還 ら な い 声 7
とても、危ないところだったんですよ、とヒルダは言った。
カミューの体力は命の危険を脅かすまでに低下していた。
皆が戦闘へと遠征に出向いた後、この城に残る少ない人員の中で宿屋を営んでいるアレックス夫妻がカミューの世話をしてくれていたのだった。だが、それまで少なくゆっくりではあったが促されるままに食事をしていた筈が、ヒルダの手に任された途端、何も身動きをしなくなったと言うのだ。
食事をしなくなったカミューに、食事を取らせるのは大変だったと言う。
噛まなくても飲み込むだけで済むように工夫をしたり、それでもあまり多くを摂らせようとすれば途端に体調が悪くなったり。そうしている内にどんどんとカミューの体力は加速度的に低下していったのだという。
カミューには何も覚えがない。
最後の記憶は思い出すだけでも全身が冷えるような、あの風景だ。
鋭く射掛けられた矢が男の胸を穿つ、その瞬間。
あの時から、目覚めまでまるで記憶がない。いや―――違う記憶なら、あるのだ。
―――それではな、カミュー。
耳について離れない声がある。
あれは夢だったのだろうか。それにしては生々しいものだった。まるで現実にあったことのようで、忘れるに忘れられない。
カミューはそして胸の上に鮮やかに残る鬱血の後を撫でた。
これは彼が付けたに違いないのだ。この、温もりと痛みを与える口付けの印は。
この胸の痛みが見せた幻だったのだろうか。
だが覚えている。寒い室内で触れられた場所から温もりが広がった。抱き締められて苦しかったが心地良かった。トン、と軽く押されて、倒れまいと伸ばした手が何も掴めなかったその絶望感を、確かに覚えている。
探したと言っていた。
本当に探しに来てくれたのかもしれなかった。
カミューが弱さゆえに逃げ込んだあの場所に。
だが、あの場所にどんな方法で辿り着く事が出来たのか、それを考えると途端に凍りつく思考にカミューは冷や汗を浮かべていた。
ダンスニーを取りに行くのだと言っていた。
ハイランド近くの国境に置いてきたのだと。戦闘は、そんな場所で繰り広げられている筈だとヒルダは告げた。
嫌だ。考えたくない。
戦況がどうなっているのか、被害はどう出ているのか、遠方の為情報がまだ届いてきておらず、確かめる術がなかった。だからこそ余計に思考ばかりが先走る。
嫌だ……いやだ。
カミューはあれ以来、その名を声に出して呼ぶ事をしなかった。
どれほど案じていようと、どれほど心寂しくあろうと、もしも呼んだとしてあの目覚めの時のように声が返らないのだとすれば、カミューはその虚無感に耐えられそうにないからであった。
情けないほどに弱いな、とカミューはそんな自分を嘲った。
だが今の、ユーライアさえまともに振れない身体では、心さえも弱り果ててしまっているのかもしれない。カミューは目覚めたその時もきちんと傍らに立て掛けられてあった、その剣を取り上げた。
危険かもしれないと案じつつも、カミューの一部だから傍に置いていてくれと言い残して行ったらしいその剣を、鞘ごと胸に抱いた。
「………っ」
今直ぐにでも戦場に駆け付けたいと、気持ちばかりがはやる。
だがこの身体は不様にもまとも走ることすら叶わない。それに、駆け付けたところで果たして自分にその戦場を直視する勇気があるのかすら疑わしい。もしも、誰かに「遅かった」と告げられてしまったら―――。
いやだ―――そんなのは……。
冷たい鞘に縋り付いてカミューは息を殺した。
名を呼びたい。
呼びたい。
「……………」
だがどうしても声が出ず、代わりとでも言うのか涙がぽたりと零れ落ちた。
不安な時はいつも慰撫してくれる掌があった。
それが無いだけで、これほどにも弱い。
カミューはまた胸の上に指を添わせた。
「こんな……ものでは………足りないよ…」
いつかは消えてしまうものではないか。ただ疼きだけが残るなどと、心細くてならない。
こんな己も、厭わしくてならない。
呼べばいつでも、返る声があった―――あの幻のような逢瀬の間でも。
だが今は。
あれが本当にただの夢であったらと思うのに。そして夢だったのならこんな風に目覚めたくなどなかった。名を呼んでも声が返らない世界になど戻ってきたくはなかった。ここは、あのロックアックスの部屋よりもあまりに寒過ぎるのだ。
どのくらいそうしていただろう。
気付けば鞘を抱き締める指先は冷たく凍え痺れていた。そんなカミューを我に返したのは、その耳に届くある喧騒だった。
外が、騒がしい。
―――いったい何が。
顔を上げかけてカミューは凍りついた。
―――まさか。
喧騒は益々大きくなる。
不意に扉の向こうから騒々しい駆け足の音が近付いてくるのに気付いた。
カミューは剣に縋りながら寝台の上から、閉じられた扉を息を詰めて凝視する。案の定、扉が激しくノックされて開いた。
