帽子
こつりこつりと慎重な足音が響く。
真昼間の人気の無い廊下は、他に何の物音もなく、足音だけが目立つのだ。
カミューはそしてこれもまた、何故だかそっと扉を開いた。別段中に居る誰かに気を使ったのでは無い。そもそも自分の部屋である。
だから、そこに人影を見つけて少なからず驚きに息を飲んだ。
直接陽光の差し込む南向きの窓には、レースのカーテンが垂れている。だがそれを透かすように室内に差し込む光が床までを照らして、部屋の中はふわりと浮かび上がるような白い明るさに満ちていた。
そしてその傍ら、かろうじて陽光の届かない距離で置かれたソファーに、ひとり舟を漕ぐ姿があった。
カミューは無意識の内に息をひそめて、音をたてないように扉を閉じた。
滑るような所作で歩み寄ると、小さな寝息が聞こえてくる。カミューはふっと笑みを浮かべて肩の力を抜いた。
マイクロトフが寝ている。珍しいこともあるものだ。
夜に寝て朝起きる以外に、転寝をするような真似はしない男だ。寝顔など、ひとつベッドで寝る以外に見る機会は無い。
カミューはその貴重な機会を逃さないように、細心の注意を払って息を殺しマイクロトフの前に膝をついた。ソファーに座る相手を少しばかり見下ろす格好になる。そのままそろそろと手を伸ばしてみた。
触れるか否かのところで、ぴくんとカミューの指先が震えた。緊張しすぎて触れない。だが、触れたい。
無防備に居眠る姿が愛しい。触れてこの腕の中に閉じ込めてやりたいと思う反面、このまま何もせずに壊れやすい宝物のように見守りたいとも思う。
相反する思いにカミューは目をきつく閉じ、拳を握り締めて打ち震える。
ああ、どうしてやろう……っ。
別にどうする必要も無いし、なんならそのままそっとしておいて出て行けば良いとも思うのだが、この男の中にはそんな選択肢は在り得ないのだろう。
そうして目を見開いた視界の端に、カミューはあるものを見つけた。
「……けいとの、ぼうし」
小さく呟いてカミューはひっそりと笑った。
ソファーの端にふと置かれていたそれを、膝立ちのままそっと腕を伸ばして取り上げると、カミューはそれをぐいぐいと広げた。
それからそれを、徐に眠るマイクロトフの頭に被せた。しかも、深く。
驚いたのはマイクロトフだ。
「……ん、なっ!?」
目覚めたところで目の前は毛糸の編目の拡大図である。ところがその耳にするりと滑りこむ声がある。
「マイクロトフ、慌てないで」
毛糸の帽子に覆われた頭を優しく包む手指の感触に、腰を浮かせかけていたマイクロトフの動きがぴたりと止まる。
「カミュー?」
「居眠りかい、珍しい」
「あぁ、いや……なんだこれは」
ところがその帽子を外そうと上にあげかけた腕を、カミューの手が意外なほど強い力で押さえる。
「ちょっとね。まぁまぁ、そのままじっとして」
そしてカミューはマイクロトフの頭に手を添えて、そうっと顔を寄せた。そして口の端を舌先でそろっと舐めた。
「………っ」
びくっとマイクロトフの身体が強張る。それを空いた方の手で宥めるように撫でながら、カミューは遠慮なく舌先でくすぐり唇をこじ開けて己が満足するまでキスを味わった。
「はい、ごちそうさま」
言いざま、するっと帽子を抜き取ると、頬を赤らめて困惑に目を躍らせるマイクロトフの顔があらわになる。
「いったい、おまえは何がしたいんだ……」
濡れた唇を手の甲で拭いながらマイクロトフは震える声で訴える。それにくすくすと笑いながらカミューは片手で帽子をくるくると振り回した。
「起こしたくなかったけど、結局誘惑に負けてしまってね―――普通にキスしたらたぶん、すごく抵抗されると思って」
「はあ?」
「いやいやまあまあ」
便利なアイテムがあったもんだね、と呟きつつカミューは立ち上がる。
「お茶でも淹れようか? 目が覚めるような苦いやつ」
「……何でも良いが……―――」
「あぁ、でももう少し見ていても良かったなぁ」
「何か言ったか?」
「え、別に」
機嫌良く笑いながらカミューは帽子を振り回しながら続き部屋へと消えて行く。
ここは礼代わりにとびきり美味しい紅茶を振舞おう。
あとに取り残されたマイクロトフは、帽子で乱れた髪をそのままに、わけも分からずソファーに腰掛けた格好のまま、ひたすら首を傾げていたのだった。
end
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2003/02/04