return is impossible
苦学生、という響きはどこか不思議なものを感じるような気がする。
つい最前に言われたその言葉の意味を考えつつ、マイクロトフはぼんやりと歩いていた。向かう先は大学の敷地内にある図書館である。本を買う金がないから毎日のように利用するわけだが、広い敷地内を自転車で移動する学生が多い中、徒歩で往来するマイクロトフに対して友人が言ったのだ。
―――相変わらず苦学生だな。
『苦』という単語の理由が分からない。いかな大学の敷地内にあるとはいえ、その広大さに教室から図書館まで歩いてそれなりの時間を要する。しかしその距離と時間をマイクロトフは苦とも思っていないのだ。どころか歩く事は健康に良いし、行き過ぎる友人たちと挨拶を交わして行く機会は得がたいと思う。
それにどんな本も読みたいだけ置いてある図書館を利用するのは、ごく当たり前の事だと思うのだ。またあの古式蒼然とした建物の造りといい、静謐とした館内の気配といい居心地も良い。
わざわざ本屋で探して買い求め、そう広くも無い己の部屋を本で埋めるのも賢いとは思えないし、やはり図書館に通う事がすなわち苦学生であると断じられるのは―――おかしいと思う。
そこまで考えて納得したところで、いつの間にかマイクロトフは図書館の前に立っていた。数人の学生が出入りするかたわら、市民も自由に出入りできるこの図書館は建物と蔵書の寄贈者の長ったらしい名前が付いていたはずだがどうにも覚えていない。まあそんな事はどうでも良いのだと、いつものように入り口を通り抜けて真直ぐに受付へと向かった。
一週間前に借りた本を返却するためである。
だがそこに顔見知りのエミリア女史の姿はなかった。代わりに見覚えの無い男がいる。マイクロトフがバッグから本を数冊取り出してカウンターに載せるのだが、男は気付かずに熱心に俯いてなにかの作業を続けていた。
金茶色の髪が館内の橙色の灯りを受けて飴色に映る。伏せられた顔は良く見えないが、見た感じ若い男で座ってはいるが背は高いようだった。図書館員と呼ぶには―――差別は無いがマイクロトフの知る男性の図書館員は細身の勉学家タイプが多い―――不似合いな容姿をしているようだ。それにそもそも図書館員は女性が多いのでそこにこういう男性がいるのはひどく珍しい光景だった。
「……返却をしたいのだが」
声をかけるとふっと伏せられていた顔が持ち上がって、ばちっと目が合う。そしてマイクロトフは見下ろしたその顔の整いぶりに密かに感心してしまった。
驚いたように見開いた目は淡い色合いで落ち着いて、薄く開いた唇は綺麗に色づいて随分とセクシャルな印象を受ける。そしてすっと通った鼻梁と尖った顎の輪郭は男らしい美しさがあって、そうした事に疎いマイクロトフでもこれは女性に随分と好感を寄せられるだろうにと思った。
だが、暫くそうして黙って視線を合わせていたのだが、目の前のそれはずっと驚いたような表情のまま同じくマイクロトフを凝視して動かない。次第に気まずくなってマイクロトフはカウンターに置いた本をトンと指先で叩いた。
「返却を、したいのだが」
「………あ」
小さく漏れた声は、不思議とすんなりとマイクロトフの耳に入ってきた。聞き馴染みのいい声だとぼんやりと思いながら、本をすっと彼の方に押し出した。
「よろしく頼む」
「あ……あ、はい、はい」
途端に慌てたようにその本に手を伸ばした図書館員は、しかし慣れていないのか不必要に両手をわたわたと動かしながら立ち上がり、カウンターの本を両手で取り上げてじっとマイクロトフを見た。
だが、そうしてじっと見られても困るのだが。
「確認を、しないのか?」
「え? ……ああ!」
そこで初めて気付いたかのように、男は再び椅子に座り本を裏返しに置くとバーコードを機械で読み込んだ。ピッピッと電子音が響いてのちカウンターの向こうにあるモニターを覗きこんで男は再びマイクロトフの顔を見た。
「マイクロトフさんと、仰るんですね?」
「ああ」
なんだかやけに真剣な顔をして訊ねてくるのにマイクロトフは戸惑いつつ頷いて応える。返却期日を超過していただろうか。いや、そんな事はなかった筈だが。
首を傾げていると不意に目の前の男はにっこりと微笑んだ。
「確かに。えっと、今日は返却だけですか? 何か借りたりとかは…?」
「あぁ、また借りるが」
「何か探す時はまた声をかけて下さいね。いつでも」
「……有難う」
やけに親切な図書館員だなと思いつつマイクロトフは礼を言ってそこから離れた。だがマイクロトフがそうして館内を奥へと進み、その姿が見えなくなるまでその背をじっと追う視線には気付く事はなかった。
そしてその出会いは、確実に彼らのそれからに影響を及ぼすものだった。だがそれもまた新たな図書を探して並ぶ本の背表紙に目を走らせるマイクロトフが知り得るはずもなかった。
結局、新たな貸し出しの手続きも同じ図書館員の男に頼んだマイクロトフだった。手続きと言ってもやはりカードを差込みバーコードをペンライトで読み込むだけの単純作業なのだが。
矢鱈と愛想の良いその図書館員はマイクロトフが去る時も「またお会いしましょうね」と声をかけて来て、つまりはまた図書館を利用しろと言う意味なのだろうと受け取って「ああ」と頷いた。するとそれまでに数度見た彼の笑顔の中で最上級とも呼べるような笑顔で返されて暫し固まってしまった。
