釦の掛け違え9


 見ないふり聞かないふり。そして何も言わない。
 突然のカミューの徹底した態度に、周囲はいっそ何も言えなくなってしまった。周囲の目に見えて二人が擦れ違ったのは、あの日のレストランで始まり、翌日の戦闘においてマイクロトフがカミューを庇わなかった、それだけである。何をしてこれほどにこじれてしまったのか、周囲はただ首を捻るばかりだった。

 最初にその沈黙に対し根を上げたのはカミューの副官ベリンガーだった。彼は手にしていた書類を一度纏め上げると端を揃えて机上へと置いた。そして立ち上がり、騎士団を離れても尚上官として仰ぐ青年を見詰めた。
 既にあれから幾日も経っている、当初重傷かと思われたカミューの負傷も、翌日には本人がけろりとした様子で過ごしはじめたのであまり心配は無かったが、それでも時折見せる苦痛めいた表情にベリンガーなどは気を揉んでいた。上官が時に浮かべる痛みを覚えるような顔は、純粋に怪我によるものだけではないと漠然と感じていたからである。
「カミュー様」
 答えたのは色濃い琥珀の瞳。取り敢えずは顔を上げてこちらを見てくれた事に安堵する。
「誠に差し出がましい事と理解している上で、申し上げたい事がございます」
「なんだ?」
 自分の口調がどんな時も堅苦しいのはもう仕方のないことだ。この同盟軍の城に来て知り合った傭兵たちのように砕けた口調がとれれば、現状のこの高まる緊張もどうにかなったかもしれない。だが、もう後戻りは出来ない。ベリンガーはひとつ深呼吸をするとカミューの視線を真っ向から受けとめた。
「マイクロトフ様とのことでございます」
 室内の温度が下がった気がした。それでもベリンガーはめげずに言葉を繋げた。
「最早何が原因かとは聞きません。ただカミュー様、あなたにお仕えする者としてお願いがございます。どうかこれ以上の仲違いはお止め下さい。そして一刻も早く和解をなさって頂けませんか」
 言い切ってベリンガーは乾ききった唇を舐めた。そこへ、カミューの小さないらえがある。
「和解…?」
 なんだそれは、とでも言いたげな物憂い掠れ声にベリンガーは目を細めた。
「カミュー様」
 願いを込めて名を呼んだが、続いたカミューの言葉はあまりにも素っ気無かった。
「無理だ」
「……そんな」
 息を飲むベリンガーにカミューは微笑みかけた。そして子供に諭すようにゆっくりと穏やかに言葉を選ぶ。
「もう、やめたんだよわたしは。あぁそう、言うなれば全くの白紙状態になったのだから、もはやあいつとわたしとの間には何も無い。和解も何も、そもそも繋ぐものが今はもう無いのだから」
「それは…どういう」
「やめたと、言ったろう?」
 そして微笑う。
「もうわたしはあいつに対して一切の世話も焼かないし、如何なる情もかけることは無い」
「絶交を…なされたと…?」
「そんな大袈裟なものではないな。だがまぁ、今までが今までだったからなぁ……普通の付き合いに仕切り直したとでも言うのかな」
 苦笑を浮かべてカミューは、だいたいいい年をした男がいつまでもべったりは無いだろうと呟いた。ベリンガーは信じられない気持ちでその言葉を胸の内で繰り返す。気付けば無意識に言葉が出ていた。
「あなたはそれで平気なのですか?」
 ベリンガーがハッとして己の言葉の意味に気付いた時、カミューは少し目を見開いてから、どこにも付け入る隙の無い笑みを浮かべた。
「平気だが?」
 平素と変わり無い声音で、どこかおかしな処でもあるかとさえ言いそうなカミューの態度を、ベリンガーは困惑の眼差しで見るしかなかった。
 本当に彼らの絆は変容してしまったのだろうか。カミューがマイクロトフに向けるあらゆる情は、もう何の形も結びはしないというのだろうか。まさか、とベリンガーは否定する。だが目の前で何事も無く笑う青年を見てはその思いも何処かあやふやになってしまうのだ。
 これは悪い夢なのかと、騎士団の頃からそば近く、好意的な目で彼らを見守ってきた赤騎士団長付副官はやり切れない思いで項垂れ、そのままその場を後にした。

