lost childhood 2
ところが一拍遅れて更に信じられない情景にマイクロトフは息を呑んだ。
カミューの身体を覆いつくした煙のようなそれが、一瞬後に真っ赤に染まった。―――いや、それは炎の色だった。
「カミュー!」
マイクロトフの絶叫に反応する声は無い。
その右手の烈火の陰影だけがはっきりと浮かび上がって、燃え上がる炎の色に包まれながらカミューの身体は棒立ち状態だった。彼は、身を包むそれを紋章の炎で更に包んでいるのだと、漸くマイクロトフが理解した時、唐突に煙は視界から消え去った。
「え……」
そして先程の男と同様、まるで何事もなかったかのような―――服が所々焼け焦げて悲惨な有様になってはいたが―――状態に戻ったカミューが、やはりばたりと地に伏せた時、やっとマイクロトフたちは膠着から解き放たれた。
「カミュー! カミュー!」
わけが分からなくて、後ろでビクトールが危険だと叫ぶ声も無視してマイクロトフは倒れたカミューの元へと駆け寄った。
男の口からどろりとこぼれたあの奇妙な煙のような泥のような。
あれがもしカミューの体内に侵入していたら。
そう考えた時、少し離れた場所に転がる男の屍が視界の隅に入って、どきりと心臓に痛みが走る。
カミューがああなったら。
為す術もなく一瞬であの暖かい身体を奪い去られたら。
ぞく、と氷の刃で身体を貫かれたような錯覚にマイクロトフは震えた。
だが伸ばした指先が触れたカミューは息をしていた。
紋章の炎に炙られた肌が煤けて痛々しかったが、カミューは息をしていた。その事にほっと安堵をして、気を失っている彼の身体を抱え起こす。
すると背後から緊迫した声がかかる。
「カミューさんは?」
振り返ると手の甲に盾の紋章を輝かせる少年の厳しい眼差しがあり、マイクロトフが強く頷くと少年は黙ってそれを発動させた。白い清々しい光がマイクロトフ共々カミューを包み込む。途端に火傷がするすると消えて行き、焦げた服だけが残った。
「カミュー……?」
その頬を軽く撫でるように叩くが、閉じられた目蓋はぴくりともしない。マイクロトフは眉根を寄せてそんなカミューの額や指先に触れるが、慣れたそれよりも幾分高いような体温に唸る。
「マイクロトフさん、戻りましょう」
「おいルック、この期に及んでカミューを連れ帰れねえとは言わねえよな」
少年の言葉に呼応するようにビクトールが呼びかけると、ルックは不機嫌な眼差しでそんな傭兵を睨む。
「馬鹿じゃないか。それより、その男の遺体も持ち帰るんだよ。城で調べる」
「え、あいつもか……」
途端にげ、と顔を顰めたビクトールの横を、ルックは澄ました顔で通り抜けて屍の手前で立ち止まる。そんな彼の杖の先が地面に転がる木箱に触れた。
かつん。
転がった小さな木箱の底が露わになった途端、そのルックの目が変わった。
「……『夢魔(nightmare)』…だって…?」
砕け散ったくすんだ紋章球の欠片が無残なその場所でひっそりと落ちたルックの呟きは、その時吹き抜けたささとした風にそっと掻き消されたのだった。
会議室には沈黙が降りていた。
ただ一人立っていたルックが静かな表情で目を伏せ、マイクロトフは握り込んだ拳が震えるのを抑えられず。他の者達は青褪めた表情で発するべき言葉が見つからずに黙り込むしかなかった。
時は数刻前に遡る。
カミューは医務室に収容され、ホウアンが診ているもののいっこうに目覚めない。だがルックが幹部連中を集めるよう指示したのだ。
集まったのは新都市同盟軍の中でも頭領以上の連中である。遅れてやってきたルックは詫びるでもなく手にしていた重そうな書籍を置いてから、そんな一同を一瞥して徐に口を開いた。
「最初に言うことはひとつ。このままだとカミューは目覚めない」
途端にマイクロトフがガタッと椅子を鳴らして腰を浮かせた。
「ルック殿! それはどう言う……!」
だがルックはそれをちらりと見やっただけでいなすように手を振った。
「焦らないでくれるかな。理由はこれから説明するよ」
そしてルックは重々しい書籍を開くと、テーブルの中央にずいと押し出した。
「『夢魔(nightmare)』という魔物がいる。詳しくはそこに書いてあるから知りたい人だけ読んで。掻い摘んで説明すると、人の夢の中に訪れてその精気を吸う魔物でね、説は色々あるんだけど、この魔物にとり憑かれると昏々と眠り続けて、死ぬまで目が覚めないんだ」
