本の傍には栞。
 鹿の皮を加工した明るい榛(はしばみ)色のそれ。
 栞には細く編まれた赤い絹糸が短く結わえられている。
 それが誰のものかなんて、皆知っている。



 キスをしようと腰を抱いて引き寄せても、視線はつれなく文字を追うまま。黒い瞳にかかる睫毛は長くて綺麗だけれど、横から覗きこんでいるのはつまらない。
 促すようにその手に触れても絶対に握り返してくれない。どころかまるでいない者のように振舞われて、頁を捲る為にすっと手の内から逃げられる。
 拗ねて背中に頬を寄せても、伝わる温もりが心地良いだけ胸のうちが寒い。

 だから。


 つい。



「………!」

 ひょいと横から攫うと、それを追うように黒い瞳と両の手が持ち上がって、やっとこっちを見てくれる。それににっこり笑顔で答えて、片手でパタンと閉じた。
「あ」
 ぽかんと空いた口が物語る。呆然。
 それからその黒い瞳が怒るような、それでいて哀しそうな表情を浮かべる。
「カミュー」
 静かな声が溜息混じりに。
「どうしてそう言う真似をする」
「マイクロトフこそ」
 全然相手にしてくれなくて、何が恋人か。
 強気な態度で見下ろすと、流石に悪いと思ったのかやや首を傾げて困惑を過ぎらせる。
  わかっているのだ。一度はまると中々文章の世界から抜け出せ無い癖は。それでも、あんまり長く放っておかれると寂しい。本が恋敵なんてとんでもない。こんな、人の手の中で成す術もなく閉じられて、沈黙するばかりの紙とインクで出来たものが。
 ほんの少しでも良いから、たまにこっちを見てくれればそれで良いと思うのが、そんなに贅沢な願いとは思えない。
 だから。
「心配しなくても、読みかけの場所はあとでちゃんと分かる」
「なに…?」
 疑問に答えてくるんとひっくり返した本の天。ちらりと覗く隙間から垂れるのは赤い絹糸の帯だ。
「……栞、か」
「読書好きのおまえに、贈り物だ。是非頻繁に活用してくれ」
 取り敢えず、今からでも。
 言ってカミューは本を背後の棚にそっと押し込めた。
 それから手を伸ばして、呆れたように苦笑を浮かべる愛しい顔を包み込むようにして、両頬を捉えた。
 顔を寄せ、こつん、と額をぶつけてカミューが微笑むと、マイクロトフは照れたように瞳を伏せた。長い睫毛が黒い瞳に影を落とす。やっぱり正面からの方が良い。





 本の傍には栞。

 マイクロトフの知人なら誰でも知っている。
 その栞は、マイクロトフの持ち物だと。



end



2003/02/27