初対面のマイクロトフにアレほどの愛想で、その上にあの美形と言って遜色ない顔では彼はよっぽどもてるに違い無いと考えつつ、マイクロトフはやはり歩いて大学内のバス停に向かったのだった。
マイクロトフの部屋は大学からバスで二十分ほどの場所に在る。
部屋に戻ると直ぐにバッグから借りた本を出し、そのまままた部屋を出る。近くのカフェバーでバイトをしているためだ。日が落ちてからは酒も出すそこの店主とは知り合いで、給金やバイトの時間帯で随分と優遇をして貰っている。
なので多少遅れてもなんの文句も言われ無いのだがそこはそれ、時間に遅れるのを決して善しとはしないマイクロトフは駆け足で店まで向かった。
シックな深緑に塗装された扉を横目に、従業員用の出入り口に鍵を差込み入り込む。物置代わりの従業員用の準備室で、戸棚のひとつにバッグを放り込むと上着を脱いで壁にかけてあるエプロンを腰に巻く。
がちゃりと店内に通じる扉を開けるといつもの場所に店主のレオナが優雅に腰掛けて、東洋の煙管から煙りをくゆらせていた。
「遅くなりました」
「あら、時間には間に合っているけれど?」
いつもマイクロトフには見慣れない美しい装飾の中国のものらしい衣服に身を包む店主のレオナは、きわどいスリットの入ったその裾から覗く足を組み変えつつ答えた。
昼間は中国系の茶を、夜は世界各国の多種多様な酒を出す店は、目立ちはしないがその分常連の多い店であった。マイクロトフはここで専ら給仕をしているが、時に料理も作るし酒も作る。昼はレオナ一人で充分らしいが、夜は客も増えるのでマイクロトフが遅れると大変なことになる。
「準備がある」
寡黙に告げてマイクロトフは手早く準備に入った。酒の肴となる一品料理の下拵えや、テーブルにクロスをかけて小さな花瓶を下げてランプを置く。店内を夜の雰囲気に装飾し終えるところで、一人目の客が来店した。
「よう、レオナ。マイクロトフも元気か」
常連客のフリックが早い時間にここに来るのは珍しい事だった。小学校の教師をしている彼はいつも夜遅くまで働いている。昨今の教職と言うのはいろんな問題を抱えており、ただ子供に勉強を教えていれば良いと言うものではない。そこにきて真面目で人の良いフリックである、いつか過労死するぞと酒を飲みながら悪態を吐きつつも、決して辞めようとはしない男だった。
案の定レオナが驚いた顔をしてフリックを見た。
「いったいどういう風の吹き回しだい?」
彼は笑って店の入り口で立ち止まり手を振った。
「昔馴染みがこの街に越してきたんだよ。で、案内中だ」
「ふうん、友達かい? 女?」
「いや男だ。高校の同級生でさ。ほら、入れよ」
そしてすっと横に退いたフリックの向こうから、ひょいと顔を覗かせたのは今日見たばかりのそれだった。
「あ」
カウンターの中で黙々とグラスを磨いていたマイクロトフが上げた声に、レオナとフリックが振り返る。
「おや、知り合いかい?」
「あ、いや」
知り合いと呼ぶべきなのかと口籠もるマイクロトフだったが、別の声が爽やかに答えた。
「奇遇だな。今日の昼に会ったばかりなんですよ」
ね、マイクロトフさん。とにっこり笑って―――昼間の図書館員は―――カミューと名乗った彼はそう言った。
* * * * *
どうしてこんな事になっているのだろう。
マイクロトフは、自分の部屋のベッドで潰れている男を見下ろして溜息を吐いた。
男の名前はカミューだ。数時間前に大学の図書館で初めて顔を合わせて、その時は彼の素性も名前すらも知らなかった。その後に偶然にもマイクロトフのバイト先に常連客に伴われて彼が訪れた時は多少なりとも驚いたものだ。
彼は実に愛想良く、話題は楽しく尽きる事がなかった。人は良いが付き合いに不器用なところのあるフリックの友人と言うには随分と社交性のある男で、たちまちに他の女性客の注目を集め、店主のレオナですら彼を気に入ったようだった。
マイクロトフは注文されるままに酒を作りながら、遠目にそんな彼の様子を感心しながら見ていたのだが、不意にカミューはテーブル席からカウンターへと移って来たのだ。背後に不満を浮かべる女性たちの視線があったのだが、彼は構わずにマイクロトフに微笑みかけてきた。連れのフリックはもうずっと前から疲れていたのだろうか店の隅で健やかな寝息を立てていた。
そんなフリックを見て、良いのかと聞けばカミューは良いんだと答えてマイクロトフに酒のお代わりを頼んだ。もう随分と過ごしているのでは無いかと聞けば、大丈夫だと答えて平気な顔をして杯を重ねた。
そして次第に夜が更けるにつれ客の姿が一人二人と消えて行き、店にはフリックとカミューだけが残った。そこで、ぐっすり寝入って起きないフリックと、急に酔い潰れて不明瞭な言葉を言うカミューを見下ろしてレオナとマイクロトフは弱り果てたのだった。
「フリックはまぁ良いさ、ビクトールの汚い部屋に届けりゃ面倒見てくれるだろうけどね。こっちの御仁も一緒にあそこに放り込むには無理があるんじゃないかねえ」
「うむ…」
「かといってあたしの家に連れてくのもまぁなんだし。マイクロトフ、あんた随分懐かれてたじゃないか、泊めておあげよ」
レオナの言葉にマイクロトフは頷かざるを得なかった。潰れた男を店に放り出して帰るわけにもいかないのだ。それにこの数時間でマイクロトフはこのカミューと言う男に随分と好感を抱くようになっていた。
