return is impossible 1


 苦学生、という響きはどこか不思議なものを感じるような気がする。
 つい最前に言われたその言葉の意味を考えつつ、マイクロトフはぼんやりと歩いていた。向かう先は大学の敷地内にある図書館である。本を買う金がないから毎日のように利用するわけだが、広い敷地内を自転車で移動する学生が多い中、徒歩で往来するマイクロトフに対して友人が言ったのだ。
 ―――相変わらず苦学生だな。
 『苦』という単語の理由が分からない。いかな大学の敷地内にあるとはいえ、その広大さに教室から図書館まで歩いてそれなりの時間を要する。しかしその距離と時間をマイクロトフは苦とも思っていないのだ。どころか歩く事は健康に良いし、行き過ぎる友人たちと挨拶を交わして行く機会は得がたいと思う。
 それにどんな本も読みたいだけ置いてある図書館を利用するのは、ごく当たり前の事だと思うのだ。またあの古式蒼然とした建物の造りといい、静謐とした館内の気配といい居心地も良い。
 わざわざ本屋で探して買い求め、そう広くも無い己の部屋を本で埋めるのも賢いとは思えないし、やはり図書館に通う事がすなわち苦学生であると断じられるのは―――おかしいと思う。
 そこまで考えて納得したところで、いつの間にかマイクロトフは図書館の前に立っていた。数人の学生が出入りするかたわら、市民も自由に出入りできるこの図書館は建物と蔵書の寄贈者の長ったらしい名前が付いていたはずだがどうにも覚えていない。まあそんな事はどうでも良いのだと、いつものように入り口を通り抜けて真直ぐに受付へと向かった。
 一週間前に借りた本を返却するためである。
 だがそこに顔見知りのエミリア女史の姿はなかった。代わりに見覚えの無い男がいる。マイクロトフがバッグから本を数冊取り出してカウンターに載せるのだが、男は気付かずに熱心に俯いてなにかの作業を続けていた。
 金茶色の髪が館内の橙色の灯りを受けて飴色に映る。伏せられた顔は良く見えないが、見た感じ若い男で座ってはいるが背は高いようだった。図書館員と呼ぶには―――差別は無いがマイクロトフの知る男性の図書館員は細身の勉学家タイプが多い―――不似合いな容姿をしているようだ。それにそもそも図書館員は女性が多いのでそこにこういう男性がいるのはひどく珍しい光景だった。
「……返却をしたいのだが」
 声をかけるとふっと伏せられていた顔が持ち上がって、ばちっと目が合う。そしてマイクロトフは見下ろしたその顔の整いぶりに密かに感心してしまった。
 驚いたように見開いた目は淡い色合いで落ち着いて、薄く開いた唇は綺麗に色づいて随分とセクシャルな印象を受ける。そしてすっと通った鼻梁と尖った顎の輪郭は男らしい美しさがあって、そうした事に疎いマイクロトフでもこれは女性に随分と好感を寄せられるだろうにと思った。
 だが、暫くそうして黙って視線を合わせていたのだが、目の前のそれはずっと驚いたような表情のまま同じくマイクロトフを凝視して動かない。次第に気まずくなってマイクロトフはカウンターに置いた本をトンと指先で叩いた。
「返却を、したいのだが」
「………あ」
 小さく漏れた声は、不思議とすんなりとマイクロトフの耳に入ってきた。聞き馴染みのいい声だとぼんやりと思いながら、本をすっと彼の方に押し出した。
「よろしく頼む」
「あ……あ、はい、はい」
 途端に慌てたようにその本に手を伸ばした図書館員は、しかし慣れていないのか不必要に両手をわたわたと動かしながら立ち上がり、カウンターの本を両手で取り上げてじっとマイクロトフを見た。
 だが、そうしてじっと見られても困るのだが。
「確認を、しないのか?」
「え? ……ああ!」
 そこで初めて気付いたかのように、男は再び椅子に座り本を裏返しに置くとバーコードを機械で読み込んだ。ピッピッと電子音が響いてのちカウンターの向こうにあるモニターを覗きこんで男は再びマイクロトフの顔を見た。
「マイクロトフさんと、仰るんですね?」
「ああ」
 なんだかやけに真剣な顔をして訊ねてくるのにマイクロトフは戸惑いつつ頷いて応える。返却期日を超過していただろうか。いや、そんな事はなかった筈だが。
 首を傾げていると不意に目の前の男はにっこりと微笑んだ。
「確かに。えっと、今日は返却だけですか? 何か借りたりとかは…?」
「あぁ、また借りるが」
「何か探す時はまた声をかけて下さいね。いつでも」
「……有難う」
 やけに親切な図書館員だなと思いつつマイクロトフは礼を言ってそこから離れた。だがマイクロトフがそうして館内を奥へと進み、その姿が見えなくなるまでその背をじっと追う視線には気付く事はなかった。
 そしてその出会いは、確実に彼らのそれからに影響を及ぼすものだった。だがそれもまた新たな図書を探して並ぶ本の背表紙に目を走らせるマイクロトフが知り得るはずもなかった。



