exorcist 1
「キャアァァアアア!!」
女の布を引き裂くような絶叫が突き抜ける。
ベッドの上でうら若い女性が、世にも恐ろしい形相をしてのた打ち回っている。その身体を腕を捕らえて押さえ込んでいる、金茶の髪の神父は汗びっしょりで、頬には引っ掛かれた痕があり血が滲んでいる。その反対側では、大きな剣をまるでクロスに見立てるように構えた黒髪の神父が祈りの言葉を一心に唱えていた。
星空の美しい田舎の町で、深夜に繰り広げられる異様な光景。
そして黒髪の神父がきつく女性を睨み据えて、高々と言い放った。
「神の御名において―――悪霊よ去れ!」
薄暗い室内。
まるで真っ白な光が全てを飲み込んでしまったかのように、唐突に静寂が訪れた。
* * * * *
とある片田舎。
どこまでも青い空が広がり、緑の野がなだらかな丘陵を描いている。秋の入りの頃には見事な紅葉の広がるこの地方だが、春はただ柔らかな新緑が目を覆うばかりだ。
その村の中央には高い尖塔のある白いペンキ塗りの、その地方独特のスタイルをした教会がある。村人が敬虔なクリスチャンばかりの村にあって、その教会は立地の意味でなくとも村の中心だった。
だが昨年、新しく赴任してきた若い神父の存在が、それまで以上に教会を村人たちにとっての中心的な場所として変えてしまった。
神父の名はマイクロトフ。
年齢はまだ二十六歳。背が高く働き者らしい逞しい体格でありながら、黒い髪と瞳の色と寡黙な性格が、神父のストイックな装いと妙に似合っている。
だが、村人たちはこの一年余りで既に知っていた。
この若い神父は、決して無愛想なわけではなく、ただ単に真面目で純朴で不器用なだけなのだ。村人たちのと他愛のないお喋りにさえ、誠心誠意の言葉を返そうとするが故に、うまく会話が続かない。
だが日も経てば、良い人間か悪い人間かなど、田舎の者にだって区別はついてくるものなのだ。いつしか寡黙な若い神父は村に受け入れられていた。
しかも、これがまた良く見れば目鼻立ちの整った、男前でもある。
若い娘たちの密かな憧れの的となった神父の住まう教会は、毎日誰かしらが訪れる場所となっていったのである。
しかし、たまにそんな賑やかな教会がしんと静まる時があった。
その村から車で二時間ほど走れば大きな街に出る。それこそ大都会と呼べるほどの規模のその街には、その若い神父が神学校時代に恩を受けたという司教がいた。彼は月に一度は必ずその司教を訪ねて、ある時は二日、ある時は一週間ほど、教区を空けるのだ。
村の誰も神父が司教のもとで何をしているのかは深く知らない。だが大切な用を手伝っているのだと言われてしまうと留守を嫌がるわけにもいかない。もっとも、長く留守にするときには必ず代わりの神父が臨時で教区を預かるのだが、やはり慕われる若い黒髪の神父がそこにいないだけで、村の教会は静まり返ってしまうのだ。
そして週初めのこの日も、教会はしんとしていた。
マイクロトフは、大通りに面した大きな教会の正面にあるなだらかな階段に足をかけた。
片田舎の村とは圧倒的に人口の差があるこの街まで、いつもバスを使って訪れる。普段は独特な黒尽くめの神父の衣装だが、司教に呼ばれて来る時は常に私服だ。それでもこの日はグレーのスーツに身を固めている。
たとえ私的な時でも、きっちりしていなければ居心地が悪いのだ。
マイクロトフは古いが立派な教会を見上げて、無意識にネクタイを直した。
前回からまだ二週間半しか経っていなかった。
きっと何か大きな問題が起きたのだ。
表情を曇らせてマイクロトフは階段を大股に上っていった。
「おお、マイクロトフ」
司教のテンコウが相変わらずの穏やかな笑顔でマイクロトフを出迎える。だが通い慣れた部屋に踏み入って直ぐ、そこにいたもう一人の存在に足が止まった。見た事のない男だった。
年齢はマイクロトフと同じくらい。背丈も体格も似た感じだが、少しスレンダーに見えるが着痩せするタイプなのかもしれない。同じようにスーツを着ているのだがかっちりと見えるマイクロトフと違って微妙に着崩しているように見える。だがそれは決してだらしが無いわけではなく、髪は金茶色でやたらと整った容貌をしているだけにまるで雑誌から抜け出てきたような男だった。
しかし何よりも、男のマイクロトフを見る琥珀の瞳が一番印象的だった。かちり、と視線がぶつかった瞬間、時間が止まった様な錯覚を受ける。
だが司教がにこやかな顔で二人の間に割り込んで視線が途切れた。
「マイクロトフ神父。こちらはカミュー神父ですよ」
「…神父?」
この男が?
