釦の掛け違え5


 目を開けると真っ暗な天井が映った。見覚えがないその景色に、カミューはぼんやりと首を傾げる。
 ここは何処だろう、どうしてこんな場所で寝ていたのだろう。
 体を起こそうとした。だが身体の節々に鈍痛があってそれは叶わなかった。諦めてカミューは改めて周囲を見回す。そして、暗くて気付かなかったがそこが何度か訪れた覚えのある、同盟軍の城の医務室なのだとわかった。
「……そう…か」
 思い出して呟いた。
 自分はラダトまでの道程の最中、不覚にも戦闘不能に陥ったのだ。
 カミューは痛みにでは無く、思い出した記憶に顔を顰めた。
「…何故…か…な」
 怠い腕を持ち上げて片手で顔を覆う。
 戦闘の間、意識を失うまでに一度もマイクロトフの声が無かった。向けられる視線も感じなかった。
「愛想をつかされたということかな」
 愛想も何も既に決別は間違いなく眼前につきつけられているではないか。ここに、目覚めた時にあの漆黒の瞳がないのがその顕れだ。カミューはなんだか可笑しくてくすりと笑いが零れた。
「…っ」
 そして痛みに耐えて起きあがる。暗いが今は一体何時頃なのだろうか。しんとした気配から恐らくは深夜、もしくは夜明け前なのだろう。
「どのくらい寝ていたんだ」
 情けない。自分ともあろうものがあの程度の敵を相手に戦闘不能にまでなるとは。
「さぞかし…呆れたんだろうな」
 また、笑ってカミューは独りごちた。そしてそのまま寝台を降りると足音を殺して衝立の向こうを覗いた。
 灯りの落ちた医務室。その診察室の長椅子にホウアンが不安定な姿勢で寝ていた。そう言えばこの医者はいつもこの部屋にいるが、寝食もここでしているのだろうか。もしかすると緊急の患者のために駐在しているのか。いや、今夜はカミューがここに寝ていたからかもしれない。それにしても、長椅子で寝ているのはどうにも窮屈そうだった。
 カミューは音を立てない様に寝台に戻ると毛布を一枚取って気付かれないようにそっとホウアンにそれをかけた。鈍い痛みは絶え間無く全身を襲うが、それでもそうしてから医務室を出る時、静かに頭を下げて扉を閉めた。

 医務室を出ると、カミューは壁を伝いながら窓の方へと歩いて行った。幸いながら夜空は晴れていて、星が美しく瞬いている。その季節の星座を読みとってカミューは今が夜明け前なのだと知った。
 だとすれば、道場で待っていればマイクロトフは早朝訓練のために顔を出すだろうか。
 今は無性に会いたかった。
 会って何を言うかもどうすれば良いのかも分からないが、ただ顔を見たかった。あの夜から一度として視線を合わせては貰っていない、あの澄んだ黒い瞳を見たかった。

