本の匂い
同盟軍本拠地には、その古城には不似合いなほどに立派で大きな図書館がある。
それは日当たりのいい南側に建てられていて、城の古色蒼然とした風合いとは裏腹に、真新しい建物の匂いに包まれていた。
その図書館の責任者は、グリンヒルのニューリーフ学院の元受付嬢エミリアである。理知的な風貌に見合った才女で、全ての蔵書の管理をほぼ一人で任されていた。ところがその図書館司書の彼女が、何故だか憂い顔で同盟軍盟主の少年のもとへと訪れていた。
「警備、ですか?」
少年がきょとんと首を傾げるのに、エミリアは静かに頷いた。
「ええ。ここ最近本がたくさん増えてきたので、図書館の部屋を増設して頂いたでしょう? 未整理の本や特別な本をそれぞれ個別の資料室に保管しているのだけれど、人気がないのを良いことに紛れ込む人が多いの」
同盟軍には今、雑多な人々が加速度的に集まってきている。いずれもハイランド軍から追われて逃げてきた難民たちだ。住みなれた土地を追われ、吹き溜まりに集まるようにこの湖畔の本拠地に来るのだ。
今、本拠地を囲む城壁の外には難民たちの張った天幕がまるで小さな町のように広がり連なっている。流石に古城を取り囲む城壁の中には無差別に人は入ってこれない。暗殺者がいつ同盟軍の主要な人物の命を狙って潜り込むかしれないので、同盟軍関係者とその家族や、荷を隅々まで調べられた商人などに限られる。
だが中には門番を上手く交わして入り込んだ難民が、本拠地の施設に忍び込むのだ。確かに風雨を凌ぐのがやっとの難民窟よりも、きちんと建てられた古城やその施設内のほうが過ごし良いのは確かだ。中には兵士に成りすまして兵舎にこっそり住み着く者さえいる。悪質なのはそうして兵士の振りをして食事と寝床を確保しつつも、訓練になると雲隠れしていざという出陣の際には遁走してしまうという輩だ。
こうした増える一方の難民と本拠地に潜り込んで私利だけを満たそうとする連中の措置が、目下のところ軍師シュウの悩みのひとつでもあった。
「特に酷いのは、保管してある本を燃やして暖を取るような人もいるのよ。貴重な本もあるから施錠はするんだけれど、それも直ぐ壊されてしまうし」
いたちごっこなのだとエミリアは頬を押さえて溜息を零した。
食うや食わずの難民たちにしてみれば、書物数冊よりも一夜の安らぎであり凍えぬための暖であろう。しかし同盟軍も多くはない軍資金の中から難民のために救済費も捻出している。毎日朝夕に炊き出しを行い、怪我人や病人もほぼ無償でホウアンに診るように取り計らってもいる。
それでも難民たちは絶えず同盟軍に保護を訴えてくるのだ。
「本は交易用のものもあるし、資料なんかの書類は厳重に保管しろと正軍師さんから命じられているし。これ以上荒されると困ってしまうんです」
エミリアの訴えに少年は「う〜ん」と首を傾げた。
「警備を増やすだけで良いんですか?」
「ええ。それも図書館を閉館している夜だけでいいの。要は夜中に潜り込まないように出来ればいいんですから」
そう言ったエミリアに、少年は「わかりました」と頷いた。
かくして、図書館には夜間だけ警備の兵が置かれる事になった。おかげで無断侵入者は一時消えたかに見えた。しかし、真の解決には至っていなかったのである。
マイクロトフはその日、昼過ぎからずっとカミューの姿を探していた。
用件は他愛のないものだった。次の休暇に使おうと思っている剣の手入れ道具を貸してもらおうと思っていたのだ。予定している休暇まで間があるので、急ぎはしないのだがこういうものは思い立った時に済ませられる準備は済ませておいた方が良いものである。
ところが赤騎士団の執務室に顔を出せば、居ない。何処へ行ったのかと聞けば赤騎士たちは苦笑交じりに首を振った。
「あいつはまたサボっているのか」
じっとりと半眼になったマイクロトフに、しかし赤騎士たちは「カミュー様もここ最近はお疲れのご様子だったので」とちょっとした息抜きを黙認していると言った。
確かに朝食時は顔を合わせるものの、この数日は部屋への戻りが遅いようだった。マイクロトフはそう言えばずっと手も触れていないと、はたと思い出して軽く狼狽する。思い出せばカミューの肌の質感が掌に蘇って、急に喉が渇くようだった。
「恐れながらもしカミュー団長をお見かけになりましたら、そろそろ戻って書類の決裁をとお伝え願えますか」
「……分かった」
内心の小さな動揺を押し殺しながら、マイクロトフは赤騎士たちに背を向けた。
とは言ってもカミューがこの広い本拠地居城の何処にいるのか、少しも見当がつかない。マイクロトフは頭上を仰ぐとくるりと首を回して、とりあえず「こちらだろうか」となんとなく気になった方向へと足を向けた。