 実際、常ならば上官の私事に口出しするような事など有り得ない彼の副官が、つい思い余ってしまうほど彼らの仲違いは目に見えて顕著だった。
 まず一緒に居るところを目にしない。
 たまに会議などに揃って同席しているとしても、彼らの間には不必要な会話の一切も無くその視線が合わさる事も無い。たえず一定の距離を保ってそれ以上近付く事が無いのである。
 それもただの仲違いならば周囲もいつものことかと笑って済ませただろう。だが。
 喧嘩をするならばそれなりにいがみ合う筈の二人である。嫌味を言ったり怒鳴ったりをする。それが今回ばかりは様子が違った。平素通りと言えば平素通りである。いっそいつも通り過ぎて最初から彼らはこんな関係だったろうかとさえ思えるほどだ。
 彼らが友情など育てず、ただ同じ騎士団の騎士同士であっただけの関係ならば、或いは現状は正しい姿なのかもしれない。だが親友として、それ以上の情を交わし合っていた彼らを知っている者の目から見ればそんな彼らは酷く奇異に映った。
 気軽に挨拶を交わすでもない。互いを見つけて笑みを浮かべるでもない。
 カミューの言った「仕切り直し」という言葉がなるほど一番正しいかもしれない。そこにあるのはただ同じ場に立って居る『だけ』の間柄だった。

 そんな折、珍しく城内の廊下で二人がばったりと出くわす事があった。
 カミューの方は表情も歩調も変えず、まるで何も無いみたいに歩みを止めない。だがマイクロトフの方は立ち止まりカミューを凝視した。そして擦れ違い様マイクロトフのその手から、持っていた書類が一枚零れ落ちたのだ。
「………」
 ぎくり、とマイクロトフの肩が震えた。だがカミューの方は僅かに首を傾げたのみで終わった。そして赤い騎士服の上体が沈む。白い手袋が床に触れ、板床にはらりと伏せた一枚の書類を拾い上げた。
「落ちたぞ?」
「あぁ…」
 カミューが立ち上がりざま差し出したその紙片を、マイクロトフはぎこちなく手を伸ばして受け取った。それを傍で見ていたベリンガーは疑問を感じて瞬いた。
 まさかマイクロトフ様の方は。
 もしやこれはカミューが一方的に仕組んだ事なのかもしれない。マイクロトフの方では納得していないのではないのか?
 結論づくなりベリンガーは決意を固めた。