 道場の入り口には夜勤の番兵が二人いた。彼らは眠たそうな顔をしていたが、カミューの姿を見ると背筋を伸ばして会釈をしてきた。
「やあ」
 それだけを言って道場の入り口をくぐった。
「あの、こんな時間に道場にご用ですか」
 背後から追いかけるような番兵の声がする。カミューは「あぁ」とだけ答えて灯りの少ない道場の中へと踏み込んだ。
 昼間大勢の者が出入りする道場は、人がいないとこれほど広かっただろうかと驚く。入り口付近の壁にあった蝋燭を取って中央の燭台に火を灯せばその驚きは余計に顕著だった。
 噂では、マイクロトフはここに誰よりも早く毎朝訪れると聞く。
 朝まだき、薄ぐらい斜光の中、このだだっ広い静寂に包まれて毎朝一心に身体を鍛えているのだろう。目を瞑ると瞼の裏にはそんなマイクロトフの姿が鮮やかに思い浮かべる事ができる。見たこともないのに。
 朝は――― 朝はいつもマイクロトフに起こしてもらうまで眠っているから、彼が一人訓練をしている姿など見たことはなかった。だが青騎士の連中が、ロックアックスを離れてもなおこの同盟軍でも変わらずマイクロトフに従って早朝訓練をしているのだ。さぞかし真剣で、心を打つ風景なのだろう。
 カミューはぼんやりとして道場の中ほどで立ち竦んで居た。窓から覗く空はそうするうちにも徐々に白み始めている。そろそろ来るだろうか。今朝に限って来なかったら自分はどうすれば良いのだろう。なんだか頭痛がする。攻撃を受けたところがじくじくと痛んだ。
 と、入り口の方から人の話し声が聞こえた。先ほどの番兵の声だ。カミューが顔を上げてそちらを見ると、番兵の向こうにマイクロトフの姿が見えた。だが、一瞬マイクロトフの瞳と視線が合った途端、向こうはそのまま踵を返して去っていってしまった。
「え……」
 驚いてカミューは入り口まで駆け寄ると番兵が困惑したような表情を向けてきた。
「おいでですよと言ったら、あの、なら今日はよそう、と仰って…」
 避けられた?
「あの、俺何かまずい事言ったでしょうか」
「いや…そうか……あぁ、気にしないでくれ…」
 目が合ったのに。いや目が合ったからこそか。
「少し、喧嘩をね。まだ……怒っているみたいだ」
 苦しい言い訳をして無理に笑ってみせると、番兵は「そうなんですか?」と何処かほっとしたように言った。しかしカミューの胸中は穏やかでなく、浮かべた笑みは不様にも崩れた。
 目が合ったのにもかかわらず避けられた。この事実は思いの外カミューを打ちのめしていたようだった。しかし、これはカミューの視点によるものであり、実際マイクロトフの方にしてみればそんな事は思案の外にあったのだった。
 マイクロトフはカミューがまさか道場内から自分を見ているとは思ってもいなかったし気付いてもいなかったのである。何しろ道場内は明け方の光が射し込み始めたとはいえ仄かな灯りだけで薄暗く、見慣れているとはいえ明暗の境界がおぼろげにしか見えない状態なのだった。
 だからマイクロトフはカミューが自分に気付いているとは夢にも思わず、会わずに済むのならそっと去ろうと思って踵を返したのである。カミューがどれほど傷付いてしまったかも知らずに背を向けてしまったのだった。それがこの後どれほどのすれ違いを生むかなど、予想にもせず。




ちょっと短いですね
さぁ本格的にすれ違ってきました
一度掛け違うと最期まで気付けない釦同様
どこまで行くか座谷にも謎であります

2001/08/07


釦の掛け違え6


 青年は自室に戻ると明け始めた東の空を見つめ、そっと吐息をついた。
「…肉が……そんなに欲しかったのかな」
 いや、そんなわけはないのだが青年は事情を知らないのだ。元々食い違いから始まった諍いである。どこまでも食い違うのが定めなのかもしれなかった。
「どうしよう…」
 呟きを残してカミューは窓の外から視線を外した。





 それは道場での早朝訓練を諦め、屋外での訓練に勤しんだ後の事だった。マイクロトフは漸くカミューと顔を合わせる決心をし、自分の部屋の隣――― カミューの部屋の前にいた。
 早朝の冷えた空気は一晩もの間マイクロトフを苛んでいた妙なわだかまりを消し、気分を一新させるに充分な清浄さを持っていたのだ。そんな清浄に囲まれて身体を鍛えていると、己の稚拙さに堪らなく恥を感じ、その為にカミューにどんな心痛を負わせたか、いや体の傷までも負わせてしまった事が酷く悔やまれた。
 朝は道場に居たと言うから付近の番兵に聞けば真っ直ぐに部屋へと戻ったらしい事が分かった。だから会おうと。会って目を見て詫びようとこうしてやってきたのだった。

