ピアノ
彼があの白黒の鍵盤で楽曲を奏でる様は知っている。
だが、楽曲が完全に終わり、最後の一音が微かな響きを残して消えるのは、知らない。
全ては、あのひたむきな眼差しと、ぴんとした姿勢が醸す色気が悪い。何せ自分はそれこそに、虜にされているのだから。
耳に障る不協和音の中、背後から手を伸ばしてその唇を奪ってしまう。それくらい理性を揺るがす彼の魅力を、一際鮮やかにするその楽器の魔力。
しかしその魔力が効いているところを、実感するのは自分ひとりで充分だと思うのに、この有様はなんだ。
カミューは穏やかな微笑を浮かべたまま、目だけは笑わず内心で憤慨していた。
今はとある貴族の夜会の真っ最中だ。
滅多にそんな席に出ない青騎士団長が、こうして華やかな衆人の目に曝されるだけでも耐えがたいのに、何処から知ったものかお節介な誰かが彼の隠れた特技を声高に叫んだものだから。
広間に呼ばれた楽団員の一人が恭しくその席を譲り、黒光りする見るからに高価そうなピアノの前へとマイクロトフを招待した。
何を。
むっつりと生真面目な表情のまま短くそう訪ねた青騎士団長に、夜会を主催した女主人は、有名な歌劇の一幕で歌われる旋律を希望した。愛の、うただ。
情熱的な。身の奥から震えが湧きおこるような。そんな愛のうた。
知らなければ弾かずに済むものを、その歌劇の公演に随分前に無理やり誘って連れて行った覚えのあるカミューは、殊更不満を募らせながらマイクロトフが頷くのを見ていた。
鍵盤に指を置いて、力を込める寸前。ちらりとその黒い瞳がこちらを見たのは錯覚だっただろうか。ハッとした次にはもう、その瞳はゆるく細められて鍵盤を見下ろしていた。
その指先から紡ぎ出される旋律の、躍動感といったら。
何度か彼がピアノを弾く様を見たことのあるカミューだったが、こんな旋律を弾くのはついぞ知らなかったから、少しばかり驚いた。いつも静かな、堅苦しい楽曲ばかりのくせをして。こんな感情溢れる演奏も可能なのかと。
だが直ぐにその驚きも、それまでの不満に積み重なる。
そのうち、腹立ちの方が強くなる。
いったい全体こんな愛の旋律をこれほどまでに見事に奏でるマイクロトフを、どうして自分以外の瞳が見るのだろうか。その上に、この胸を打つ響きといったら、不感症の人間ですら彼に想いを寄せそうだ。
そしてカミューの怒りはますます募る中、演奏が終わった。
途端に湧く拍手と歓声。もっととせがむ声が耳に煩い。しかしマイクロトフは頑なにそれを固辞してさっさとピアノを本来の演奏者へと返してその場を離れた。
その足が、真っ直ぐにカミューの元へとやってくる。
「ちゃんと、聴いてくれたか」
カミューの内心の怒りも知らずにそう訪ねてくるのに、辛うじて頷き返してやると、マイクロトフは「そうか」と微笑を浮かべた。
「おまえはいつも最後まで聴いてはくれんから。今夜は良い機会だったな」
なにが、どこが。
いつも最後まで聴かずに演奏を邪魔するのは悪いが、それにしたってこんな場所で弾くことはないじゃないか。
「随分と、情熱的に弾くんだな。驚いたよ」
揶揄かいに厭味を少しだけ混ぜて言い放つ。ところがマイクロトフは瞬くと、居心地の悪そうな表情を一瞬浮かべてすかさずカミューから視線を逸らせた。
「そう、聴こえたか?」
「聴こえたとも」
ここに居る奴ら全員を嫉妬で殺したいくらいには。
胸のうちで物騒なことを呟くカミューであったが、続くマイクロトフの言葉にそんな想いも掻き消える。
「参った……あれは、つい、おまえのことを考えながら弾いていたんだが」
「……え?」
「いや、忘れてくれカミュー」
「は、ちょっと待てマイクロトフ」
それはいったい、どういう意味で。
「…あの歌はそもそも、おまえと共に聴いた歌だしな……いや、本当に忘れてくれ」
「マイクロトフ……」
そんな、忘れるなんて。
と言うか、覚えていてくれたんだ……。
ふわふわと足元から浮き上がるような心地に包まれてカミューは呆然と、逸らされて床の一点を見詰めたままの瞳を見る。心なしかその目尻が赤く染まっているような気がして、たまらなくなる。
思ったら、早かった。
がしっとその肩を掴むと、一瞬何かを堪えるように唸ってからカミューは顔を上げた。
「帰ろう、マイクロトフ」
「何?」
「今すぐ、帰ろう。ここを出よう」
そして二人っきりで。
今はもう、マイクロトフが奏でた情熱的な旋律は、カミューを幸福へと導く原動力となっている。
今度からは、自ら楽曲を選んでピアノを弾いて貰おうと、戸惑うマイクロトフを引き摺りながら目論むカミューであった。
end
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2003/04/13