「という次第でございます」
 事情を述べ終えてベリンガーは頭を垂れた。それを見下ろすのは苦虫を噛み潰したような顔のビクトールと困惑顔も顕わなフリックである。
「えと、ベリンガーさんだっけ?」
 フリックが顎をぽりぽりと指先で掻きながら聞けば、几帳面に騎士服を着込んだ男は素早く眉根を寄せた顔を上げた。
「どうぞベリンガーとお呼び捨て下さい」
「あ、いや」
 言葉を濁らせるフリックを余所にビクトールが不機嫌な面持ちのまま前に進み出た。
「ベリンガーさんよ。それであんたは俺たちに何をして欲しい」
「はい、お二人からマイクロトフ様に進言して頂きたく」
 居ずまいを正してベリンガーはそう告げた。途端にビクトールはそっぽを向いて「やっぱりな…」と引き攣りながら呟いた。
「所詮わたくしはカミュー様の副官に過ぎぬ身です。青騎士団の団長であるマイクロトフ様を相手に図々しく差し出口を申し上げる真似は出来ないのです」
 それ以前に既にもう誰も彼も騎士団の人間ではないのだが、という心のツッコミはあえて控え、ビクトールは殊勝に頷いて先を促した。
「で? 俺たちは結局奴に何を言ってやれば良いわけだ」
 ベリンガーはだが曖昧な表情で首を振った。
「正直申しますと、これと言う言葉はございません。ただ現状があまりに…不自然で……」
 それまで実直だったベリンガーの言葉が淀む。
「……まるで別の次元に迷い込んでしまったような心地で………わたくしは…」
 茫洋とした物言いの中、不意に言葉を詰めたベリンガーが訴えるような面差しで傭兵らを見た。
「マイクロトフ様ならば、どうにかして下さるのではと……わたくしはそう……」
 そんな言葉に、ビクトールは不機嫌な顔を更に暗くした。
「なら、放っておけ」
「おい」
 突き放したようなビクトールの言葉に、すかさずフリックが声を上げるが、男は低く唸って構わず続けた。
「所詮当事者同士の問題だろうがよ。このままどうにかなるならそれまでだろうしな」
「ですが…!」
 言い募るベリンガーにビクトールは睨みをきかせる。
「どうにかしたいならてめえで動け。それができねえんなら黙って見てろ」
「ビクトール」
「黙ってろ。確かに俺だって奴らの不仲は居心地悪いがよ、自分がだからって奴らを無理に煽るような真似はしたくねえな」
 それだけを言ってビクトールは「力になれなくて悪いな」と付け加えるとその場から離れた。その後をフリックが慌てて追う。
「おい! おいビクトール、待て!」
 ずんずんと先を進む男の前に回り込んでフリックは「待てって」と押し留めた。そしてまるでわけが分からないと両手を広げた。
「おまえ天邪鬼か? 今朝までナナミ相手にどうにかしてやるって言ってたろうっ」
 そうなのである。マイクロトフとカミューの不和を案じていたのは何も彼らの部下だけに限ったことではなく、この同盟軍の仲間たちもまた成り行きを心配に思いながら見守っていたのだ。その中でもなまじ二人のただならぬ様子を数日前に間近に見てしまったナナミの不安は大きい。それに対してこの気の良い男は任せて置けよと請け負ってはいなかったか。
「あぁ言ったなぁ」
 だがそう呑気に答えるビクトールにフリックは「おい」と詰め寄る。
「だったらなんであんな事を言った」
「んー……」
 ぼりぼりとビクトールは頭を掻いてそっぽを向いた。こいつ、はぐらかすつもりかとフリックが睨んだところでビクトールは突然溜息と共に肩を落とした。
「どいつもこいつも……奴らはガキか? なあ…フリック」
「え?」
 突然の問い掛けに思わずフリックは聞き返す。ビクトールはただ苦笑いを浮かべた。
「心配は分かるけどよ。ここまでこじれりゃ下手に周りが口挟めば余計複雑になるんじゃねえか? 俺はその方が心配だ」
「でも」
「マイクロトフってのはそう長く我慢のきかねえ奴じゃなかったっけな?」
 何しろ誓いが絶対のはずの騎士の名を捨ててきた奴だぜ、とビクトールは笑う。それをフリックは怪訝な目で見た。
「それは…どう言う」
「わからねえか? 放っておいてもその内青い方が切れるって言ってるんだ。ガキじゃあるまいし、何から何まで周りがお膳立てしてやる必要は何もねえだろう。それに下手にちょっかいなんか出しちまえば後で赤い方が怖そうだしなあ。だからここは、何もしてやらない方が奴らのためなんだよ」
 天井を仰いで笑うビクトールに、フリックも漸く得心がいく。なるほど、確かにベリンガーはマイクロトフの方は現状に納得していないようだと語ってはいなかったか。それならば、どうせいつもの成り行きを辿って落ち着くところに落ち着くのではないか。
「……そうだな」
 ぽつりと呟いてフリックも笑う。
 何しろマイクロトフの猪突猛進ぶりを知らないわけではないのだ。そしてカミューはそんなマイクロトフと何年にも渡って付き合い続けた間柄ではないか。
「しかし今回はこじれたなぁ。いったい何があったんだか」
 首を鳴らしながらぼそりと言うビクトールに、フリックも頷く。
「なんだって良いさ。俺はもう疲れたかも」
 はぁ、と肩を竦めるフリックにビクトールは「まあ片がついたらどっちかに奢らせようや。迷惑料だ迷惑料」とその肩を叩いた。

 そして傭兵二人の思惑通り、臨界点は既に近かったようである。

 その日とうとう絶え切れなくなったマイクロトフがカミューの元を訪れたのは、夜も更け城内がすっかり静まり返った頃だった。




終わらなかった…(苦笑)
オリキャラが暴走しました……っなんでだ?
あぅー…そか……「つきたちの花」読み返してたからだ
いけませんね、オリキャラに名前を付けると勝手に動き出します
苦手な方ごめんなさいー
それより青の登場が少な………つ、次で大活躍だから!!(笑)

2001/10/15


釦の掛け違え10


 深夜、何度となく叩いた覚えのあるその木戸の前にマイクロトフは立った。全身は緊張に漲り、その表情には苦悩の色が濃い。それが為にここに足を運ぶまでに随分と時間を要して、こんな遅くになってしまった。だが木戸の隙間から漏れる光はその部屋の住人がまだ眠りについていないことを知らせる。