ルックの説明にビクトールが「おい」と口を挟んだ。
「じゃあカミューはそいつにとり憑かれたっていうのかよ」
「いや、違う。今度はこれを見てよ」
ルックは小さな木箱を取り出した。
「これはカミューに取り付いた煙が封印されていたものが納められていた木箱だよ。裏に『夢魔』と書いてあるんだけど、良く見るとその前に『悪』って掠れた字であるんだ。つまり『悪夢魔』……死んだ男は最期に、これは僕らにとって恐怖そのものだ、と言ったけど、通説通りの夢魔なら緩やかな死が訪れるものなんだ。しかもとり憑かれた者は淫蕩な悪夢を見ながら、ね。だけどあの場に居た者なら見たよね」
ごくり、とマイクロトフは唾を飲み込んだ。
忘れようがない凄惨な情景だった。
男は絶叫を迸らせ、ガクガクと痙攣して死んだ。そのあまりに急激な死と苦しみぬいたような凶相。あの何処にも緩やかさも淫蕩さも無かった。だからこそ次にカミューがその魔手にかかった時、あんなにも心が冷えたのだ。
「確かにあの死に様じゃあ恐怖を感じるね。あの男を調べたけど、やっぱりあれは紛れも無くあの煙によって殺されたんだ。だけど不思議なことにカミューは同じようにとり憑かれたにもかかわらず、まだ生きてるよね」
そうだ生きている。
あの男とカミューとの違いと言えば。
「カミューは『烈火』を発動させていた。それがその魔物に多少なりとも打撃を与えていたのではないか?」
マイクロトフがそう言うと、ルックはこくりと頷いた。
「そうだね、幸いにも火に弱い魔物だったのかもしれない。だけど、その攻撃も完全じゃなかった。即死は免れたけど、あの魔物はまだカミューの中にあってその命を奪おうとしているんだからね」
その名の通りに夢魔の如く、ゆっくりとカミューの命を削り取って。
「直ぐには死なないといっても油断は許されない。早く退治しないとカミューの精力は奪われるばかりで、結局死ぬことになるからね」
つまりルックの言いたいことは、夢魔に似て比なる魔物がカミューにとり憑いていること。
その魔物は本来なら即座に命を奪う凶悪な魔物だが、火の攻撃に弱いらしいこと。
直ぐにでも退治しなければカミューの命が危ないこと。
しかしルックは更に続けた。
「それにね、このままもしこっちの手が間に合わずにカミューが死んでしまったとしたら―――」
その言葉に思わずマイクロトフはルックを睨みつけていた。すると彼は嫌そうに顔を顰めて首を振る。
「ちょっと、仮定の話なんだからそんな怖い顔しないでくれる」
「すまん……」
「いいけどさ……まぁ、それで。魔物がカミューの命を奪えば、奴は間違いなく次の獲物にとり憑くよ。しかも今度はきっとカミューの命を得て充分な力を取り戻して居るはずだから、今回のような猶予は与えられないだろうね」
そこで漸くルックの言いたい事が分かってマイクロトフは顔を険しく顰めた。その傍らでビクトールが喘ぐように言葉を漏らす。
「それってつまり……もしカミューが殺されたとしたら、あっという間に地獄絵図ってことかよ」
「そう。カミューが夢魔の見せる悪夢に呑み込まれてしまえば……そしてあの魔物が次に解き放たれたら、今度こそあの男の言うとおり、僕らは恐怖を味わうだろうね」
そしてルックのそんな言葉に、シン……と会議室が静まり返ったのである。
それから最初に口を開いたのはマイクロトフだった。
「ルック殿、夢魔の退治方法を教えて頂きたい」
マイクロトフの瞳は強い光を湛えて、握り締めた拳は力が込められすぎて震えてすらいない。
ルックはそんな騎士をすうっと見下ろすと、小さく溜息を零した。
「勿論教えるよ。だけど、夢魔の退治は難しいんだ……何しろ他人の悪夢が相手だからね」
「他人の悪夢……?」
マイクロトフが眉根を寄せて聞き返すと、ルックはそうだと頷いた。
「つまり今回の場合なら、退治者はカミューの見ている悪夢と戦わなければいけないってことだよ。果たして彼の見る悪夢はどれ程のものなのかな―――」
酷くなきゃ良いけど。
ルックの呟きに、マイクロトフは更に顔を険しくしたのだった。
1 ← 2 →
3
2003/09/07