「カミュー」
 扉を叩いた。しかし返答はない。番兵の話では部屋に居るのは確実である。ならば寝ているのだろうかとマイクロトフは首を傾げた。そして何時ものように扉の取っ手に手を掛けたのである。
「入るぞ?」
 ところが扉はがっちりと鍵を掛けられ閉ざされていた。その事実にマイクロトフは驚き、まさかともう一度力を込めた。
「………」
 施錠されているなど初めての事だった。
 有事の際に何時でも飛び出せるようにとの備えもそうだが、この城内で特に見張りの居るこの階の区画で先ず防犯のための施錠は意味がなかった。この区画に起居する者は大抵、平素は鍵などあってないように過ごしているのが常なのだ。マイクロトフやカミューも例外でなく。
「カミュー?」
 拳の裏で扉を叩く。
 応答はなかった。
「いないのか?」
 そんなわけはないと再び今度は強めに叩いたが、予想半分期待外れ半分の通り返事はなにもなかった。
 会いたくないと言うことか?
 考えてマイクロトフは表情を一瞬で険しくした。
「……それほどに傷付けたと言うのか…俺は……」
 マイクロトフは沈痛な面持ちでそっと扉から身を離した。今は自分の立てる足音すら煩わしく感じられた。一刻も早くこの場から立ち去ろうと、気配すら残さずに去ってしまおうと、そればかりを考えた。
 だが彼は、数年もの間付き合ってきた男の生活習慣を全く失念していた。

 扉の向こう。窓辺に寄せてある寝台の上では健やかな寝息を立てるカミューの姿がある。
 なんと言っても大怪我の上に浅い眠りの後の目覚めは、直後に猛烈な睡眠を青年自身に要求した。確かに視線を背けられて傷付きはした。何しろ今までそんな事は一度もなかったのだから、衝撃を受けなければそれはカミューではない。
 だが、早朝の眠気は何にも勝っていた。それこそ、多少の呼び掛けやノックの音などには気付けないほどには。そして一度眠りについた彼がちょっとやそっとでは中々目覚めないのは他の誰よりマイクロトフが一番知っている筈の事なのだ。なのに、今彼はそれをすっかり忘れ去っていた。
「くそ……俺は……」
 マイクロトフは呻き声を漏らしてその場から足音さえ立てずに去って行った。



 それから数時間後の事だった。カミューは寝台の上でまどろみつつ目覚めた。
「ん……?」
 室内は随分と明るい。窓から射し込むその眩しいくらいの明かりにカミューはゆっくりと現状を把握し始めた。
「………あ」
 一言漏らして飛び起きた。
 ――― 寝てしまった…。
 額を抑えてカミューは軽い自己嫌悪に陥る。真剣に悩んで色々と考えて居たはずなのに……寝てしまった。
 眉を顰めて寝台から抜け出ると窓の外を見た。太陽は既に中天に近く、城のざわめきはもう昼のそれである。
「何故誰も起こしにこない…?」
 呟いてカミューは慌てて騎士服を着込むと扉の取っ手に手をかけ、帰ってきた堅さにハタと気付いて思い出した。そう言えば今朝はあまりの落ち込みに、一人きりになりたくてつい鍵をかけてしまったのだ。道理で誰も起こしに来ないはずである。最も前日戦闘不能にまで陥った安静を言い渡されている青年を叩き起こす者も居ないのであるが。
 そんな施錠された扉の前、カミューはぼんやりと立ち尽くす。そんな時にふと思い浮かべられる男の顔がある。毎朝毎朝、早朝訓練の後に起こしに来てくれる存在。
 今日は来たのだろうか。施錠された扉に何を思ったろうか。
 しかしそこまで考えてカミューは自嘲に首を振った。
 ――― 来るわけがない。
 視線も会わせてもらえなかったのに、その後に起こしになど来てくれる筈がないではないかと、そしてカミューは扉の錠を開けた。その金属音は酷く虚しく響いたのだった。