 実際、今自分がここにこうして立っているとは今朝まで思ってもみなかった事だった。カミューからの拒絶はそれだけマイクロトフを打ちのめし臆病にさせていたのだ。だから周囲が何を言おうと暫くはあの琥珀の瞳と視線を合わすのを躊躇っていた。
 だが、昼間の事だった。
 商店街を通り抜けようとした時、不意に呼び止められた。
 振り返れば食料品などを扱っている道具屋の主が息を切らせてマイクロトフを追ってきており、なんなのだろうと立ち止まれば店主は「ちょうど良かった」と笑みを浮かべたのだ。そして片手に携えていたものを差し出した。
 きちんと袋に包まれたそれは、外側からの輪郭で凡そが知れる―――ボトルの形をしていた。
「以前にご注文を頂いていた品でして。前回お渡しの際にこちらの不注意でうっかり割ってしまったのですよ。しかも目の前で」
 店主は恐縮しつつも強引にそれをマイクロトフの手に渡した。
「どうぞカミュー様に、お代は結構ですとお伝え下さい」
 あれ以来一度もお姿を見なかったから持て余していたのですと店主は付け加えた。
 どうやら彼はマイクロトフとカミューの不仲を知らないらしい。尤も、軍の一角を担う頭領二人の不仲をおいそれと一般人が知るわけはないのだが。それでも悪気無く持たされたボトルと、にこにこと愛想を浮かべる店主に罪は無い。惑って立ち尽くしていると店主は調子よく会話を続けた。
「あの時は本当にがっかりなされて…こちらも仕入れの手数料を頂いた後で謝るしかございませんで。カミュー様には悪い事を致しました」
 そうしてマイクロトフにまでぺこぺこと頭を下げる店主の言葉に、ふとひっかかるものがあった。
「がっかりしていたと……すまんがそれはいつの事か分かるだろうか」
 息を吸い込みつつ問うと、店主は「ええ、それはもう」と頷いて答えた。それは果たして、マイクロトフが最初にカミューと戯れにも似た諍いを起した日の事だった。

 思えばあの日が全ての始まりだった。
 突然に結び付いたその思いに、マイクロトフはぐるぐると考える。妙に子供地味た態度でマイクロトフに意地悪をしたカミュー。約束を破る破らぬはともかく、何故いきなりああした態度に出たのか、マイクロトフはそこを考えるべきだったのではないか。
 つまらぬ諍いを深く取って、あまりに頑なな態度に出てしまった。これでは、カミューが拒絶を覚えるまでに傷付いてしまうのも無理からぬ事だったかもしれない。

「俺も大概、未熟だな」
 ぼそりと呟くと店主が何かと首を傾げる。それにマイクロトフは何でも無いと答え、手に持たされたボトルを掲げると「必ず伝えよう」と言い残してその場を去った。