「カミューさん! 先触れが到着しましたよ!」
駆け込んできたのはアレックスだった。だがカミューは彼の姿を認める前にユーライアを抱き締めたまま身を丸くして顔を膝に伏せた。
「…カミューさん?」
潜むようなアレックスの声にカミューは応えなかった。すると扉の閉る音がして、部屋の中を足音が近寄ってきた。
「怖いんですか?」
アレックスは直ぐ傍までやってきて、唐突にそんな事を聞いてきた。ぴくりとカミューの肩が震える。
「分かりますよ。大切な人を失うかもしれないって想いは、本当に怖いものだ」
かつては、冒険と宝物に夢中になっていた男は言う。
「まともじゃいられない」
最愛の妻ヒルダを失いかけたアレックスだった。彼が宝物に血眼になっていたその時に、妻は高熱を出し生死さえ危ぶまれる状態へと陥った。その時になって彼は初めて何を一番大切にすべきかを悟ったのである。宝物よりも本当に価値あるものの存在を知ったのだ。
「幸い、なくさずにすんだ―――だが、できれば二度とあんな思いはごめんだな」
本当に怖かったから、と男は臆面もなく繰り返した。
それでもカミューはただ沈黙を通し、何の反応もかえさない。
「カミューさんの気持ちは、だから分かる。どうしたい? 俺が聞いてこようか。それとも、自分で確かめるか?」
ぐらりとユーライアが揺れた。
カミューがそろりと顔を上げる。
「…もう、少し………あと少しだけ時間を…ください」
掠れた声が、そんな結末を先延ばしにする言葉を告げる。だがアレックスは重々しく頷いた。
「分かった」
それきり、アレックスは部屋を出ていった。
取り残されて、カミューは再びユーライアを抱き込んで顔を伏せた。
小さく、この世界に居場所などないかのように縮こまって、呼吸すらも静かにして過ごす。
時間は、永遠にあるようでいて、すぐそこに限りがあるように感じられた。
刻一刻と時が過ぎ行くたびに、外の喧騒が徐々に大きくなって来る。
大きな戦に出かけた時は、凱旋の時に『またたきの手鏡』は使用しない事になっている。だから皆、正面の大門を通り抜けて戻って来る。英雄も、負傷者も、死者も。
喜びと嘆きが一緒になって渦巻く、奇妙な凱旋の時。
今まで、これほどまでにその時を特別に感じた事はなかった。
待っていた人々は、誰もが息を詰めて目を凝らすのだ。あの人は無事だろうか、と。その無事を確認しようと出向く人々の、なんと勇気のある事だろう。
カミューは、室内で怯えた虜囚のように小さく丸くなって震えている自分が、切り捨てたいほど忌まわしくてならなかった。この弱さが、今回の事態を招いたのだ。
或いは、変わらず共に戦場に立っていられたかもしれない。背を守りあって剣を振るっていられたかもしれない。
その強さを否定したのは誰でもない、自分だった。
弱い。あまりに弱い。
喪失の恐怖に怯え、待つ勇気もなく、何処にも居場所がなくて、堂々巡りの思考に囚われて震えるしかない。
カミューはふと胸のユーライアを離して、見た。
重い刀身。触れて少し滑らせるだけで切れてしまう、鋭利な凶器。
そう―――待つ以外にも、手段はあった。
いつしか外の喧騒が消えていた。
パチン、と鞘止めをゆっくりと外した。
柄を掴んで鞘から引き抜けば、美しい刃が現われる。
カミューは知らない。マイクロトフが何度となく、その鞘止めを留めてはカミューの手に戻していたことを。
カミューがその身を傷付けないようにと、配慮し、それでも大切なものだからと傍に置き続けておいてくれたものを。
刀身は、鞘から完全に引き抜かれ、重さにしたがって寝台の敷布の上に横たわる。それをぼんやりと見詰めながらカミューは目を閉じた。
もう、耐えられそうにない。
逃げ道を選ぶしかない弱さを認めるのだ。
人は、何処までも強くもなれるが、反面何処までも弱くなれるのだから。
「すまない…」
ぽつりと呟いて目を開く。
その耳に、何故だか音のひとつも聞こえない筈の静寂の中、外の喧騒がいっそう大きくなって聞こえてくる気がした。
決断の瞬間は迫っている。
カミューはユーライアを持ち上げた。
最後に、その名を呼ぶ事を許して欲しい。
最後なら還ってこなくても平気だから。
白刃が窓から射し込む光を受けて煌く。
「マイクロトフ」
暫くの静寂のあと、諦めたような吐息が落ちた。
「……やっぱり、わたしはどこまでも弱いよ」
呟くカミューの頬は涙に濡れて、その顔は辛さを堪えるように歪んでいた。
死ね無い。
名を呼んだ途端に、呼んでしまった瞬間に激情がカミューの全身を貫いた。
どんなに絶望的だろうとも潔く死を選ぶ強さも無い。もし自ら命を絶って、でもそこにもし奇跡が介在していたらと思ったらそれだけでもう剣を持つ腕が震える。
どんな有様だろうと、生きていてくれたなら……?
