還 ら な い 声 4
カミューの不調は、当初同盟軍の幹部のみに知らされ、部下にはその詳細を告げられなかった。だがそれも長引けば誰かが不審を唱えるのは必然で、ある日マイクロトフは赤騎士に揃って呼びとめられた。
口々にカミューの容態を聞いてくる彼らに、しかし本当の事など言えようはずも無く、マイクロトフは落ち着いたらまた教えるとだけ言い残してその場から逃げるように去った。だが全てを隠し通すにはもう限界が近かった。
マイクロトフは部屋に戻ると、まずカミューの姿を探した。最近の癖のようになっている、そう広くは無い室内に青年の姿は容易に見つかる。この時も彼はやはり寝台でほんの少し背を丸めるようにして眠っていた。
「…カミュー」
疲れた声で呼び掛け、傍に寄ると手を伸ばした。
いっそう痩せ細った身体は更に儚さを増している。もう、こんな姿ではどんな言い訳も無駄だろう。先日見舞いに現れたフリックがカミューを見て暫く絶句していたのを思い出した。
伸ばした指先、触れたのは青ざめた頬。
「今日赤騎士に掴まった。皆、お前を案じていた。中には俺を睨み付けてな……何を隠していると罵ってくる者も…いた」
額にかかる前髪を掻き上げてやりながら薄い目蓋を見下ろす。今は閉じられているその瞳はもうマイクロトフを映さない。いや、そこには真実カミューが求めるマイクロトフの幻のような姿があるのかもしれないが、こうして傍にあって触れているこの身はどう足掻いても映らないのだ。
「早くあの者たちを安心させてやらねばな。多分お前があの時に戦死したのではないかと誤解……誤解をしている……者も……いると…」
言葉に詰まってマイクロトフは奥歯を噛み締めた。
何故あの時あの矢を避けそこなったのだろう。
何故あの時あの場所に不様に立ち尽くしていたのだろう。
何故あの時―――。
後悔が怒涛のように押し寄せてくる。油断をすればその波に攫われ溺れてしまいそうになる。マイクロトフはそれに耐える為更に強く奥歯を噛み締めた。
だがそうして漏らす己の唸り声とは別に、不意に耳を掠めた音にハッと全身が緊張する。目を開き目前を見ればそこには青白い顔をして眠るカミューがいる。だが今それは悪夢に魘されているように息も荒く額にいつの間にか汗を浮かべ凍えているかのように震えている。
「…カミュー……! またか…っ」
身構えマイクロトフはこれまでにも何度か見た覚えのあるその予兆に慌てる。
だがそんなマイクロトフをあざ笑うかのように、予兆は現実を伴ってそこへ姿を見せた。
「…マイクロトフ」
掠れた声が呼ぶ。
マイクロトフが息を飲んで見下ろす中、カミューの目蓋が薄らと持ち上がり、淡い琥珀がそこから覗いた。
「カミュー…」
喘ぐように呼び返してマイクロトフはその琥珀を見詰めた。そこへ微かな息の乱れが漏れて聞こえる。
「あぁ…おまえが死んでしまう夢を……見た…」
小さな声がそう言うのを聞く。
「おまえが死ぬ夢なんて―――わたしは……夢で良かったと…思えば良いのかな。それとも……あんな夢は…見たくなかったと……思った方が…良いのか……」
うわ言のように呟くのにマイクロトフは身を乗り出して首を振った。
「そんな夢は無い」
「……ああなるほど」
断固として言うのに、冷や汗を浮かべた顔がくすりと微笑む。
「そんな夢は…そもそも無いんだね……ならば安心だ…」
良かった、と小さく吐息をつく。
「だってとても―――辛い夢だったから」
吐息に混じって落ちた呟きがマイクロトフの胸を抉る。顔を歪めて見下ろしていれば頬にカミューの手が伸ばされ、冷たい指先が触れた。
「なぜかな…酷く身体が重くてだるい………まるで、今が夢の中…みたいだ……」
儚く微笑んで今にも消えそうな存在を、マイクロトフは慌てて引き止めようと頬に触れた手を握り返して首を振る。
「違う、今が本当だ。今までお前が見ていた方が嘘だ―――」
「うそ…? そう……嘘…」
でも、とカミューは目を伏せる。
「それでも、さっきまで居た処は……とても…居心地が……良くて…」
「カミュー!」
「胸が引き裂かれそうだったけれど―――だけどやっと楽になれるような…」
「駄目だ…っ……行くなカミュー!」
