交差する道 2


 マチルダ騎士団の元赤騎士団長という肩書きを持っていたカミューにとって、かつての白騎士団長ゴルドーは剣と忠誠を捧げた主だった。だが叛意を持ってその麾下を去ってのち、新都市同盟軍に迎えられ、そこであらためて盟主の少年に剣を捧げ、彼のために力を振るうことを誓った。
 そう、捧げたのは剣だけだった。
 けれどもマチルダのロックアックス城攻略が決まった時に、カミューは心に決めたことがある。



 少年はティントから戻ってきて以降、倒れる事が多くなった。
 紋章師のジーンに言わせると彼の右手に宿る『輝く盾の紋章』が、少年の命を削っているからだという。本来ならば『はじまりの紋章』という真の紋章であるものが、『黒き刃の紋章』と二つに分かれたために不完全な状態の紋章なのだという。だからその力を使えば使うほどに、紋章は宿主の命を削るのだ。
 その話は同盟軍でも上層部のほんの数人にしか聞かされなかったし、少年があれから何度も倒れているというのも、やはり周囲にはひた隠しに隠されていた。しかしカミューはその話を聞いたときに流石にぞくりと背に冷たいものが伝うのを感じた。
 実際に少年が倒れた時に居合わせたことがある。
 冷たい汗にびしょ濡れになり、真っ青な顔色で彼は耐えるように息を殺しながら意識を失った。

 それは昼日中の本拠地の中で。道場に程近い場所の芝生の広がるあたりを進んでいた時だ。ふとした違和感に脚を止めたカミューは、視線の先の風景をじっと見つめた。そして気のせいかと瞳を眇めて気付いた。茂みのそばの芝が何かが這った跡の様に、茂みに向かって僅かに倒れていたのだ。
 何か小動物の痕跡ならば問題はない。けれど僅かに感じた焦燥に、カミューはそっとその茂みに近づくと慎重にその影になっている場所へと膝をつき、顔を覗かせた。そこで、身を隠すように倒れ込んだ少年を見つけたのだ。
 直ぐに、カミューは人を呼ぼうとした。だが立ち上がろうとしたその腕をぐんと引かれ、振り返れば少年が汗だくの手のひらで掴んでいたのだ。
「だいじょうぶ……だから……すぐ、楽に……なる…から」
 人は呼ばないでほしいと、今にも嘔吐しそうな息苦しげな呼吸の合間に少年が訴える。だが到底そのまま見守るわけにも行かず、カミューは茂みを掻き分けると上着を脱いでその身を包み込むようにした。
「失礼します」
 抱き上げると少年の身体は、やはりまだまだ子供と言ってもいいくらいで、ひどく軽かった。
 自分の半分ほどの年齢の少年が―――。
 命を削られるというのは、このまだ大人にもなりきっていない身体にどれほどの痛みと苦しみを与えるのだろう。想像を働かせることすら僭越に思えて、ただぐったりとした身体を医師のもとに一刻も早く連れて行くしか出来なかった。
 そして、カミューに運ばれながら、彼はうわ言のように小さな声で謝っていた。その、赤い騎士服の隙間から聞こえてきた言葉に、胸を鷲掴まれるような思いがした。
「……ごめ…ナナミ……だいじょうぶだか…ら……」
 少年は、ただひとりの姉にずっと言い訳をするかのように、同じことばかりを繰り返していた。

 大丈夫。すぐなおる。大した事じゃないから。心配しないでいい。ナナミ。ぼくはへいき―――。



 最後には意識も失って、呼吸すら弱くなってしまった少年を、すぐにホウアン医師のもとに運び込み、熱さましや他にも色々と身体の苦痛をやわらげる治療をして、ようやく穏やかな寝息をきかせるに到ってカミューはやっとほっと力を抜いた。
 ずっと緊張していたのだ。何しろ、ここまで酷いとは思っていなかったのだ。そしてただ言葉で聞いただけで、少しも理解していなかった自分を恥じた。同時に、少年がずっと姉であるナナミにあんなにも大丈夫だと繰り返していた理由もそれとなく分かってしまって、たまらなくなった。
 自分ですらこれほど動揺しているのだ。常から弟の身を案じてばかりいるあの少女が、こんな風に倒れたところを見たなら、とても冷静ではいられないだろう。