 そして、ここにいる。
 ボトルを口実にしようとは考えていた。だがその後が思い付かなかったのだ。やらなければいけない仕事の事もあったが、結局昼からずっと苦悩してやっと覚悟を決めればもう深夜だった。
 それでも戸口から漏れる明りに若干の安堵を覚え、マイクロトフは強く握り締めた拳で重々しくその戸を叩いた。
 途端に中から応えが返る。
「誰だい?」
 素っ気無い声に、マイクロトフは固唾を飲んだ。
「俺だ」
 第一声を発すると少しの間を置いて密やかな声が返ってきた。
「マイクロトフか…?」
「あぁそうだ。話がある―――入っても良いか」
「すまないがもう寝るところだ。明日にしてくれないかな」
 その応答に、瞬間的にマイクロトフは息を吸い込んでいた。
「駄目だ!」
 ドンと拳を当てていたままの木戸を再び叩いていた。
「今夜でなければ駄目なんだ!」
 開けるまで居座るぞ、と半ば脅しも含めてマイクロトフは再度扉を叩いた。するとややあって鍵が開く音が響き、そろりと窺う様に扉が開いた。そしてどこか茫洋とした顔が覗いた。
「扉が壊れる………」
 少しばかり責めるような口調ながらも微笑を浮かべ、カミューはマイクロトフの間近に立った。
「で、用は何かな。急を要するようだが?」
 聞くならここで、と僅かに開けた扉を隔て、カミューはごく自然にマイクロトフが室内に踏み込めない場所に立つ。
「部屋には入れてもらえんのか」
「…今が何時か知ってるかい?」
「知っている」
 間髪入れず答えて淡く微笑む顔を見つめると、琥珀がふいと逸らされた。そして俯いて晒された金茶の髪がぴくりとはねた。どうやらマイクロトフの片手にあるボトルを見つけたらしい。
「それは?」
 問われてマイクロトフはボトルを持ち上げた。
「昼間、おまえにと道具屋の主から預かった」
 そして袋を開けて中のラベルを見せてやるとあるかなしかにカミューの眉が寄せられた気がした。だが微笑は相変わらず浮かべたまま、俯きがちの顔が見える。その今は隠れて見えない口元から小さな声で「そう」と聞こえた。
「これを渡しに来たのもあるが、カミューと話がしたくて来たんだ。部屋に入れてくれ」
「嫌だよ」
「何故だ」
 素早い応酬にカミューの方が言葉を詰まらせた。
 マイクロトフは一歩も退くつもりは無かったし、例えカミューがこの鼻先で扉を閉めてしまっても蹴り壊すぐらいの気概を持っていた。そしてすかさず足を踏み出す。
「おまえが俺を退ける理由は何だ。何故追い返そうとする」
「…こんな遅くに来る方が非常識だと分かっているのか」
「常識なぞ気にしていたらおまえを見失う」
 怯んだようにカミューが一歩退いた。
「答えろカミュー。俺とおまえを隔てているのは何だ?」
 もう一歩踏み出せばカミューは顔を背け室内へと逃げるように後退した。それを追ってマイクロトフの身体は完全に室内へと入り込んでしまった。
「帰れ」
 背けた顔のまま消え入るような声が届くが、マイクロトフは気にせず手にしていたボトルを壁際の棚に置くとカミューを見つめた。全身で拒絶を示す青年の姿は相変わらずで、それでも久方ぶりに二人きりで至近距離にいることにマイクロトフは安堵する。
「俺はおまえに話があると言った。だから話をするまでは帰らない」
「勝手を言うな」
 弾かれたようにカミューが振り向き、射貫くような鋭い眼差しがマイクロトフを見た。だがそれも長続きせず、カミューは吐息混じりにまた俯くと疲れたような声を出した。
「正直に言えば良いのか? わたしはおまえと居る事に疲れた」
「カミュー」
 マイクロトフの胸に痛みが走った気がした。
「疲れて、少し休憩のつもりで距離を置いたらそれに慣れてしまった」
 物語でも語っているみたいな、どこか現実味の無い声音で淡々と言いながら、かくん、とカミューの首が傾ぐ。そして再び淡い微笑みを浮かべた目がマイクロトフを見た。
「ひとりに漸く慣れたところだ。もう、おまえが何を言ってもわたしの心は動かない」
 言って苦笑を浮かべる。その困ったような表情にマイクロトフは息苦しさを覚えて喘いだ。そこへまたカミューの言葉が落ちる。
「こうなった原因などもうどうでも良い。ただもう疲れるようなことはしたくない。分かるな?」
 問われてマイクロトフはゆるゆると首を左右に振る。分かるものか。分かってたまるものか。
 だがカミューはそんなマイクロトフの態度さえ微笑で一蹴した。
「こればかりは分かってもらわないとね………どうしようもないから」
 そしてくすりと笑ったカミューに、マイクロトフは思考が焼けるような想いを感じて咄嗟に腕を伸ばしていた。
 久しぶりに触れた。
 だがそれは思いがけない力で振り払われた。
「触るな!」
 撥ね退けるようにして返された拒絶に、勢いあまってマイクロトフは後ずさって扉の敷居を外にまたいでいた。
 見れば青年はあらぬ方を向いて、ただその指先だけがマイクロトフ越しの廊下を指し示している。
「帰ってくれ」
「カミュー」
 縋る想いで名を呼ぶがカミューはいたって冷静に返してくれた。ふわりと向けられた瞳は何の感情も窺えず、ただ口元に便宜的に浮かべられた笑みだけが印象的で。
「ボトルは有り難く受け取るよ。届けてくれて助かった。でももう二度とこんな夜更けには訊ねてこないでくれ……流石のわたしも眠くてならない」
 そして伸びた手が、マイクロトフの鼻先で扉を閉じた。
「カミュー!」
「おやすみ」
 小さな声が、会話の終わりを告げた。