「カミュー! おまえいったい何処に!」
 歩く度にその振動が全身に伝わって、体の内側から酷く痛むのでゆっくりと歩いていたところだった。前方から顔中に案じる表情を浮かべてフリックがやってきた。
「おはようございます」
「もう昼だっ、勝手に医務室を抜け出したそうじゃないか。探したんだぞ」
 部屋行っても応答無いしよ、とフリックは片手を腰に当てて憮然とした。
「あ、実はずっと部屋で寝ていたのですが……」
「…今まで?」
「はい」
「ずっと?」
「ええ」
 こっくりと頷くとフリックは目に見えて脱力し肩を落とした。
「だったらそう書き置きでもしておいてくれよ…」
「それは…いたりませんで。ご迷惑をおかけしました」
 苦笑を漏らしカミューは頭を下げた。そんな青年にフリックは慌てて手を振った。
「いや、大事無いんなら良いんだけどよ。ならそうだな…ホウアン先生とこにでも教えに行っとくかな」
 じゃな、とそのまま行ってしまいそうな傭兵を、だがカミューは反射的に呼び止めていた。
「あ、フリック殿」
「ん?」
「いえ、あ……マ…。あいつが、何処に居るか知りませんか」
 何故かその名を呼ぶのが躊躇われ唇が震えた。それでもフリックには誰を指しているのか伝わったようだった。
「ん? いつも通り兵士の訓練してるけど」
「そうですか」
 吐息混じりにカミューは頷いた。
「有難うございます…それでは……」
「うん、無理すんなよ?」
「はい」
 少し力無い笑みを残してカミューはフリックと別れた。目指すは兵士の訓練所である。会って今度こそきちんと詫びて怒りを解いてもらおうと思ったのだ。
「肉なんかいくらでも奢るから…」
 無意識にぽつりと呟きながらカミューは、ゆっくりと歩を進めて行く。その発言内容に大きな誤解があるのはもう致し方無い。何しろ彼は戦闘以来ずっと気を失い、そして寝ていたのだから情報不足が否めないのである。ただ本人にそのところの自覚が無いのが不幸と言えた。



 訓練所に現れたカミューに、先ず気付いたのは同じように一般兵たちに戦闘時の動きを教えていた青騎士だった。まだ若く、情熱のままに尊敬する団長に従ってロックアックスを出奔してきたその青騎士は、密かに自団長の親友であるカミューにもまた別の尊敬を抱いていた。それは尊敬と言うよりは思慕に近い感情であるが、彼はそれを尊敬と思い込んでいた。
 そんな青騎士が、不意に見た入り口に凭れ掛かるようにして佇む儚げな風情のカミューを見てつい呆然と見惚れてしまった事は、責められるべきではないだろう。何しろ着込んだ騎士服の袖からは白く眩しい包帯を覗かせ、額にも手当ての為に包帯が巻かれている。つまりは満身創痍である。痛々しい姿であるのに、何故か妙な色気があった。
 その色気の出所はひとえにマイクロトフに嫌われたかもしれないと不安に揺れる心情だろう事は言うまでもない。憂いに翳った表情にいつもの爽快な笑みはなく、しかも全身の痛みに僅かな苦痛も浮かべ力無く壁に寄りかかっているのだ。
「騎士さん?」
 傍らで教えを請うていた兵士は、突然蝋のように固まってしまった青騎士に不審を覚え、彼の視線の先を同じように倣って見つめた。
「………」
 そしてまるで伝染のように最初の青騎士と同じく次々に訓練中の兵士、騎士たちの動きが止まって行く。その反応は青騎士ほど顕著でなくとも、誰もがいつもと趣きの違う赤騎士団長の風情に困惑を覚えるものだった。
 そしてついには訓練所の一番奥で率先して訓練を指示していたマイクロトフまでも伝染していったのである。皆が皆、呆然と見ているのは訓練所の入り口。誘われるように視線を向けたその先にカミューの姿を見てマイクロトフは身体を強張らせた。
 何故ここに、と戸惑いながらもマイクロトフはこれでは訓練にならぬと近くの騎士を呼び寄せた。
「皆を訓練に集中させなければ、悪くすると事故が起こる。すまんが……怪我人には引き取って貰うよう言ってきてくれないか」
「は……私がですか?」
「ああ…俺が言っても…な……」
 歯切れの悪い団長に、騎士は怪訝な眼差しを送ってくる。それにマイクロトフは自嘲で答えた。
 マイクロトフは施錠されるほどの拒絶を示した者に、どんな言葉を伝えれば良いのかまるで見当がつかなかった。逃げているのかもしれない、だがこれ以上傷付けたくは無いのだ。
 それに、今ちらりと見たカミューは全身傷だらけだった。こんな場所に来て良い訳が無い。何故、医務室で安静にしていないのだろうか。危ないではないか?
「とにかく、頼む。早くここから去るよう言ってくれ」
「承知致しました」
 首を傾げながらもその騎士はそしてカミューの元へと近付いて行った。それを見てマイクロトフはホッと息を吐く。これで大丈夫だろうと、このまま安静にしてくれると良いのだがと。だが―――。
 伝言を受けた騎士が発したマイクロトフの言葉を、そのままに聞いたカミューがどのようにその発言の意味を受け取るかまでは、意識が及ばなかった。

