exorcist 8


 神の存在証明。
 過去、名のある哲学者や科学者がこぞって挑戦したその難題。
 だが今だかつてそれを物理的に証明した者はいない。それを求める事は、信仰を持つ人類にとっての永遠に解明される事のない果て無き探求の旅路である。

「カミュー、おまえは……」
 マイクロトフが戸惑ったような声を出す。カミューも苦笑を浮かべて俯いた。
「まぁその程度の信仰心はある、ということで理解してくれるかい。生まれつき疑り深くてね」
 ともすれば大昔なら宗教裁判にかけられてカミュー自身が悪魔だと罵られそうな告白である。何故そんなことをマイクロトフにわざわざ教えたのか、カミューはその理由が自分でも分からなかった。ただ言ってしまってから、それでこの自分を見る漆黒の瞳が曇るのかと思うと少しだけ後悔の気持ちが沸いた。
 だが口に出した言葉は取り戻しがきかないものだ。カミューは苦笑して首をすくめた。
「教区持ちのおまえにとっては俺のような考えを持つ者は不快だろうが見過ごしてくれ。信仰心が全くないでもなし、少なからず悪霊を祓うだけのものは持ち合わせているんだしね」
 それで勘弁してくれとカミューは殊更軽い口調で懇願した。ところがてっきりそれでも許さんとでも怒るかと思ったマイクロトフは、予想と違った表情でそこに立っていた。
「そうではないだろう」
 あえて言葉にするなら、それは不満げな表情だった。
「そうではないカミュー。俺がおまえを不快に思うなど有り得ない」
 何故かどきりとした。しかしそんな事はおくびにも出さずにカミューは黙ってマイクロトフの言葉を聞いた。
「おまえは自分でそう言うがきっと誰よりも神を信じているんだ。もしかしたら俺よりも……。だから苦しいんだ」
 言い切ったマイクロトフに漸くふっと息を吐く事が出来たカミューは緩やかに首を振る。
「……何を言っているんだ。俺が、苦しい?」
「自覚がないのか」
 マイクロトフは驚きを隠しもせずにそんなことを言った。それが妙に癪に障った。
「馬鹿なことを。俺の信仰心が浅いのは充分自覚しているさ」
「だからそうではない。ああ、もう、どういえば分かるんだおまえは!」

 マイクロトフは突然大声を出して己の頭を掻き毟った。
「くそ! 上手い言葉が見つからんではないか!!」
「……司祭のくせに?」
「うるさい! 説教ではないのだから仕方がないだろう!」
「なんだ。意外と口下手かおまえ」
「くっ…!」
 マイクロトフは言葉を詰まらせ、それから見る間に白い肌を屈辱に赤く染めた。適当に突っ込んだだけだったが図星だったらしい。その様がカミューの心の琴線に触れた途端、思わず吹き出していた。
「あっはっはっは! 口下手な司祭だなんて……くっくっく」
「笑うな! こら!」
 顔を真っ赤にしたマイクロトフが怒鳴っているが、不思議な事にちっとも笑いの衝動が止まない。そんな大した事でもない筈なのに、それなのにこんなに笑ったなんてどれくらいぶりだろうかと思考の隅で考えながらカミューは腹を抱えてとにかく笑った。
「カミュー!」
 ところがマイクロトフが更に怒鳴り声をあげた時だった。控えめなノックの音に続いて扉の向こうから「あ、あのう!」と大きな声がかかった。
 そこでカミューは笑いの発作を押さえつけてハタと我に返る。そういえば仕事の途中だったのではなかったか。そうして見渡せば室内は割れた硝子が飛び散って散々な状況である。
 どうやらマイクロトフもその事実に気付いたのか大慌てで扉に歩み寄ってそれを開いた。すると案の定そこには不安げな表情のテイラー氏が立っている。
「神父様、リサは……彼女はどうなって―――」
「ああ、もう大丈夫だ」
 何処か引き攣ったようなマイクロトフの態度だったが、テイラー氏はそれに気付いた風もなく言葉の額面だけを受け取って表情を一変させた。