満足に二者択一も出来ない。待つことも逃げることも出来ない愚かさ。
「……マイクロトフ―――…っ」
泣きながらカミューは剣を鞘に収め、胸に抱きこんだ。
ごめん。弱くて弱くて。
きっとお前がもうこの世にいなくても、後を追う勇気すらわたしにはない。お前の死を信じるなんて無理だ。自分の命が果てるまであがいてあがいて、世界中探して切望しながら地上を這いずって行くのだと思う。
カミューは声を殺して泣いた。
結局、最後の最後で人は希望という些細なものに縋ってしまうのだ。
呼んでも還らないかもしれない声も、ずっと呼び続けていれば或いはいつかと望みをもってしまう。
マイクロトフ、と何度もカミューは呼んだ。
お願いだ返事をしてくれと。
そして泣いて泣いて、頭の奥が痺れて痛みしか持たなくなった頃、カミューは泣き疲れて喘ぎながらユーライアを胸に、部屋の扉を凝視していた。
これは、弱さなのか、強さなのか。
人はかくも愚かであるが、何処までも希望に縋るそれは、また別種の強さとも言えるのでは無いだろうか。
だけど、希望と言う滑稽な空想に身も心も捧げて、無様に生きるのは他に何もかもを失った者の末路では無いかとも思う。そこには誇りも尊厳も何も無いではないか。
でも、それでも。
カミューはユーライアを見下ろした。
「わたしは……死ねない………」
囁いてカミューは泣き濡れた面持ちのまま自嘲気味に笑みを浮かべ、そしてユーライアの鞘止めをぱちんと留めた。
だがその瞬間、聞こえてきた物音に琥珀の瞳が驚愕に見開かれた。
まさか。だがそれは聞き間違いようの無い、あまりにも馴染んだ足音だった。
見開かれたままの琥珀にゆるゆるとまた新たな涙の膜が浮かぶ。
まさか、そんな、だけど。
抱えていたユーライアが手からすり抜け腕を滑って目の前の敷き布に横たわる。カミューはそして自由になった両手を震わせて何度も部屋の扉を見ては俯き、そして首を振ってはまた扉を見た。
そうするあいだも足音は益々近くなる。
少し聞き慣れたそれよりもゆっくりとして、どこか引き摺るような音を含むのはまた負傷でもしたからなのだろうか。
傷の具合はどれほどなのだろう。取り返しのつかない怪我など負ってはいないか。
でも、これは本当に彼の足音なのか。
もしかしたら思うあまりの幻聴なのではないか。
だが扉の直ぐそこまで来て立ち止まったその足音に、振り仰いだカミューの瞳からぽろりと涙が零れ落ちた。そして、それが敷き布の上にあるユーライアに落ちる時、カミューが凝視するなか扉が開いた。
「カミュー!」
満身創痍の姿で、それでも溢れんばかりの笑顔でそこに立つ姿に、カミューの顔はこれ以上無いほど歪んだ。
まさかと思う。
だが。
あぁ、やっぱり人は強いと思った。
還る声は届くのだ。
希望は―――信じる限り、そこにある。
「お帰り、マイクロトフ」
震えて、とても確かな言葉をかけてやれたとは思えないけれど、駆け寄り伸ばされた腕に絡みとられた瞬間カミューはそれが夢でも幻でも無いのだと知って、必死でその腕に縋りついた。
抱き締める腕は変わらず温かく、接する胸は鼓動を感じさせて止まなかった。
END
あとがき
2001/12/12