exorcist 7


「それでこの強すぎるポルターガイストの原因が分かって、何か策はあるのか?」

 カミューが頷いた事で納得できたのか、マイクロトフは驚くほどの切り替えの速さでそんな事を聞いてきた。たった今まで憤っていた筈なのに、そんな事もすっかり忘れたような顔をしている。
 少々面食らいながらカミューは「ああ」と頷いた。
「力の源が分かれば、あとはそれを断てば良いだけだろう」
 こうなれば益々マイクロトフの『斬る力』が都合良くなってくる。
「見えるかマイクロトフ。胎児から悪魔へと力が流れ込んでいるのが」
「ああ」
「おまえがその剣でそれを斬ってくれれば悪魔の力が一瞬でも弱る。そこを突けば後は簡単に祓えるだろうさ」
「ああ……」
 こくりと頷いたマイクロトフは、だが、と躊躇ったように口篭る。カミューは振り返った。
「どうした」
「多分今のままでは斬れん。カミュー、悪魔と彼女と両方をほんの一瞬だけで良い、押さえられんか」
「は?」
「カミューに言われてみれば、確かにリサさんの体内から力が流れ出しているのだが、まるで守るようにして彼女の身体と邪悪な気がその流れを取り囲んでいるのだ」
「つまり……斬りやすいようにわたしに押さえつけていろと?」
「そうだ」
「あのね、それがどれだけ大変な事か分かって言っているのかい?」
 悪魔だけなら良い。もしくはリサだけなら。だがその両方を押さえ込めとは。
 悪魔憑きの人間は通常考えられないほどの怪力を振う事が多い。そんな彼女を押さえ込みながら、なおかつ悪魔に威圧をかけて動かないようにしなくてはならないとは、多大な体力と精神力があっても出来るかどうか。
 しかしマイクロトフはいとも容易くカミューにそれをやれと言うのだ。
「カミューならできるだろう?」
「おまえね」
 反論しようとした。だが振り返ったマイクロトフの目が、あまりにカミューを信頼するような目で見るから、それ以上何も言えなくなってしまった。
「一瞬で良い、頼む」
 じっと、マイクロトフがカミューを見詰める。
 それだけの事なのにカミューはどうしても『ノー』とは言えなかった。
「分かった。でも本当に一瞬だからな、三秒……いや一秒くらいしか押さえていられない」
 ところが、眉根を寄せながら言い切ったカミューにマイクロトフは少しばかり目を瞠って、それから大輪が咲き綻ぶかの如くの屈託のない笑みを浮かべたのである。
 そして剣を構えなおして大きく頷く。
「充分だ」
 その姿に、不覚にも見惚れた。
 見惚れたと自覚してすぐに我に返ったが、動揺は去ってはくれなかった。何故だろう、胸の奥が熱い。
「……一瞬、だからな」
「ああ分かっている。頼むぞ」
 言うなりマイクロトフの気配が唐突に変わる。まるで清流の小川に揺ぎ無くある巌のように、その気配がしんと静まった。それが東洋に伝わる『居合い』の呼吸に似たものだと知ったのは随分と後になってからだ。だが今はその落ち着いた空気にカミューの心もまた凪のように穏やかになった。
 助かった。
 何がなんだか分からなくても、激しく胸を叩いていた動悸が治まったことだけは有難かった。落ち着いて悪魔を見遣る事が出来る。
 カミューは手の中のマッチを握りなおした。
 微かな硫黄の匂いがする。
 残ったマッチは何本だったか、だがほんの数本あれば充分だ―――。