「ああリサ!」
 マイクロトフの傍らをすり抜けてテイラー氏はベッドに駆け寄ると彼女の手を取り握り締めた。その様子からして室内の惨状など目に入っていないようだ。
 その後ろではマイクロトフが口元を拳で隠して必死で戸惑いを抑え込もうと頑張っている。どうやらマイクロトフもついさっきまでの悪魔との闘いをすっかり失念していたようだった。そしてそんな自分に驚いているらしい。
 カミューだって充分に驚いている。仕事の直後に馬鹿笑いしたなんて始めての事だ。しかも依頼者を傍にしてすっかりその存在を忘れていた。
 だがその依頼者が目覚めた気配に、緩みかけていた意識がふと引き締まる。視線を向ければベッドの上でリサが小さく唸っていた。
「リサ? 大丈夫かいリサ!」
「んん……あなた…?」
 夫の呼び掛けに応えた声は掠れて弱々しくはあったが、優しい女性特有の声音だった。そこには悪魔に憑かれた時の恐ろしい悲鳴の名残は微塵もなかった。
 そんな妻の姿に感激してかテイラー氏はその頬を撫でこめかみを包み、涙に瞳を潤ませてキスを贈っている。その様子を見守るマイクロトフの目は安堵に安らいでいた。
「有難うございます神父様。神父様がたのおかげです」
「いや、全ては神のお力だ」
「でもまだ、終わったわけじゃない」
 妻の手を握り締めて感謝の言葉を告げるテイラー氏とそれに謙虚に返すマイクロトフだったが、カミューは引き締めた気持ちのまま一人冷めた声を挟む。
「カミュー?」
 不思議そうなマイクロトフの声を聞き流して、カミューは厳しい面持ちのままベッドの上のリサを見下ろす。
「奥さん、意識は確りしていますか。吐き気は?」
 質問にリサは躊躇いがちに首を振った。おそらくまだ意識が戻ったばかりで感覚が鈍いのだろう。だがきっとこの後の揺り返しに少なからず苦しむに違いなかった。
 だがカミューはリサを安心させるように微笑むと、テイラー氏の反対側に回って静かに膝をついた。
 言わなければいけない事がある。

「さぞ不安だったでしょう」
 リサの呆然とした瞳の奥に見え隠れしているものは失意。その更に奥には後悔と懺悔が確かにあった。カミューはそんな彼女にことさら優しい声をかけた。
 もう二度と、彼女が悪魔の餌食にならないように願って。
「でも、大丈夫ですよリサさん……あなたの可愛い赤ちゃんは、ちゃんと天国に召されている」
 ―――可愛い赤ちゃん。
 それは今彼女の胎内に宿っているこどもを指してではなかった。
 そう。八年前のこどもだ。
 マイクロトフとテイラー氏が揃って息を呑む気配がしたが、唯一リサの瞳だけはカミューの言葉の意味をゆっくりと理解しているのか、ゆるゆると見開かれていく。
「……私の、赤ちゃん…」
「心配しなくても良い。八年前、あなたのお子さんは確かに神の御許に召されていますよ。そうでなければ、神は二人目のお子さんをあなた方にお与えになるわけがない」
 リサの目に、涙が浮かんだ。
「ほんと……に…?」
「ええ。だから安心して八年前のように愛せば良いんです」
 カミューの言葉に、リサが笑みを浮かべた。
 その笑みを見て、カミューの中で推測が確信に変わった。
 彼女は妊娠を怖れて悪魔に憑かれたわけではなかったのだ。彼女はただ、胎内に宿った子の行く末を哀しんで、そしてその深い悲しみを悪魔に突かれただけだったのだ。
 今回も八年前のように生まれる前に流れてしまうのではないかと流産の危険に怯えてしまっていただけなのだ。一度体験した事だけに、繰り返す悲劇を恐れていた。そして産めずに愛してやれなかった後悔が蘇って悪魔を呼び寄せた。
 自分に果たして子供を産む資格が神に与えられているのか。この手で慈しみ育てる未来がきちんと用意されているのか。
 子供を厭うてではなく、愛しいからこその悩みだった。

 ―――愛しい。

 そんな感情を、カミューは考えた事もなかった。
 大抵の人間なら産まれる前に母親から無条件に与えられるはずのそんな感情を。
 だがその事に思い至った時、自然に胸に落ちた。
 なるほど、そうだったのかと。
 ならそれをリサに伝えておくべきだと判断したのだ。そうすることでもう本当に二度と彼女は悪魔を呼び寄せる事がなくなるだろうからと。
 思ったとおり、彼女の浮かべた笑顔はとても綺麗で、カミューは「お大事に」と一言告げて立ち上がった。

