lost childhood 19


 大きく息を吸い込んだ途端、激しく咳き込んでマイクロトフは勢い良く起き上がった。

 それを、見守っていたのは同盟軍の面々だった。
 ぐるりと見回せばそこはマイクロトフに宛がわれていた一室の寝台で、室内には会議室に集っていた全員がぎゅうぎゅうと立ちつくしている。寝台際には軍主の少年が心配そうな顔をして覗き込んでいた。
「マイクロトフさん、大丈夫?」
「む……」
 応じようとするものの、まるで酒にでも酔ったかのような酩酊感にぐらりと敷布に沈んでしまう。しかもやけに眩しくて目を眇めつつ掌で顔を覆った。
「……カミューは…」
 夢の中。
 目の前で掻き消えたのを覚えている。
 だが今見回した室内に、彼の姿は無かった。
「カミューは、どうしました」
 今度は自律的に起き上がり、ひどく重く感じる身体を腕をついて支える。おい、と止めるビクトールの声がしたが、焦る気持ちは抑えられない。
 すると別の方向から溜息まじりの声がかけられた。
「呆れたね」
 振り返れば風使いの少年が杖に寄りかかるようにして立っている。
「ルック殿!」
「いったい、あなたたち幽界でなにをしでかしてきたわけ? 本当に呆れるよ。人の忠告をなんだと思ってるのさ」
 どうやら怒っているらしいルックの物言いに、マイクロトフの顔がさーっと青褪めていく。
「ルック殿、教えてください。カミューは!」
 腕を伸ばし、緑色の衣の裾を掴んでマイクロトフは問い掛ける。すると、ふっとルックの表情が緩んだ。え、と思うと何故だか少年や傭兵が笑っている。
「な……?」
「安心しなよ。カミューは無事だ―――信じられないけど、夢魔も消えた」
「消えた……」
 直ぐには言葉の意味が飲み込めず、マイクロトフは呟く。
 すると、そこで唐突に部屋の扉が開かれた。
 ノックもなく、マイクロトフの部屋に入ってくる人間は限られている。
「カミュー!」
「あ、起きてる」
 お互いに吃驚した目を見交わして、あんぐりとする。
 カミューはしかし直ぐに我に返ると、手にしていた盆をさっさと卓上に置いた。そして傭兵を退かして寝台側までずんずんと歩み寄る。
「良かったマイクロトフ……」
 ホッとしたような声音のカミューは、間近で見ると何処となく萎れているように見えた。だが顔色は決して悪くはなく、どちらかと言えば晴々とした表情をしている。
「カミュー」
「うん。俺は大丈夫……あれから直ぐに目覚めたんだ」
 滲むように微笑んでカミューはマイクロトフのこめかみへと手を伸ばした。少しひやりとした掌が慰撫するようにそこに触れる感触に、マイクロトフは目を伏せる。
「マイクロトフは、でも起きなかったんだ。だから一度部屋まで運んで目覚めるのを待ってた。もう、朝なんだよ」
「なに?」
「そう。丸一日寝ていた計算になるんだって」
 カミューがくすりと笑う。しかしその向こうではルックが相変わらずの無表情でむっつりしている。
「呑気にぐうぐう寝てくれてさ。そりゃ、魔力の低い人間が幽界なんかに意識を飛ばすのは大変だよ。すごく消耗したのは分かるけど、このまま目が覚めなかったらどうしてくれようかと思ったね」
 そんなルックの憮然とした言葉にぎょっとしたのはビクトールだった。
「でもルック。おまえ疲れて寝てるだけだから朝になりゃ目が覚めるだろって言ってたじゃねえか。あれはおまえ」
「そうでも言わないと皆煩いじゃないか。特にそこの赤い人がさ」
 そしてやる気をなくしたかのように、やれやれとそっぽを向いてしまうルックに、カミューはしかし苦笑を浮かべている。
「そんな。私はマイクロトフがちゃんと目覚めてくれるのは分かっていましたよ」
 煩くなど言いません。
 言ってカミューはマイクロトフのこめかみから手を離した。それに合わせて再び顔を上げると、誰もがホッとしたような目で見ている事に気付く。
 どうやら随分心配させてしまったらしい。
「毎朝同じ時間に起きるおまえだから、皆そろそろ目が覚める頃なんじゃないかと言ってね」
 朝っぱらから集まっていたのだとカミューが言う。そのカミューは一晩中いたようだったが、ちょうど飲み水を調達に出ていたらしい。
 マイクロトフはそれを聞いて部屋の中にいる面々をゆっくりと見回した。そしてぐっと頭を下げる。
「申し訳ない―――俺は、もう大丈夫です」
 有難い気持ちと申し訳ない気持ちがせめぎあい、マイクロトフは感謝しつつ詫びた。するとまたカミューが手を伸ばしてくる。ぐい、と顎を掴んで上を向かされた。
「だめ。熱があるんだから全然大丈夫じゃないだろ」
「カ…!」
「良いから、今日は大人しく休んでいろ。大体の事情は昨夜、俺が説明したからね」
「なに?」
 そして聞けば、カミューの方は直ぐに覚醒したのだという。