「主よ―――」

 カミューは右手を前に差し出し、左手を胸に押し当てるとすっかり覚えきった聖書の節を諳んじ始めた。
「主よ、私たちをお救い下さい」
 びくり、と悪魔と同時にリサも慄く。
 聖書にはイエス・キリストが悪魔を退散させたと記されている。深い信仰心を持つ者には事実に近いその出来事を悪魔に突きつける事はすなわち悪魔の力を押さえ込む事となる。
 そして右手の指先を擦り合わせた。
 ぽうっと小さな明かりが点る。
 弱いマッチの炎だ。
「―――は他の神々に従ってはならない。あなたの神エホバの怒りがあなたに向かって燃え、あなたを地の表から滅ぼし尽くすようにならないためである……」
 悪魔祓いにおいて、悪魔自身との対話は絶対に行ってはならない禁忌とされている。何故ならそれは人間誰しもにとって危険このうえない行為といえるからだ。ミイラ取りがミイラになるという具合で誰の心にも入り込み取り憑くのが悪魔というものだった。
 マイクロトフも認めないと言い切ったそれを、しかしカミューはやる。
「……さあ、エホバの炎に焼かれたくはないだろう」
 マッチの炎が不意に勢いを増す。だがすぐに燃え尽きそうになるそれに、すかさずもう一本の指が動いて擦った音が響くと同時に新たな炎が生まれる。
「今、すぐに、レディを離せ。でなくば諸共に焼かれてしまうぞ」
 それは、冥府の門をくぐる前からカミューに備わっていたもうひとつの特殊能力だった。
 悪魔を視認できる力は後天的なものだ。
 しかしこの炎を操る力は先天的な力で、だからこそ蘇生出来たとも言えた、それほどの力。
 思うだけで炎が踊る。
「まずはおまえが掴んでいるレディの心臓」
 コツ、と一歩踏み出しながら呟くとカミューの目に悪魔の手が炎に包まれる様が見えた。
「それからおまえが足かけているレディの肺」
 コツコツと靴音を響かせるごとに炎が生まれ、筆舌に尽くし難い悪魔の悲鳴が響く。
「肋骨、背骨、胃、―――それから」
 とうとうベッドの側まで歩み寄ったカミューは、恐ろしい眼差しで悪魔を睨みつけながら、己で起こした燃え盛る炎に向かってその右手を突き出した。
「……子宮!」
 掴んだそれは、実際にはリサの喉だった。ぐうっと彼女の身体が仰け反り、呼吸する術を奪われて一瞬だけの硬直に陥る。そこで叫んだ。
「マイクロトフ!!」
 呼ぶと同時に伏せられていたマイクロトフの黒い瞳が見開かれた。その刹那、突風が巻き起こったかと思うと、脇を走り抜けた何かがカミューの髪を数本はらりと落として、そして唐突に風は止んだ。
 そして。
 カミューがはっと目を見遣ったその先に、リサから切り離された悪魔が一匹炎にまかれてもがき苦しんでいた。
「カミュー! 彼女を!」
「分かった!」
 喉から手を離し、途端に咳き込む身体を両手で抱え込みカミューはベッドからリサの身体を引き摺り落として悪魔から遠ざける。
 そして入れ替わりにマイクロトフが大きく踏み出してベッドの上に飛び乗ると、悶え苦しむ悪魔にそのダンスニーと呼ばれた聖剣の鋭い切っ先の狙いを定める。
「父と子と聖霊の御名において―――」
 低い声が室内に響き渡る。

「悪魔よ、去れ!!」

 ダンスニーが悪魔の身体を貫いた、と同時に爆発的な風圧がそこから生まれ、室内に絹を引き裂くような絶叫が満ちた。だがそれは一瞬で消え去り、爆風もまたぱたりと消滅する。
 そして後には風になぎ倒された室内の小物と、剣先が貫いたシーツとマットだけが残っていた。
 悪魔の姿は、もう何処にもなかった。





