lost childhood 20
マイクロトフが次に目覚めた時、辺りはすっかり夜の闇に落ちていた。
朝からまた一日眠っていた事に、思わず愕然としながらマイクロトフはゆっくりと息を吐いた。だがその代わりに身体の重さや意識の酩酊が随分と薄れている。
これなら明日の朝にはもうすっかり元通りになれそうだ。
寝床の中でこぶしを握りこんだマイクロトフは、そこで初めて隣で眠る別の存在に気がついた。
そう広くはない寝台の上で、並んで眠ることにはすっかり慣れてしまった。自分は朝早くに起きるからいつも外側で、カミューは壁際に眠る癖がついている。
しかし今は、自分が壁の方に横たわり、カミューの腕が腰に絡んでまるで何処にも行けないように包み込んでいるような格好になっていた。
「………」
僅かに首をめぐらせば直ぐ目の前にカミューの寝顔があった。
朝に感じた萎れたような印象は相変わらずで、目を閉じているだけにいっそうだった。きっと、マイクロトフだけでなくカミューも随分消耗したに違いなかった。なにしろ夢魔に取り憑かれた当の本人なのだから。
それでも早くに目覚めて、ルックやシュウなどと夢魔について緊急の意見を交わして、一応の決着を確認しあっていたのだろう。自分の中で起きた様々な変化に大騒ぎする事もなく。
涼しい顔をしてやり遂げていったのだろう情景が目に浮かぶ。
優男風な外見に反してカミューの芯は強い。我慢強いと言うよりもなかなか折れない頑なさを持っているのだ。それは彼の称えるべき長所でありながら、一方では彼自身の足元を救う危険性を孕んでいる。その事実を今回嫌と言うほど思い知ったのはマイクロトフだ。
幼い頃からカミューのそんなところは変わっていなかったらしい。
並外れた苦痛を、何年間も押し殺し続けていられる頑なさなど、無い方が良い。
しかも、カミューのこの調子では、まだ他になにか隠していてもおかしくはないはずだ。
宵闇の中でマイクロトフは微かな吐息を零す。
まぁ、そんなカミューだと分かっていながらのこれまでの付き合いなのだから、そんな隠し事も全て受け止めてやれる心構えは出来ている。
まだまだ、先は長い。
一生のうちでどれほどカミューを解き明かすことができるのか、それを探るのもまた遣り甲斐があることだろう。
マイクロトフは握り込んでいたこぶしを開いて、静かに眠るカミューの自分の腰に絡む手に重ねてもう一度目を閉じようとした。
ところが。
不意にカミューの右手が暗闇の中、ぽっと赤く炎をともした。幻影の炎―――『烈火』がと思った瞬間、マイクロトフはその炎の中に、再び意識を取り込まれていた。
またか、と流石に二度目になると落ち着いたもので、マイクロトフはぐるりと周囲を見回した。
何故、『烈火の紋章』は再びマイクロトフを招待したのだろうか。まだ、なにかあるのか……考えを巡らせ始めたところで目の前に広がった情景に考えが止まる。
直ぐ側に幼いカミューが眠っている。
『烈火』がまだ見せたい記憶があるのだろうかと思う。だがいったいどうしてと首を傾げた時、眠るカミューを見下ろす大きな影が在ることに気付いた。
誰だと思った時、小さく掠れた声がした。
「カミュー……」
それはカミューの父の声だった。名と共に伸ばされた手が、眠る幼子の額を撫でてさらりと髪を梳く。それから、小さな肩に触れてそっと右手まで辿り着いた。
そしてマイクロトフの視界が真っ暗になった。それはつまりカミューの父の手がその右手を握っていることに他ならない。
そこで、また声がした。
「カミュー…」
小さな声だ。昼間に彼を怒鳴りつけるそれと、同じ声だとは信じられないほど優しく弱い。いったいこの父は、眠る息子を見て何を考えているのか。
暫く視界は暗いままだったが、不意に遠くから別の声が聞こえた。
「……た…―――あなた。どこにいるの、あなた?」
義母の声だった。
途端にぱっと父の手が離れて、薄闇の中で遠ざかる背中が見える。そして扉が開かれ一瞬光が室内を照らしてまた暗くなる。それから、また声が聞こえた。
「あぁ、あなたどこにいらしたの」
弱く震えた義母の声。
「すまないユリア。俺はちゃんとここにいる」
応じる声は確りとしていて、優しい。
「不安なの、お願いあなた一緒にいて頂戴」
「いるとも。ユリア、今夜は静かな夜だ、良く眠れるだろう」
「でもあの夜に似ているわ、怖いわあなた。また、あんなことになったら」
「大丈夫だ。あの子は厳しく躾けてある。それに俺の子だ……間違ったことは絶対にせんよ」
「ええ、ええでもあなた……」
「さぁもう寝なさい。不安ならずっと手を握っていてやろう」
「あなた。でもね……」
声が遠ざかっていく。
怯えきった声と、それを何度となく宥めて落ち着かせようとする声。
刹那、マイクロトフは知った。
―――カミュー……貴様と言う奴は……っ!