 視界の端――― 密かに覗うように見ていた入り口からカミューが消えるようにして去って行った姿を、安堵の心で見送ったマイクロトフは大きな誤解を更に打ち立ててしまった事にまるで気付いていなかった。




あ〜〜焦れったい!(笑)

白状しますとこのお話を書くきっかけは
暗くないシリアスを読みたいわ、です
どこか間抜けなシリアス。シリアスになりきれないシリアス
ですから所々妙な間抜けさが垣間見えるかと……(笑)

2001/09/01


釦の掛け違え7


 城内の廊下を幽鬼のように歩く青年を、最初は皆気付かなかった。普段の華やかな動作の片鱗もない、今にも影が薄れて消えてしまいそうな希薄な存在感のためだ。だが青年がカミューであると気付いた後は、誰もがその血の気の失せた白い肌と、虚ろな眼差しに驚き足を止めた。
 いったい何があったのだろうかと、しかし青年に直接問いかけるにはあまりに触れ難い雰囲気すぎた。
 そこへゲオルグが通りかかったのはどうした定めだったのだろうか。
「おい」
 なんのてらいも無く呼びかけられた声に、カミューがふと顔を上げた。
「敵でも攻め込んできたか?」
 にやりと笑う二つ名の剣士の言葉でカミューの瞳に僅かな理性が戻る。
「あ、いえ」
「ならそんな顔で出歩くのはやめておけ。頭領が感情を制せずにどうする」
「……はい、気をつけます」
「とは言っても普段のおまえからすればそれが一般人並みか。何か泣きたい事でもあったか?」
 目の前で腕を組み覗きこんで来るゲオルグを、カミューは呆然と見返した。
「え…?」
「制し過ぎだと言っている。少しは砕けた方が楽だと俺は思うぞ」
「ゲオルグ殿?」
 瞬くと、不意に大きな掌がカミューの頭を撫でた。
「えっ?」
 いつの間にかごく自然に詰められていた距離にカミューが驚き慌てるのに、ゲオルグはまるで子供でも相手にするかのように手にしたカミューの髪を掻き混ぜた。
「いつも頑張って良い子だな」
「あ、あの…」
「ケーキでも食べにいくか?」
 ぽん、と頭をあやすように叩かれる。
「ゲオルグ殿、わたしは……っ」
 ふと息を詰めたカミューに、それまでにやりとした笑みを浮かべていたゲオルグの口元が真面目に引き結ばれる。
 ぱたり、と驚いたように見開かれていた琥珀の瞳から涙の粒が盛り上がって落ちた。
「あ……」
 頭を撫でられながら、カミューは呆然と流れ落ちる自分の涙を見る。
 そんな青年に、ゲオルグはやはり子供を相手にするように語りかけた。
「ケーキが嫌ならプリンでも良いぞ。奢ってやるから一緒にどうだ」
 何故か素直にこくりと頷きながら、カミューは慌てて涙を拭ったのだった。



