還 ら な い 声 2


 マイクロトフは目覚めた時、それこそ長い夢から覚めた心地でいた。
 一番最後の記憶は戦場。だが今いる場所は間違い無く同盟軍居城の医務室であるのだ。しかし起きあがろうとした途端に胸に覚えた激痛に、戦場で己の身を襲った矢の行方を思い出した。
 ハッとして見下ろせばそこは厳重に包帯で巻かれている。どうやら戦場からここまで運ばれ、同盟軍では名医として名高いホウアンの治療を受けたようだと納得した。そして胸の激痛も通り過ぎてしまえば、身体の力を抜くことで耐えることが出来る程度であるのに安心する。
 今までにも何度か死に損なったことはあったが、今回ほど死を間近に感じた瞬間は無かった。尤も、意識があったのは矢が目前に迫ったその時までで、衝撃を感じた後はもう何も覚えてはいないのだが。それでも迫った矢が胸の急所の一点を目指しており、それが避けようのない間合いにあったのは瞬時に判断できた。
 今回も見えない幸運によって命を拾ったのだと、そんな自分にマイクロトフは自嘲を浮かべた。また、泣かせたのだろうかと。
 実際に涙を零さずとも、かの青年は心で涙を流す。それは誰にも拭ってやれない涙で、それだけに辛い涙である。
「カミュー……」
 愛しい青年を思って名を呼んだ。
 と、不意に目の端にとらえたその色彩にマイクロトフはハッと身じろいだ。
「カミュー…?」
 見れば隣の寝台に静かに横たわる姿があった。敷布に散らばる髪と閉じた双眸。そして投げ出された四肢―――。
 そこでマイクロトフは自分が予想だにしていなかった事態に思い至り顔色を失った。
 そうなのである。戦場において危険に晒されているのは何も自分だけではないのだ。カミューもまた同じく死の縁に立っているも同然であるのだ。
 まさかカミューもどこかに深い傷を負っているのだろうかと、マイクロトフは痛みに喘ぎながらも起き上がり寝台から抜け出すとカミューの傍へと身を寄せた。だがシーツを剥いで見ても何処にも治療の跡は無い。ところどころに擦り傷が見えるばかりで、青年の身体は健康に見えた。
 しかし、見える傷だけが命を奪うとは限らない。武器に毒を宿す者もいれば、不思議な紋章を使う者もいる。またモンスターの特殊攻撃も無視は出来ない。それでも規則的な呼吸や、常と変わらない肌の色などにそんなカミューを脅かす影は見出せずマイクロトフは首を傾げた。
「カミュー?」
 しかし何処にも異変がないのであれば、この医務室に横たわる理由がない。わけの分からない不安にマイクロトフはそっと手を伸ばしてみた。そして触れた頬の確かな温もりに取り敢えずの安堵を覚える。
 生きている。
 そう感じた途端笑みが滲む。
 相変わらずの無防備な寝顔は、何処か憔悴したようにも見えるが触れた掌に感じる体温は何ら異常を知らせない。大丈夫そうだと思って触れていた掌を離した。だがその時、まるで機械仕掛けの人形のように、閉じていたカミューの青白い目蓋が開いた。思わずマイクロトフは離した掌を再び頬にあてる。
「カミュー!?」
 勢い込んで呼び掛けた。しかし。
「カミュー……?」
 目は開いている。だがその瞳は茫洋とし何処を見ているのかわからない。それは普段の寝惚けている時のものとは少し様子を違えていて、マイクロトフは急激に育つ不安にその琥珀の瞳を更に覗き込んだ。
「カミュー…! カミュー……?」
 返事はかえらない。それだけでなく一切の感情の動きがそこにはなかった。
「………カミュー…?」
 密やかに落ちた呼び声に応える声はやはりなく。
 胸に去来した冷えた塊にマイクロトフは慄いた。そして確りとカミューの虚ろな頬に触れたまま喘いだ。
「誰か……来てくれ…―――誰か!」

 カミューが。

 マイクロトフの叫びに、漸く彼らの意識が戻ったのに気付いてホウアンや、治療を受けていた兵士や騎士たちが駆け付けた。彼らは何事かと衝立を越え寝台が並ぶそこを覗き込む。そんな彼らにマイクロトフは訴えた。

「カミューが……俺を見ない」















 重苦しい空気が室内に停滞していた。
 それでも室内にただ一人居た人物は、その重苦しさを自覚していなかっただろう。

 私室、壁に寄せた寝台の上。夜のしじまにまるで取り残されたかのように孤独を纏う男の姿がある。
 日が沈む前から寝台に足を投げ出し、壁に背を預けたまま目を伏せていた。当然いつしか暗く翳った室内の灯りを燈すわけもなく、男は何時間もそうしてぴくりとも動かずにいる。

 ―――身体の方に異常はみられません。

 名高いリュウカンなる医師に師事し、自らもまた名医として名を馳せているホウアンの言葉に疑う余地はない。

 ―――『輝く盾の紋章』も効き目はありませんでした。

 好意から、せめて何か手だてはないかとその奇跡の紋章をかざしてくれた盟主である少年に、感謝の言葉は告げた。だが意味のなかったその行為の果てに恐縮する少年に返す言葉はなかった。

 ―――身体に異常が見られない以上、考えられる可能性は…。

 その先に続く言葉を思い出して、耐え切れずに唸る。
「カミューは……強い男だ………!」
 そんなわけがあるものかと強く否定するのに、心の何処かであっさりと肯定する己が在る。

 ―――俺がもっとちゃんと言ってやれば良かったのか…?

 信じられないと首を振る傭兵に、曖昧に応えて俯いた。
 最初に目覚めた時、確かに青年は見て聞いて応えたと言う。しかしその様子は気付いたばかりで混乱でもしていたのか、酷く不安定だったらしい。そのただならぬ様子に異変を感じ取れなかったと悔いる傭兵を責めることは出来ない。

 ―――あいつの絶叫なんか、初めて聞いたよ。

 ぽつりと漏らした傭兵の言葉が耳に痛い。
 あのまま死んでいたかもしれない己。僅かばかりの幸運が生き長らえさせたに過ぎなかったのだ。矢は正確に急所に突き立ち、あと少しで心臓を突いていた。その少しのものが分けた明暗。
 結果マイクロトフは明部に取り残され、カミューは暗部を見てしまった。

 ―――精神が受けた衝撃に耐え切れなかったのかも。

 何も見ず、何も聞かず、何も伝えない。
 人は時に、酷い体験に耐え切れず心を閉ざす事があると医者は言う。明確な治療法もなく、ただ刺激を与えないようにゆっくりと癒してやるしかないのだと。
「俺は…」
 押し殺した声が闇色の室内に落ちる。
「……信じる」
 カミューの強さを信じる。
 聞く者など誰もいない誓いを、マイクロトフは胸に刻む。
 何があろうと必ず信じ抜く。いつしかカミューがマイクロトフに声を還す日の到来を信じるのだ。
「あいつは強いから……」
 再び呟いてマイクロトフはずっと動かさずに放り出していた手を握り締めた。そして強く握った拳を胸に抱く。
「俺は、その強さを信じる」
 厳粛な祈りにも似たその言葉は、やはり誰一人聞く者もなく空気に溶けて消えた。



 だがもしその言葉を聞く者がいたとすれば、思ったに違いない。
 確かにカミューは強い男だろう。
 しかし、それは傍らにマイクロトフと言う存在があってこそ保たれる強さだと。
 それを知覚できない今のカミューに、果たしてその強さが在るのだろうかと。


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2001/10/24