握手


 よろしく、と最初に握った手の感触を覚えている。
 小さくて水に濡れていたその手は冷たかったのに、カミューの心を温めてくれた。
 忘れがたい、あの手。



「あの手がこの手になるわけだよ」
「なんだ」
 卓越しに顔を見合わせた格好で、酒の満ちたグラスは脇に押しやられて先ほどからずっと手を握られているマイクロトフは、僅か顔を顰めてゆらゆらとその腕を揺らす。
 いい加減離せととの意思表示に、しかしカミューは従わない。
 相変わらずマイクロトフの掌をひっくり返したり、指を折り曲げさせたりして弄繰り回している。それを嫌ならさっさと振り払えば良いものをそれをしないから益々カミューを図に乗らせていると分かっているのだろうか。
 内心でくすくすと苦笑しながらカミューはふくらみのある親指の付け根を指先で押したりする。それが力の加減を間違えたかマイクロトフが不意にビクリとした。
「こら」
「ああごめん」
 さすさすと撫でてカミューはまたその手を弄ぶ。
「この手が、あの手だったんだよな…」
「さっきから、何を言っているんだ」
「んー……、初めての握手」
「……なに?」
 首を傾げて眉を顰めるマイクロトフに、カミューはくすくすと笑いながらさすっていた掌に己の掌を合わせて握る。
「こうして握手した時おまえの手はびしょ濡れで」
 思い出すと顔が緩む。
 この目の前の生真面目な顔が突然記憶のそれと重なって幼い顔立ちが蘇るからだ。
 きっと彼は覚えてもいないに違いない。
 マイクロトフにとってカミューとの初対面は、ロックアックス城での士官学校での入校式の時だろうから。
 でも、本当は違う。

 あの武骨な石の街に初めて足を踏み入れたその日。
 連れとはぐれて、初っ端から迷子になった。
 街の通りを過ぎ行く人々は、見るからに異邦人の外見と旅装で薄汚れた子供からは目を逸らす。
 明らかに言葉の発音や調子が違うらしいそんな人々に、掛ける声も出なくて迷子の自分は途方に暮れていた。
 そうしたら。
 小さな手が差し出されたのだ。
 自分より低い位置から、もみじのような手が唐突に。
 その指先から白く柔らかそうな腕を伝ってゆるゆると視線をずらせていくと、黒い瞳がカミューをじっと見上げていた。
『え、と……?』
 差し出された手を取るべきか否か、惑ってカミューは首を傾げた。けれども黒い瞳はこちらを見つめるばかりで何も言わない。
 しかもよく見れば小さな手の差出人は大きな瞳で白いふっくらとした頬が少し赤らんでいて、短い黒髪は少年めいているのにその面差しは少女のようなのだ。
 そして躊躇うカミューに、何を思ったかその黒髪黒目の子供は不意に心配そうな、それとも哀しそうなと呼ぶべきなのか、そんな表情をして差し出していた自分の手を見詰めてゆるゆるとそれを引っ込めた。
 あ、と思ったカミューの目の前でその子供は己のそんな掌を左右でこすり合わせて、きょろきょろと周囲を見回した。
 更にカミューが困惑している前で、子供は一瞬だけちらりと視線を寄越すと何故だかうん、と頷いて見せてから軽い足音を立てて突然走りだした。
 何処へと思わず目でその姿を追うと、直ぐ近くにあった噴水に何故か掛け寄っていく。そして何を考えたのか両手をバシャンと噴き出して落ちてくる水飛沫の中に突っ込んだのである。
『え……?』
 呆然とするカミューの前で、子供はそうして腕までびしょびしょに濡らした格好でてくてくと戻ってきた。
 そしてまたカミューを見上げてその手を差し出してきたのだ。それから桜色の唇が小さく呟いた。
『ごめんなさい。きたなかった』
 初めて発した声はやはり少年とも少女とも判断のつきにくい高音で。だがそのたどたどしい言葉遣いは、異邦と知ってかそれとも見た目よりもまだ幼いか。
 どちらにせよ、その言葉の意図するところを即座に理解してカミューは思わず顔を笑顔に綻ばせていた。
『ありがとう』
 そしてその小さな手を握った。すると意外なほどに強い力でぎゅうっと握られた。そしてやはり見上げてくる黒い瞳が頼もしく微笑む。
『どこにいきたいの?』
『えっとね……この街で一番大きな宿を…』
『わかった』
 最後まで言い切る前にうん、と頷いた子供はぐいっと握り締めた手を引いて先を歩き出す。ととっと引っ張られてカミューもその歩調に合わせて歩きはじめたのだ。
『うん……じゃあ、よろしく』
 ぐいぐいと引いてくるその手が離れてしまわないように、カミューはぎゅっとその小さなぬくもりを握り締めた。

 幸い、少しも歩かないうちにカミューの連れは見つかり、その子供とはそれきりになった。
 カミューの掌には濡れた感触だけが残って、結局子供が少年か少女かも分からずじまいで、せめて名前くらいは聞けばよかったと後悔しても後の祭りだった。

 だがそれも数年後、ロックアックス城で行われたマチルダ騎士の士官学校入校式で払拭されたわけだが。



「汚れた手を洗う知恵はあっても、濡れた手は拭く知恵は無かったんだよな」
「カミュー?」
「今だって大概、変わっていないけど」
「おい、なんなんだ」
「いやいや、握手握手」
 片手は卓上に肘をついて頬杖をして、もう片方の手でマイクロトフの手を握り絞めてカミューはニコニコとその手を上下に揺さぶった。それは長年に渡って剣の柄を握り続けた所為で硬くなった皮膚の感触を伝えてくる。
「そう言えば、二度目の握手ではあの柔らかな感触は消えうせてたんだよな」
「……?」
「貴重な体験だった……!」
「おい?」
「こう硬いのも嫌いではないけどなぁ」
「だから何が!」
「握手〜〜」
 いい加減振り払えば良いと思うのに、優しさはあの頃から少しも変わっていないらしいと、密かに微笑むカミューであった。



end



2003/06/29