 そして翌日にはけろりとして倒れたなどと微塵も感じさせない様子で皆の前に出てきた少年に、カミューは言い知れぬ怖れを感じた。
 いつまで―――。
 少年の心と身体がいつまで、もつのか。

 だから思ったのだ。せめて。
 せめてその他の危険からは、この身を捧げてでも守ってみせようと。

 押し付けになるかもしれない、と考えて躊躇もした。既に彼は少年の身には重過ぎるほどのたくさんの命を背負いすぎている。だが騎士にとっての誓いとは、一般人の口にするものとは全く別物と言って良いほどの強制力がある。その最たる象徴がマイクロトフの宿す『騎士の紋章』だろう。
 問答無用の強制力。誓いの下でそれは何をおいても、何を犠牲にしても優先すべきもの。一瞬の迷いが生じるその時に、誓いは、反射的に決定を強いる効力を持つ。後悔はさせない。そんな余裕すら持たせない。絶対無比の力だ。
 だからカミューは少年の下を訪れ、どうか騎士としての忠誠を誓わせて欲しいと願った。そしてそれに対する少年の答えが小さな笑い声だった。

 目の前でくすくすと笑みを零す少年に、カミューはきょとんと首を捻る。一応、それこそ丁寧に礼節を持って願い出たはずで、どこにも笑いを誘う要素などなかったと思う。そんな戸惑いに気付いたのだろう。少年が慌てて手を振った。
「すみません。つい。あの、実はマイクロトフさんも同じように言ってくれて。お二人の言葉と態度が殆ど同じだったので」
「…………」
 しくじった、と思った。いやむしろ出遅れた、か。先を越されていたとは少しも気付かなかった。黙り込んだカミューに、今度は少年が首を傾げる。
「知らなかったんですか? 二日前のことでしたよ」
「……ロックアックス攻略が決定した直後、ですね?」
「ええ、はい」
 なるほど即断即決のあの男らしい。二日分悩んだだけ自分の方が優柔不断な気がして面白くない。
「あいつ、そんなことは一言も」
 いや言わないか。自分だって言うつもりはなかったのだ。他の誰も居ない時を見計らって、ただ少年と自分との間だけにその絆があれば良いと思ったのだ。仰々しくもなく、簡単に。だけれどその分、重さは計り知れないくらい重く。
「ほんとに、親友なんですね」
 ぽつりと呟かれた声にはっと顔を上げると少年が苦笑を浮かべていた。
「見た目も、性格も、思想も、きっと好みのものも違うんだろうけど。大切なところが多分同じなのかな……」
 と、少年の目がどこか遠くを見つめるように揺れる。何を、誰を思い出しているのか敢えてそれを推し量る事はしない。ただ黙って少年を見つめた。
「え、と」
「はい」
 僅かの沈黙のあとにコホンと仕切りなおすように咳払いをして、少年が居住まいを正した。それを待ってカミューも軽く笑みを浮かべる。
「それで、そのカミューさんの言ってくれた事ですけど」
「……はい」
 断られてしまえばそれ以上の無理強いは出来ない。騎士の誓いは一方的では成立しないものだ。腹の底に知らず力を込めてカミューは表情を改めると少年をじっと見下ろした。
「お気持ちは、とてもありがたいと思うんです。僕みたいなのに、カミューさんやマイクロトフさんのように立派な人が」
「そんな! ご自分の事をそんなふうに仰ってはいけない。あなたは」
「うん。分かってる。僕は、ゲンカクじいちゃんに育てられて武術を習っていて。知らなかったけどゲンカクじいちゃんはひとかどの武人で、たくさんの人に尊敬されてた。そんな人に育てられて皆に期待を寄せられて、それを受けて立ったからには、僕には責任がある。それは、分かってる」
 違う、そうじゃない、と言いかけたカミューだったが、それに、と少年が右手をそっと左手で覆った。そこに宿っているのは『輝く盾の紋章』だ。
「これにも選ばれて、しまったし。力が欲しいと思った時に、僕には全てを守る義務が生まれて、それで、カミューさん」
「はい」
「僕が……。カミューさんのことも、僕は守りたいと思っている、なんて言ったらおかしいかな」
「え……」
 思わず言葉をなくしたカミューを見て、少年が苦笑する。
「ほんとに、ここに集った人たちはすごく強い人ばかりで、僕なんかよりずっと頭も良いし、色んなことを知ってるし、とても敵わないけど。でも僕は……もう誰も、失いたくないし、守れるものなら守りたいと思っているんだ。これはそのために得た力だから、だから僕は守られるのではなくて、守りたいんです」
 分かってくれますか、と。少年がその大きな瞳でひたとカミューを見上げる。その真っ直ぐで嘘のない眼差しに、胸を深く衝かれる思いがした。そして気付くと少年の前に跪いていた。