彼はその整った風貌だけではなく、知識量や思慮深さ、そこから生まれる考え方こそが魅力的なのだと知った。彼の人間性はとても素晴らしかった。
そんな男を抱えて部屋に泊めるのになんの不快も感じなかったマイクロトフなのだが、今日会ったばかりの人間を躊躇いなく自分のベッドに横たえていると言う出来事に、少しばかり驚嘆していた。
マイクロトフは決して人嫌いでも人見知りをするわけでもなかった。だが元来の生真面目さがわざわいしてか、あまり人と気安く付き合うと言う経験がこれまで無かった。それに苦学生と言われるだけあって勉強にバイトにと忙しい日々のおかげで、友人は少なくないのだがその付き合いは希薄だった。だから、無論の事誰かを自分の部屋に招待するなど在り得なかったのだ。
でもそれは多分、目の前で無防備に眠るこの男の人懐こさによるものが多いからこそなのだろう。
「カミューか……」
マイクロトフの通う大学の図書館に勤め始めたと言うのだから、これから会う機会は格段に増える事だろう。それこそ、毎日でも顔を合わせるかもしれない。
良い友人付き合いが出来れば良いのだがと思い、マイクロトフはカミューにベッドを譲り冷え無いようにと毛布をかけてやると、自分はソファーへと身体を押し込めて目を瞑ったのだった。
早朝、目覚めたマイクロトフは日課のジョギングに出ようとして、まだぐっすりと寝るカミューを一人残しても平気だろうかと暫しの思案に暮れた。だが声を掛けても揺すっても全く起きようとしない様を見て、まぁ大丈夫かと安易に考えてとりあえず部屋を出た。
清々しい空気を胸いっぱいに吸い込み、近所の公園まで走りそこをぐるりと広く一周して戻ってくる。いつもはゆっくりと四、五十分程かけるのを、今朝はやや急いで三十分ほどで戻った。
そしてタオルで汗を拭いつつ部屋の扉を開けようとしたところで、それが不意に内側から開いた。危なく顔面をぶつけそうになったマイクロトフだが、持ち前の反射の良さでそれを避けて躱した。
「危ないな」
ぼそりと零すと部屋の中から「えっ?」と素っ頓狂な声があがった。
カミューなのだろうと、マイクロトフはそのまま動かない扉に手を掛けてぐいと開くと、部屋の中を覗き込んだ。するとそこには寝癖のついた髪を直しもせず、皺の寄った服を着たカミューがやっぱり驚いた顔をして立ちつくしていた。
「起きたのか」
その、男前の割に情け無い有様に少しばかり笑みを洩らしつつマイクロトフが問えば、カミューは間抜けな顔のままぎこちなく頷いた。
「あ、あの……」
「まだ寝ていると思っていたのだが、もしかして朝早くから用があるのか?」
「え、いや……別に…」
「ならもう少しゆっくりしていくと良い。これから朝飯を一緒にどうだ」
「…う、うん」
部屋に入ろうとするマイクロトフに、押されるように後退りして部屋に戻るカミューに笑みを向けて椅子を指し示してやる。
「俺がシャワーを浴びてからになるんだが、どう過ごしても構わんからゆっくり待っていてくれ」
汗を掻いているからな、と断るとカミューは指示されるままに椅子に座って「うん」とまた頷いた。そのなんとも居心地の悪そうな様子にくすりと笑みを残してマイクロトフはシャワールームへと入った。
素早く浴びてさっさと水を切って出てくると、椅子に座っていたカミューは戸棚の前に立っていた。そしてシャツとジーンズというラフな格好に着替えたマイクロトフを、彼はハッと驚いて振り返った。その手には棚から取り出したらしい本を持っている。
「あ、これ」
マイクロトフの視線に慌てたのかカミューはその本の表紙をマイクロトフに見せた。
「珍しい本を持っているんだなって、その、気になってつい」
「気にしなくて良い。興味があるのなら貸すが」
濡れた髪をタオルで拭きつつ返すと、カミューは一瞬戸惑ってそれから手の中の本を見下ろした。そしてまた迷うような表情でマイクロトフを見る。
「要らないか?」
「あ、いや。借りるよ、貸してくれないか」
「ああ」
「……と、有難う…」
頷いてその手に持った本を大切な物をそうするように胸に抱えカミューははにかんだ。だがまたハッと顔を上げて口をパクパクとさせた。
「あー、その。泊めてくれて、それも有難う。迷惑をかけてしまって、悪かったね」
「別に迷惑などとは思っていないから謝らなくとも良い」
「そう? 有難う」
にっこりと微笑んでカミューはまた礼を言った。
この心から向けられているような笑顔を見られるのなら、泊めたり本を貸したりする事などどうと言うものでも無いだろうとマイクロトフはその笑顔を受け止めながら思った。
「それよりも、俺は朝飯をよく食うんだがカミューはどうなんだ?」
冷蔵庫を開き中から卵やベーコンなどを取り出しながら、尋ねる。だが返事がなく、どうしたのだろうと振り返れば変わらず本を抱えたままカミューはまたも驚いた顔をして、その上に顔まで赤くしてマイクロトフを見ていた。
「…カミュー?」
「え、あ……その…名前…」
ぽつぽつと言いながらもかぁーっと更に赤くなっていくカミューである。その言葉の示すところに気付いてマイクロトフは「ああ」と眉を寄せた。
「馴れ馴れしかったか?」
そう言えば昨夜、店で何気なく話をしていた時に聞いた事には、カミューの方がマイクロトフよりも年上なのだ。それに昨夜のあいだはずっと彼の事を客として扱っていたものだから名を呼んだりはしなかったのだ。
だから不快に思わせてしまったのだろうかと不安に思って問うたのだが。