 会議室で二日ぶりに目覚めたカミューに、ずっと眠る二人をまんじりともせず見守っていた全員が安堵の笑みを浮かべた。
 だが一人、ルックだけが奇妙な顔をしていたのだ。
『……どういうこと?』
 実はカミューが目覚める少し前からルックは首を捻っていたのだ。その困惑した声にキリィが振り向いた。
『どうかしたか―――』
『どうもこうも……信じられない。禍々しさがない』
 杖を両手で握り締めてそう呟いたルックに、答えたのはカミューだった。
『夢魔、ですか』
 目覚めたばかりで本調子ではないのか、掠れた声のカミューをルックが厳しい目で見る。
『僕はあなたの夢を覗いてはいないから、全く事情が掴めていないんだ。教えてくれないかな。夢魔はどうしたの』
 それに対して、カミューはふむ、と頷いてからにこりと笑った。
『消えました』

 そこまで聞いてマイクロトフもまた剣呑な目をする。
 すっかり忘れていたが、そうだったのだ。夢魔の存在があったのだ。
 しかし。
「消えた、だと!?」
 思わず低い恫喝するような声が出たのだが、カミューは何だかやけに穏やかな目をして、うん、と頷くのだ。
「正確には、存在をひそめた……かな。烈火が前までと少し違うから」
 そしてひらひらと己の右手を振って見せる。
 今は何の変哲も無いが、魔力を集中させれば途端に炎の陰影が甲に浮かぶ、紋章の宿った右手だ。カミューは左手でその甲をさらりと撫でると首を傾げて苦笑う。
「俺もまだ戸惑っているんだけど、生まれつきのものでも、やっぱり紋章というのは不思議な代物だね」
 するとルックが殊更大袈裟に溜息をまた零した。
「僕が思うにあの夢魔はハイランドの連中に作り出された未熟な、紋章に似て非なる存在だったんだろうね。粗悪な封印球の中に納められていたから。それを突然叩き割られて、夢魔は自分の存在意義そのままに人に取り憑いて殺そうとした―――だけど、カミューに取り憑こうとしたところで、思いもよらない攻撃を受けてしまった」
 その言葉にカミューが頷く。
「きっと、紋章としてまだまだ形にもなりきれていないものだったのではないか、とね。烈火の攻撃で弱りきって、そこで俺の意識に深く食い込んでなんとか消滅を免れようと足掻いた……」
 どうやらその辺りは十分に意見を交わしあった後らしく、ルックもまた頷き返して続けた。
「足掻いた結果、夢魔は居着いてしまったわけさ。普通なら考えられないと思うんだけど、まぁあなたたちに常識を当てはめるのも可笑しな話だしね」
 ひょいと肩を竦めたルックに、マイクロトフは咄嗟に頷き損ねた。だいいち、まだ少しよく分からない。
「……居着いた、と言うと。つまり…」
 あんな厄介な存在がカミューに、居着いた?
 なんだか背中の方から嫌な汗が滲み出てくるような感じがする。しかし当のカミューはあっけらかんとしていて、微笑んでさえいる。
「うん、つまりね、あいつは俺の悪夢に同調し過ぎたんだ―――それで、幼い俺が解放された時、夢魔も一緒に解き放たれた。でもその後にどうしようかとうろうろするわけにもいかなくて、あの夢魔は手近なところで俺の烈火の中に居所を決めたらしい」
 納められていた封印球は砕け散ってしまっていたしね、とカミューは言う。
「まぁ、いわゆる紋章の間借りというのかなぁ? 烈火も大して変わらないし、すっかり落ち着いて嫌な感じも全くしないから、それはそれで構わないと思うんだ」
 呑気な口調である。
 なんだか、すっかり毒気を抜かれてしまったマイクロトフは、眩暈を感じるままに前のめりに身体を倒した。
「……それで良いのか…」
