還 ら な い 声 3


 それでも全くの無反応では無かった。
 それは、まるで大人しい幼子のようだと、誰かが言った。



 この城に来た当初は、空き部屋の余裕が無いからと二人でひとつの部屋を共にした。その後に、増築を重ねたからと各自に個別の部屋を与えられ、別れて起居をするようになった。だが今、二人は再び同じ部屋で寝起きをする日々を送っていた。
 放っておけば日がな一日柔らかな寝台の上でぼんやりとしている。昼間には日差しの射すそこは随分と居心地が良いらしくて、時に一日中日向で丸くなる猫のように寝ている姿を見せる。
 屈強の騎士たちの中にあってことさら細く見えていても、以前はそれでも剣士として過ごしていた身が、日に日に衰えて行く。戦場から仲間が持ちかえってくれたユーライアも、今のカミューにとっては手持ち無沙汰を紛らわす物体でしかなかった。
「カミュー…鞘止めを外しては危険だ」
 パチンと青年の手の中で鞘止めが弾けたのを見て、マイクロトフはそれを取り上げた。鞘が抜ければ刃が現れる。ただでさえ重みのある刀身は触れるだけで切れそうで、そのままを青年の手に預けておくには危険過ぎる。
 もう一度鞘止めをとめて改めてその手に戻してやった。しかしその時にはもう青年の意識は他にあってユーライアを認識する事は無かった。
「そうか、もういらないか」
 複雑な気分でユーライアを取り、それでも無下に扱う気にはなれずそっと青年の傍に置いた。彼が、片時も離さずにいた愛剣である。もうずっとふるわれていないとしても、今後もふるう事が無いのかもしれなくても。
「大事に扱えよ」
 ぼんやりと窓の外をみている横顔に語り掛けた。
 その首筋、覗くうなじがいっそう薄くなった気がする。
 もしもあのまま、誰もこの青年に手を差し伸べなければ、そのうち衰弱して死んでしまっただろう。彼は寒くても毛布を求める事も無く、空腹でも食事を要求する事はなかった。
 服を着せようとすればそうしやすいように腕を動かす。食事を与えようとすれば口を開け、咀嚼し飲み込む。だがそれはマイクロトフがそう働きかけてはじめてする動作であり、何もせず放置していればそのうち眠ってしまうのだ。眠って、そしてそのまま死ぬだろう。
 欲を取り除くと、人間はこうなるのかもしれないと、マイクロトフは何気なく思った。
 生きる上でのあらゆる欲。凍えずにいたい、餓えずにいたい、幸福でいたい。そんな願いをいっさい無くせば人は無気力になるのだろうか。
 マイクロトフは欲にまみれている。
 生きていたい。死んで欲しくない。笑い合いたい。愛したい。愛されたい。
 だけどカミューは―――。