「いや全く! あ、俺も君の事をマイクロトフと呼んでも、良いかな」
「良いぞ」
あっさりと頷けば途端にカミューはぱあっと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
「じゃあマイクロトフ。俺は朝は人並みにしか食わないんだけど、そのトーストはもしかして一人分かな」
袋から取り出された一斤のパン。マイクロトフはそれをもう既に三枚ほど切り落としている。
「俺はいつも二枚食うんだが」
「なら俺はその一枚で充分だ」
「目玉焼きの目玉は二個で良いか?」
「一個で」
「ベーコンは四枚くらいか…」
「二枚」
「レタスの葉は……」
「全部、マイクロトフの半分で良いよ」
くすくすと笑ってカミューはマイクロトフの言葉を遮ってそう言った。
「む、そうか」
「うん。ついでに目玉焼きは半熟でよろしく。…構わないかい?」
「任せろ」
胸を張ってマイクロトフはトーストをトースターにセットするとフライパンを取り出してコンロの火を点けた。
自炊経験は長いマイクロトフである。それでなくても自炊するだけで経済的に随分と変わってくるのだから放っておいても料理は上手くなる。目玉焼き程度なら固焼きだろうと半熟だろうと両面焼きだろうと好み次第であった。
するとカミューはまたにこっと笑って、大人しく椅子に腰掛けた。
「うん、任せるよ」
「うむ」
親しみのあるその声音を合図に、マイクロトフは卵をボウルに割り入れたのだった。
* * * * *
一目惚れでした。
カミューは誰にそう告げるでもなし、高い空に浮かぶ雲に向かって心中呟いた。
最初の出会いからもうきっちり二十四時間経ってしまった。アレから寝ても覚めても彼の顔がちらつき、彼の声が木霊し、彼の仕草が蘇る。別れたのはもう六時間ほど前になるだろうか。
彼手ずからの朝食をご馳走になり、大学までのバスに彼が乗り込むところで別れた。まるで夢のような時間だったそれは、今振り返るととても呆気なかったように思う。
「あっと言う間だったなぁ…」
ぽつりと零してカミューはまた昨日からの出来事を思い出していた。
新しい職場での初仕事の日だった昨日は、とにかく覚える事で精一杯だった。以前も同じ仕事をしていたわけだから、多少違いはあっても殆どは同じでコツは直ぐに掴めたのだ。そしてそろそろと慣れてきた頃に彼が声をかけてきたのだ。
なんと言うか、他に言いようも無いのだが、まさしくそれは一目惚れだったのだ。
天使が祝福の鐘を鳴らしていたかも知れない。世界は光りに満ちていたかも知れない。そんな一瞬。別に同性愛嗜好は無かったのだが、これは恋だと即座に理解した瞬間だったのだ。
それから貸し出しカードからモニターに映し出された名前を見て、更に心がときめいた。
マイクロトフ。この名前だけは例え今記憶喪失になっても忘れないと誓った。
そして何とか彼に自分を印象付けようと滑稽なほどに愛想良く振舞ったのだが、結局はただの図書館員と利用者の学生だけの関係に留まり、別れてしまった。彼の姿が出入り口から去って行ってしまった後、随分と気落ちしたものだったが盗み見た彼の図書館の利用頻度からしてこれからは幾らでもチャンスはあるのだと前向きに考える事にした。
絶対に仲良くなる。
新しい職場で上手くやっていこうとかそんな事を考える以前に、如何にしてマイクロトフと言う学生と親しくなるかに決意を抱いた、そんなカミューだった。そして、天はそんな彼に味方したのである。
新しく越してきたこの街には高校の同級生であるフリックと言う男がいたのだ。相変わらず人の良い彼は忙しい仕事の合間を縫って、不慣れだろうカミューにこの街の案内を買って出てくれたのだ。そして馴染みだという店に連れて行かれたその先で、カミューは天の配剤を感じた。
人生に幸せを感じた。
よもや一目惚れしたその日に、名前だけではなくそのバイト先までも分かるなんて、出来すぎではなかろうか。いや、これは天が絶対に彼を手に入れるべきだと背中を後押ししてくれているに違いないのだ。決め付けてカミューはしかし浮かれる心とは反対に慎重に彼に近付いた。
最初は不自然で無いようにフリックと昔話をしたりして過ごしていたのだが、そんなフリックが疲れて寝入ってしまうと後はもう、ここぞとばかりに話し相手を求める振りをしてカウンターのマイクロトフへ声を掛けた。
仕事の片手間ではあったが、そんなカミューの話にマイクロトフはちゃんと付き合ってくれた。そこで色々埒も無い話を沢山したのだけれど、緊張していた所為か彼自身のプロフィールについては全く聞き出せなかった。それでも会話はとても楽しかったのだが。
ところが緊張しすぎたのと浮かれていたのとで、どうやら酒量のコントロールが利いていなかったようだったのが痛恨の大失敗だった。でもまぁ結果的には良い方に転んだので良しとするが、見知らぬ部屋で目覚めた時は全身から血の気が引く思いだったのだ。
バタン、と戸の閉まる音がしてふと身体を冷気が掠めていったことで、カミューの意識は急速に目覚めたのだ。それがまたなんとも心地の良い眠りから覚めたものだったから、最初は自分が何処に寝ているかなど気付きもしなかった。
だが徐々にハッキリと覚醒するにつれ、視界に映る室内の様子が全く見覚えのないものだと気付いて青褪めた。がばりとベッドの上で飛び起きて、そこで昨夜の出来事が蘇り幸せだった気分のままぶっつりと途切れている記憶に歯噛みした。