 掌で目の前を覆いながら呟くが、何故だか喉奥から笑いが込みあげてくる。
「俺は、それでは夢魔も一緒に抱き締めて守ったということか」
 だとすれば、辛い苦しいと泣いていたのは夢魔もまた同じだったのか。
 するとカミューが笑み混じりに頷いてそんなマイクロトフの頭を撫でた。
「嬉しそうに笑っていただろう? 俺も嬉しかったけど、きっと奴も嬉しかったんだよ」
「俺は奴に随分と酷い目に合わされた気がするんだが」
「まぁ水に流すしかないよね。なにしろ、あいつはもう俺の一部でもあるわけだし」
 唸るマイクロトフをなんだかんだと宥めるカミューだ。その頭を撫でる手を掴んで、むすっと睨んでやった。
「では、この収まりきらん腹立ちはおまえにぶつければ良いのか?」
「え…そ、それはちょっと…」
 ひくり、と引き攣ったカミューに、だがマイクロトフは堪え切れず込みあげる笑いを口元に載せた。
「冗談だ。夢魔が脅威でなくなったのならば、それで良い。しかし、今後また問題が起きるような事はないのか?」
「ないと思うよ」
 ルックが断言した。
「嫌な感じが綺麗に消え去っているんだ。全く信じられない話だけど」
 そこのところがルックには納得しかねるのか、また怒ったような目をする。
「夢魔を退治するでなく、追い出すでなく、逆に取り込んでしまうなんてね。聞いたこともない話だよ」
 自分の中の常識から外れるのが腹立たしいのかなんなのか、だがそういうルックの瞳は、気の所為でなければ何処か羨むような色を宿している。
「あなた達は全くさ……突拍子もないことにかけてはこの同盟軍でも随一だよね。ま、あんなにご大層な騎士団から部下の半数を引きつれて離反してくるくらいの無茶をしてくれるんだから、それも当然かな」
 まるで、自分にはないものを目の前にしながら、どうしても手を伸ばせない苛立ちを感じているかのような、ルックの言葉。
 だがそれに対してなにかを言い返そうとする前に、ルックの纏っていた空気がふっと変わる。俯き加減だった顔がすっと上を向いたときにはもう、その奇妙な苛立ちは払拭されてしまっていた。
「あの夢魔は本当に生まれたばかりの不安定な存在だったんだと思うよ。だけど今は烈火を介してカミューの右手にすっかり落ち着いている。安定しているんだ……安定し過ぎて外せないのがまた難しいところだけど」
「……外れんのか」
「あ、うん。ジーン殿に見てもらったんだけど、烈火と同じでどうしても外れないらしいよ」
 あはは、と笑うカミューにマイクロトフはまた唸る。

 これがあれだけ大騒ぎした問題の顛末なのかと思うと、あっさり喜んで良いものかどうなのか。だがカミューがこの調子ではマイクロトフがどうこう口を挟めることでもない。
 嘆息と共に激しい脱力感にゆるゆると首を振る。
「カミューが、それで構わんのなら俺はそれで良いがな」
「うん」
「……取り敢えず、後で一発殴らせろ」
「え」
 と、そこで限界がやってきた。
「マイクロトフ!?」
 急速に気が遠くなる。
 確かルックが魔力が低い者が幽界に行くと消耗すると言っていなかったか。だがそんな話は聞いていなかった気がするぞ、とマイクロトフは遠ざかる意識の中で考える。
 とにかく、全ては人を散々心配させて振り回してくれたカミューに、また後でめいっぱい文句を言ってやろうと心に決めて、マイクロトフはばったりと寝台に沈み込んで意識を手放したのだった。



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2004/04/04