あの火事の日。
カミューの右手に浮かぶ陰影を見て父がうめく様に言ったのは。
―――この悪魔め…! やはりおまえは俺の子ではなく、あの魔女の息子だったのだな!
あれは期待を裏切られたと思った故の言葉だったのだろうか。憎しみから吐き出された言葉ではなく……? 信じていたがための、怒りだったというのか。
父は、息子を信じていたかったのか。
俺の子だからと……。
だが、とマイクロトフは思った。最後の最後で信じられなかったあの男は、やはり自ら墓穴を掘ったのだ。あの時カミューを信じていれば、息子の言葉に耳を傾けていれば、悲劇は起きなかったかもしれない。
しかしそれも今となっては、どうしようもないことだ。
それにしてもなんと悲しい親子だったのだろう。
最初はほんのわずかな歯車の狂いだったのに。
徐々に徐々に大きくずれていく狂いの連鎖。
最終的に誰の心にも大きな傷跡を残して、そして親子の別離をもって収束した。
カミューは未だに父との蟠りを捨て切れずにいるのだろうか。信じてもらえなかった悲しみと、殺されかけた恐怖はまだ鮮明なのか。
本当は父親もおまえを確かに愛していたのだぞ、と今見た情景を彼に教えてやるべきなのだろうか。
ところがそんなマイクロトフの腕を、唐突に掴むものがいた。
「……っ!!」
驚いたのは言うまでもない。なにしろここは『烈火の紋章』の中だ。他に誰がいると思うだろうか。
ぎょっとして振り向いたマイクロトフは、しかしそこに思いがけない人物を見つけてまたあんぐりと口を開いた。
小さな手でマイクロトフの服の袖を握り締めて離さず、足元から見上げるようにしてじっとこちらを見ている、そのあどけない姿。
「……カミュー?」
そこにいたのは、先ほど烈火の記憶が見せたままの、幼いカミューだった。
いや―――これは。
眉根を寄せてマイクロトフは唸る。
違う、これは。
「おまえは『夢魔』か」
すると幼いカミューはこくりと頷いて微笑んだ。
確かにここは『烈火の紋章』の中。そこに居着いてしまったと言う『夢魔』が現れたとして不思議はない。だがしかし、この姿はどうだろうか。
幽界で見た通りのあどけない姿でにこにこと機嫌良くしている。その、まるでマイクロトフを慕っているような表情に戸惑わずにはいられない。
「何故」
だが、かつての空恐ろしさの欠片もない子供は、本当に小さな身体を精一杯に伸ばしてマイクロトフにその場に屈むように手振りで示す。仕方がなく膝をついて目線を合わせると、幼い手が伸びてぎゅうっと首筋に抱きつかれた。
「おい?」
だが耳元からは嬉しそうなくすくすと笑う声がするばかりだ。もしかして、夢魔は口が利けないのだろうか。疑問に思った時、唐突に聞き慣れない声が響いた。
『好き』
幼いカミューの声ではない。だが、甲高い子供の声だった。
マイクロトフは思わず子供の身体を引き離すとその顔を見た。すると小さな口がゆっくりと動いて、またたどたどしい声が響く。
『マイクロトフ、好き』
嬉しそうに、言う。その声は子供の口からではなく直接頭の奥に響いてくるようだった。
マイクロトフは戸惑いながらその子供の肩を掴む。
「おまえか?」
すると子供はこくりと頷いた。そしてまたくしゃりと笑う。
『好き』
全開の笑顔でそう言うものだから、マイクロトフも警戒心を丸出しに出来ずに、恐る恐るながらもう片方の手で小さな頭を撫でてみた。