フリックの部屋で無いことは確かだ。それは昨日あの店に行く前に寄ったから知っている。しかし、そうならばここは一体誰の部屋と言うのだろうか。カミューは用心深く室内を眺め回した。
こまめに掃除しているのだろう清潔感のある部屋で、散らかっている様子も無くきちんと整頓されている棚や机の上。どうやら一人暮らしらしい部屋の調度や物を見て、それが女物ではなく男物の多い事を見てとりあえずほっと息をついた。
新しい街に来てさっそく女性関係でトラブルは避けたいものだった。どんなに話がこじれても上手く纏める自信はあったが、一目惚れをしたマイクロトフに対して不誠実な真似はしたくないと思った。たとえそれがこちらの一方的な想いに過ぎないのだとしても、あの如何にも真面目で潔癖そうな男の表情を曇らせるような事はしたくなかった。
それにしても、誰の部屋なのだろう。
考えて、そしてふっと浮かんだ考えにカミューは赤面した。
「……まさか」
掠れた声で思わず呟いた。がしかし赤くなった顔は収まらないし、そんな都合の良い事がそうそう続くわけが無いと思いつつも、浮かんだ考えは消えてくれない。
だけど。
「マイクロトフの……?」
もう心の中では飽きるほど―――実際には欠片ほども飽きてなどいないし、これからも飽きるわけなどないが―――呼んだ名前を口にしてカミューは呆然として改めて室内を見た。
だがそこには今カミュー以外の人物の気配はまるでなかった。ベッドヘッドに置いてある時計を見れば時間はまだ早朝である。まさかこれほどに早く出掛ける仕事でもあるのだろうかと考えたが、しかしそれにしてはカミューを置いて出て行くのはあまりに無防備に過ぎた。
幾ら一晩で多少なりと打ち解けたとはいえ、初対面の人間を置いて家を留守にするわけがない。とすれば直ぐに戻ってくるのだろうか……―――。
直ぐに……直ぐに?
思い至ってカミューは慌てた。
一体どんな顔を合わせれば良いと言うのだろう。無様に酔い潰れて部屋に泊めて貰ってベッドまで占領して、こんなにも迷惑をかけてしまって。しかも何だか今の自分は昨日着ていた服は皺だらけだし、髪も随分乱れているしで碌な格好をしていない。
別に普通の顔をして、迷惑をかけた事は謝って礼を言えば良いだけだし、格好についてはもう散々醜態を見せた後で仕方の無い事なのだから開き直れば良いだけの話なのだが、しかし恋する男の心理としてはそれでは済まないのだ。
わたわたと、這い出すようにしてベッドから降りるとそこに転がっていた靴を見つけて急いで履いた。そして部屋の隅に自分の鞄を見つけて中を確認するのもそこそこに、扉へと向かい、そして震える手でドアノブを掴むと押し開いた。
ところが間が良いのか悪いのか、そこには丁度戻ってきたらしい部屋の主が立っていたのだ。それに驚いて固まっているとぐいと扉が開かれ、やはりと言うか考えた通りにマイクロトフその人がそこにいて、親しげにカミューに声を掛けてくれ、あまつさえ朝食にまで招待をしてくれたのである。
カミューは混乱に陥りながらもマイクロトフに示されるまま椅子に座って待った。
だが待っている間にひとつ扉の向こうでは想い焦がれる相手がシャワーを浴びているのだという現実に気付いて、途端に大パニックに見舞われてしまったのである。
うわあ、どうしよう。
別にどうもしなくて良いだろうと、そこに第三者が居ればそう突っ込んでくれたろうが生憎そこにはカミューしか居なかった。
彼は立ったり座ったりを繰り返し、掌を握ったり開いたりとそれは忙しかったのだが、次第に落ち着きが失せて、手慰みに本の並ぶ棚などに虚ろげに視線をさ迷わせて、碌に背表紙も読まないままに一冊取り出して開いてみたりなどしていた。
だが、思ってもみない早さでシャワールームへ続く扉が開いて、カミューは口から心臓が飛び出るほどに驚いた。バタンと音が立つほどに勢いよく本を閉じてハッと振り返ればそこには濡れた髪のラフな格好のマイクロトフがいた。
シャワーの後なのだからそれは当たり前の格好なのだがカミューは慌ててわけの分からない事を口走っていた。なんとなく記憶の彼方を探って手に持っていた本が確か珍しいものだったと思い出して、言い訳のように告げたのだが、しかしそれが思いもよらない展開を呼んだのだ。
本を、この本をマイクロトフはカミューに貸してくれると言ったのだ。
と言う事はつまり、今度はこの本を返すためにまた会える口実が出来るという事では無いか。
カミューは二つ返事で本を借りる事にした。少し返事が遅れたので不審がられたかもしれないが、カミューは借りられる事になったその本が途端に宝物のように思えて、決して離すまいと胸に抱きかかえた。
ところがそこへまた爆弾投下をされてしまったのだ。
確かに今、マイクロトフは「カミュー」と。
名を呼んでくれたのだ。その口でその声で。
たまらなく感動した。
昨夜はまだ初対面と言う事で気安くはなれずにいたし、それに店員と客だったからマイクロトフは常にカミューには一歩引いた態度を取り続けていたのだ。だから決して名を呼び捨てる真似などしてくれなかった。ところが一晩経ってまるで旧知の間柄のように彼は自然にカミューの名を呼んでくれたのだ。
嬉しくて嬉しくて、カミューはそれこそご褒美を貰えた犬のようにはしゃいでしまって、だがそれが良かったのかこの朝の僅かな時間だけでぐっとマイクロトフとの距離が縮まった気がした。
