還 ら な い 声


 失われたものは決して戻らない。

 零れた水が掌に還ることがないように。





 だからもしも失うような目に合えば、取り返しが付かないのだと思い知る羽目になれば、二度と還らないのだと理解すれば―――正気もまた失ってしまうだろう。

 戯れのようにそんな言葉を呟いたのはいつの事だっただろう。
 男は哀しげな瞳をして黙って聞いていたが、自分がそうして口を閉ざしてしまうとそれが合図だったかのように腕を伸べてきた。そして穏やかに引き寄せ、自らの胸に仕舞い込むようにして抱き締めてくれた。
 安堵と共に、震えるような吐息をついたのを覚えている。
 温かな肌のぬくもりに包まれて、接したそこから響く確かな鼓動を耳に目を閉ざした。
 それがいつまでも続けば良いと願いながら、無防備に身体を預けたのだ。

 だがそれは記憶の情景に過ぎず、今目の前に展開されているのは荒々しく厳しい戦場。立ち止まる事は許されず、命を賭して剣をふるい続けねばならない血と骸に塗り潰された呪われた場所。
 一瞬の躊躇が命運を分ける場所にあって、剣を落とし呆然と立ち尽くす行為は命を捨てる事と同義である。だがカミューは、目撃したそれに呼吸を止めずにはいられなかった。
 思考すらも停止する。
 指先までが凍り付いてしまったかのように動けなくなり、喉は開いたまま一言も発せず硬直した。
 だが、それは瞬間的なことで僅かの空白を置いてカミューは剣を手放し自由になった利き手ともう一方の手でもって頭を抱え、絶叫を迸らせた。



「マイクロトフ!!!」



 今だかつて誰も聞いた事の無い青年の絶叫に、その場に一番近くいたフリックは思わず振り仰いだ。そして地面が僅かに隆起したその場所に今しも膝を付き倒れゆく人影を見た。ハッとして身を翻せば逆光になっていた人影の色彩が露わになる。刹那フリックも叫んでいた。
「マイクロトフっ」
 駆け寄れば尚更鮮明に映るその姿。胸の真中、人体の急所にあたるその場所を一本の矢が穿っている。間近でそれを見た途端にフリックは絶望を知って奥歯を噛み締めた。
 それでもこのまま矢面に晒すわけにはいかないと、地面に倒れ伏したその体躯を、低地へと引き摺り下ろした。すると僅かの間を置いてそこへ影がさした。見上げれば今し方までマイクロトフの立っていた場所にカミューが丸腰で立っている。
「カミュー!」
 危ない、とフリックが叫びかけたところへ矢が数本降ってきた。それは僥倖にもカミューの身体を僅かに逸れ、先の地面の土砂を掃いた。だが危険が去ったわけではない。現に間際を逸れた矢の一本は、彼の左手を攫って白手袋を引き裂き皮膚を傷付けていた。
 そこを退け、とフリックが怒鳴ろうとした。だがそれよりも青年の身体が傾ぐ方が早かった。ぐらりと緊張を失った身体は膝から崩れ前のめりに、フリックのいる方へと倒れ込んでくる。
「カミュー!」
 マイクロトフにのみならずカミューまでも深手を負ったのかと、フリックは青ざめた。だが斜面をずり落ちてきた青年の身体に大きな傷は無かった。それでは何がと逡巡したが、すぐにその理由に思い至ってフリックは唸った。
 寸前、響いた青年のその絶叫が全てを示している。
 聞いた事も無いような叫び声と、そしてその声が呼んだ名の行方―――。
 目の当たりにしたものにフリックは途方に暮れ掛ける。だがその時、見覚えのある輝きが一帯を覆った。

 ―――輝く盾の紋章。

 ぴくりとマイクロトフの目蓋が動いた。
「よ…よし!」
 その男の幸運にフリックは詰めていた息を吐き出す。
 そして一大事を知った仲間たちがフリックたちの元へと駆け付けて、意識の無いマイクロトフとカミューは戦線から離脱したのだった。