 カツ、と靴底が床を叩く。
 周囲の情景は何も像を結ばない。マイクロトフは自分がどこへ向かって歩いているかまるで自覚が無かった。ただ纏まらない思考を持て余し、黙然と歩き続けるしか出来ないでいた。
 目の前で閉じられた扉に、否応無しの拒絶を知った。
 訪れる前の決意は脆くも崩れ、ただその場から離れるしかできず、後はさ迷い歩くばかりだ。
 それでもマイクロトフはこのまま諦めを選ぶ事など出来ようはずも無く、何か解決策は無いのかとそればかりを空転する思考を巡らせていた。

 淡い微笑み。
 感情の読めない瞳。
 他人行儀な振る舞い。
 一切を許さない壁。
 徹底した拒絶。

 もう、無理なのか。

 本当に?

「駄目だ」

 自分の考えを反射的に否定して呟き、マイクロトフは唐突に立ち止まった。
 このまま終わりになど絶対に出来ない。
 何故ならばマイクロトフにとってカミューとは掛け替えの無い相手であるからだ。何があろうと共にあると誓った。この身も魂さえも全て捧げると誓った相手だ。そしてカミューはその誓いを受け入れた。

 泣きそうな顔をして誓いを受け入れた。
 いつもなら飄々として笑っている青年が、あの時ばかりは表情を無くして呆然としていた。
 常の微笑が消え去って、素の表情がそこにあった。

 そう。
 あの微笑。



 マイクロトフは瞬いて顔を上げた。



 知っていたはずだ。
 嘘をつく、と。

 マイクロトフの居ない孤独に慣れたなど『嘘』だ。笑って嘘をつく男だったはずだ。慣れたのなら何故あの時触れられるのを拒んだ? 本当に平気だったならマイクロトフがどんな態度に出ても泰然としていられるはずだ。
 確信を胸にマイクロトフは踵を返した。
 今直ぐにあの琥珀の瞳に真実を映し出してやる。




長いので分けました
次で最後です
今度こそ!(笑)

2001/10/20


釦の掛け違え11


 さっきの今でカミューの方にも油断があったのだろう。扉に鍵はかかってはおらず、突然開いたそれにまだ起きていたらしく椅子に腰掛けていた青年の琥珀の瞳が驚きに見開かれ、続いて細められた。
「なんだマイクロトフ、驚くじゃないか。ノックを忘れるなと言っているだろう?」
 苦笑する、これは本音。
「それよりもまだ何か用が? 今度こそ眠りたいのだが、明日じゃ駄目なのかな……まぁ明日も忙しくてあまり相手はしてやれないが」
 視線が外れてあらぬほうを向く。口元は微笑んでいるが、これは嘘だ。
「黙り込んで変な奴だな。用が無いなら出て行ってくれないか?」
 少し苛立ったような声、それでも視線はマイクロトフを向かない。
「カミュー」
 唐突に名を呼んだ途端琥珀の瞳にほんの僅かな翳りが宿る。鉄壁の微笑は崩れていないが、その瞳は何よりも雄弁にカミューの感情を語っていた。
 なんて、おまえは感情が豊かなんだろう。マイクロトフは目の前の青年の遣る瀬無さを思って眉を寄せた。
「…なんだ?」
 小さな問い返しの声。うん、やはりカミューのどんな言動にも彼の感情が良くうかがえる。目に見えるその表情だけが全てではないのだ。
「カミュー、おまえ嘘が下手だな」
「な―――」
「もっと素直なら俺も変な誤解はしなかったぞ」
 苦笑混じりに言うと、カミューの顔が怪訝な色に変わっていく。そして何か言いかけようとするのを素早く遮ってマイクロトフは言葉を繋げた。
「俺の目を見ろカミュー」
「………」
 怪訝な表情のまま、カミューはマイクロトフを見る。だが一瞬交わった視線は直ぐに外された。
「見ろといっている」
「見たくない」
「何故だ? 心が揺らぐからか」
「…馬鹿な」
 呟くカミューにマイクロトフは「まぁいい」と応えて間合いを詰めた。
「カミュー……機嫌が悪かったんだろう?」
 ふと声の調子を変えて軽く訊ねれば、一瞬何のことか分からないとでも言うようなカミューの表情があった。
「俺に肉をくれなかった」
 言って笑みを滲ませると、カミューは僅かだけ息を吸い込んで身を引いた。
「あれ…は……」
「あの後俺は酷く落ち込んだぞ。よりにもよってビクトール殿に最後の一切れを目の前でやってしまうのだからな。だがあのボトルが割れてしまったり、他にもいろいろあったのかもしれないな。とどめのように俺がさっきみたいにノックもせずに扉を開けたせいでおまえの額を打ってしまった。だから機嫌を悪くして俺に意地悪をしたんだろう」
 その時のことを思い出すと、なんだか笑みが零れるマイクロトフだった。そうかもしれないと辺りをつけてみれば、なんだか笑える話ではないか。
 だがそうしてマイクロトフが零した笑みは、カミューにとっては和みを呼ばなかったようだ。
「だったらなんだ…」
 剣呑な声が響いた。見ればまたもや俯いたカミューから、険悪な気配が漂ってきている。
「だったらどうだという。あの日はあの日だ……翌日からおまえはわたしを完全に無視してくれた…。返事どころか目も合わせてくれなかった。わたしが………倒れても…おまえは…」
 徐々に小さくなる声と共に、カミューの顔色は見る見るうちに青ざめていった。
「道場でも…見捨てた。それでも何とかしようと思って改めて訊ねたら…去れと言ったのはマイクロトフだろう…っ」
 俯いたまま、あれもこれもと一気に言い放つ。
「挙句、わたしの手を振り払ったのは誰だ!」
「振り払うつもりは無かった」
「信じるものか」
 言い捨てる。
 一瞬、頭に血が上りかけたマイクロトフだが、揺れるカミューの肩を見て思い止まる。ここで我を忘れてはどうにもならない。
「…カミューだって、部屋に鍵をかけて俺を締め出しただろう。それに……」
 レストランで垣間見た場面を思い出してマイクロトフは苦々しく息を飲み込んだ。
「それに、なんだ……言いたい事があるなら全部言え。この際だ、聞いてやる」
 カミューの投げ遣りな言葉にマイクロトフは思わず怒鳴っていた。
「ビクトール殿にのみならずおまえはゲオルグ殿にまで自分の食いかけを……っ!!」