数時間前、名残惜しくてもマイクロトフと別れる時、また会えるのだという確信がカミューの心を強くしてもいたのだろう。おかげでそれからずっとカミューは機嫌良く仕事をしていたのだった。
* * * * *
夕方にもなり日暮れの差し迫った頃。マイクロトフは、図書館の前で立ち止まり何故かじっとして動かなかった。
考えていたのだ。
カミューに掛ける第一声をなんとすべきかを。
別れてからまだ僅か数時間。しかし出会いが出会いで、再会も再会。なんだかまだあっと言う間の時間しか過ごして居ないのに、マイクロトフの中でカミューと言う人物の占める割合はとても大きくなっていた。
まるで何かに導かれたかのように出会い、知り合い、そして別れた。ここに来てこの勢いを失う事なく付き合いを続けるにはどう言うふうにまた声を掛ければ良いのだろう。
如何せん、親友と呼べる相手もなくこれまで生きてきて、そして何処までも真面目なマイクロトフにとってこれは難しい課題だった。
普通に声を掛ければ良いのは分かる。だが普通とはなんだ。
最も根本的なところで躓いてマイクロトフはじーっとそうして思案していたのだ。しかしそうしていても時間は無為に過ぎるばかりである。今日も今日とてレオナの店で働かねばならないのだからして、このままこうしているわけにもいか無い。そう思ったところでマイクロトフは理由もなく「よし」と頷いて一歩踏み出した。
ごちゃごちゃと考えあぐねても答えの出ないものは、動くに任せるのが一番だろう。
決断するが早いか、マイクロトフはずんずんと突き進むと真直ぐに受付へと向かった。ちなみに、今日は返却すべき本は無い。
目指した金茶の髪は昨日と同じようにそこにあった。
「カミュー」
声を掛けると、これは昨日と違って直ぐにハッとその顔がマイクロトフを見上げて、そしてふわりと微笑んだ。
「あぁマイクロトフ」
すっと心の中に入ってくるようなそんな笑みにマイクロトフは一瞬見惚れた。するとカミューは「ん?」と首を傾げてにこっと白い歯を見せた。
「あ、ねえマイクロトフ。今日もこの後あの店に入るのかい?」
「ああ。大抵毎日入っているが」
問われるままにこくりと頷けば、カミューはまた花開くように嬉しそうに笑う。
「そう。なら今日も行って良いかな」
「それは構わないが」
「良かった。あ、それからあの本。悪いけど暫く借りていても構わないか?」
一転不安な顔をして問うものだから、マイクロトフは苦笑してつい目線の下にあるカミューの髪に手を伸ばしてくしゃりとその髪を撫でていた。
「構うな。好きなだけ貸しておいてやる」
意識せずに触れたその髪は指に滑らかで、ひどく触り心地が良かった。そしてマイクロトフはぽんとその頭を軽く撫でるとその手を振って「それではな」と告げた。
「また店に来るのなら、少しは奢ろう」
「……あ、うん…」
心なしかカミューの顔がさっきより赤い気がするが、気にせずマイクロトフは背を向けた。なんだか、カミューがまた店に来るのかと思うと気が逸るようだった。バス停に向かう足も昨日までと違って軽い気もする。
カミューと会ってから、どうしてだろう。不思議と世界が少し違って見えてくる気がする。
マイクロトフはそんな事を考えつつ、やってきたバスに乗り込んだ。
そして約束どおりカミューは店を訪れた。
今日はフリックはおらず一人だ。昨日と違って真直ぐにカウンター席にやってきてマイクロトフの前に座ると、照れたように笑った。
「ここに座っても、構わないかい?」
「俺の仏頂面しか見えんが、それでも良いならな」
わざわざ聞くのが可笑しくて、そう答えてやるとカミューはきょとんとした。
「……マイクロトフは、良く笑うじゃないか?」
何処が仏頂面なんだと不思議そうに言う。それに「おや」と口を挟んだのはレオナだった。
「なんだい、そんなにあんたに愛想が良いのかい?」
「ええ。マイクロトフの笑顔はとても良いですよね。私は彼の笑顔はとても好きだな」
カミューが嬉しそうに言うのに、レオナは「へえ」と感心したように答えてちらりとマイクロトフを見る。その視線がなんだか気まずくてマイクロトフはごほんとわざとらしい咳払いをした。
「ああ、ほらカミュー。一杯目は奢るぞ、何が良い」
「うんそうだったね。何にしようかな、お勧めは? マイクロトフ」
にこにこと話し掛けてくるカミューと、そして何気なく横目で興味を注いでくるレオナとを相手にマイクロトフは気もそぞろに最近覚えたばかりの新しいカクテルを説明し始めたのだった。
そして、また、マイクロトフは酔い潰れたカミューを見下ろして腕組みをしていた。
「どうする。今夜はフリックにでも迎えに来させようかね?」
「ああ…いや……」
頷きつつ首を振り、口籠もってマイクロトフは眉間に皺を寄せた。
カミューは実は酒に弱い人間なのだろうか。だが昨夜も今夜も結構な量は飲んでいる筈で、大抵の人間ならばこれだけ飲めば充分に潰れるくらいだった。しかし今朝の様子を思い返すと彼はまるで後の残っていない素振りだった。
「強いのか弱いのか、分からんな全く…」
ふうっと溜息を吐いてマイクロトフは昨日と同じくカミューを抱えた。
「また、連れて帰ります」
「おや随分と親切じゃないさ?」
レオナが揶揄するのに沈黙で応えてマイクロトフはそのままカミューを部屋に連れ帰った。そしてやはり同じようにベッドに彼を横たえ、その寝顔を見下ろした。