 結局、新たな貸し出しの手続きも同じ図書館員の男に頼んだマイクロトフだった。手続きと言ってもやはりカードを差込みバーコードをペンライトで読み込むだけの単純作業なのだが。
 矢鱈と愛想の良いその図書館員はマイクロトフが去る時も「またお会いしましょうね」と声をかけて来て、つまりはまた図書館を利用しろと言う意味なのだろうと受け取って「ああ」と頷いた。するとそれまでに数度見た彼の笑顔の中で最上級とも呼べるような笑顔で返されて暫し固まってしまった。
 初対面のマイクロトフにアレほどの愛想で、その上にあの美形と言って遜色ない顔では彼はよっぽどもてるに違い無いと考えつつ、マイクロトフはやはり歩いて大学内のバス停に向かったのだった。

 マイクロトフの部屋は大学からバスで二十分ほどの場所に在る。
 部屋に戻ると直ぐにバッグから借りた本を出し、そのまままた部屋を出る。近くのカフェバーでバイトをしているためだ。日が落ちてからは酒も出すそこの店主とは知り合いで、給金やバイトの時間帯で随分と優遇をして貰っている。
 なので多少遅れてもなんの文句も言われ無いのだがそこはそれ、時間に遅れるのを決して善しとはしないマイクロトフは駆け足で店まで向かった。

 シックな深緑に塗装された扉を横目に、従業員用の出入り口に鍵を差込み入り込む。物置代わりの従業員用の準備室で、戸棚のひとつにバッグを放り込むと上着を脱いで壁にかけてあるエプロンを腰に巻く。
 がちゃりと店内に通じる扉を開けるといつもの場所に店主のレオナが優雅に腰掛けて、東洋の煙管から煙りをくゆらせていた。
「遅くなりました」
「あら、時間には間に合っているけれど?」
 いつもマイクロトフには見慣れない美しい装飾の中国のものらしい衣服に身を包む店主のレオナは、きわどいスリットの入ったその裾から覗く足を組み変えつつ答えた。
 昼間は中国系の茶を、夜は世界各国の多種多様な酒を出す店は、目立ちはしないがその分常連の多い店であった。マイクロトフはここで専ら給仕をしているが、時に料理も作るし酒も作る。昼はレオナ一人で充分らしいが、夜は客も増えるのでマイクロトフが遅れると大変なことになる。
「準備がある」
 寡黙に告げてマイクロトフは手早く準備に入った。酒の肴となる一品料理の下拵えや、テーブルにクロスをかけて小さな花瓶を下げてランプを置く。店内を夜の雰囲気に装飾し終えるところで、一人目の客が来店した。

「よう、レオナ。マイクロトフも元気か」
 常連客のフリックが早い時間にここに来るのは珍しい事だった。小学校の教師をしている彼はいつも夜遅くまで働いている。昨今の教職と言うのはいろんな問題を抱えており、ただ子供に勉強を教えていれば良いと言うものではない。そこにきて真面目で人の良いフリックである、いつか過労死するぞと酒を飲みながら悪態を吐きつつも、決して辞めようとはしない男だった。
 案の定レオナが驚いた顔をしてフリックを見た。
「いったいどういう風の吹き回しだい?」
 彼は笑って店の入り口で立ち止まり手を振った。
「昔馴染みがこの街に越してきたんだよ。で、案内中だ」
「ふうん、友達かい? 女?」
「いや男だ。高校の同級生でさ。ほら、入れよ」
 そしてすっと横に退いたフリックの向こうから、ひょいと顔を覗かせたのは今日見たばかりのそれだった。
「あ」
 カウンターの中で黙々とグラスを磨いていたマイクロトフが上げた声に、レオナとフリックが振り返る。
「おや、知り合いかい?」
「あ、いや」
 知り合いと呼ぶべきなのかと口籠もるマイクロトフだったが、別の声が爽やかに答えた。
「奇遇だな。今日の昼に会ったばかりなんですよ」
 ね、マイクロトフさん。とにっこり笑って―――昼間の図書館員は―――カミューと名乗った彼はそう言った。



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2002/10/12