「だからこそ、わたしは己の忠誠をあなたに捧げたいと思います」

 そのひたむきで純粋な想いに応えるために。

「あなたが真の紋章の主だからではなく、ましてやゲンカク老師の養い子だからでもありません。同盟軍の盟主として立ち続けておられる今のあなたにこそ、わたしは忠誠を誓いたい。皆を守りたいと仰るあなたのその言葉を、真実のものとする一助になれば、いや、ならせて欲しいと願います。ですからどうか―――」

 我が忠誠を。

 そして深く頭を垂れたカミューに、暫くの沈黙の後で少年は「ありがとう」と小さく呟いた。はっと顔を上げると酷く真面目な顔をして少年が頷く。
「しきたりとか、良く分からないんですけど。僕が頷けば、それで良いんですよね?」
「……それでは」
「うん、ありがとう。カミューさんのお気持ちが嬉しいです。だから受け入れます」
 瞬間的にカミューは再び頭を下げると、腰から剣を抜き放ち地面に突き立てた。
「これより私カミューは、我が主と我が剣のある限り、その御身と誇りに忠誠を誓います」
「うん……よろしくお願いします」
「はい」
 そして促され立ち上がると少年が再びくすくすと笑った。
「やっぱり同じですね」
 言われて思い至るのはひとつだけだ。
「……マイクロトフ、とですか」
「そう。同盟軍じゃなくて、僕にって言うのも同じ。僕にだけ誓ってくれました。なんだか僕は、お二人にこんなことまでしてもらって、自分がとても褒められた気分がする」
 そして目の前で微笑む少年に、カミューは、たった今忠誠を誓ったばかりの唯一絶対の主に対して、非礼かもしれない事をした。
「………そうですよ?」
 その白手袋に包まれた左手を伸ばし、少年の黒髪にぽんと置くとさわさわと撫でた。
「あなたはもっと、我々に甘えて下さって構いません」
「カミューさん……」
 ぽかんと頭を撫でられるまま自分を見上げる少年に、カミューはにこりと笑みを返す。
「とても良い子です。我々の自慢の主ですよ、あなたは」
 と、ぼんと顔を赤くして少年がぷるぷると首を振ってカミューの手を振り払ってしまった。流石に『良い子』は子ども扱いが過ぎたらしい。笑うとますます怒らせてしまい、慌てて謝る。そして、二人はそのまま互いの場所へと戻ったのだ。

 それからグリンヒル市解放があり、ロックアックス城攻略があった。少女の……ナナミの死は少年を打ちのめしたし、カミューもまた堪え切れない思いに己の無力を痛感した。けれどそれも軍師の、いや少女の弟を思うが故の偽りだと知った後はただもう嬉しかった想いしかなかった。
 その後は、少年たちがただ健やかに安らかに過ごしていることを願っていた。
 道はそこで別たれたとしても、誓った忠誠は変わらないし、残る生涯ただひとりの主だとずっと思っていた。
 そして。