その無防備な寝顔を見るのはこれで二度目だ。だがまだ出会ってから二日目である。マイクロトフはそんな事実に思い当たって苦笑した。
二日続けてまだ付き合いの浅い男を部屋に上げるのも可笑しな話だが、二日続けて酔い潰れてそんな相手の厄介になる男も可笑しなものだろう。まったくこのカミューとは変な男である。
だがそれにしても、とマイクロトフは眠るカミューの顔を眺めて吐息を零した。
綺麗な男だと思う。実に表情が豊かで笑った顔は特に魅力的だが、こうして目を閉じて眠っているところをみれば、それだけにその整いぶりが際立って見える気がする。そう言えばこれほどに整った顔をした人間に会ったのは今までに無かったかもしれない。
なんとなく、マイクロトフは寝顔に指を這わせてみた。
と、そこで突然ぱっちりとカミューの目が開いた。
「うわ」
「……………マイクロトフ…?」
驚き慌てて引っ込めた手をその目が追い、掠れた声がマイクロトフの名を呼んだ。
「あ、あぁ、俺だ」
マイクロトフは気が動転しながらこくこくと頷いて応える。するとふにゃりとカミューの顔が笑みに綻んだ。そして。
「……好き」
小さな声で、ひどく幸せそうにそう言ったのだ。
え? とマイクロトフは固まった。
そして固まるマイクロトフの手を、カミューのぼんやりとした目が見つめ、いつの間にか持ち上げられていたのかその手でくい、と握られた。
「マイクロトフ……好きなんだ…」
今度はハッキリと。だが相変わらずカミューは寝惚けたような顔で幸せそうな笑みを浮かべたままそう言った。
マイクロトフは、ひゅっと息を吸い込んだ。
「カミュー?」
そっと名を呼ぶが、対してカミューはこれ以上は無いんだと言わんばかりの笑顔のまま、目を閉じた。
そして、手を握られたまま取り残されたマイクロトフは―――。
いつの間にかそんなカミューの横で寝ていた。
* * * * *
目覚めた時、カミューはまだ夢の中にいるのかと錯覚した。
何しろ、とても幸せで天に舞い昇りそうなくらいの夢をみていたはずが、目を覚ましてみれば目の前には自分と手を繋いで眠るマイクロトフがいたのだから。
夢の中でカミューはマイクロトフの手を取って「好き」だと告げていたのだ。現実にはなかなか簡単には言い出せ無いだろうと思っているその言葉を、臆面もなくマイクロトフにぶつけていたのだ。そんな光景がありのまま、起きてまでも続いていればまだ夢の中かと疑いもするだろう。
だが生憎それは夢ではなかった。
まだ太陽も昇らぬ未明の頃の白々しい薄明るさの満たす部屋の中で、僅かばかりの肌寒さに包まれて感じる繋いだ手の温もりは現実だった。
「あ、あれ…?」
カミューは焦った。
アレは夢で、コレは夢ではなく。好きだと告白したのは夢で、手を取ったのは夢じゃない。―――確かにそうと言いきれるのだろうか?
ふうっと、目覚めた時の状態で横たわったまま、カミューは気が遠くなるような目眩を覚えた。
落ち着くんだ、そして思い出せ。とドキドキと煩いくらいに身の内からせっつく鼓動を抑えながらカミューは記憶を辿る。そして昨夜もまたみっともなくも酔い潰れてしまったのだと思い出して青褪める。
だが昨夜のそれは、その前の夜と違って前後不覚になるほどには酔ってはいなかったのだとも思い出した。そうなのだ、酔いの心地良さに身を任せながら、マイクロトフに担がれて夜の道を運ばれたのをなんとなく覚えている。覚えていてしまっている。
そして柔らかなベッドに横たえられて、間近にマイクロトフの気配を感じながら急速に深い眠りに引き込まれようとして―――そこで、頬に触れられる感触がして、今にも眠りの淵に引き摺り込まれながら、カミューは目を……開けた。
そうだ。確かに目を開けたのだ。
て、こと、は………。
あれは夢では無かったという事になる。
そう気付いてカミューは真っ赤になり、それから真っ青になり、最後には酸欠状態の魚のようになって固まった。
ドクドクと脈打つ心臓が胸に痛い。こめかみを伝う冷や汗が冷たい。繋いだままの手が痺れたように感覚が消えていく。
それは好きだからいつかは、と考えなかったわけはない。だがこんな会ってからまだ二日目だったのに、こんなにもあっさりと意図無くして告げるつもりなんてまるで無かったのだ。なのに自分と言う男はなんて事を。それに肝心のマイクロトフの反応をまるで覚えていないではないか。
カミューは後悔に苛まれてぐっと奥歯を噛み締めた。
どうしてこんなに愚かなのだろう。
こんなふうに一目惚れをするなんて生まれて初めてだったのに。この恋を、大切にしたいと思ったのに。応えて貰えなくとも、好きだからせめて友人としてでも付き合っていけたらと、そう思っていたのに。
もうこれで台無しになってしまったかもしれないと考えたら、無性に情けなくて悔しくてたまらなかった。そして喉の奥から自分を罵る言葉を吐きそうになったのだが、そうするとマイクロトフが起きてしまうからと、奥歯を更に強く噛んで堪えた。
すると、何故だろう。涙が滲んだ。
泣くつもりなど微塵も無いのに、ぐっと堪えれば堪えるほど押し出されるように涙が出る。ついにそれは目の縁から零れ落ちて横たわるカミューのこめかみを滑りシーツを濡らした。
と。
「カミュー…?」
低い声が問うように名を呼んだ。
え、と目を見開けば間近にあったマイクロトフの、その目が開いていて黒い瞳がじっとカミューを見詰めていた。