 レストランで向かい合って座るゲオルグとカミューの組み合せは、結構周囲の興味を引いたらしい。そわそわと落ち着きのない囁きがあちこちで交わされている。その多少の居心地の悪さにカミューは最前涙を見せた気恥ずかしさもあって俯くと目の前のプリンにスプーンの先を当てた。
「嫌いか」
 ゲオルグの唐突の問い掛けにカミューは慌てて顔を上げた。
 ほんのふた掬いほどしか食べていないプリン。それに対してゲオルグは注文した自分のチーズケーキをさっさと食べてしまっていた。
「いえ、嫌いではありません」
「なら早く食べてくれ。目の前にあるとどうも自分が卑しく思えてならんからな」
 なるほど、噂に聞いた甘い物好きとの評判は間違いではなかったようだと、今更ながらカミューはゲオルグの見た目との差異に苦笑を浮かべた。そしてスプーンを皿に置くとそれを少し差し出す。
「食べかけですが、食べますか?」
「お、良いのか」
「はい、どうぞ」
 そしてプリンののった皿を差し出したカミューに、ゲオルグはたまらなく嬉しそうな顔をしてみせた。
「好きでなぁ」
「そのようですね」
 笑って、さっそくプリンを掬って口に運ぶ男をカミューは見詰めた。
 不思議な人だと、そんな事を思う。
 例えばビクトールなど普段から掴みどころがないと感じるが、ゲオルグのそれは更にそれを上回る。とんでもない過去を秘めているようでその一切を感じさせない飄々たる態度。誰に対しても厳しく優しく、近過ぎず遠過ぎず。ここまでに至るにいったいどんな紆余曲折があったのだろうか。
 そうして見詰めていると、にやりとした笑みにぶつかった。
「あぁ、いつも通りに戻ってるな。そんなに俺は興味深いか?」
「あ……失礼しました」
 不躾な己の視線を自覚してカミューは慌てて目を逸らす。
「いいさ。好きなだけ見てくれて構わん。それで俺の何が減るでもないしな」
 それにだ、とゲオルグは平らげたプリンのスプーンをカミューに向けた。
「何処を見ているか分からん視線よりはよっぽど居心地が良い」
 言って笑う。その朗らかな態度にカミューは首を傾げた。
「何があったかは、聞かないのですか」
「聞かんさ。俺が聞いても意味はない」
 あっさり切り返されてカミューは「あぁ」と納得した。それもそうである。
 だが不思議とこちらがゲオルグに聞いてみたい思いはあるのだ。カミューは唇を舐めるとぽつりと呟いた。
「ならば助言を下さい」
「ん?」
 見詰めると深い瞳と視線がぶつかる。表情は笑っているのに決して冷徹さを失わないゲオルグの目の奥。そこを見詰めながらカミューは言葉を選んだ。
「失えない人間を失いそうな時、自失する以外に道はありますか」
「自分を失いそうなのか。それはまた大変だな」
「だって他に何も知らない……」
 ぽつりと囁いていた。
「なんだ、思ったよりもずっと子供だなおまえさん」
 情緒面の未熟さを暗に指摘されてカミューは顎を引いた。
「……仕方がないでしょう…他を知る前に出会ってしまったんですから」
「惚気はよしてくれんか」
「………」
「ははは、すまん。はぐらかすつもりはないぞ。そうだなぁ、俺は例え死に別れても前に進むがなぁ」
 さらりと極端な例を持ち出されてカミューは絶句した。
「相手から返る想いがなければ不安か? 俺はそうではない。己が在れば想いもまた在る。届け先がないからと言って無くなるものでもあるまい。そこに在るものは在るんだ。否定しても仕方がない、認めるだけだ」
「難しい事を仰る」
「人間、そんなに弱くもないと俺は信じているが」
 そしてにやりと最後に笑って見せたゲオルグに、カミューは思わず苦く笑った。
「……有難うございました」
 これまでと礼をして立ち上がるとゲオルグは「あぁ」と片手を挙げた。
「またな」
「…次はわたしがご馳走しますよ」
 だがゲオルグは「いや」と手を振った。
「それよりも先に相手をしてやった方が良い奴がいるな」
 え、とカミューが瞬くとゲオルグはレストランの入り口に視線を向けた。
「青いのがこっちを見て顔色を変えて去って行った。俺には何も心当たりがない。おまえさんはどうだ?」
 全てを承知しているだろうにそう問いかけてくるゲオルグにカミューは目を瞠ると慌てて入り口を見た。―――誰も居ない。
「ついさっきだ。直ぐに追いかければ掴まえられるか…」
「っ…失礼します」
 踵を返して駆け出さんばかりの勢いで辞去していくカミュー。その背を見送ってゲオルグは一言「若いなぁ」と呟いた。



 その頃、マイクロトフは廊下を誰よりも早く歩きながら進んでいた。その目は何処も見ていない。ただ脳裏で繰り返される目撃した場面に頭を熱くしていた。
 食べかけのプリンをゲオルグに差し出していたカミュー。
 それを受け取るゲオルグ。
 楽しそうに笑っていた。

 何故だ。
 俺には肉をくれなかったのに。

 案外根深くマイクロトフの奥底に残っていたそれ。
 見てしまった瞬間に、それまで考えていた色々な事が見事に吹き飛んで、ただその一点だけがマイクロトフの思考を埋めてしまった。

 カミュー、そんなに俺に肉を……!
 肉だけじゃない。ゲオルグ殿にはプリンをやったのに俺には何故!

