長付きの副官だった。
「申し訳ございません。急の雨に降られてしまいまして」
 なるほど。どうやら屋外に居たらしい。
 程なくして現れたマイクロトフは、慌てて着替えたらしい騎士服と、まだ濡れて黒味を増した髪がそのままで、全身ずぶぬれになったらしいことを皆に思わせた。
 その様子に一時、一同の顔に穏やかな笑みが広がるが、当の本人が真面目な顔を崩さずに席に着くものだから、進行役の白騎士の副団長は会議の開始を宣言せざるをえなかった。
 三つの団の団長が集う会議は月に一度は必ず行われる定例のものだ。だが、今回のこれは緊急に開かれたものである。
 ミューズのアナベル市長から、盟約に従ってジョウストンの丘に来られたしと、呼び出しがあったからである。その理由は既に明白。ミューズの東にハイランドの軍勢が侵攻したというのである。
 ミューズ市は、これは休戦協定が破られたのだと訴えてきたのだが、ゴルドーはそれはハイランド軍ではなく国境付近の山にいる山賊の仕業に違いなかろうと言い捨てた。
 だが密偵を放っているカミューにしてみれば、それは紛れも無くハイランドの狂皇子、ルカ・ブライトが仕組んだ罠だと分かっている事なのだ。
 先だって、ハイランドから内密に届いた知らせによれば、あちらでは、国境付近に駐屯していた少年兵たちが、都市同盟の兵士たちに奇襲に遭い全滅したのだという悲惨な話題で持ちきりなのだという。
 年端も行かない少年達を夜陰に乗じて殺戮せしめた都市同盟の卑劣さにハイランドの民衆たちは怒り心頭に達し、報復に兵を立ち上げた皇子ルカ・ブライトを大きく支持しているらしい。
 おそらくは少年兵たちの全滅は、ハイランドの自作自演だろう。事実、その少年兵たちは実際に殺されてしまっているらしいのだが、あのルカ・ブライトならばそのくらいのことはしそうだった。だが大義名分は既に立ってしまっているのだ。
 ミューズのアナベル市長は昔から才媛として有名であったが、流石に動きが早い。この段階で各都市の代表をジョウストンの丘に召集した対応の早さは称えるべきだが、おそらくどの代表もゴルドーほど酷くは無いにしろ、似たり寄ったりの反応しか見せないに違いない。
 ハイランドの脅威に対して、今こそ各都市の軍事力を集結して来るべき戦いに備えたいところなのだろうが、それは無理な話だろう。何しろ都市同盟の軍事の要、マチルダ騎士団がこの調子なのだから。
 近くミューズ市はハイランド軍に占拠されるだろう―――。マチルダだけのためを思うのなら、今は求めに応じてジョウストンの丘に赴いている暇は無い。だがしかし、対面というものはどうあっても捨て切れない。
 ゴルドーもだからこそ、最初から協力する気など無いのに、一応の召集に応えるつもりで、この会議を開いているのだろう。
 会議はそして、白騎士団の副長が無感動に進行させるままに、終結した。
 騎士団は騎士団領を守るためにのみ存在する。
 もはやジョウストンの条約は、過去のものであり、五都市一騎士団とひと括りにするには、各都市は大きく独立しすぎてしまっているのだと。
 会議を終えて、カミューは思わずマイクロトフの方を見ていた。
 まだしっとりと湿り気を含んだままの髪が、深く項垂れているのが見えた。その傍らでは彼の副官が書類を纏めて何事か声を掛けている。
 一度二度、マイクロトフが頷いたのが見えた。それを見て副官は立ち上がり出て行ってしまう。カミューもまた自分の副官に一言断りを入れると、そんなマイクロトフの元へと歩み寄った。
「風邪を引くよ」
 声を掛けつつ、黒々とした髪の先を摘み上げると、指先でざりざりとした感触がした。乾燥すればこれも少しはさらさらとするのだろうが、濡れたままでは硬い質感を伝えるばかりだ。
 そしてカミューが僅かに濡れた指先を擦り合わせていると、マイクロトフが漸く顔を上げる。
 黒瞳が真っ直ぐに見つめてくるのに顎を引き、カミューは柔らかく微笑む。
「暖かいお茶でもどうだい、マイクロトフ」
 言いたいことがあるのなら、そこで聞いてやろうと。暗に含めた言葉に気付いたのか、マイクロトフはふっと目を伏せると静かに椅子を引いて立ち上がった。





 雨はまだ降り止まない。
 カミューは紅茶を注いだカップを盆に載せ、雨に滲む硝子窓を見た。
 雨が降り出すと、憂鬱になる。
 だが今はそんなカミューよりもマイクロトフのほうが余程、憂鬱な顔をしていた。
「さぁ、髪は随分乾いたか?」
 部屋に招き入れるなりタオルを放って、濡れたままだった髪を拭えと命じたカミューである。だがマイクロトフはそれを頭に被せたまま、先ほどから微動だにしていない。
 鬱陶しいまでの滅入りようである。
「マイクロトフ、風邪を引きたくないのな―――」
「ミューズはもう救えんのか」
 漸く発せられた低い声に、カミューは浮かべていた微かな笑みをふっと閉ざした。
「―――アナベル市長が何処までやれるか、それ次第だね」
 油断しなければ、民の命くらいは守れるだろう。
 だがリューベの村の惨劇を思うと、それも難しいかもしれないとカミューは思った。ルカ・ブライトの真意が分からない。単なる領土拡大のための侵攻なら、降伏すれば済む話だが、リューベの全滅は今回の出来事がそんな次元の問題ではないのだと教えるようだった。
「ミューズが陥ちれば、マチルダにも脅威が迫る。なんとか持ち堪えて欲しいものだけれどね」
「違う。ミューズを今マチルダの軍力で救えば、脅威は去る」
「……それは無理だろう」
「何故」
「ゴルドー様がそれを望んでおられない」
 そこで空気が重くなった気がした。
 まるで今にも何かがゴトリと硬質な音を立てて落ちそうな、そんな空気の中でカミューは忘れかけていたティーカップに目を落とした。
 溜息をひとつ零して、盆を卓上に置くとカミューは手を伸ばしてマイクロトフが頭に被ったままだったタオルを取り上げた。
「髪は俺が拭いてやろう。おまえは熱いお茶でも飲んで身体を温めるんだね」
「カミュー」
「うん?」
「俺は、何を守れば良いのだろうな」
 その問い掛けに、カミューは不覚にも一瞬の間を置いてしまった。
「―――騎士の誓いを」
 そして答えた言葉にマイクロトフは微かに頷いた。
「そうか。俺は騎士だったな」
 低い声はまるで絞り出すように掠れていた。
「……ああ」
 ひっそりと応えてカミューはタオルをマイクロトフの黒髪に指先で絡めた。
 大人しく髪を拭かれながら、マイクロトフはやはり微動だにしない。結局その時は、茶も飲まずにそれきり一言も発さず、自分の執務に戻っていってしまったのだった。