 沈黙が降りた。

 ハッとして口元を押さえたマイクロトフを、俯いていたカミューが見上げる。
「なに…?」
 寄せられた秀麗な眉の下、記憶を探るような視線の動きがふと制止した。
「あ………?」
 琥珀の瞳が二度三度と瞬いた。
「見ていたのか?」
 小さな問い掛けに、戸惑いながら頷いた。すると逆にカミューの方が何やら狼狽を浮かべた。
「あれは、わたしは……」
 相談を、と唇が声も無く綴ったのをマイクロトフは見て取る。
「相談?」
 咄嗟に聞き返していた。途端にそれまで青ざめていたカミューの頬が一転して赤くなり、虚ろげだった琥珀の瞳が色を濃くした。
「マイクロトフが…っ……おまえが……!」
 俺がなんだとマイクロトフがぼんやりと、その燃えるような瞳を見返した時だった。ぼろ、とそこから透明な涙が盛り上がって頬を滑り落ちた。
「うわっ」
 驚いてマイクロトフは咄嗟に手を伸ばして掌で床に落ちようとするそれを受けとめていた。

「……何をしている」
「いや……」

 自分が落とした涙を、何故だか受け止めたマイクロトフにカミューは限りなく不審なものをみる目で見つめる。今度こそ沈黙が降りた。

 そして最初に沈黙を破ったのはカミューの微かな吐息だった。
「もう……良いか」
 ぎょっとしたのはマイクロトフである。僅かに濡れた掌を持て余しながら、いったい何が良いんだと焦った。このまま再びカミューに拒絶をされたらもうどうすれば良いか分からなくなる。だが続いて吐き出された言葉はそんな焦りを裏切るものだった。
「何だか知らないが、誤解尽くめだったようだな……」
 そして密やかな笑い声が漏れる。
「そ、そうだ。誤解だったんだ」
 マイクロトフは強く頷いた。
 とにかく良く分からないが誤解であることは間違い無いようである。全く擦れ違いも甚だしいのだ。
「誤解か…」
「あぁ」
 もう一度頷いて返すと、不意にくたりとカミューの膝が挫けた。
「お、おい!」
 慌てて腕を延べるとカミューの身体は抵抗無く抱き留められた。そして重みのままにマイクロトフも床に膝を付くとカミューはぼんやりとしたまま床の上に腰を下ろし、ぽつりと呟いた。
「気が…抜けた」
「ん?」
 覗き込めばカミューは瞳を伏せるようにしつつも口元には笑みを浮かべている。だがそれは先ほどまであったような他人行儀なものではなく、マイクロトフの良く知る親しげな笑みだった。
「カミュー」
 囁けばカミューは僅かに身を起して顔を上げる。そして今度は真っ直ぐと己を見詰めてくれる瞳にマイクロトフは語りかけた。
「確認しておくが、俺は変わらずカミューが好きだ」
 すると、カミューの髪が揺れてこくりと頷きが返った。それを見てマイクロトフは唾を飲み込む。ここからが大事なのだ。
「それでな。カミューは…?」
 恐る恐る問うと、不意にカミューの表情から笑みが消えた。
 だが直ぐにその唇が望むままの言葉を紡ぐ。