 騎士二人の間で果てしない誤解が広がる気配に、気付くものはいなかった。




プリン〜〜(笑)
いやもうどうしよう…中途半端にシリアスで中途半端にギャグか…
それよりもこれがゲオルグ初書きデスヨー
大好きな親父なのですよ
こんなゲオルグ如何ですか〜〜?

2001/09/23


釦の掛け違え8


 かつかつとブーツの靴音も高く猛然と歩く青い服の青年と、全身に響く痛みに耐えながらも小走りにそれを追う赤い服の青年。同盟軍ではあまり知らぬものはいない騎馬隊の頭領を務める元マチルダ騎士団長の二人。
 かたや思い詰めたような顔をして、かたや痛みか或いはそれ以外の想いにか顔を曇らせて廊下を進む。
「マイクロトフ!」
 常から戦場以外において声を張り上げる事など皆無のカミューが、そうして大きな声で前を行く男を呼ぶ。当然そこに居合せた者は驚いて足を止めたが、当の呼び止められた本人はそうではなかった。無視するように進む。
「…マイクロトフ!待ってくれ!」
 こうして固い床を踏みしめるだけで痛みが身の内に鋭く響く。傷はまだ癒えていないのだ。だがそこで歩みを止める気にはなれずにカミューは短い息を吸うと歩調を速めた。
「マイクロトフ!」
 荒い息に交えて届けと叫ぶと漸くマイクロトフが足を止めた。
「…カミュー?」
 振り返った顔に浮かぶ怪訝な色。だが、それはカミューにとって久方ぶりの応えだった。滲む安堵に身体が震えた。それでも足を踏み出してなんとか近寄るが、しかしマイクロトフは顔を強張らせて後退りした。
 行ってしまう、とカミューは反射的に手を伸ばしていた。
 だがそうしてカミューが伸ばした手を。
「よせっ」
 振り払った腕と振り払われた手が一瞬彫像のように固まった。
「……っ」
 カミューの顔に動揺が浮かぶ。刹那マイクロトフは踵を返しそこから走り去った。そして曲がり角を消えていく姿を信じ難い思いで見送る琥珀の瞳。

「マイクロトフ…?」

 誰にも聞こえないような小さな声は床に落ちて消えてしまった。





 駄目だ。
 ゲオルグは人間はそう弱くないと言ったが、駄目だ。
 今にも膝が挫けそうだ。
 だが一度膝をついたら二度とそこから動けない気がして、カミューはずるずると壁を伝うようにして廊下を進んだ。

――― 本気で泣きそうだ。

 目頭を押さえてカミューは深い吐息をついた。

――― もう、いい。

 倦怠と諦念が全身を覆っていく。
 カミューは老人のような足取りで自室へと戻ると静かに扉を閉めた。そして今度こそ独りきりになりたくて、誰にも何の干渉も受けないように確りと鍵を閉めた。
 そして椅子にゆっくりと腰を下ろす。
 身体の傷は疼くように痛むが、それよりも圧迫するような胸の痛みの方が酷かった。それから振り払われた手もまた痺れるように痛い。
「痛い…なぁ」
 両手で顔を覆うとカミューはそのまま彫像のようになって動けなくなった。
「痛すぎて、もう…」
 もう。

 沈黙が青年の思索を思わせる。
 そして暫くの時が過ぎたが、不意に静かな室内の中で青年の押し殺したような笑みが響いた。それは青年の普段を知る者が聞いたならば眉をひそめるような暗さを含んでいて、あまりに常のそれからかけ離れていた。
 そして突然にそんな笑い声が途絶え、続いて青年の独り言がぽつりと漏れる。