 その、翌日のことである。
 結局ゴルドーとカミューとマイクロトフの三名が揃ってジョウストンの丘まで出向くことになり、そのための準備に急遽奔走しなければならなくなり、騎士団の上層部はやにわに騒がしくなった。
 三人の団長が席を空ける間のマチルダを留守居の騎士たちにどう任せるか。或いは連れて行く騎士たちをどう選出するか。何しろゴルドーは権威欲の塊のような男なので、供として連れて行く白騎士の数が半端ではない。当然それに伴う赤騎士団も青騎士団もそれに何とか釣り合う数を用意しなければならない。
 その折衝を何度も白騎士団の副長とやりあう羽目になったカミューである。
 だがそんな中、青騎士団はどうにも物々しい動きを見せていた。

「この面子を連れて行くのか?」
 提出された青騎士団の面々にカミューは思わずそんな声を上げていた。
 無理もない。ずらりと並ぶ名前は他団にも名が知れているような者ばかりだった。
「精鋭と言うにはこれは些か過ぎるぞマイクロトフ―――」
 青騎士団でも屈指の戦士ばかりである。これだけで一戦交えるに不足のない連中ばかりなのである。そのあからさまな人選にカミューが眉を潜めるのも当然だった。
「我らは戦をしに行くのではないぞ」
「分かっている」
 マイクロトフはこくりと頷き、それからカミューの手から書類を取り上げた。その目は真っ直ぐに反らされることなく正面を見据えている。その視線の先にはカミューの執務机の背後の壁にかけられている、騎士団のエンブレムが織り込まれたタペストリーがあった。
「だが青騎士団は勇猛で名を馳せている。ゴルドー様も文句は言うまい」
「……なるほど、確信犯のつもりでいるのだなおまえは」
「流石に見え見えなのは自分でも分かっている。だが、万が一ミューズにハイランドの軍勢が攻めて来たとして、俺は手勢が少ないからと逃げ帰る真似だけはしたくない」
「それで準備万端で臨もうと? それこそ分かっていないなマイクロトフ。たとえ戦の準備があろうとも、ゴルドー様がそれを許すわけがない」
 速やかにマチルダの関所まで走れと命じられるだけだ。それがマイクロトフに分かっていないわけがない筈なのに。
 カミューは小さく溜息を落として机の上を見下ろした。
「ミューズにも市軍はいるし、あの傭兵隊もいるだろう。ミューズはミューズの者が守る……我々はマチルダこそを守れば良い」
「―――傭兵隊か。砦が落ちたらしいと一番に俺に教えたのはカミュー、おまえだろう。既に彼らは窮地に追い込まれていると、俺は見たが」
「だからと言っておまえ一人が戦う気になったところでどうにもならない。我らマチルダ騎士団は、白赤青がひとつとなってこその強さがある。馬鹿な真似は捨てておけマイクロトフ」
 だがそこで、何故かマイクロトフは微かに笑みを浮かべてカミューを見た。
「………捨てられるものなら、とうに捨てている」
「なに?」
「―――ともかく、この人選を変えるつもりはない。カミューもそのつもりでいてくれ」
「おい、マイクロトフ」
 さっさと背を向けてしまったマイクロトフに、取り残された形でカミューは声を上げる。しかし目の前であっさりと閉じられた扉にそれ以上追う気が失せた。
「……まったく」
 気が気ではない。
 いくら諌めたところで聞かない男を、いい加減に諌め疲れてきたカミューである。
 そしてその背後の窓越しで、またも雨雲が広がる気配にカミューは知らずため息を零していた。


* * * * *


 マチルダ領内を出たのは久しぶりだった、とカミューは晴れ渡った空を見上げた。

 腹の立つほどに晴天続きで、さぞかしハイランドの軍勢も野営が楽だっただろう。
 そんな事を思って眉をひそめたカミューは、馬上でやれやれと吐息を零した。そして、つい数刻前の出来事を思い出す。

 ―――主君の命にしたがうのもまた、騎士の務めだ。誓いを忘れたか?

 敵を前にして騎士団が背を向けるのかと憤った男に、カミューは努めて冷静な声で諭すように言ったのだ。
 ジョウストンの丘上会議中にもたらされたハイランド軍の進軍の報に、独り先走って青騎士団を前線に出した男に対して、撤退するように伝令せよとの命令をカミューら赤騎士団はゴルドーより承った。
 森の中を突き進み、風よりも早く青騎士団たちの背後に回ったカミューは、そこで更に一騎だけ突出して青騎士たちの陣形を裂くように馬を進めると、マイクロトフの隣へと並んだ。
 青い騎士装束の中で、独り赤い存在は敵の目にもさぞかし目立って映っただろう。
 そんな状況で、カミューはただ黙ってマイクロトフの答えを待った。そして漸く男の口から低く「撤退だ」と短く発せられたのを聞いて、肩の力を抜いたのだ。
 それから、マイクロトフは不穏な気配を漂わせたまま一言も発しはしなかった。それはミューズとの関所を過ぎても変わらず、カミューは再び吐息をつくと、ちらりとそんな男の様子を見遣った。
 気の毒に、周囲の青騎士たちはそんな団長の様子に気を揉んでいる。何しろ今にもくるりと方向転換してミューズまで単騎でも駆けていってしまいそうなのだから。
 もしそんな事になれば全力で阻止するだろうが、そんな心配をするよりもマイクロトフの理性を信じたいと思う。
 ―――置いていってくれるなよ。
 もしもどうしても行くというのなら、自分も共に。
 尤も、そんな事が許される立場にないのが分かっているからこそ、マイクロトフがそんな軽はずみな真似をしてくれないように、願うのだ。



 だがそんなマイクロトフも、流石にロックアックスの街を取り囲む城壁が見えてきた頃には、落ち着いてきたようだった。
 相変わらず黙り込んではいるものの、確りと手綱を握り馬を進める姿勢は揺らぎない。その眉根は険しく皺を寄せてはいたが、怒鳴り散らしそうな気配はもうなかった。

「マイクロトフ、少しは落ち着いたか」
 揶揄するように語り掛けたのは、装備を外し終えて身を軽くしてからだった。今頃ミューズ市は大騒ぎだろうが、厳重な守りに固められているこのマチルダには、ハイランドが早々攻め込んでこないだろう確信があるだけに、まるで別世界のように安穏とした空気が流れている。
 気楽な、いつもどおりの格好に戻ったカミューは、そこに同じく常の姿に戻ったマイクロトフを見つけて、歩み寄ったのだ。
 しかし彼は、カミューの声に振り向きもせず、険しい顔のまま足元を見下ろしていた。
「マイクロトフ……」
 その苦悩が分からないでもない。しかし。
「こら、人を放り出すな」
 無遠慮に両手を突き出し、マイクロトフのこめかみを挟み込むと無理やりに仰向けさせた。
「呼ばれたら振り向け。返事くらいしろ」
 自分でもらしくないと思う強引なカミューの方法に、どうやら思案に暮れていたマイクロトフは、現実世界に戻されて吃驚していた。
「―――すまん」
 思わず、といった調子で謝るマイクロトフに、カミューは漸く笑みを浮かべた。
「分かれば良いんだ」
 ひょいと両手を離して、首を傾げる。
「随分と、参っている様子だな?」
「ああ……」
 マイクロトフはてのひらで片目を覆うと、ゆっくりと吐息を落とした。その反動で、肩が不意に小さく見えて、カミューはその錯覚に思わず瞬く。
「マイクロトフ。おまえは、そんなにも戦いたかったのか……」
 敵に向かっていきたかったのか。
 味方に背を向けて。
 たった独り、まるで立ちはだかる様に。