揺さぶってなんとか留まらせようと足掻いた。だが薄らと開く目蓋の奥、琥珀の瞳がまた翳りを帯びる。
「カミュー…?」
呼んでももう応えは無い。
「また……あっちへ行ったのか?」
失望の言葉に応える声は無い。
最初は、意識が戻ったのかと思ったのだ。
あの衝撃の日からそう何日も経たないある夜、魘されるような苦悶の声にマイクロトフは目覚めた。宵闇の中で声の出所を探せばそれはカミューで、青年は冷や汗をびっしりと浮かべた姿で息苦しそうに喘いでいた。
ただ事ではないと揺り起こせば、てっきりあの何も映さない濃い色の琥珀がこちらを見返すのかと思っていた。だが惑うような視線が辺りをさ迷ってひたりとマイクロトフに定められたのである。
驚いて、ただ驚いてそれを見詰め返していると、次第に荒かった息遣いがおさまってその乾いた口唇から密かな声が漏れたのだ。
マイクロトフ、と。
確かにそう呼んだ。だがマイクロトフはそれが幻聴かと思って最初は聞き流した。それでもその瞳が瞬いてもう一度名を呼ばれた時、我に返って慌てて身を寄せた。
『カミュー!?』
まだ血色豊かなその頬を挟んで必死で呼んだ。
『カミュー! おい…カミュー!!』
マイクロトフに怒鳴っている自覚はなかった。だが後で、その時扉の向こうにいた見張りの騎士がその声に驚いたと言って初めて怒鳴っていたのだと知った。それくらい余裕がなかった。
そんなマイクロトフが見守る中、カミューが再び唇を震わせた。
『……ゆ…め………?』
まるで何年も聞いていなかったような、そんな感動をマイクロトフに齎したカミューの声は、酷く掠れていた。だがその声は紛れもなくその震える口唇が紡いだものである。
『カ…ミュー……おまえ…』
驚けば良いものか喜んで良いものか分からず、言葉に詰まるマイクロトフだった。だが、カミューの瞳が不意に伏せられてやにわに焦燥が湧き上がる。
『…カミュー?』
小声で呼びかければ、琥珀が惑うように辺りをさ迷い揺らめく。そしてぽつりと言葉が落ちた。
『どちらが……夢だ…?』
『え?』
『わか…らな……あ―――』
ふっ、と蝋燭の灯火が風に揺れて消えるように、カミューの瞳から光が消えた。
それまでだった。
『カミュー?』
それからは、もう、いくら呼んでも、揺さぶっても、カミューは何も見ず、聞かず、語らず。再び沈黙の主へと戻ってしまったのだった。
『………』
マイクロトフは絶望的な気分でカミューへ縋った。ほんの、僅かの事だった。与えられたのは互いに名を呼び合う程度の時間だけだった。
『カミュー……』
還る声はもうなく。マイクロトフは泥の中に身を横たえるような気持ちでカミューの傍らに身を屈め、真っ暗な闇の落ちる床を見下ろしたのだった。
それから、何度か似たような事があった。
ほんの瞬きをする間ほどの時間に我を取り戻すカミューを、ホウアンは回復の兆しかと首を傾げた。しかし幾度かあったその兆しは、時に短く時に長く、またいつおこるのかすら分からなかった。
ただホウアンはマイクロトフに、呼ばれたら呼び返してやりなさいとだけ告げた。例え無意識に呼んだのだとしても何がしか閉ざした心の琴線に触れるかもしれないからと。だから時折の逢瀬の度にマイクロトフは必ずカミューの名を呼び返した。またカミューも、その兆しの折りにはその第一声が必ずマイクロトフを呼ぶのも何やら暗示的で、よりその行為が意味あることのように思えるのだ。
しかしそれでも。
カミューの容態が好転する事はなかった。
そうして、再び物言わぬ人形のようになってしまったカミューを前に、マイクロトフはひとつの決心を固めつつあった。
どちらにせよこれ以上こんな状態が続くのであれば、いつまでもこの同盟軍に居座るわけにもいかない。なまじの病人よりも手のかかるカミューは、この多くの兵士と難民を抱える同盟軍にとっては厄介者に過ぎず、またこれほど弱ってしまった青年の姿を誰の目にも触れさせたくないマイクロトフの気持ちもあった。
次の大きな戦を終えれば、この軍を離れる。
ずっと考えていた末の結論だった。
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2001/10/30