「もうやめた」

 そして顔を上げたカミューは苦笑とも困惑ともつかぬ表情を浮かべていて。広げられた掌は行き所を失い、ついには身を覆う包帯を掴んで剥ぎ取った。
 白い帯が床の上に落ちる。
 長い包帯がとぐろを巻いて床の上にそれらがわだかまる度に、カミューの中からひとつずつ痛みが剥がれ落ちていく気がしていく。そして何度も身に受けたマイクロトフからの拒絶によって受けた傷がひとつずつ覆い隠されていくような気がする。
 そしてその全てが完全に床の上に蛇の抜け殻のように横たわった時、疲れたように前髪を掻き上げたカミューの瞳から、それまであった憂いは跡形もなく消え去っていた。

 そこへ、聞き慣れた足音が近付いてきた。
 足音の主は閉めた扉の向こうで立ち止まると、おもむろに取っ手に手をかけたようだった。相変わらず無遠慮な奴だなぁと思っていると、扉は施錠に阻まれてただ不快な音をたてて軋んだだけで静まった。
「カミュー?」
 控えめな声が扉ごしに聞こえてくる。
 カミューは軽く瞬くと扉に歩みより鍵を開けた。
「やぁ、マイクロトフ。なんの用だ?」
 にっこりと笑って見せた。どこも可笑しくは無い筈だ。だが目の前の男は驚いたような顔をしている。その理由も直後の言葉で知れた。
「あ…いたのか」
「いたさ」
 すかさず答えてカミューはまた微笑みかけた。
「で、なんの用だ?」
 同じ問いを重ねるがマイクロトフはそれには答えない、その黒い瞳はカミューの背後の床に蟠る包帯を見つめる事に夢中だった。
「どうした」
 低い声が唐突に問うて来る。
「何故包帯を解いている」
 あっという間にマイクロトフの手が伸びてカミューの腕を掴んだ。そして揺すぶるようにしてくるのをカミューは黙って見下ろした。
「カミュー…っ」
「別に、邪魔だったから取っただけだよ」
 柔らかく告げるがマイクロトフは必死な顔で腕を掴む手に力を込めた。幸いにも傷の上を外れているからそう痛くも無いがカミューはそれでも僅かな痛みに顔をしかめた。
「離してくれ」
 短く言ってカミューはマイクロトフから身を引きながらその太い指を強引に剥がして払った。
「おまえがわたしの何を?」
 そして笑って尚も続けた。
「何も心配することなど無いだろう?」
「カミュー、おまえ…っ」
「触れるな」
 再び伸ばそうとしたその手を素早く払い落とされマイクロトフは呆然とする。
「なんだ? 先にわたしを拒絶したのはおまえの方だろう」
 穏やかな微笑みが困ったような色を浮かべてマイクロトフを見上げてくる。
「わたしはもう良いんだ。もう色々と思い悩むのはやめたから。だからもう蒸し返さないでくれ。放っておいてくれないか」
 頼むよ、とカミューは眉を寄せ穏やかに告げた。
「用が無いのなら出ていってくれるかな。正直言うと、おまえがわたしに何を話そうが今は興味が無い。顔もあまり見ていたくないし…」
「………」
 マイクロトフは表情を忘れたように、ただ唖然として立ち尽くしている。そんな様子の男をカミューは困ったように見て、そして開きかけだった扉の縁に手をかけた。
「マイクロトフ…おまえが後ろに下がってくれないと、扉が閉められない」
 板の床を擦るようにマイクロトフの足が動いて一歩後退した。その動きに合わせてカミューは扉を閉める。徐々に狭まる扉と壁との向こうにマイクロトフの困惑した顔が見えるのを、カミューは振り切るように俯いて視線から除外した。
「じゃあな」
 カミューの言葉を最後に扉は閉じられた。だが一瞬後、その扉が大きな音と共に激しくたわんだ。
「俺は……っ…カミュー!」
 ガタン、とまた大きな音がした。そしてそれきり音は途絶えたのだった。ただ最後に小さく「払い除けるつもりは無かったんだ」と呟きが聞こえたような気もしたが、カミューはそれを聞かなかったふりをした。


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忘れがちでしたけど赤さんは包帯姿だったのです…
そしてますます離れる青氏と赤さん
さーどうなる(笑)

2001/10/05