「おまえは、夢魔なのだな? どうしてカミューの姿をしているんだ」
どうにも外見がカミューなだけに、突き放し難い。可愛くて可愛くて、しかも開け放したような笑顔がまた可愛い。
「もっと別の姿で出て来れば良いものを……」
ところがそんなマイクロトフに、夢魔は少しだけ困ったような顔をして首を傾げた。そして。
『知らない。これか、これしか、ない』
と、そこで不意に小さな姿が霧のように形をおぼろげにしたかと思うと一瞬でその姿を変えた。
「うわ!」
思わず触れていた手を離してしまったマイクロトフに罪はない。そこには幼いカミューではなく、あの死んでしまったハイランドの狂人じみた男が座りこんでいたのだ。
病んだような陰気な顔で、しかしにたにたと笑ってマイクロトフを見ている。
「……なるほど、そういうことか」
恐らくこの夢魔には実体などないのだ。そして何かの形を得るには取り憑いた者の姿を利用するしかないのだ。きっとそうに違いない。
マイクロトフは気不味い思いで、にたにたと自分を見て笑う男に、がっくりと項垂れた。
「すまん。俺がどうこう言える立場ではないのだろうが、さっきのカミューの姿に戻ってくれんか」
どうにもこうにも、気持ち悪い。
これならまだ幼いカミューの方が良い。いや、断然そっちの方が良い。
すると夢魔は再び形を失い、瞬時で可愛らしい姿に戻った。マイクロトフは密かに頷くと、再びその肩に手を置いた。
「それでだな。俺に何か用か?」
もしかしたら、『烈火』の中にマイクロトフを呼んだのは夢魔かもしれない。すると夢魔はこっくりと頷いて、両手を差し伸べてきた。その手を取って握ってやるとふわりと笑う。
「うん?」
『好き』
「ああ」
『カミューと同じ』
「ん?」
『カミューは、マイクロトフが好き』
「……む」
『好き、が、嬉しい。気持ち良くて、嬉しい』
まるで大切な宝物を見つけたような顔をする。その幼い笑顔をマイクロトフは呆然と見つめながら、ルックの言葉を思い出していた。
生まれたばかりの不安定な存在。
ハイランドの研究者によって作り出された存在は、恐らく驚異的な兵器となる事を望まれていたのだろう。だが、一人目の命を非情に奪い去って次の被害者としてカミューを選び、そこでカミューの悪夢に深く食い込んだ。
カミューも言っていた。同調し過ぎて、一緒に解放されたのではないか、と。
もしかしたら、恐怖しか知らなかった夢魔にとって、愛情という感情をカミューの意識を介して知った時、その存在意義が変容してしまったのかもしれない。
好き。
嬉しい。
気持ち良い。
どれもこれも、人を恐怖に陥れる負の感情とは正反対のものだ。
「……そうか」
マイクロトフはその小さな身体を思わず抱き寄せていた。
「それで、おまえはここに居るのだな」
『マイクロトフが、好き』
たどたどしい言葉がとても切なく響いてくる。恐怖の体現としてこの世に生みだされた夢魔が、人を想う感情を必死で学び取ろうとしている。
「ああ」
マイクロトフは頷いてその背を撫でる。すると腕の中で夢魔は、でもと顔を上げてにっこりと告げた。
『でも、カミューも好き』
思わず目を瞠り、それからマイクロトフも笑った。
「そうか。俺もカミューが好きなんだ」
すると夢魔はそこでぎゅっとマイクロトフの腕を掴んで言った。
『だから、ここに居たい』