「どうしたんだ。どこか痛むのか?」
早朝の静けさの中、潜めるような小声でマイクロトフは囁き掛けてくる。その瞳は親愛に満ちていて、まるで安心させるかのように穏かにカミューの瞳を覗き込んできた。
「…マイクロトフ……」
カミューもまた、奮えながら囁きほどの小声で名を呼び返した。だがそこには隠せ無いほどの切なさが交じっていた。するとマイクロトフはふと目を瞬かせて、そう言えば繋げたままだった手をぎゅっと握り締め、そしてくすりと微笑んだ。
「二日酔いか? 飲み過ぎだ」
「……違うよ、違うんだ…マイクロトフ」
何処までも優しい声音が哀しくてカミューは即座に否定する。
そうでは無いのだ。
泣いているのは酔いのせいでは無い。痛いのはこの胸で、そうして穏かで優しい瞳で微笑まれれば尚更それを無くしてしまったのかと思い知って哀しい。
今はまだマイクロトフも起きたばかりで昨日の出来事を思い出せないでいるに違いないのだ。だがこれが目覚めた時、ハッキリとカミューの告白を思い出してしまえば、この微笑みは消え失せてしまうのだろう。
「ごめん……マイクロトフ…ごめん」
「…どうした。また迷惑だと思って謝っているのか?」
「そうじゃないよ…」
カミューはシーツに頬を擦り付けるようにして首を緩く振った。
「カミュー?」
「とにかく、ごめん。あ、そうだ…あの本、直ぐ返すよ……貸してくれて、有難う」
もう会わない方が良いだろう。だったら本も直ぐにでも返さなければなるまい。実はあれ以来ずっと鞄の中にしまって肌身離さず持ち歩いている大切な本だった。今すぐにでも取り出して、元通り、何も無かったかのように棚に戻せるのだ。
だがマイクロトフはぼんやりと不思議そうな目でカミューを見ている。
「カミュー? 本は好きなだけ貸すと言った筈だぞ」
「うん、でもね……」
カミューは困った顔をして、僅かに微笑んだ。寝惚けているのだろうマイクロトフに説明をするのはつらい。だから苦笑で誤魔化して黙り込んだ。
そして沈黙が痛いほどに身に突き刺さる。
何をしているのだろう。さっさと身を起こして、マイクロトフの手を退けて本を置きこの部屋を出て行けば良いのに。なのにカミューはこの、ベッドに横たわり指先だけでも彼の温もりを感じている今が、とても失い難くて惜しくてならなかった。あまりに心地良すぎるためだろう。間近には彼の気配があって、どこもかしこも彼の匂いで、そして黒い瞳が穏かに見詰めてくれているのだ。
思ったら、またじわりと涙が滲んだ。
だが今度はぐっとその涙も堪えてカミューは強く目を瞑った。そして次にこの目を開けた時には、起き上がってしまおうと心に決めた。
ところが。
「なぁ、カミュー」
不意に呑気な調子でマイクロトフが呼びかけてきた。
「少し考えたんだが、あの本だがな」
カミューは薄っすらと目を開けた。すると薄く滲んだ視界の向こうにマイクロトフの慕わしい笑顔があった。それが真直ぐにカミューへと向けられている。
「………」
カミューは息を呑んでマイクロトフの次の言葉を待った。すると。
「あの本は、返さなくても良い」
言われた言葉にカミューは目を瞠り、そして勢い起き上がった。
「ど、どうして……?」
尋ねる声が震えた。
どうしてマイクロトフがそんな事を言うのかが分からない。だがもしかして、もういっそのこと返す必要も無いほどにカミューを………。そこまで考えてまた悲嘆に飲み込まれそうになった時、ぽつりとマイクロトフが言った。
「どうして、か。まぁ、記念にとでも言うのかこの場合は」
「記念…?」
「ああ、カミューが俺を好きになってくれた記念だ」
「………え?」
「人から、あんなふうに好きだと言われたのは初めてだったが、多分あれは誰に言われるよりも俺は嬉しかったと思う」
「な……マイクロトフ…?」
「きっと俺もカミューのことは最初から好きだったのだろうな。だからおまえに言われて合点がいった」
「……それって…」
「まぁ、だから本は返却不可だ。返すと言ってもいらんからな、受け取れ」
にっこりと笑ってマイクロトフは自分一人横になったまま肘を突いてカミューを見上げた。
「あぁ、だが図書館から借りた本はきちんと返すからな」
くすりと笑ってマイクロトフは上になった方の手で、呆然とするカミューの腕をぽんと叩くように撫でた。
「カミュー?」
優しい声がカミューを呼ぶ。
「どうした、まだどこか痛むのか?」
穏かに問う声は慈愛に満ちていて、さっきまで痛みに埋め尽くされていた胸を癒していく。
「ほら、カミュー……男がそんなに泣くな」
起き上がって伸ばされた指先が、少しばかり乱暴に涙を拭ってくれるのも、なにもかもがカミューの心を嬉しさと幸せで満たしてくれる。
「だってな……マイクロトフ……これは、泣くなって言う方が……難しいよ」
カミューは泣き笑いの表情でぼろぼろと涙を零して、同じ目線になったマイクロトフに両腕を差し伸べた。そして、抵抗なく抱き締められてくれる存在の確かさにほっと息を吐いて目を閉じた。
なんて幸せなんだろう。
カミューは、新しい街と、新しい恋と、そして恋人へ感謝して、初めての口付けを贈った。
end
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20021012-20021013 ZAYA GENSOSUIKODEN2 RED&BLUE