return is impossible 2


 どうしてこんな事になっているのだろう。
 マイクロトフは、自分の部屋のベッドで潰れている男を見下ろして溜息を吐いた。
 男の名前はカミューだ。数時間前に大学の図書館で初めて顔を合わせて、その時は彼の素性も名前すらも知らなかった。その後に偶然にもマイクロトフのバイト先に常連客に伴われて彼が訪れた時は多少なりとも驚いたものだ。
 彼は実に愛想良く、話題は楽しく尽きる事がなかった。人は良いが付き合いに不器用なところのあるフリックの友人と言うには随分と社交性のある男で、たちまちに他の女性客の注目を集め、店主のレオナですら彼を気に入ったようだった。
 マイクロトフは注文されるままに酒を作りながら、遠目にそんな彼の様子を感心しながら見ていたのだが、不意にカミューはテーブル席からカウンターへと移って来たのだ。背後に不満を浮かべる女性たちの視線があったのだが、彼は構わずにマイクロトフに微笑みかけてきた。連れのフリックはもうずっと前から疲れていたのだろうか店の隅で健やかな寝息を立てていた。
 そんなフリックを見て、良いのかと聞けばカミューは良いんだと答えてマイクロトフに酒のお代わりを頼んだ。もう随分と過ごしているのでは無いかと聞けば、大丈夫だと答えて平気な顔をして杯を重ねた。
 そして次第に夜が更けるにつれ客の姿が一人二人と消えて行き、店にはフリックとカミューだけが残った。そこで、ぐっすり寝入って起きないフリックと、急に酔い潰れて不明瞭な言葉を言うカミューを見下ろしてレオナとマイクロトフは弱り果てたのだった。
「フリックはまぁ良いさ、ビクトールの汚い部屋に届けりゃ面倒見てくれるだろうけどね。こっちの御仁も一緒にあそこに放り込むには無理があるんじゃないかねえ」
「うむ…」
「かといってあたしの家に連れてくのもまぁなんだし。マイクロトフ、あんた随分懐かれてたじゃないか、泊めておあげよ」
 レオナの言葉にマイクロトフは頷かざるを得なかった。潰れた男を店に放り出して帰るわけにもいかないのだ。それにこの数時間でマイクロトフはこのカミューと言う男に随分と好感を抱くようになっていた。
 彼はその整った風貌だけではなく、知識量や思慮深さ、そこから生まれる考え方こそが魅力的なのだと知った。彼の人間性はとても素晴らしかった。
 そんな男を抱えて部屋に泊めるのになんの不快も感じなかったマイクロトフなのだが、今日会ったばかりの人間を躊躇いなく自分のベッドに横たえていると言う出来事に、少しばかり驚嘆していた。
 マイクロトフは決して人嫌いでも人見知りをするわけでもなかった。だが元来の生真面目さがわざわいしてか、あまり人と気安く付き合うと言う経験がこれまで無かった。それに苦学生と言われるだけあって勉強にバイトにと忙しい日々のおかげで、友人は少なくないのだがその付き合いは希薄だった。だから、無論の事誰かを自分の部屋に招待するなど在り得なかったのだ。
 でもそれは多分、目の前で無防備に眠るこの男の人懐こさによるものが多いからこそなのだろう。

「カミューか……」
 マイクロトフの通う大学の図書館に勤め始めたと言うのだから、これから会う機会は格段に増える事だろう。それこそ、毎日でも顔を合わせるかもしれない。
 良い友人付き合いが出来れば良いのだがと思い、マイクロトフはカミューにベッドを譲り冷え無いようにと毛布をかけてやると、自分はソファーへと身体を押し込めて目を瞑ったのだった。





