マフィン


 机の上にマフィンが四つ。ひとつは歯型がついていて、少し離れた場所に放り出されている。
 いったい誰が食べかけたまま行儀悪く放置しているのかなんて、考えるまでもなくこの部屋の主に違いなかった。
 マイクロトフは癖みたいになっている溜息をひとつ零して背後にある気配に呼び掛けた。
「カミュー?」
「なんだい」
 即座に返事はするものの、身動きした気配はない。ただ一度だけパラ、と乾いた音がした。
 マイクロトフが振り返ればソファーに寝転がって読書中のカミューが目に入る。少し乱れた髪に構うことなく、一心に本の文字を追っていた。
「休日だからと言ってダラケすぎだ」
「そうかな」
 顔を上げない。
 マイクロトフはまた溜息をひとつ、テーブルの上のマフィンに手を伸ばした。
「これ、食っても構わんか」
「どれ」
「マフィン」
「…良いよ」
 また本の頁がパラと乾いた音をたてた。
 マイクロトフはやけくそのような気持ちでその歯型のついたマフィンを掴むとがぶ、と食いついた。途端にぼそぼそとしたマフィンが口の中に転がり込んできて舌の湿気を吸っていく。これは一日中このまま放置していたからなのだろう。乾き切っているじゃないか。
 口の中にもろもろと広がったマフィンの半端な甘味に辟易してマイクロトフは、同じようにそこにあったワインのボトルを掴み上げると、くんと匂いを嗅いでから直接ボトルに口をつけて少し喉に流し込んだ。
 甘味がワインの苦味に押されて消える。
 そしてマイクロトフはマフィンの残りも口の中に詰め込んで、やはりワインをそこに流し込んだ。微妙な味だ。いったい俺は何をしているんだ、と我ながら呆然としてしまう。
 だけど。
「美味いな、これ」
「そうか?」
「ああ。全部食っても良いか」
「良いよ」
 パラパラ、乾いた音だけが聞こえてくる。カミューは少しも顔を上げないし居住まいを正す事もしない。せっかく、早く仕事を終わらせてきたのに。
「では遠慮なく頂く」
 マイクロトフは今度は椅子を引いて座ると、改めて頂きますと手を合わせ、マフィンをひとつ手に取って噛り付こうと口を開いた。
 だが。
「茶くらい淹れろよ」
 後ろからかけられたその言葉にぴたりと止まって、そして首だけぎぎぎと振り向いた。でもやっぱりカミューは本を読んでいる姿勢のままで、もしかして先程のは幻聴かと首を傾げる。そして再びマフィンに視線を戻してまた食べようとしたら。
「ワインも残り少ないし。だいいち、美味いか?」
 言葉と一緒にまたパラ、と頁をめくる音がした。
 今度こそマイクロトフは椅子ごとガタンと振り向くとマフィンを片手にじっとソファーのカミューを見つめた。すると、またパラ、と頁をめくる音がする。おや、とマイクロトフは首を傾げた。
 ちらと覗き見た時、随分とびっしり文字で埋まったもののように見えた本は、戦史小説もので、じっくり読めるもののはずである。だがまた乾いた音がパラパラと。
 マイクロトフは、不意に唇を舐めて舌に残るマフィンとワインの味を思い出して顔をしかめた。
「実はワインとの相性は最悪だ」
 そう言ってみたがカミューはやっぱり本から顔を上げない。そしてマイクロトフは続けざまに言ってみた。
「おまえこそ、まともに読んでいない本がそんなに面白いのか?」
 そこで漸くカミューが顔を上げた。
「ばれたか」
「ばれたな」
「焦らしてやろうと思ったのに失敗失敗」
「下らん事をするな」
 実のところ少し焦らされたのだが。
「うーん、それじゃあお茶でも淹れますか」
「俺がこれを食ってしまわんうちにな」
「あ、残しておいてくれよ」
「知るか」
 マイクロトフはがぶりとマフィンに食いついた。



end



2002/11/30