 何故だか、ぞくりと背筋が震えた。

「いや、カミュー。そうではない」
 静かな声でマイクロトフが否定した。その声に無意識に握り締めていた自分の拳が解けたことにカミューは気付く。
「…だったら」
 どうして、と握っていた汗を誤魔化すようにして、カミューは眉を寄せた。するとマイクロトフは何処か弱ったような表情でカミューを見た。
「俺は騎士だ」
「……うん」
「だが、騎士とは何だ」
 問われて、カミューは答えられなかった。そうして空いてしまった間の意味を、マイクロトフも分かっていたのだろう。小さく苦笑を浮かべて目を逸らした。
「騎士とは誓いを尊守するものだろう、カミュー」
「ああ……」
 辛うじて頷く。
「そして、己の信じるものの為に誓いを捧げるのが騎士だ。騎士団長のくせに即答できんでは様にならんぞカミュー」
「そう、だな……」
 カミューもまた苦笑いを浮かべて、奥歯を擦り合わせた。その目の前でマイクロトフは深く項垂れる。その露わになったうなじが酷く無防備に見えた。
 だがその首筋に思わず指を伸ばそうとした時。マイクロトフが小さく呟いた。

「…俺は騎士だ……」

 先ほども言った、全く同じ言葉を繰り返したマイクロトフは、先ほどよりも何処か遠くに居るように感じた。
「マイクロトフ―――」
 伸ばしかけた指先を握り込み、カミューも小さく呟いた。
 ―――俺を、置いていくなよ。
 その声なきカミューの声に、マイクロトフが振り向く事はなかった。





 そして。
 それから数週間後、一人の少年がマチルダに訪れ、停滞していたかに見えた運命の流れが、唐突に激流へと転じた。
 マイクロトフは、まるであの時の借りを今返そうとでも言うように単身でロックアックスを飛び出し、ミューズへと向かった。
 騎士団長としてあるまじき行動であったが、その複雑な光を宿すマイクロトフの瞳に、もはやカミューが止められる術など見出せなかったのだ。
 更には、ミューズから戻ってきたマイクロトフは、まるで我を失っているかのような顔をして、ゴルドーに真正面からぶつかっていった。
 そんな彼を、ただ見るしか出来ない自分が、まるで四肢を蜘蛛の糸に絡み取られて身動きできない羽虫のようだと感じていたカミューは、やはり目前でマイクロトフがエンブレムを投げ捨てるのを止める事が出来なかった。
 それは身体と意識がゆっくりと剥離していくような感覚だった。

 ―――マイクロトフが。

 遠くに据え置かれた意識が、茫洋と呟きを零している。

 ―――マイクロトフが、俺を、置いていこうとしている。

 嘆いているのでも、憤っているのでもない。ただ淡々とその現実を確認している自分の意識の言葉を、カミューは肉体に取り残された理性で聞いていた。
 謁見室の大きな扉の前で棒立ちになっていた自分は、マイクロトフの悲鳴のような叫びを、上滑りに聞いていた。

「俺は、騎士である前に人間だ!! 騎士の名など、いらない!!」

 馬鹿な。
 誰よりも騎士であった男が、それを言うのか。

 いつの間にかカミューは一歩踏み出していた。
 心に打ち込まれた衝撃は計り知れず、今にも恐慌に陥って叫び出してもおかしくないはずなのに、カミューの足はゆったりとした動きで、謁見室の中央へと歩み寄ろうとしている。

「マイクロトフ、しょうのない奴だな。ちょっとは頭をひやせ」

 理性だけが勝手にそう口走らせる。
 カミューの意識は未だ衝撃から立ち直れていないというのに、冷静な思考回路だけがあらゆる事象を予測して「これから」を考えようとしている。
 そして、そんな理性はカミューに自身のエンブレムをも捨てさせる事を命じた。

「マイクロトフをとらえる? それはできませんね」

 その時自分は微笑んでいたのだろうか。この時になって漸く振り返り、カミューの顔を見たマイクロトフの、複雑な表情を見つめ返しながら、エンブレムの硬質さを一番顕著に感じていた。
 自分が今から何をしようとしているのか。どうしようとしているのかすらおぼろげであるのに、その硬い感触だけがやけに指先に生々しく感じていたのだ。
 そしてそれを投げ捨てた時、マイクロトフが一瞬だけ傷ついたような顔をした。

 ―――どうして今になってそんな顔をするんだ……。

 ますます意識が理性から遠ざかっていく。そして手放したエンブレムが金属的な音を立てて床を跳ねた時、同時に頭の奥で何かがぷつりと切れた感覚がした。

「これで、わたしも反逆騎士です。あなたの命にしたがう理由はありません」
「カミュー……」

 どうしてだか震えた声を出して自分を呼んだマイクロトフに、カミューは笑ってみせた。
 どうしてその時自分が笑ったのか、分からない。
 ただ必死だった。
 必死で衝撃から立ち直ろうとしていた。

 何故自分が衝撃を受けているのか、その理由すら分かっていないというのに。


* * * * *


 心なしか青褪めたまま、カミューはマイクロトフへ先に関所へ向かうように勧めた。
 今は一度離れて頭を冷やした方が良いと考えたからだ。冷静を促す理性が、うろたえようとする心を無視して、この後の自分のなすべきことを考えてしまう。
 今、マイクロトフと二人で騎士団を飛び出すのは容易い。だがそれでは何も変わらないのだ。今、紛れもなく運命が自分たちに変化を求めていると全身で感じていたカミューは、このマチルダ騎士団そのものをも、自分達を巻き込もうとする運命の流れに共に引き込むつもりになっていた。
 赤騎士団にはカミューに、青騎士団にはマイクロトフについてくるだろう者たちが多数いるに違いなかった。誇りに殉じてマチルダを出ても構わないという、そうした連中と共に離反するために、去っていくマイクロトフに背を向け、カミューは城の中へと引き返した。



「カミュー様」
 既に騒ぎを耳にしたのだろう。赤の副長が常は穏やかな表情を強張らせて、カミューの元に駆け寄ってきた。そして、その胸元にエンブレムが無いのを見て、顔を歪めた。
 カミューは一瞬顔を伏せかけたが、微かに顎を引くにとどめた。
「すまない―――」
「いえ」
 短い遣り取りの後、副長は穏やかな笑みを浮かべた。
「いつかは、こうなっていた筈です」
「そうだね、だが少し予想より早すぎた。あの猪め、やっとミューズから戻ってきたかと思えば、またここを飛び出そうとするんだからな」
「今度は、共に行かれるのでしょう?」
「……ああ、勿論だ」
 白手袋に覆われた掌で己の頬を撫で、カミューはふっと口元を笑みに歪めた。
「出来るだけの数を説得して連れて行きたい。まずは赤と青の騎士隊長達を集めて、他の騎士たちには離反の意志を伝えて駆け回ってくれるか」
 白騎士の説得は難しいだろうから、今は良い、と。副長はそれだけの言葉で全てを汲むと踵を揃えて頷いた。
「御意」
「頼むよ。さて、隊長連中はどの程度ついてきてくれるかな」
「カミュー様とマイクロトフ様がお望みならば、半数以上は固いでしょうな」
「そうかい?」
「ええ」
「だとすれば、今日のこれは、なるべくしてなったという所かな」
 そうなのだとすれば、少しは気が楽だ、とカミューは小さく呟いた。