 カミューが気付いた時、傍にいたのはフリックだった。
 常から何かとよしみにしていた縁もあり、また劇的だったその場所に居合わせた事もあって誰よりも―――彼らの部下であり信奉者でもある騎士達を除いて―――案じ、側で看ることを望んだためだ。
 だからその薄い目蓋が動いた時は思わず腰を浮かし、長い睫毛が震えていつもより若干濃く見える琥珀の瞳が覗いた時には立ち上がっていた。
「カミュー…俺が分かるか? 気分はどうだ?」
 掠り傷以外は何処にも怪我を負っていない。心配されるのはその意識だけだった。だからフリックは窺うようにしてそっと呼び掛けていた。だが予想された返事は無く、気を揉むフリックの見守る中、その琥珀の瞳は一、二度瞬いてから左右に動くと止まった。
「カミュー?」
 早く声を聞かせてくれとフリックの心は急く。だが何処か呆然とした表情のカミューは、空中の一点を見つめたまま動かない。
「おい、カミュー」
 焦ってフリックは思わず手を伸ばし、青年の肩を揺さぶった。途端にハッとカミューが息を詰め、そして色濃かった瞳の色が初めて光を吸ったように淡く潤んだ。
「……フリック…どの…?」
 掠れた声が微かに発せられた。フリックは取り敢えずほっと胸を撫で下ろす。
「あぁ、俺だ。覚えているか、お前突然意識をなくしたんだぞ」
「ここは…城の……医務室…?」
「そうだ。『またたきの手鏡』で戻ってきた。おまえとマイクロトフ二人を運ぶのは大変だったんだぞ」
 ぼやくように言うと、突然カミューの様子が変わった。
「あ……」
 一言漏らして、がくがくと震え出す。持ち上がった腕が震えて指先が間近にあったフリックのマントを掴んだ。
「マイクロトフが……っ」
 息を吸い込んだままカミューは目を見開き喘いだ。フリックは束の間その変化のさまを驚いて見ていたが、我に返ると慌ててカミューの震える手を取った。
「大丈夫だ! マイクロトフはちゃんと生きてる!」
「…生きて……でも…」
「矢は鎧を貫通はしたが、心臓の一歩手前で止まってた。それに『輝く盾の紋章』があったからな。マイクロトフは幸運だったんだ」
 安心しろよ、と言ってやる。
 だがカミューの恐慌に陥った感情は、まるで冷静を忘れてしまったように落ち着きを取り戻さない。
「それでも……マイクロトフは………倒れて…動かなく……」
「それでも生きてるんだって。見ろ、隣で寝てるぞ」
 フリックは立っていた場所を横に退き、隣の寝台を示した。そしてそこに横たわる男の姿を見せてやる。重傷ゆえにかまだ意識は戻っていないものの、出血は止まり呼吸も安定している。矢を抜き傷口を閉じたホウアンが太鼓判を押したのだ。マイクロトフの生死を案ずるものは最早誰もいなかった。
「な? 大丈夫だろ」
 隣をじっと見詰めるカミューに、フリックはそう語りかけた。
「全く、お前まで倒れちまうから吃驚したぜ。なあ、安心できたんなら早く起き上がって今度はお前の部下たちを安心させてやれよ」
「…はい……」
 だがカミューはマイクロトフの寝姿を見詰めながら「でも…」と声なく呟いた。その瞳は覚醒した時と同様の濃い琥珀色に戻っている。
「カミュー?」
 起き上がる気配の無い青年に、フリックは首を傾げその顔を覗き込む。だが一瞬早くその濃い色を宿した瞳は閉じられてしまっていた。そしてその眦から一筋涙が零れる瞬間だけをフリックは見た。
「カミュー…?」
 怪訝に思ってなおも呼び掛けるがもう応えは返らなかった。
 どうやら再び眠りに落ちてしまったらしいカミューを、フリックは首を傾げたまま見下ろした。
「なんだ…? 安心してまた寝ちまったのか?」
 その眠りの果てに待つ混迷を、この時のフリックが予想できた筈も無かった。いや、誰にも分かろう筈が無かった。再び目覚めた青年があるべき理性を失っていたなどと、誰が知り得ようか。


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2001/10/23