lost childhood 1
偶さか目にした情景。
しかし脳裏に引っ掛かった既知感。
―――そうだ、これは前にも目にした事がある。
デュナンの大湖のほとりにて名乗りを上げた新都市同盟軍。
その軍主たる少年は暇さえあれば、いや無くとも作り出して方々へと出掛けるのが常である。今日は東へ明日は西へ、次は南へ今度は北へと法則性はまるでない。だからか付き合う面々もその都度違った。
ハイランド軍の目が気になる東の地へと、仲間探しに出掛けるというその日に、カミューとマイクロトフが呼ばれたのは偶然だった。そして立ち寄った小さな村で、潜んでいた少数のハイランド兵が、敵わないと見て逃げ出しざまに火を放っていったのも、予期せぬ出来事だった。
長く雨の無かった事もあり、木材で建てられた家屋の燃える早さは尋常ではなく、瞬く間に火は大火へと変化したのだ。
幸いながら同道していたルックが『流水の紋章』を宿していたのも偶然で、何かを命じられる前にさっさと紋章を発動させて、意識的に火の勢いを抑え込むルックを横目に、マイクロトフもまた村の中央に井戸があったのを思い出して駆け出そうと身を翻した。
ところがカミューが動かない。
燃え盛り、見る間に乾燥した家々が梁や柱を露わにする様を前に、棒のように立ちつくしているだけだった。
「カミュー!」
何をしている! 怒鳴ってもまるでそよぐ風に揺れる梢のように、ゆらりと振り返ったのは、おぼろげに焦点の合わない眼差し。
そのあまりに尋常らしからぬ様子にマイクロトフは眉根を寄せたが、穏やかに問い掛けている暇は無い。炎は貪欲に風を孕んでますます大きくなっていくのだ。
仕方なくマイクロトフは拳を作ると、ずかずかと歩み寄りその頭を強かに殴りつけた。
ごつん、と鈍い感触が拳を通して伝わる。刹那胸が痛まないでもなかったがそれを抑え込んでマイクロトフは怒鳴った。
「井戸は向こうだ!」
「あ……」
痛みにか僅かに顔を顰めたカミューが何度か瞬く。だが直ぐにはっきりとした光を湛えた瞳がマイクロトフを捉える。
「急げ!」
怒鳴り捨てて駆けだすと、直ぐに後を追ってくる足音が聞こえてきてマイクロトフはほっと安堵する。どうやら正気に戻ってくれたらしい。
だからその時は、大して気にもせずマイクロトフは井戸に向かって猛然と走り出したのだ。
後になって、そんなカミューの様子を思い出して堪らない後悔に苛まれてしまうのも知らず―――。
村はトトの村に程近い小さな村であった。
大軍ハイランドも、小さすぎて目に掛けないような貧しく慎ましい村である。
そこに何故ハイランド兵がいたのであろうか。
幸い迅速に対応したおかげで、家畜小屋が燃えただけで人にも獣にも怪我は無く類焼も無かったので、あたりに漂う火災後の臭気以外は大した被害は無く事は済んだ。
ところが村人たちが安堵に胸を撫で下ろし、改めて同盟軍の一行を笑顔で迎え入れた頃、ビクトールが逃げ損ねて隠れ潜んでいたらしいハイランドの者を一人だけ捉えたのである。
男は一見して細く貧相な身体つきで兵士には見えず、しかし紛れも無いハイランドのブライト王家の紋章を刻んだ木箱を大切そうに抱えていた。その如何にも重たげなそれによって逃げ足が送れたのだろう。地面に押さえつけられながらも懐に隠すようにしまいながら、男は必死の形相で目だけを爛々とさせてビクトールを睨み上げていた。
「ったく、火なんぞつけやがって」
忌々しげに吐き捨てるビクトールに、しかし捕らえられたハイランドの男は無言で睨むばかりである。軍主の少年はそんな男に困ったような眼差しを向けつつも、その懐の木箱を注視した。
「それ、なんですか」
「ん? ああ、おい寄越せ」
少年の言葉にビクトールが腕を伸ばす。だがその手は激しく叩き退けられた。
「触るな!!」
男の甲高い叫びが耳に痛く、思わず顔を顰める面々に、しかし男は木箱を抱え込んでぶるぶると震えた。どうやらよっぽど重要な代物らしい。
「どうするよ」
「うーん、これはちょっと連れて戻って詳しくお話聞かせて貰わないと駄目かな」
ビクトールの言葉に、少年が困ったような顔で呟いた。すると途端にルックが異議を唱えた。
「反対だね。そんな得体の知れないモノを城に入れるなんて冗談じゃない」