 気を失ってぐったりとしたリサの身体を、引き摺り落とした時の乱暴さを詫びるようにカミューは慎重な手つきでベッドへと戻した。
 もう彼女の顔相には悪魔憑きの名残は欠片もない。少しばかり疲労が見られるが、後は回復していくだけだろう。その額にかかった髪を掻き分けてやると、後ろからマイクロトフの溜息が聞こえた。
 振り返ればマイクロトフはダンスニーを鞘に収めたところだった。その姿にカミューは僅かな苦笑を浮かべた。
「悪かったよ」
「何がだ」
 きょとんと顔を上げたマイクロトフは、カミューの言葉にぱちりと目を瞬かせる。その純真な挙動が何故だか後ろめたさを感じさせて、つい目を逸らしてしまう。
「おまえを役立たず扱いした事だよ。悪かった。今回はおまえがいなければこんなスムーズに解決はしなかっただろうね」
 そしてちらりともう一度見やると、マイクロトフはまるで意外だといわんばかりの目をしてカミューを見ていた。すると案の定。
「意外だな」
「何がだい」
「カミューがそんなに素直だと、意外だ」
 本当に意外そうに言うものだから思わず笑みが零れた。
「明らかに非があれば当然謝るさ。そこまで捻くれてもいないよ」
「そうか……」
 頷き俯いたマイクロトフだったが、それでもまだ何か言いたいことが残っているような顔をしている。カミューは立ち上がり身体ごとそんな彼に向き直って首を傾げた。
「なんだ」
 言ってみろと促すと、マイクロトフは困ったような目をしてカミューを見た。そして言った。
「聖書の言葉を……言ったな」

 言った。
 確かに、悪魔の動きを封じる時に言った。だがそれが何だと言うのだろうか、悪魔祓いの方法としてこれ以上なく正しいではないか。
 だがマイクロトフは眉根を寄せて困惑したように言った。
「信仰心を求めるなと俺に言ったおまえが、どうして聖書の言葉を使って悪魔を祓う?」
「いけないかな。だって聖書の言葉は何よりも悪魔に効くじゃないか」
「だが信仰心のない者が唱えても、あれは―――」
 なるほど。
 言い淀んだマイクロトフにカミューは彼が何を言いたいのかが漸く理解できた。
「ああ、そうか。マイクロトフは俺に信仰心がないと思ったんだな」
「………」
 沈黙は肯定だった。カミューはしょうがないなと笑う。
「誤解だマイクロトフ。俺は、信仰心はある。神も信じている―――いや信じたいから、だからこんな事をやっている」
「こんな事?」
「エクソシスト」
 他に何がある? とカミューは軽く首を竦めた。それからマイクロトフを見詰めながらゆっくりとその唇を笑みの形に歪めていく。
「いいかい、マイクロトフ」
 これは過去、自分を相手に何度となく確認した事だ。

「神がいるのなら、悪魔もいるんだよ」

 マイクロトフの唇が「え?」と言った。良く分からなかったようだ。当然だろうとカミューは思った。こんな事を考えてエクソシストになる司祭などそうは居ないはずだ。

「逆転の発想でいけば、悪魔がいれば、それは神がいるということだ」

「カミュー?」

「聖書の言葉によって悪魔を祓う事ができるのなら、そこには確かに神の力がある―――神の姿をそこに垣間見る事ができる」

「おまえは……」

 マイクロトフの慄いた顔が見える。けれど、これだけはもうどうしようもない。冥府を覗いたがためのこれは因業なのか、それすらもカミューには分からないが、一度全てに絶望をしたが故に求めずにはいられない飢餓感が、そこにはあるのだ。
 カミューは笑ったまま、呟いた。

「神の存在証明。それが俺がエクソシストである理由であり、信仰の支えだ」

 カミューは体裁のために首にかけているロザリオを握り込んだ。
「俺の信仰心で悪魔を祓い続ける事が出来る限り、俺は少なくともこの世に対する絶望からは逃れていられる」
 救いがあるのだと、そのたった一筋の光明を感じていられるのだ。
 ともすれば容易く絶望に陥りやすいこの世界の中で、醜悪で禍々しい悪魔の存在だけが、カミューに安心と生きる術を教えてくれるのだ。
 それは哀しいほどにカミューにとっての真実だった。



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2005/07/05