大きな瞳が揺れて、少しだけ不安そうにマイクロトフを見つめる。
『もう……なにも出来ない。でも、ここに居たい』
「―――カミューはおまえを追い出そうとしたか?」
子供は小さく首を左右に振った。それを見てマイクロトフは笑顔のまま頷いてやる。
「ならば、居ると良い。そしてカミューと共に生きるが良い」
どうやら『烈火の紋章』もそれを容認している。でなければ最初から夢魔がここに居られるわけがない。
夢魔としての力がもうないのならば、ただ存在していたいだけならば、それでも良いということなのだろう。その、考えてみれば哀れな存在を、マイクロトフは優しく抱き締めてやる。
「俺もおまえを認めよう……カミューがおまえを認めたようにな」
『マイクロトフ』
嬉しそうな声が響く。
『好き』
ひときわ大きく、頭に響く。
『ずっと、好き』
温かな気配が周囲を包む。
だが、ふっと腕の中の存在が消えて、辺りがまるで朝焼けのような橙色に染まった。
「なんだ」
突然の変貌にマイクロトフは立ち上がる。
烈火が何かを言おうとしているのか。しかし聞こえてきたのはたどたどしい子供の声だった。
『マイクロトフ。いつか、カミューに教えてあげてね』
「何をだ?」
立ち上がり橙色の周囲を見回しても夢魔は何処にもいない。ただ声だけが響いてくる。
『烈火が見せた過去のこと。カミューの知らないこと。もうカミューは大丈夫だから』
「父親のことか」
『昔話に、できるから』
響く声が徐々に小さくなっていく。
「夢魔!」
『好き』
そして、唐突に景色が白色に輝いた。
「……朝、か」
目を開ければ窓から眩しい朝の光が室内を満たしている。
のっそりと起き上がり、マイクロトフは髪を掻き乱した。
元から夢など滅多に見ないだけに、寝ている間にあれこれあると目覚めた時にやたらと疲れた気分になる。
爽やかな早朝には不似合いな溜息を零して、マイクロトフは首を巡らし傍らに眠る男を見下ろした。
「………」
その右手はもうなんの輝きも発していない。これまでどおり、普通の固定紋章としてそこにあるだけだ。
「持ち主に似て人を振り回すのが得意だな」
呟いてマイクロトフはカミューの額に手を伸ばし、前髪を梳く。それから、白い光の溢れる窓へと視線を移した。
夢が終わる時は、夜が明けた時。
直感でしかないが、おそらく夢魔はもう二度とああして出てくる事はないだろう。『烈火』がマイクロトフを呼ぶことも、無い気がする。
きっとまた、マイクロトフには馴染み深い日常が戻るだけなのだ。
少しだけ変わるのはカミューの事だけで。
これからいくらでも彼の昔話を聞けるに違いない。
『烈火』がマイクロトフに見せなかったものが、まだ沢山あるのだから、今からそれを聞くのが楽しみだ。暫くは酒の上での会話に尽きることがないはずだ。
気がつけば口元に笑みが浮かんでいる。
マイクロトフは掌で触れていたカミューの額をさらりと撫でると、身を屈めてその寝顔に口付けた。それから、柔らかな手触りの髪を撫でて離れる。
そして。
三日ぶりの早朝訓練には、まだ早いだろう時刻。
マイクロトフは寝台から起き上がると、手早く身支度を整え、ダンスニーを手に意気揚々と道場へと向かったのだった。
end
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2004/04/05