「でもルック、置いていく訳にはいかないよ。逃げられても困るんだし」
少年の言葉に尤もだとビクトールが頷くのだが、ルックは尚も首を振った。そして外見と比べて大人びた眼差しでひたと蹲るハイランドの男を見定めて、その腕の中の小箱をひっそりと指差す。
「違う。そんな男のことを言っているんじゃないよ。そいつの持ってるモノが嫌だと言っているんだ」
そのルックの言葉に、彼の指差す先を皆が見る。
別段、なんの変哲もないような小さな木箱である。抱える男は怪しげで何をしでかすか分からない緊張感が漂っていて恐ろしいが、ハイランドの印章が刻まれたそれは、中身は分からないがさほどの危険物には見えないのだ。
しかしルックはまるで嫌悪するものを見るような目でそれを睨み下ろしていた。
「得体の知れない物には、容易に手を触れるべきじゃない。これは忠告じゃないからね」
「おまえ、これの中身が分かるのか」
ルックの口調に触発されたか、ビクトールがちらりと斜めに木箱を見詰めて問う。
「分かれば『得体の知れない』なんて言うわけがないだろ。ただ感じるんだよ、すっごく嫌な気配をね」
そして腕を摩り、近くに居るのも嫌だとでも言いたげにルックは一歩後退った。その態度に今度は一同の目が恐る恐ると男の木箱に注がれる。
「え……っと、そんなに嫌な感じがするんなら、ちょっと怖いかも」
ナナミがぽつりとそんなことを言う。
正直、ルック以外の者にはそんな嫌な気配どころか何も感じられないのである。半信半疑ながらも風使いの少年の言葉をまるっきり無視することも出来ない。
一同がそうして途方に暮れかけた時だ。
「では、ここで木箱の中身を白状して貰わねばなりませんね」
思いがけない発言の主は、それまで黙り込みその存在感すら無かった筈の青年だった。
「カミュー」
それはマイクロトフすら思わず驚きに目を瞠った程の不意だった。
それくらいに、カミューのそれまでの気配は薄かったのだ。そして他の面々も唐突の発言に、その内容よりもマイクロトフと同じ意味で驚く。
「あ…っと、なんだって?」
ビクトールが慌ててカミューに向き直って改めて問う。どうやら彼もすっかりカミューの存在を忘れていたらしい。いや、忘れさせられていたと言った方が正しいのだろう。
常ならばその華やいだ容貌もさることながら、カミューという青年の挙動は実に隙がなく、それでいて目の離せない優美さがある。それが本人自身の意思によってすっかり気配ごと、路傍の石のように掻き消えれば誰だって、意識の外に置かざるをえなくなる。
だが降って湧いた困り事に、存在を消しても居られなくなったと判断したのだろう。自分の突然の発言に一同が驚きを見せるのに、淡い苦笑を浮かべながらカミューは、絶妙の距離感を保っていたそこから数歩だけ前に進んだ。
たったそれだけで、その場の目が全てカミューへと集中する。人の注目を浴びる事に何の抵抗も感じない立ち居振る舞いだった。
だが反面、それまでの一切を感じさせなかった気配が気になるのだが、それを問うより先に青年が口を開く。
「連れ帰るのが出来ないのならこの場で対処するより無いでしょう。放って帰るわけにもいかないのなら」
「う、うん…そうなんだけど」
しかし相槌に惑う少年の視線の先には、未だ地面に蹲ったままぶるぶると震える男の奇妙な姿があるのだ。これをどうすれば良いと言うのだろう。さっきビクトールが手を伸ばしただけで、あの大袈裟な反応を見せたのだ。それ以上となったらどんな事になるか考え難い。
しかしカミューはふっと笑った。
「危険なものならば尚更城には持ち帰れませんよ。不安ならばこの『烈火』で形も残さずに処分も出来ますが」
そして自身の右手をちらりと動かす。
ところがそんなカミューの言葉に過剰反応したのはビクトールに押さえ込まれたままの男だった。
「これを処分! まさか燃やすとでも言うのか!?」
その甲高い声に、ナナミがビクリと震えた。
男はそして腕の中の木箱をぎらぎらと見詰めてその口の端を歪めた。
「馬鹿な事をっ、言うなっ! これは紋章などで燃やせるものか! ハハハハハ!」
そして狂ったように笑う男を、一同は呆然と見る。ところが男のその腕が動いて指が木箱を封印する紐に掛けられたのを見た時、ぎょっとした。