 それからカミューは集めた騎士隊長達を前に、一連の出来事を語った。時間が無いので事実だけを告げて、二者択一を迫った。かなり乱暴な手だと思いながら、十人十色の顔色を見せる隊長達をじろりと一瞥する。
「どちらを選ぶも自由だ」
 カミューの言葉に、ひたすら驚愕する者、黙り込んで思案する者、厳しい表情で首を振る者。
 各騎士隊長たちの半数以上は、このロックアックスに家庭のある者だ。長年にわたって代々騎士を輩出する名門の者すらいる。全員がついてきてくれるわけも無いのは当然だった。
 中には、既に離反を決めてしまったマイクロトフとカミューを真っ向から責める者もいた。
 騎士の忠誠とはなんなのだ、と。主君を裏切って、マチルダの民すら捨てて行くのかと。それに対してカミューは静かな表情でゆっくりと首を振るしかなかった。
 今は、そうした感情論を交わしている暇など無かった。
「ついて来るか来ないか、どちらかにひとつだ」
「カミュー様……」
「マイクロトフは、新都市同盟軍の軍主殿らと共に、既に関所へと向かっている。私は出来るだけ同じ志の騎士を集めてあいつの後を追う。出来るならば貴殿らにもついてきて欲しい」
 長い沈黙が降りた。だが、ややもしてそれを破ったのは一人の赤騎士だった。彼は一歩進み出ると、己の胸元に掌をあてて静かな眼差しでカミューを見つめると、ゆっくり項垂れた。
「私は、行けませんカミュー様。残念です」
「……構わない。君にはこのマチルダに守るべきものが多すぎる」
 その赤騎士隊長には、年老いた父母と婚姻を控えた娘や、縁戚が多くロックアックスにいる。彼がもしもカミューたちについてきたなら、残された家族たちは反逆騎士の身内として扱われてしまうだろう。
 良く見ると赤騎士の目は赤く充血していて、心底の悔しさを感じているのだろうとカミューに伝えた。
「本当に、残念ですカミュー様」
「ああ……。だが残るのならば、このマチルダを頼む」
「は、お任せ下さい」
 深々と頭を下げた赤騎士に笑みを向けて、カミューは他の者に視線を向ける。
「それで、貴殿らはどうする? 時間は無い。即決してくれ」
「聞かれるまでもありませんな。私は早速部下たちの説得にあたらせて頂きますよ」
 応えたのは青騎士の第一隊長だった。まだ若いが有能な男だ。カミューは思わず笑って頷いた。
「宜しく頼む。離反に応じた者は通常の出撃準備をしてロックアックスの城壁外に行くように伝えてくれ―――」
「了解いたしました」
 では、と青騎士は出て行く。すると、それについて数人の騎士が何処か吹っ切れたような面差しで頷き、部屋を出て行った。
「我らも部下の説得にあたります」
「すまない」
「いえ」
 そして残った隊長たちを振り返り、カミューは再度問うた。
「私ももう行かねばならない。来るか残るか、選ぶ自由はある」
 そしてカミューは扉に手をかけ、もう二度と振り返ることなく部屋を出た。



 廊下を足早に進みながら、カミューは白手袋で口元を覆い、思案顔を曇らせる。
 見立てではおよそ半数の青騎士と赤騎士が離反に同調してくれるだろう。彼らに故郷を捨てさせるのは忍びないが、やはり同調者は多いほど心強い。何しろ、カミューたちが今から向かおうとしているのは、大した戦力もないのにルカ率いるハイランドの軍勢に立ち向かおうとしている同盟軍だ。
 ミューズの残党とトゥーリバーの市軍とコボルト軍を引き入れているとはいえ、良くぞ今まで分散せずに済んだものだと感心する。それはやはり、あの真の紋章を抱くと言う少年の力故なのだろうか。
 ともあれ、今はするべき事が沢山ありすぎる。
 己の今日限りの私室―――赤騎士団長の居室へと向かう足は、いつの間にか小走りの速度に変わっていた。
 ところがその赤騎士団長私室へ通じる大扉の手前で、待ち構えるようにして立っていた一人の赤騎士に、その足は止まらざるを得なかった。

「カミュー様、お待ちしていました」
 ここで待っていればおいでになるだろうと思って、とまだ若い赤騎士は居住まいを正した。
「……何の用だ?」
 その名前すら記憶にない、一介の騎士だ。カミューは僅かに目を細めると、気付かれぬように緊張を帯びた指先をユーライアの柄に滑らせた。
 早くも捕縛命令が出ていると言うのか。ならば、迎え撃つまでだ。既に騎士団に対して叛意を示した以上、たとえ同じ赤騎士が相手とはいえ、カミューに躊躇いはない。
 しかし相対した騎士は、カミューの密かな緊張とは裏腹に、妙に心許ない表情をしていた。そう、まるで戸惑っているような目をしていた。
「……マチルダを、去ると聞きました」
 言いながら、騎士の目は否定してくれと訴えていた。そんなのは嘘だろうと信じたがっている目だ。だがカミューは肯定した。
「ああ」
「な、何故ですか?」
 首を傾げた騎士の声は震えている。広げた両腕がさ迷い、当て所なく振り回されて結局身体の横にぶら下がった。そしてここに来て、初めて率直に問われた事にカミューは面食らった。
「今はマチルダに居ても、何も出来ないからだ」
 分かり切った事だった。しかし騎士はまるで意味が分からないというような顔で首を振った。
「どうしてですか。ここは騎士団で、カミュー様は我々赤騎士団を統率する赤騎士団長です。何故、何も出来ないのですか」
「騎士団に居るからこその限界がある」
 だから、出て行くのだ。
 ―――そうだ。だから、マイクロトフは出て行くと決めたんじゃないか。
「ですが、カミュー様が居て下さらなければ、赤騎士団はどうなるんですか! 我々を見捨てるんですか!」
 カミューは息を吸い込み、唐突に激昂し始めた赤騎士を呆然と見遣った。
「マイクロトフ様も同じです! あなた方はこのマチルダ騎士団の赤騎士団と青騎士団とを統べる方々なのに! なぜそうも簡単に捨てられるのですか!」
 誰よりも、捨ててはならない立場なのに、と赤騎士はカミューたちを責めた。だが声高に責め立てながらも、何故か赤騎士の顔は泣きそうに歪んでいた。
「何故ですか…っ! 我々はカミュー様の下でこのマチルダを守り抜くと誓ったのに。それなのに何故、今騎士団を捨てるのですか」
 そして赤騎士は俯いて、小さく呟く。
「……お願いしますカミュー様…お願いです―――」
 震えた声で、赤騎士は言った。

「我々を、置いていかないで下さい」

 ―――ああ、そうか。

 その時カミューの目に、泣きそうな顔の赤騎士の姿が、自分のそれと重なって見えた。

 ―――置いていかないでほしい。

 この声は、まさしくカミューがマイクロトフに訴えたかった言葉なのだった。
 そして言いたかった言葉と同時に、その理由も見えたカミューだった。

「……捨てるのではないよ」
「カミュー様」
「必ず帰って来るよ。何故なら、私は騎士の名を捨てたとしても、その誇りまでも捨てたわけではないのだからね。それに、私は一人ではないからこそ、今このマチルダを去る事が出来る」
 カミューは微笑を浮かべると、くるりと踵を返して赤騎士と真正面から向き合った。
「後は任せたよ」
「……カミュー様」
「私は別の場所から、このマチルダを守るために剣を振るおうと思う。だから残る者には、剣を使わずに戦ってもらいたい」