 思いがけない出会いは唐突だったのだ。





 あの時よりも随分と大人の顔になった。
 小柄だった身体は縦に伸びて、まだ成長途中にあるらしい若者特有のひょろりと細い体つきになっている。顔立ちも丸みが取れて、少年と言うよりはもう青年と呼んだ方がしっくりくるかもしれない。
 そして変わっていないのはその静謐とした瞳だ。寡黙な分、瞳が語るかと思えばそうではなく、むしろ何も読ませない瞳はあの頃から同じだ。
「頭を上げてください、カミューさん。僕はもう」
 ああ、声がとても落ち着いた男の声に変わっている。
「いいえ。あなたが今どのような立場であろうと、あなたはずっとわたしの主です。……が、困らせたくはありませんので」
 ひょいと頭を上げると、やはり彼は困った顔をしていた。
「騎士の誓いは一生ものですよ? 離れていても、変わりません」
「そうなんですか」
「はい」
「それって、何処までもついてくる、しつっこいふさふさみたいだな」
 棘のある声はジョウイのものだ。ちらり、と視線を向ければ腕組みをして不機嫌そうな顔がある。彼もまたあの頃よりも背が伸びて顔立ちもただ小奇麗だった少年のそれから、やはり青年のそれへと成長が見える。だが。
 ―――こちらの言動はあまり変わり映えしないらしい。むしろ退行しているようだ。流石に皇王まで上り詰めた後に流浪の身へと転じると少々捻くれて性格が幼稚になっても仕方がないかもしれない。
 と、思っていたらどうやら口に出していたらしい。
「き……貴様!」
 ジョウイが絶句して、ナナミがその向こうでぽっかりと口をあけて吃驚している。カミューは殊更に笑みを深めると、腰に手を当て生意気な顔を見下ろした。
「宿の従業員程度に居丈高に出て、ろくに事態の収拾もできないようではね。いや本当に、我が主がこれまでご無事に、お元気でいられたことに心から安心した」
 たかが元亡国の最後の皇王。されど主の幼馴染で旅路の同行者。主とその姉君とは違って敬意を払う理由も義務もない。そして立場も弁えない生意気な子供にはそれ相応の態度というものがある。
「自分で自分を頭が良いなどと勘違いしている子供がたまにいるが、そういう子供ほどいざとなると大人を怒らせて事態を悪くする。子供なら子供らしく、泣いてごめんなさいと謝れば許してもらえるが、……もう子供でもない良い年をした者がそれをやってもみっともないだけだな」
「だ、誰がそんな真似をするものか!」
「おや? 誰も君の事だとは言っていないが」
「な!」
「まぁ、冗談はこのくらいにして。で、皆さんどうしてこのカレリアにおいでになったんですか?」
「……!」
 カミューの人を食った態度にジョウイが真っ赤な顔をもっと赤くして口をパクパクとさせる。が、そこに明朗すぎる笑い声が響いてそんな彼らのやりとりを止めた。寝台に腰掛けたままのナナミだ。彼女はそれはもう可笑しそうにお腹を抱えて笑っている。
「ジョウイったら」
 そしてようやく笑いをおさめると涙の滲んだ目尻を拭う。
「カミューさんは、あのシュウさんと口喧嘩の出来る珍しい人なんだから、真面目なジョウイが口で敵うわけないよ。ね!」
「ナナミ殿。せめて口論とか舌鋒を交わせる、とか……」
「え?」
 いえなんでもありません、とカミューが黙り込む。彼女にかかっては大抵のものは形無しである。
「それにしてもやっぱりカミューさんは変わってないね! あ! カミューさんこそどうしてここに居るの? マチルダはどうしたの?」
「ナナミ、それは」
 と主が言葉を挟む。それだけでカミューは理解する。
「あなたは、知っておいででしたか」
 問い掛けると彼は「はい」と頷いた。どうやら、ただ放浪の旅をしていたわけではないらしい。そのあたりのことはおそらくは今はトランに住まう元軍師の、先ほど名前の出たシュウが良く知っているのだろうが、そういえば彼とも随分会っていない。
「カミューさんは、マチルダ騎士をやめたんだよナナミ」
「ええ! うそっ!」
「ほんとうだよ。それで今はグラスランドに居るって、僕は聞いてたけど……?」
「その通りです。いつもはグラスランドをうろうろとしております。今回は人と会う約束をしてこちらに参りました」
「そうなんですか。僕たちも実は人と会うためにここに来たんです」
 ほう、とカミューが頷く。が、その傍ら、寝台から飛び上がったナナミがバタバタと駆け寄ってくる。
「なんでっ? なんでカミューさん! マチルダにずっと居ると思ってたのに! マイクロトフさんは?」
 すごい勢いで詰め寄られ、思わず仰け反る。だが、その言葉にふと視線が遠くなるのは―――。

 マイクロトフ。

「彼とは、もう……二年ほど会っていません」

 思い出すのは、もう二年前の顔だけだ。



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名前だけ、出てきましたマイクロトフ。
ちゃんと青赤ですよ、これ。青赤ですってば。

2011/03/24