 好きだ。

 夢で見た情景のように、そんなふうにカミューの唇が動くのをマイクロトフは見た。
 そして呆然としながらマイクロトフはそっとその頬に指先で触れた。するとカミューはマイクロトフの掌に預けるように首を傾け、そして目を伏せた。
「少し、寝てもいいかな……」
 なんだか無性に眠たくて、と呟きを落としてカミューは目を閉じた。
 ぐらりとカミューの身体が前に傾ぐ。マイクロトフはハッとしてその上体を受け止めた。ずしりと感じる重みが久方ぶりの温もりを伝える。
「カミュー…」
 見れば意識を失うように眠りに落ちたらしい青年の、疲労に翳る顔がある。伏せられた目蓋はもうぴくりとも動く気配を見せず、無防備に体重を預けてくるその四肢もすっかり弛緩している。もしかしたらこの、実は結構な意地っ張りの青年は毎夜眠れずに過ごしていたのかもしれない。
 そんな事を考えながらマイクロトフは腕の中の温もりを抱え直すとほっと息をついた。
「本当にすまなかった」
 軽く頭を撫でて目を閉じる。
「カミュー…」
 柔らかな髪が手のひらに伝える感触に、堪らなく安堵を覚える。耳に聞こえるあるかなしかの寝息にも。
 こんなにも大事な存在をどうして。
「大好きだ」
 苦笑を滲ませてマイクロトフはそうして腕の中に丸く収まる温もりを、大切に抱き締めつづけたのだった。










「で、ありゃなんだコラ」
「……オレは何も知らん。っつーか聞くな」
 はっ、と投げ捨てるように鼻で笑ってフリックはやさぐれたようにテーブルに肩肘をついた。その傍らビクトールがわなわなと肩を震わせている。
「あいつら俺たちをおちょくってんのか、あ?」
「おちょくられた覚えはないけど、そうなのかもな」
 疲れたようにフリックがビクトールの視線の先を見る。

 レストランのテラス。その一角に彼ら―――マイクロトフとカミューはいた。

「人をあんだけ騒がせといてこおいうオチかぁっ!!」
「…わかってたんじゃないのかおまえ。どうせなるようになるってなぁ。あぁほら、言ってた通りに奢って貰えよ」
「俺にあそこに割って入れって言うのかてめえはっ」
「んなこと誰が言うかっ!」
 さしものフリックも流石に彼らの間には割り込もうなどと、恐ろしくて言う気にもなれない。

 久方ぶりに見た、揃って二人が過ごしている風景。
 それはなんともお定まりの平和な風景ではあったものの、以前に比べて見るものに食傷でもおこしかねないような雰囲気を纏わせている。



「ほら、マイクロトフ」
「うむ」



 彼らが何をしているか、それはあえて記すまい……。


END

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げほ……っ
本当に恥ずかしくって記せません
でも何をしているか分かりますね?(笑)

長いことお付き合い頂いて有難う御座います
本当にお疲れ様でした〜(笑)
シリアスなギャグという試みでどうにも中途半端な代物になってしまいましたが
最後は幸せな結末になってほっとしました

常々シリアスなものを書きながらいつもギャグに転びそうになるのです
いつもは懸命に踏ん張って耐えているのですが
今回はちょっとその自制を緩めてみたのです
結果が…コレか……(苦笑)
まぁでも大変楽しく書かせて頂いたのでとても良かったです
ここまで読んで下さって有難う御座いました

2001/10/20