 マイクロトフの背ばかりを追って、周囲を見回すことを忘れていた。少し立ち止まってみれば、自分は置き去りにされる孤独なばかりの存在ではないと分かっていたはずなのに。


* * * * *


 同盟軍の軍主らと共に先にロックアックスを出たマイクロトフたちに、カミューら離反した騎士の一団が追いついたのは、グリンヒルとの境にある森でだった。
 少年達と、マイクロトフと、そして見慣れない顔は同盟軍からの迎えだろうか。随分と大勢の兵士達が森の奥にざわめいている。しんと静まり微動だにしない騎士たちとは対照的な同盟軍の兵士達である。
 彼ら同盟軍は統制の取れた騎士団の、赤騎士と青騎士のおよそ半数の多勢に呆然とした顔を見せた。それから騒がしくなった兵士達を背後に、少年は何故だか複雑な顔をし、見知らぬ黒い長髪の男はにやりと口元を笑みに歪めた。その男はカミューが名乗ると倣岸にも見える態度で同盟軍の正軍師だと名乗った。
 ではこれが噂に聞く、あのシルバーバーグから破門された不良軍師かと。端正な男の顔を見ながらそんな事を考えたカミューの顔を、その軍師は含みのある顔つきで見返していた。その視線に、つい条件反射で微笑を浮かべてしまう。
「初めてお目にかかる。シュウ軍師殿ですね」
 カミューがその名を言い当てると、シュウは僅かに目を瞠ったものの直ぐににやりと笑った。
「その通りだ。流石は名に聞こえた赤騎士団長カミュー殿だ。俺の名などを知っているとはな」
「ご自分がどれほど有名かご存じないと? まさか。各国がこぞってあなた方同盟軍の情報を得たがっているというのに」
 ハイランドの都市同盟侵攻によって出てきた新勢力の存在を、今更軽視する国、組織は少ないだろう。ゴルドーは残念ながら軽んじすぎていたが、大抵の統率者は何らかの情報を得ようとしている。そこでこの軍師の存在が無視されるわけは無い。
 そんなカミューの言葉に、シュウはふむと頷いた。
「ならば新たな情報にこう加えられるだろう。マチルダ騎士たちの大量の騎士団離反によって、同盟軍の勢力は更に大きくなったとな。まさかこんなに大量の人員が増えるとは、頭は痛いが有難くもある。それなりの歓迎させてもらうが文句は受付けんぞ」
 言い捨ててシュウは少年の腕を取り、兵士に指示をするようになにやら耳打ちを始めた。
 どうやらカミューが連れてきた騎士たちは、問題なく同盟軍に受け入れられるようだとたった今の会話で悟ったカミューは、漸くふっと肩の力を抜いて背後の騎士たちを振り返ると、号令があるまで各自休息を命じた。

 そこへ、やっとと言おうかそれとも今更と言おうか、マイクロトフが難しい顔をしてカミューの間近に寄ってきた。
「カミュー、少し良いか」
「ああ」
 促されて、カミューはすたすたと先に進むと、少しだけ周囲と距離を取るようにして離れた場所の木の根元に立つ。そこで改めて正面から見たマイクロトフは、ぐっと奥歯を噛み締めているのが良く分かる顔をして、これから言い出すべき言葉を練っているようだった。
 だがややもして、引き結んでいた唇を開くとマイクロトフは言った。
「後悔はしていない。だが、正直に言うと、彼らのことはちっとも考えていなかったのだ」
 主語も何もあったものではない。だが、それだけで充分カミューには理解できる言葉だった。彼の不安は良く分かる。そして戸惑った目を真っ直ぐに見詰めてくる理由も、その目につい微笑み返す自分がいる事も。
「分かるよマイクロトフ」
 ふっと足元を見てカミューは靴底の下の地面の柔らかさを感じる。舗装されたロックアックスの街には無い、幾重にも枯葉が積もりしっとりと湿り気を帯びた柔らかな土。不意に、自分が今何処に立っているのかが、その経緯も含めた全てが実感できたような気がした。
 ゴルドーに刃向かい離反を宣言して、事実上の反逆を示めして飛び出したも同然のマイクロトフ。直ぐにでも追っ手がかかってもおかしくないほどの大罪だ。
 ところがその罪に、カミューだけどころかこんなにも大勢の騎士たちが同調して騎士団を出奔してきてしまったのだ。あの時、エンブレムを棄てた時のマイクロトフは、後になってこんな事態になるとは考えもしていなかったのだろう。
「おまえの考える事は、だいたいは分かるよ。案じるな、と言うのはちょっと違うけれど、彼らがここにいるのはおまえの所為だけじゃない。皆、自分の意思で来ているのだから、そう気にするな」
 マイクロトフの戸惑いは、自分の行動がこれほど大勢を巻き込んだ事だ。しかし、気を抜けばその重大な責任に頭を抱えそうになる男に、大丈夫だと言ってやれるだけの根拠が、カミューにはちゃんとある。
「誰も強制されて来た訳じゃない。確かにマイクロトフ、おまえが切欠になったんだろうけれど、でも皆心の何処かで今のマチルダ騎士団に疑心を持っていたんだよ」
 だからこそ、突然の青騎士団長出奔劇が、こんな大量の騎士の離反に繋がったのだ。元々の要因が無ければ起こり得ない。ゴルドーの政策に不満を持っていたのはマイクロトフだけではなかったのだ。
「皆、自分の誇りを信じてここにいる。おまえは何も不安に思う必要は無いんだ。今までどおり前を向いて進めば良いだけだ」
「カミュー」
 それでも心配そうな表情が拭えないらしいマイクロトフは、ちらりとカミューの背後に見える騎士たちを見た。その黒い瞳が益々曇っていくのに思わず苦笑がこぼれる。
「しょうがないなマイクロトフ」
 カミューはそっとマイクロトフの袖口を掴んだ。それに吃驚したように目を見開くのに、にやりと笑って見せてやる。
「教えてやろうか。彼らの気持ちを」
「なんだと?」
「俺ならば分かるのさ。何しろ同じ気持ちを抱えていたんだからね」
「カミューが、あいつらと同じ……」
「そうさ。面と向かって言った事はないが、俺はずっと同じ気持ちを抱き続けてきていたんだ」
 呟き、袖口ごとマイクロトフの手首を握り締め、間近にその黒瞳を覗き込み告げる。