 早朝、目覚めたマイクロトフは日課のジョギングに出ようとして、まだぐっすりと寝るカミューを一人残しても平気だろうかと暫しの思案に暮れた。だが声を掛けても揺すっても全く起きようとしない様を見て、まぁ大丈夫かと安易に考えてとりあえず部屋を出た。
 清々しい空気を胸いっぱいに吸い込み、近所の公園まで走りそこをぐるりと広く一周して戻ってくる。いつもはゆっくりと四、五十分程かけるのを、今朝はやや急いで三十分ほどで戻った。
 そしてタオルで汗を拭いつつ部屋の扉を開けようとしたところで、それが不意に内側から開いた。危なく顔面をぶつけそうになったマイクロトフだが、持ち前の反射の良さでそれを避けて躱した。
「危ないな」
 ぼそりと零すと部屋の中から「えっ?」と素っ頓狂な声があがった。
 カミューなのだろうと、マイクロトフはそのまま動かない扉に手を掛けてぐいと開くと、部屋の中を覗き込んだ。するとそこには寝癖のついた髪を直しもせず、皺の寄った服を着たカミューがやっぱり驚いた顔をして立ちつくしていた。
「起きたのか」
 その、男前の割に情け無い有様に少しばかり笑みを洩らしつつマイクロトフが問えば、カミューは間抜けな顔のままぎこちなく頷いた。
「あ、あの……」
「まだ寝ていると思っていたのだが、もしかして朝早くから用があるのか?」
「え、いや……別に…」
「ならもう少しゆっくりしていくと良い。これから朝飯を一緒にどうだ」
「…う、うん」
 部屋に入ろうとするマイクロトフに、押されるように後退りして部屋に戻るカミューに笑みを向けて椅子を指し示してやる。
「俺がシャワーを浴びてからになるんだが、どう過ごしても構わんからゆっくり待っていてくれ」
 汗を掻いているからな、と断るとカミューは指示されるままに椅子に座って「うん」とまた頷いた。そのなんとも居心地の悪そうな様子にくすりと笑みを残してマイクロトフはシャワールームへと入った。
 素早く浴びてさっさと水を切って出てくると、椅子に座っていたカミューは戸棚の前に立っていた。そしてシャツとジーンズというラフな格好に着替えたマイクロトフを、彼はハッと驚いて振り返った。その手には棚から取り出したらしい本を持っている。
「あ、これ」
 マイクロトフの視線に慌てたのかカミューはその本の表紙をマイクロトフに見せた。
「珍しい本を持っているんだなって、その、気になってつい」
「気にしなくて良い。興味があるのなら貸すが」
 濡れた髪をタオルで拭きつつ返すと、カミューは一瞬戸惑ってそれから手の中の本を見下ろした。そしてまた迷うような表情でマイクロトフを見る。
「要らないか?」
「あ、いや。借りるよ、貸してくれないか」
「ああ」
「……と、有難う…」
 頷いてその手に持った本を大切な物をそうするように胸に抱えカミューははにかんだ。だがまたハッと顔を上げて口をパクパクとさせた。
「あー、その。泊めてくれて、それも有難う。迷惑をかけてしまって、悪かったね」
「別に迷惑などとは思っていないから謝らなくとも良い」
「そう? 有難う」
 にっこりと微笑んでカミューはまた礼を言った。
 この心から向けられているような笑顔を見られるのなら、泊めたり本を貸したりする事などどうと言うものでも無いだろうとマイクロトフはその笑顔を受け止めながら思った。
「それよりも、俺は朝飯をよく食うんだがカミューはどうなんだ?」
 冷蔵庫を開き中から卵やベーコンなどを取り出しながら、尋ねる。だが返事がなく、どうしたのだろうと振り返れば変わらず本を抱えたままカミューはまたも驚いた顔をして、その上に顔まで赤くしてマイクロトフを見ていた。
「…カミュー?」
「え、あ……その…名前…」
 ぽつぽつと言いながらもかぁーっと更に赤くなっていくカミューである。その言葉の示すところに気付いてマイクロトフは「ああ」と眉を寄せた。
「馴れ馴れしかったか?」
 そう言えば昨夜、店で何気なく話をしていた時に聞いた事には、カミューの方がマイクロトフよりも年上なのだ。それに昨夜のあいだはずっと彼の事を客として扱っていたものだから名を呼んだりはしなかったのだ。
 だから不快に思わせてしまったのだろうかと不安に思って問うたのだが。
「いや全く! あ、俺も君の事をマイクロトフと呼んでも、良いかな」
「良いぞ」
 あっさりと頷けば途端にカミューはぱあっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「じゃあマイクロトフ。俺は朝は人並みにしか食わないんだけど、そのトーストはもしかして一人分かな」
 袋から取り出された一斤のパン。マイクロトフはそれをもう既に三枚ほど切り落としている。
「俺はいつも二枚食うんだが」
「なら俺はその一枚で充分だ」
「目玉焼きの目玉は二個で良いか?」
「一個で」
「ベーコンは四枚くらいか…」
「二枚」
「レタスの葉は……」
「全部、マイクロトフの半分で良いよ」
 くすくすと笑ってカミューはマイクロトフの言葉を遮ってそう言った。
「む、そうか」
「うん。ついでに目玉焼きは半熟でよろしく。…構わないかい?」
「任せろ」
 胸を張ってマイクロトフはトーストをトースターにセットするとフライパンを取り出してコンロの火を点けた。
 自炊経験は長いマイクロトフである。それでなくても自炊するだけで経済的に随分と変わってくるのだから放っておいても料理は上手くなる。目玉焼き程度なら固焼きだろうと半熟だろうと両面焼きだろうと好み次第であった。
 するとカミューはまたにこっと笑って、大人しく椅子に腰掛けた。
「うん、任せるよ」
「うむ」
 親しみのあるその声音を合図に、マイクロトフは卵をボウルに割り入れたのだった。



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2002/10/12