「さて、これで本当にお終いだ」
 破れた窓の外はまだ日暮れてもいない。
 通常なら何時間とかかる悪霊祓いをこんな短時間で終わらせたのは初めてだった。だが妊婦であるリサにとってはそれが何よりだった。
 司教のテンコウが何処まで知っていたかは分からないが、やはりマイクロトフと組んだ事がプラスに働いたのはもう疑いようがなかった。
「マイクロトフ、帰るぞ」
 もうエクソシストとしての自分たちの仕事は終わった。今後の成り行きがどうなるかは、もうこの夫婦の前向きな努力次第で、特殊な舞台の出演者であるカミューたちは一刻も早く退散するべき存在だった。
 カミューはそう考えてこれまで現場に長居した事はない。おそらくマイクロトフも同じだろう。事実、夫のテイラー氏が二人を引き止めるような素振りを見せたが、それに気付かぬふりでマイクロトフは剣を包んでいた広い布を床から拾い上げていた。
 カミューも床に散ったガラスの間に落ちたマッチの燃え滓を拾って帰ろうかと思ったが、指先が破片で傷付きそうなのでやめておいた。
「室内を散らかしてしまって申し訳ないが、その分を寄付金から差し引いて頂ければそれで構わないので宜しく頼みます」
 にこりと微笑んでカミューはゆっくりとした足取りで破片を踏み分けながらマイクロトフの横を通り過ぎる。
「………出よう」
「ああ」
 カミューを追うように振り返ったマイクロトフの足音を聞きながら、カミューは若い夫婦の住まいを早々に後にした。



 表に停めてあった車に乗り込むと、途端に大きな溜息が漏れた。そして間を置かずに助手席側の扉が開いてマイクロトフが乗り込んでくる。だがカミューはすぐにはエンジンをかけなかった。
 シートに深く凭れて目を閉じる。
 だがどうやら沈黙に耐え切れなかったらしい男が、わざとらしく咳払いをしたものだから、渋々と片目を開けた。
「何か言いたい事でも?」
 もしや今日の反省点など述べるつもりだろうか。それも有り得ない話じゃないと思わせる男だ。しかしマイクロトフはカミューの予想外のことを口にした。
「カミューみたいな奴は、初めてだ」
「ああ、そう」
 まぁ確かに悪魔を見るなんて芸当が出来る人間はそうそういないだろう。
「俺も、俺みたいな奴が他にいるとも思えないね」
「そうだとも。こんな裏表のある奴は他に知らんぞ」
「………」
 いつの間にか助手席のマイクロトフは握り拳を固めて力説している。
「テンコウ司教様やテイラーさんには人当たりのいい振りをするくせに、俺には最初から傍若無人に振舞って好きな事を言ってくれて」
「……ええと、そっち?」
「何がだ」
「いや、なんでもないよ」
 思わず笑みが零れた。
 ハンドルに手を置いて肩を震わせてしまう。なんて愉快なんだろう。
 カミューはそのままキーを取り出してエンジンをかけた。
 こんな気分で帰途に着くのは初めてだ。
 それがまた、悪くない気分だから参った。
「邪魔するなとか窓から放り出すとか散々な事を言ったし」
 車がスムーズに走り出してもマイクロトフはまだ握り拳を固めたままだ。カミューは笑いながらそれらを聞き流していた。ところが。
「だが、それでもひとつだけ分かった事がある」
「なんだい」
 カミューは笑みを浮かべながら、軽い調子で聞き返しただけだったのだが、返ってきた答えに思わず噴いた。

「カミューが意外に優しくて良い奴だと言う事だ」

「な、何言って……」
 咳き込みながら横目に覗い見たマイクロトフの横顔は、穏やかな微笑に彩られていた。
「最後にリサさんに微笑みかけたおまえの笑顔に、偽りはなかった。俺はそれを見てなにやらとても嬉しくなってしまったぞ」
 そして本当に嬉しげに笑うものだから、カミューは真っ直ぐ続く路面に視線を戻しながら、不可思議な感情が胸の奥に住み着くのを認めざるを得なかった。

「降参だよ、まったく」

 内心で白旗を盛大に振ってみせるが、マイクロトフは何の事だと首を傾げている。カミューは、まあ良いさと肩を竦めた。
 きっと今回だけでは終わらないはずだ。
 今日の事でカミューとマイクロトフが組んだ成果は評価されるだろう。ならばまた次回があるに決まっている。
 さしずめ今日の別れの言葉は決まった。
 カミューは帰路を見据えてその時のマイクロトフの応えを想像してみた。きっとこの男は何の含みもなく自然にこう返すに違いない。



 ―――ああ、またな。



 その時の事を思ってカミューはにんまりと笑った。



end

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2005/07/08