「置いていかないでくれ」

 ぽっかりと開いた口が、なんだか間抜けだった。

 カミューは思わず笑うと掴んでいた手首をぐいっと引くと、重心を崩したマイクロトフの頬にすかさず手を添えて、ふわりと唇を掠めるように口付けた。
「カミュー…っ」
 ぎょっとして大口を開けて叫びかけたマイクロトフは、しかし大声を出す寸前で留まって掠れた声で咎めた。
「大丈夫だよ。ほんの一瞬、誰も気付いていない」
 と言っておきながら、もしかしたら見られていたかもしれないが、そうか? と素直に信じるマイクロトフに笑みを向けてやる。そして頬に添えた手をするりとこめかみに滑らせた。
「マイクロトフは薄情な男だから」
「なに…」
「俺のことなんて、直ぐに忘れてしまう」
「カミュー?」
 惑う瞳を見据えてカミューはもう一方の手も添えて、両側から挟みこむようにしてマイクロトフの頭を包み込む。
「おまえはなかなか後ろを振り向いてくれないから、置いてけぼりの俺はいつだって必死で追い掛けるしかなくて、ずっと息切れしてばっかりだったよ」
 恨み言のようなそれは、だが苦笑交じりに告げられる。こめかみに添えられていた手は、肩へと落ちる。
「独りでミューズへ行ってしまった時、俺はとても辛かったよ。きっとおまえが戻ってきてくれると信じたからこそ送り出したが、顔を見るまで少しも心は安らがなかった。直ぐにでもおまえの後を闇雲に追いかけたかった」
 でもそんな事が無理なのは、周知だった。
「カミュー、俺は……」
「マイクロトフにとって俺はいったい、なんなんだろうと思ったよ。もしかしたら簡単に捨てられてしまう存在なのかな、と」
「馬鹿な!!」
 カッと吼えたマイクロトフに、遠くから視線が集まる。だが、遠巻きに眺めるばかりで誰も近寄っては来ない。騎士団長二人の密談を邪魔してはならないと配慮しているのだろう。
 ただの痴話喧嘩なんだと、誰が気付くだろう。
 笑ってカミューは、宥めるようにマイクロトフの肩に置いていた手でさらさらとその二の腕を撫でた。
「分かっている。おまえがこんな俺のために後ろを振り向く必要なんて少しもないんだ」
「カミュー! おまえは何を…」
「違うんだよ。自棄になって言っているんじゃないんだ。おまえは後ろを見れば立ち止まってしまう。それでは、おまえはどこにも進めない。俺は、前だけを見て突っ走るおまえが好きなんだから、それでは駄目だろう?」
「す……っ」
 途端にかぁっとマイクロトフの耳が赤くなる。分かりやすい男だと思いつつカミューは一歩踏み出してマイクロトフの肩に額を乗せた。
「分かったんだよ。俺は、マイクロトフに置いていかれるような存在じゃないさ。当たり前だよ、誰が取り残されるものか。もし俺が突っ走ったおまえを見失っても、必ず探し出して捕まえるよ。姿が見えないからって焦る必要なんて無かったんだ……」
 置いていかれるのを嘆くのではない。自分が、追いかければ良いのだ。何しろカミューはもう、何もできなかった迷子の子供ではないのだ。
「何処にだって探しにいけるよ。それにおまえは、探しに来た俺を追い返したりはしないだろう?」
「当たり前だ!」
「うん。だから俺のことは良いんだ。けれど、他の連中は俺ほどにはおまえを探して追いかけるのが得意ではないからね。少しだけ振り返って、彼らの姿を確かめてやるといい。そうしたらきっと、ちゃんとおまえを追いかけてきてくれる彼らの姿が見えるから」
 皆、おまえを追ってきてくれているんだよ。
 そう言うとマイクロトフは、まるで初めて気付いたかのように、カミューの肩越しに、大勢の騎士たちの姿を見たのである。
 カミューは顔を上げてそんなマイクロトフの横顔を見て、微笑んだ。
「大勢来たものだ。流石に半数もと言うのは、俺も予想外で驚いてる」
 一割でも二割でも、隊長格の連中が付いてきてくれればそれで充分だと思っていたのだ。それがこんなにも人数が集まって、これではマチルダ騎士団は二分されたも同然である。
「それだけ責任は重大だが、彼らを背負うだけの覚悟はおまえのここに、ちゃんとある筈だ。大丈夫だな?」
 とん、とマイクロトフの胸を手の甲で叩いてやる。すると、ふっと彼の気配が変わった。見れば、その横顔は凛として暮れかけの空を見上げていた。
「カミュー」
「うん?」
「ノースウィンドゥは、どのような所なのだろうな。同盟軍の本拠地を俺は早く見たくなってきた」
 カミューは思わず笑顔になった。
 そして遥か南東。デュナン湖対岸の遠くを眺めるように、顎を上げる。
「古い城館を改築しまくった城なんだそうだよ。デュナン中から難民が集まっていて、ロックアックスとは天と地ほどに違うとか―――その難民を保護するために同盟軍は常に資金難で、あの軍師を筆頭に同盟軍ぐるみで交易をしているとも聞く」
「詳しいな」
「そりゃあね」
 任せろよ、とカミューはマイクロトフの背をぽんと撫でた。
「実力のある戦闘員は、連日資金集めにモンスター狩りに繰り出されるとも聞いたよ。おまえも俺もムササビやバニーなんかを狩りまくる事になるかもしれないよ」
「望むところだ」
 ぐっと握り拳を固めて決意するマイクロトフに、カミューはついつい大きな笑い声を上げて、周囲の視線を集めてしまったのだった。


* * * * *


 同盟軍軍師が、いざという時を考えて率いてきた軍勢と、カミューがマチルダから連れて来た離反騎士たちと、この人数で一気に本拠地まで行くのは無理だとして、とりあえずトゥーリバー市の川を越えた平原に、野営を構える事となった。
 流石に、トゥーリバーまではゴルドーの手勢も追ってこないだろう。第一カミューは騎士たちに戦闘体勢を整えて離反するように命じてあった。今追ってきたとしても、確実に勝ち伏せるだけの力がある。それは、居残った騎士たちが知らない筈は無い。
 カミューとマイクロトフは、同盟軍主の好意によって、大きな天幕を二人で貸し与えられたために、身一つで出てきたマイクロトフなどは、有難い反面恐縮しきりだった。
 その天幕に二人が腰を落ち着けたのは、日暮れて簡単な夕食を軍主たちと共に食べてからだった。