思わずそんな心の声が顔に出てしまっていたのだろう。目の前の男は軽く顔を顰めてマイクロトフを冷めた目で見た。だがそれも一瞬の事で彼は直ぐに親しげな笑顔を浮かべると手を差し出してきた。
「初めましてマイクロトフ神父。カミューです」
「あ、ああ初めまして」
慌てて手を差し出し返すと、意外に冷たい掌が握り返してきた。
そしてマイクロトフは、それきりカミューが出て行くのだろうと思っていたのだ。何しろこの時間にこの場所に来るよう指示したのは司教の方で、マイクロトフはそれに従ったまでだ。それも用件はとても秘匿性が高くて部外者には聞かせられるような内容ではない。
しかしカミューは出て行く気配がなかった。
不思議に思って司教の顔を見ると、何故か笑顔で頷き返された。
「あの、司教さま」
「うんうん。二人とも仲良くて結構ですね」
「あの」
「ということで、今回は二人で赴いて頂きたいのです」
「はい!?」
いったい何を言われているのか分からず、失礼にも大声で聞き返してしまった。ところが隣の男はマイクロトフと違った落ち着きのある態度で静かに頷く。
「了解いたしました。では私は部屋を出ておりますので、彼に詳しい話をして差し上げて下さい」
そして男はくるりと背を向けると、あっさり部屋を出て行ってしまった。それを見送りながら、気の所為でなければ振り返り様に何だか馬鹿にしたような視線を向けられた。
―――なんだあいつは。
むかっとするものの司教の前である。それ以前に男が言い残したように詳しい話を聞かなければ全く訳が分からない。
「司教さま。どういうことですか」
しかし司教はそんなマイクロトフに背を向けると、扉とは正反対の壁にある大きな窓の側まで歩み寄ると、木の窓枠を愛しげに撫でた。
「この間、磨いて塗装をし直したのです。綺麗になったとは思いませんか」
「……はい」
確かに、建物同様に古びた窓枠はつやつやと光っている。
だがそんなことを聞いているわけではない。
「テンコウ司教さま」
「うんうん。窓が綺麗だと生活が楽しくなるよ。あなたも教会の窓は毎日磨いていますか」
「はい、それで―――」
「実は緊急かつ困難な問題が起きています。早速赴いて頂きたいのですが、あなた一人では手に余ると判断してもう一人を呼びました。協力して問題の解決に取り組んで頂きます」
「先程の男とですか!」
「彼はカミュー。あなたと同じ優秀な悪霊祓いですよ」
―――悪霊祓い。
悪霊に取り付かれた信者を、神の名の下に救いあげるのが、俗に言う悪霊祓いである。
多くは無いがそれでも大都会ともなれば月に何件か、その手の相談が舞い込んでくる。だが大抵は心に病を抱えた人々のヒステリー状態であったり、自傷行動の一端であったりする。
しかしそうした内容にも教会は誠心誠意対応する。心理学を学んだ神父を派遣し、家族ぐるみで相談に乗るのだ。
だが、その数件の内の更にごく僅か。
本当にあるのだ。
悪霊憑きが。
そんな時にこそ呼ばれるのがマイクロトフのような、実際に悪霊と対峙して神の名の下にそれを祓うエクソシストなのである。
現代になってでさえ漸く映画や小説の中で、広く取り沙汰されるようになったその特殊な役割は、しかし本気で信じる者は少ない。悪霊などと言ってもそれは空想の産物であり、取り憑かれた人間が叫び暴れまわるのは、ただの演技か或いはヒステリー状態かとしか思われない。
無理も無い。
悪霊は滅多に人には憑かない。
憑いたとしてもその人間に多大な悪影響を与えるほどの強い悪霊などそうそういない。悪霊―――悪魔の多くは、ひっそりと人間社会に潜み微かな悪意を緩慢に浸透させていく程度のものなのである。
それでも時に悪霊と相性の良すぎる人間がいるのだ。
肉体と精神が激しい反応を起こし、悪霊の力を意識せずに表層に押し出してしまう。そんな人間が取り憑かれると、悪循環が繰り返されて本人が死に至るまで様々な怪事が引き起こされるのである。
そうなると、本人を救うには憑いた悪霊を祓うしかない。
マイクロトフは十代の頃からこの仕事を始め、二十六歳の現在までにそんな悪霊に憑かれてしまった人間を数多く相手にしてきた。この地区では結構名の知れたエクソシストなのである。
今まで誰かと組んだことなど無かった。
それだけ優秀だったという事だ。
それがどうして今更、他の誰かと組めと言われるのだろう。
「何か言いたそうな顔をしていますね、マイクロトフ」
「……いえ」
「言葉を飲み込む必要はありません。私があなたを軽んじているとでも思ったかな。ですが、それは間違いですよマイクロトフ。あなたを信頼しているからこそ今回の仕事を頼むのです」
テンコウは相変わらず窓を撫でながら、皺深い顔に笑みを浮かべた。
「今回の悪霊憑きは女性です。結婚して三年目の妻である女性です」
「女性の悪霊祓いなら今までに何度か」
「うん。けれどね、今回の女性は実は二度目なんですよ」
「二度目?」
「そう。以前にも悪霊祓いを受けた女性なのです」
「……では」
「ええ。以前よりももっと酷い。一度別のエクソシストを派遣しましたが、全く歯が立ちませんでした。今そのエクソシストは三階から落ちた衝撃で入院中です。危険なのですよマイクロトフ」
「だから、さっきの男と組めと?」
「カミュー神父ですマイクロトフ。彼は北部でずっと活躍をしておられた、優秀なエクソシストなのですよ。きっとあなたを上手く助けてくれるでしょう」
そしてテンコウ司教は有無を言わせぬ眼差しでマイクロトフに命じた。
「相手方の居所や家族構成など詳細は既にカミュー神父に伝えてあります。あなたは道中彼からその辺を詳しく聞くと良いでしょう。頼みますよ」
「ですが司教さま!」
「今回は車を用意してあります。運転ならカミュー神父が得意と聞いています。道案内も彼がしてくれるでしょう。あなたはいつも通り、テッサイから『剣』を受け取って向かいなさい」
良いですね、と。
念を押されてはマイクロトフにはもう頷くしか術は無かった。
「…分かりました……」
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2005/04/13