「お、おいっ!」
ビクトールが慌てた声を出し、その腕を掴む。しかしそれは遅く、既に男の指は紐を引っ張りそれを解いていた。途端にルックの身体が強張り冷気が降りる。
「っ……冗談じゃない。早くそいつを気絶でも何でもさせてその紐を元に戻すんだよ…!」
ルックの怒りに満ちた声にビクトールは応えようとした。だが男はそんな細い身体の何処に力があるのかと疑いたくなるような動きで傭兵の腕を振り払うと、木箱の蓋に掌を載せた。
「見ろ! こいつを見ろ!」
そして大きく蓋を開け放ち、中身を晒した。
「……!」
木箱に納められていたもの―――それは。
「紋章球……?」
カミューがひっそりと呟いた。しかしその声に確信の響きはない。それもその筈、紋章球とは、本来なら透きとおる硝子のような球体の中央にはっきりと紋章の陰影が浮かんでいる。だが今彼らの目の前に晒されたそれは、鈍く曇った球体の中に、色合いも黒だか赤だかはっきりしない何かがぼんやりと輪郭もなく浮かんでいるだけだった。
しかし男はそんな一同の驚きは承知の上だったのか、その歪めた笑顔を更に歪めて震える骨ばった手でそれを取り出した。
「そうだ! これは紋章球だ! だが、中身は紋章じゃない……! 我がハイランド軍の傑作……!!」
そして男は球体に頬擦りをして、うっとりと呟いた。
「炎如きでこれが消えて無くなるものか……こうして我らが作り上げた紋章球の中で漸く安定しているのに……」
それから一転、再び爛々と光る目で周囲を睨みつけて、鷲掴んだそれを高く振り上げた。
「始末できるものならして見せるが良い! これはおまえらにとっての恐怖そのものだっ!!」
どうして、男がその掲げた腕を降り下げるのを黙って見ていたのだろう。
ルックが警告していたのに、どうして誰もそれを男の手から奪いとらなかったのか。
くすんだそれが、地面に叩きつけられ粉々に砕け散るのを呆然として見ていたのはどうして―――。
「ぎゃああああああ!!!」
男の絶叫で、一同は我に返った。
そして砕けた紋章球から飛び出した何かが、男の身体に纏わり付くさまも。
それは黒っぽいような赤っぽいような奇妙な色をした煙で、しかしまるで意思を持つ泥のような動きで男の全身を覆いつくし、口や目から男の内側へと侵食していったのだ。
「な、何が起きてるの……」
ナナミが震えた声で問うのに、誰も答えられなった。
モンスターなのかと聞かれても、今までこんなものは見たこともなかった。ならば紋章なのかと言えば、やはり答えは同じだ。
だがそうして一同が為す術もなく見守る中、煙は全て男の内側へと消えた。だが、見掛けだけは煙に纏わりつかれる前の状態に戻った筈の男の様子は、違っていた。
その瞳からは生気が抜け落ち、だらりと開けた口は虚ろで、一瞬硬直したように立ち尽くしていたのだが、次には糸の切れた操り人形さながら男の身体はばったりと地面に倒れ伏した。
それから何度か男の身体はビクビクと痙攣したかと思うと、突然ぐんにゃりと力が抜けたのだ。そして。
「きゃ……っ」
「うわっ」
どろり、と生気の失せた男の口から先程よりも若干赤みが増したソレが出てきたのである。その異様な様に思わず後退る面々であるが、一人ルックだけは同じ場所に立ったまま厳しい顔でソレを見ていた。
「禍々しさが強くなってる……これって、どういうことさ……」
だがその呟きは次の瞬間ナナミの悲鳴に掻き消された。
「きゃあああ!!」
「カミュー!」
少女の叫びとマイクロトフの怒声。
その視線の先には右手の甲に宿る紋章を赤く染めたカミューの姿がある。そしてその身体に襲いかかる煙と―――。
「カミュー! 逃げろ!!」
危険だ。
確かめる術は無いがあの男は既に息絶えている。
それはつまり煙が男を害したという事だ。
それなのにカミューはそんなマイクロトフの声に動けなかった。
何故か。
その背後には軍主の少年が立っていた―――動けなかったのではない、動かなかったのだ。
「カミュー!!!!」
絶叫の中、煙は瞬く間にカミューの身体を覆い尽くした。
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2003/09/04