「いやぁ…同盟軍の糧食って美味しかったんだなぁ」
 組み立てて作った簡易の寝台に腰掛けて、カミューがまだ舌の上に残る香草のスープと噛み応えのあるパン、そして香辛料のたっぷり入った魚肉ハムとまろやかなチーズの味を思い出して、ほうっと溜息をつく。するとマイクロトフがうむ、と頷いた。
「下味が確りとついているのだろうか。携帯のものとは思えんくらいに美味かったな」
 騎士団のそれも決して不味いものではなかった。だが、顔が綻ぶほど美味しいものでもなかった。
 今夜、マイクロトフとカミューは、まだ知らぬ宿星の仲間である料理人の神業を、ほんの指先程度味わったのである。
「……この食事だけでも、同盟軍に来て良かったかも…」
「こらカミュー」
 ポツリとつぶやいたカミューに、流石にそれはまずいだろうとマイクロトフが顔をしかめる。だが、そう言ってしまいたくなるほどに食事が美味しかったのは否めない。
 そしてうっかりまた極上の味わいを思い出しかけたのか、マイクロトフが咳払いをする。
「それよりもな、カミュー。これからの事なのだが」
「…ん? ああ、これからね」
「俺たちはもはや騎士団長ではない―――今までどおりにはいかんのだろうが、それでは付いてきてくれた騎士たちをどう扱えば良いのだろう」
「いや、今までどおりで良いと思うよ」
 カミューがあっさりと答えると、マイクロトフは怒ったような顔をして睨んだ。それに肩を竦めて仕方がないじゃないかと、首を傾げる。
「確かにエンブレムを捨てて忠誠に背いたけれどね、部下たちが付いてきたからには、やっぱり俺たちは騎士団長のままなんだよ。それに―――」
「それに?」
「そっくりそのまま、多少は変わるだろうが今までどおりの命令系統を維持しなければ、これだけの数の騎士を纏めろったって無理だよ。多分、あの軍師も当然俺たちが騎士を纏めるものと思っている筈だよ」
「し、しかし俺はもう騎士ではなくて……」
「マチルダの騎士でなくなっただけだよ。誇りと信念がある限り、騎士の廃業にはまだ早いさ、マイクロトフ」
「だが、こんな俺が今までのように団長だと言って、彼らを指揮して良いものだろうか」
「ははは、離反騎士たちの先駆けが何を言うんだい。忘れているようだから言ってやるが、彼らだって同じ騎士のエンブレムを捨ててきた者達なんだよ」
「う、そ……そうか」
「それに一晩経ったら隊長たちがやってきて、俺たちに指示を仰ぎにくるよ。極自然に当たり前のようにね。賭けても良い」
 迷う以前に、もう周囲が完全にそうと認めているのだ。
「だが俺は、身一つで飛び出してくる思いで、ゴルドー様に逆らったのだが……」
「独りじゃなくって良かったな。俺もいるし、部下たちもいるし。心強いだろう?」
「それはそうなんだが」
 なんとなく腑に落ちないといった具合でマイクロトフは難しい顔をしていた。それを見てカミューは、仕方がないなぁと苦笑する。
「本当におまえは薄情者だよ。俺を置いて自分独りだけ同盟軍に来た方が良かったなんて言うんじゃないだろうな?」
「そんな事は言わん! その……カミューが居てくれて、嬉しい」
「そ、良かった」
「…だが、カミューはマチルダを捨てて、本当に良かったのか。こうなったからには、もうなかなか帰れないと思うぞ……グラスランドには」
 情報では、都市同盟領からグラスランドへと至る道には、ハイランドに与するグラスランドの部族が関所を作っていると言う。完全にハイランドと敵対している同盟軍に居ては、もう完全にグラスランドには渡れないだろう。
 だが、そんなものとカミューはかぶりを振る。
「俺にとっての故郷は、ここにあるから」
 とんと胸にこぶしを当てて、カミューは笑った。
 マイクロトフは知らない。カミューにとってグラスランドがどんな意味を持つ故郷であるのか。今更郷愁を誘うようなものはなく、どちらかといえばカミューにとっての帰る場所とは、ただ一人の男が居る場所なのだ。
 それほどの執着をまだ分かっていないらしい男に、カミューはにやりと笑ってみせる。
「愛してやまないマイクロトフさえいれば、俺には何処だって故郷さ」
「カミュー!」
 ふざけているんじゃないんだぞ! とマイクロトフが怒鳴る。その口を慌てて塞ぎながらカミューは笑った。
「莫迦、もう遅いんだぞ。騒いで誰かが覗きにきたらどうするんだ」
「む」
 むっつりとして黙り込むマイクロトフに、カミューは困ったなとこめかみを掻く。どうやって納得させれば良いのだろう。
「そうだなぁ。それじゃあひとつ、懐かしい思い出話をしてやろう」
「カミューの?」
「そう、俺の。あれは、カマロの自由騎士団で過ごすようになって直ぐの頃かな」
「自由騎士団?」
 そうだった。マイクロトフは知らないのだった。
「ああ……グラスランドでは大きな騎士団でね。父がそこの騎士だったから、その関係で。そこで俺は大抵の事を身に着けたんだ。馬術だとか剣術だとか。それから、マチルダに来たんだよ」
 そうやってカミューが語り始めると、マイクロトフはぴったりと口を閉じて真っ直ぐな目で聞き入り始めた。その視線を心地良く感じながら、遠い過去の記憶を呼び出した。