 死をただ待ち望む欲だけで生きている。

 そんな矛盾する欲は無い。
 だがそのようにしか見えず、何度も思うのだ。
「俺は生きているんだ……」
 まるで後を追おうとしているかのような姿が痛ましい。
 理性を宿したカミューの瞳が最後に見た情景は、戦場で矢に胸を穿たれたマイクロトフの姿である。マイクロトフ自身すら終わりかと思い、近くに居た青雷の二つ名を持つ傭兵も絶望感を味わったと告げた。
 あの瞬間に、カミューはマイクロトフが還えらないと誤解してしまった。
 カミューの中でマイクロトフは死んでしまったのだ。
 こうして生きているのに。
 死んでしまった。
「カミュー…俺は生きている……」
 だからおまえも生きてくれと何度も告げた。だが虚ろな眼差しはマイクロトフを見詰め返さず、その耳も真摯な言葉を心に届けず、口唇は何の言葉も形作らない。
「俺は生きているんだ…!」
 唸ってマイクロトフは寝台に膝で乗り上げ、乱暴にカミューの腕を引き無抵抗の身体を掻き抱いた。衣服の布地越しに確かな体温も鼓動も感じるのに、押しても返らぬ手応えの無さに沈み込んで行くような気分になる。
「カミュー…!」
 遣る瀬無さに喘ぎ、抱き締めていた胸を離し薄くなった両肩を掴んで揺さぶった。
「一言で良い、応えてくれ………声を…還してくれ…」
 しかし濃い琥珀は正面のマイクロトフを見ているようで見ていない。その無情にぶつける相手の無い怒りがこみあげる。いや、怒りの対象は己自身である。カミューをここまでに追い込んだ自分の不甲斐なさが恨めしい。
 それでも怒りに全てを投げ打ってしまう真似は出来ず、マイクロトフは震える吐息をついてそこに項垂れた。
「カミュー、愛している。俺は死なないから、死んでいないから。だからお前も俺を愛しているのなら死なないでくれ―――生きてくれ」
 独り言のように呟く。
 だが徐に顔を上げるとそこにあった口唇にそっとくちづけた。
「愛している……」
 囁き、応えの無い一方的なくちづけを繰り返す。そして今朝自らが着せた服をまた自分の手で肌蹴させた。現れた白い肌に掌を這わせると定期的な鼓動が顕著に感じ取れた。
「カミュー」
 ゆっくりと押し倒しても当然抵抗は無い。幼子のようだと誰かが揶揄したその相手を、こうして成すがまま扱うのは酷く背徳めいている。しかしマイクロトフはかえって神聖な献上品に接するような気分でその肌にくちづけていた。
 触れても以前のように敏感な反応は無いが、それでも胸の尖りを弄ればそれは期待に震える。生理的な反応に過ぎないのだと分かっていても、この行為がかつて共に過ごした日々の中で一番に生を実感できたのだと思えば、それを施さずにはいられなかった。
 贖罪のように何度も名を呼び愛を告げながら、マイクロトフは知り尽くしたカミューの身体を優しく愛撫した。いとけない子供のようにしか反応をしなくても、欲を全て捨てきった身であっても、外部からの刺激には少なからず応えてくれる。ただそれだけを頼りに行為を進める。そうしながら模索するように指先を動かす度に心は自問し、自責し、自嘲する。
 行為の果てにカミューが呼吸を乱し、マイクロトフの掌に精を吐き出しても、自嘲は止まなかった。潤んだ琥珀が何処かを見ている。それはこの世界ではない何処かなのだろう。いまだマイクロトフが行く事の出来ない、カミューがこれから行こうとしている何処か。
「すまん」
 約束事のように呟いて乱れた衣服を直す。
 いつも、この先の行為まで進める気にはなれずに終わる。そもそも何の意識も無い相手を好きなように思うさま弄んでいるようなものだった。それ以上は、流石に暴力だと思った。
 だがこんな一方的な行為でも何かその精神に響きはしないかと期待するのだ。
 今は何の感情も窺えないような濃い色の琥珀が、以前の淡い光を取り戻してはくれないかと期待をかけて覗き込む。それは生理的に涙を滲ませているからなのかもしれない。それでも一瞬、絶頂を遂げた時に緩む眼差しが変化の兆しに見えるのだ。
 しかしそれも蓄積された疲労が見せる幻なのかもしれない。
 そんな結論に至った途端、激しい後悔と無念が心を覆った。
「……すまん、カミュー…」
 衣服をあらため終えてその手を離す。
 もしかしたら、自分はこの儚くなろうとする青年に触れる資格すら失っているのかもしれないのに、こうして我が物顔で当然のように世話をしている。果てには愚かな衝動に嬲り者同然の扱いをしている。
「カミュー……」
 手を伸ばせば再び触れられる距離にあって、しかし二人を隔てる本当の距離は先程よりもずっと遠く離れてしまったような気がする。
 明日になれば、この近くて遠い距離は狭まるのだろうか、それともまた離れてしまうのだろうか。
 しかし先を予見する能力などマイクロトフには無い。
 見えない未来は、どこまでも暗く深い霧の中にあるようだった。


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2001/10/27