 事情があって、カミューは幼い頃からカマロの自由騎士団で兄と二人で従騎士のようなことをしていたのだ。マイクロトフに話すのは、その時に、騎士たちの遠出について出た先で、カミューが一人はぐれて草原で置いてきぼりにされたことだった。
「俺はまだほんの子供で、馬も乗りこなせなくて、騎士の背中に引っ付いてその場所まで来ていたんだ。ところが、不意に土砂降りが降り出して、皆てんでばらばらに雨宿りを始めた。俺も、急いで大きな岩の張り出した下に潜り込んだんだ」
 その場所は狭くて、子供のカミューが一人すっぽりと入り込めば隙間も無かった。だが近くに他の騎士たちの気配も話し声もしたし、安心して雨が小降りになるのを待っていたのだ。
 だが。
「いつの間にか寝ちゃってたんだよ」
 雨はずっと降り続いていた。
 岩肌を滑り落ちる雨雫の音が、眠気を誘ったのだろう。目が覚めた時には周囲に人の気配は無かった。
「たぶん、岩の陰に隠れて見落とされたんだと思うよ」
 はっと目が覚めて、岩陰から飛び出したカミューが見たのは、自分以外誰の気配も無い、雨の降り頻る広大な草原だった。
 大声を出しても、声は飛沫に吸い込まれるばかり。土砂降りの雨に遮られて方角さえも定かにならない。無闇に駆け出しても、やっぱり人影どころ他の獣の気配すらなかった。
「信じられないくらい、頭が真っ白になったよ。どっちに向いて叫んで良いかも分からなかったし、馬で駆けてきていたから、そこから騎士団の城砦まで歩いて直ぐに辿り着けるような距離じゃないことくらいは分かっていたし」
 少年だった自分にとって、その草原はまるで自分の常識の通じない異世界にでも放り出されてしまったような恐怖を与えた。
「そのうちに雨に打たれっ放しじゃ寒いと気付いて、元の岩陰に潜り込んだんだよ。けれど、今度は少しも眠れなかった」
 雨の音だけがして、耳を塞いでも雨の気配は全身を包み込んでくる。
 怖くて怖くて、叫んでもやっぱり何の応えも無い。
「結局、騎士たちは直ぐに俺がいないのに気付いて、土砂降りの中だったのに探しに戻ってきてくれたんだ。でも、馬の蹄の音を聞くまでの間、俺には果てしなく長い時間を過ごしたように感じていたし、最初は馬の音も幻聴かと思っていたんだ」
 探しに来た騎士たちが、雨の音に掻き消されまいと大声でカミューを呼んでいたが、ずっとガタガタと寒さに震えながら岩肌から落ちる雨垂れを凝視していたのだ。
「騎士のほうが俺を見つけて、岩陰から引っ張り出してくれた時も、俺は震えっぱなしでまともな受け答えなんか出来なかった」
 歯の根も噛み合わなくなって、ただただ自分で自分の肩を抱いていた事だけは良く覚えている。それから正気に戻ったのは、自分の寝台の上で兄が心配そうに自分の額に手のひらを当てていた時だった。
「いったい何がそんなに怖かったのか。ただ雨の中に置いてきぼりにされただけなんだけど、それだけの事があの時の俺には絶望的な孤独を感じさせたんだよ」
「カミュー」
 口を閉ざすと、マイクロトフが泣きそうな顔をしていた。
「笑わないのかい?」
「……笑う?」
「そんなことで怖がって、いまだに雨がちょっと苦手な俺を」
「馬鹿を言うな。無力な子供が、保護者に置いて行かれれば怖くなって当然だ。俺とて幼い頃に街中で迷子になって、心細くて堪らなくなった事がある」
 きっぱりとそう言い切ったマイクロトフに、カミューは「へぇ」と目を見開いた。初耳だった。
 聞かせてほしい、と目で語るとマイクロトフはごくりと唾を飲み込んだ。
「本当に小さい頃だ。珍しく父上と二人で、父上の知人の家を訪ねた時だった。今にして思えば、その知人は騎士だったと思う。俺がずっと騎士になりたいと言っていたから、会わせてくれようとしたんだろう」
「うん」
 優しい父上だな、とカミューは相槌を打つ。それにこくりと頷いてマイクロトフは続けた。
「ロックアックスの街は広いだろう。小さい俺の行動範囲など狭いもので、その日は父に連れられて初めての道を歩いて、どきどきしたのを覚えている。だが、その帰り道に俺は父とはぐれてしまったんだ」
「それで、どうしたの」
「知らない道で、知らない人ばかりが通り過ぎて、俺は心細くて泣きたくなった」
「泣いたのかい」
「いや、帰りがけに父の知人の騎士が、強い男になれと言って俺の頭を撫でてくれて。だから意地でも泣かなかった」
「それはおまえらしいな」
 笑うと、マイクロトフは少し顔を赤らめて呟いた。
「からかうな」
「からかってないよ。それで? 父上とは直ぐに会えたのかい」
「いや。だが俺が迷子だったのは傍目に丸分かりだったらしくてな、知らない女性が声をかけてくれて、そこへ巡回中の騎士がやってきて、それで急遽騎士たちが父を呼び回ってくれて」
「なるほど」
「俺は嬉しいやら恥ずかしいやら泣きたいやら、わけが分からなくなったぞ」
 確かに、憧れの騎士にあれこれ親切にされるのは嬉しいだろう。しかし自分のためにその騎士たちの手を煩わせるのは苦痛だろう。幼いマイクロトフの気持ちが手に取るように分かるカミューだ。
「あの時も、ほんの一瞬だったが、俺は孤独を感じた。周囲に行き交う人が大勢いたのに、孤独だったんだ」
「うん」
「だから、俺がカミューを笑うなど有り得ん」
 言ったマイクロトフを、カミューの方が泣きたい気分で見つめ返した。
「敵わないなマイクロトフにはさ。仕方ない、白状するよ」
「何を」
「俺の雨嫌いがましになった理由。おまえは覚えていないんだろうけど―――」
「俺が?」
 首を傾げたマイクロトフの表情が、昔のそれと重なるのをカミューは懐かしい気分で思い出す。
「そう、マイクロトフが。実は、俺はマチルダに来て初めて天気雨っていうのを知ったんだ。向こうじゃ降るときは降る。晴れるときは晴れるから」
 天気雨というのは、日差しがあるのに雨が降ることだ。暖かな日向でぱらぱらと冷たい水が降ってくるのを、カミューは呆然と見上げていたのだ。その時。
「吃驚している俺の前で、おまえが言ったんだ。花が降ってるみたいだって」
「そんな事を言った覚えは無いが……」
「ああ、やっぱり覚えていないんだな。でも些細な事だもんね」
「カミュー」
「責めているんじゃないよ。ただ、俺にとっては印象的過ぎてね。雨を花に例えるなんてさ、あんまりにも意外じゃないか」
 言われても、マイクロトフには皆目思い出せるよすががなく、戸惑ったように俯いている。そっと手を伸ばしてカミューはその黒い髪をぽんぽんと撫でた。
「教えてあげるよ。ちゃんと雨を花だと言った理由があるんだ。あの時、慌てておまえが言ったんだ」
 思い出す。意外に感じてカミューがじっとマイクロトフを見たものだから、彼は真っ赤な顔をして自分の発言の理由を告げた。

「数日前に、教会での結婚式をたまたま目撃したんだよ」

 え、とマイクロトフが顔を上げる。
「教会から出てくる新郎新婦に、階段の両側に並んだ参列者が小さな花を雨のように降らせていたとか。それを思い出して、おまえは天気雨を花のようだと言ったんだ」
「俺が―――」
 少しは思い出したのか、ぼうっとしてマイクロトフが言葉を途切れさせる。カミューはその顔に微笑みかけて、当時を思い出した。
 雨が花だと言われて、途端にそれまで胸を覆っていた気鬱が、するすると消えてなくなった。まるで魔法のように、暗い気分が晴れ晴れとしたそれになった時、世界が少しだけ違って見えた。
 あれから、前ほど雨は嫌いではなくなった。
 置いていかれるのは、まだ苦手だけれど。
「だからおかげで今の俺は、雨だろうがなんだろうが、何処へだっておまえを探しに出て行けるんだよ。おまえは俺をどれだけ導いてくれたか知れない。だから安心して何処へでも飛び出して構わないんだ、マイクロトフ。俺はそんなおまえについて行く」
 つまりは、それが言いたかったのだ。
 マイクロトフだけがカミューを導くことが出来る。
 その、マイクロトフの立つ場所が、カミューの立つべき場所になる。

 そして黙り込んだマイクロトフの肩を、カミューは優しく叩いて促した。
「もう、眠ろうか」
「……カミュー」
「うん?」
「俺は、カミューに甘えている」
「なんだって?」
 思わず目を瞠って顎を引く。
「何を言ってるんだマイクロトフ。甘えているというんなら、それは俺の方で」
「違う。俺は、無自覚にカミューに甘えている。いつもいつも無鉄砲な真似をして、そのつけを全部カミューに押し付けている。それで、いつも後から気付いて俺は―――」
 強く言葉を遮って、マイクロトフは沈痛な表情で言葉を詰まらせた。
「マイクロトフ…」
「そうやって、昔の嫌な話をしてまでも俺を安心させようと心を尽くしてくれる。俺は、そんなおまえに何を返せる」
「マイクロトフ、俺はそんな」
「感謝する。どんな言葉に代えても、足りないかもしれん。俺はカミュー……おまえが居てくれて、本当に幸せだと思うんだ」
 そしてマイクロトフの手が、すうっとカミューの首にかかったかと思うと、間近に迫った彼の唇が震えながら「好きだ」と囁いた。
「………っ」
 キスが。
 ほっとしたような暖かな吐息が、カミューの唇に触れて、柔らかな感触が覆った。
 そこでカミューは唐突に気付いた。

 置いていかれた事が苦しくて、自分のことばかりだったカミューだった。だが、ミューズへ出向き、そしてゴルドーに背いてここに来るまで、マイクロトフもまた苦しみ続けてきたのだと。
 置いていかれる者だけではない。
 置き去りにしなければならない側もまた、痛みを抱えるのだ。

 だがその苦しみも、たった今の口付けで、解けたのかもしれない。マイクロトフの身体がそうっとカミューに触れて、その強張りの無い体温が泣きそうなほどぴたりと合った。
「マイクロトフ、愛してるよ」
 抱き締めて目を閉じれば、あの晴天の雨が目蓋に浮かぶ。
 太陽の日差しを受けて、雨粒がきらきらと虹色に光っていた。
 そして、桃色や紫や青や黄色や、色とりどりの小さな花が、ふわふわと降り注ぐ情景が、見たことも無いのに見えた気がした。



end

imitative lover ← flower rainy day → *****

2004/07/29-2004/11/05