数分後。マイクロトフは何故か図書館の前に立っていた。
そして気の赴くままに図書館の扉を押し開けて、中に足を踏み入れた途端に、朝にカミューを起こしに行った際に、枕元に置いてあった本の表紙が、二、三日で変わっている事を思い出した。
「あらマイクロトフさん」
入ってすぐ、エミリアがマイクロトフに気付いてにっこりと笑顔を向けた。
「本をお探しですか?」
「いや。本ではなく人を」
「もしかしてカミューさんかしら」
くすりと笑みを零して言い当てるエミリアを、マイクロトフは目を丸くして見た。
「だってカミューさんはお昼過ぎにいらっしゃってから、ずっと中に居る筈ですもの」
だから探しに来られたのかなと思いました、とエミリアは言う。
「ずっとここに?」
「ええ。最近よく来て下さいますわ」
「なるほど。では、少し中を探しても構わないだろうか」
「もちろんですわ。ついでに何かご所望の本を見つけられたら私に仰って下さいね。私はずっとここにおりますから」
「ありがとうございます。それでは」
程なく、マイクロトフは埃の匂いの強い個室の奥でカミューを見つけた。
野生の勘と言っても遜色のない鼻の効き方である。
所狭しと並べられた書架には恐らくは同盟軍の備蓄や交易歴、その煩雑な事務に使われた書類資料が詰め込まれているのだろう。古びた本も多く納められているが、どれも薄っすらと埃をかぶっている。
小さな明かり取り用の小窓からは外の光が辛うじて差し込んでいるが、日光や湿気を嫌うだろう書籍書類のために室内は空気が停滞していて薄暗い。しかもそろそろ日暮れも近いので室内はますます暗かった。
その小窓の手前。少しだけ窪んだ壁際で彼はぐっすりと眠り込んでいた。
さらさらとした質感の髪が、身体の下に敷いた上着の赤色に流れている。そして前髪に隠れた伏せたまぶたの縁の睫毛が、薄暗い部屋の中でかすかに光っているような気がした。髪色と同じ淡い金茶色のそれは、白く滑らかな彼の頬に光りながらささやかな影を落としている。
マイクロトフは思わずその頬に指先を伸ばしていた。
「……ん、?」
吐息のようなかすかな呻き声が彼の唇から零れる。
そして睫毛が小さく震えたかと思うと、その下から飴色の瞳がおぼろげな眼差しを向けてきた。同時にマイクロトフは屈み込むと、スッと指先を薄っすらと開いた彼の唇に当てた。
「カミュー、俺だ」
「マイクロトフ?」
ぱしぱしと眠たげに瞬きを繰り返しながら、小さな声でカミューがマイクロトフの名を呼んだ。それに答えるようにもう片方の手を頬へと添える。
「ここが、最近のおまえの、隠れ場所か」
含み笑う自分の声を自覚しながら、マイクロトフは頬に添えた手の親指でやんわりとカミューの顎を押さえ、唇を寄せた。
「ふ……」
ぴちゃり、と濡れた音がして唇が離れた。
「マイクロトフ…?」
まだ覚醒しきっていない様子で、不思議そうにマイクロトフを見上げている。それだけ疲労が蓄積しているのだろうかと思うと俄かに心配の気持ちが頭をもたげてきた。
「起こしてすまん。そろそろ戻って欲しいと、おまえの部下から言付かってきた」
そして今度は寝起きで涙の滲んだ目の端に口付けを落として、身を起こすように促した。
「埃だらけだぞ」
「ああ。でもここ、静かで居心地が良いんだよ……」
漸く少しだけ目が覚めてきたのか、マイクロトフに倣って立ち上がったカミューは、己の服の埃を払う男に、小さな声でそんなことを言った。そして軽くため息を零す。
「だけど、おまえに見つかってしまったのなら、ここももう来ない方が良いな」
「何故だ」
「つい先日から夜間は完全に閉鎖されるようになったろう。図書館」
「ああ」
「理由は知っているかい?」
マイクロトフは勿論だと頷いた。それにカミューも「うん」と頷く。
「昼間はこうして開放されているけれどね。エミリア殿に断っているわけではなかったから」
「……だから今後は控えると?」
「そう。仮にも騎馬隊頭領が、こっそり忍び込むような真似はしないほうが良いだろう?」
「確かにその通りだな」
マイクロトフが頷くとカミューはくすくすと笑った。
「それにしても、どうやってこの場所が分かったんだい」
絶好の隠れ場所だったのにとカミューが笑う。もっともエミリアには出入りしている姿を見られているわけだし、本気で隠れているつもりはなかったのだろう。
カミューはそして居住まいを正すと目元にかかっていた前髪をさらりと掻き揚げた。
「さ、戻ろうか」
小窓から見える外の風景はいつの間にかもう暗い。図書館の閉館も近いだろう。ところがマイクロトフが無言で頷いた時、いくつもの棚の向こうにある入口の扉が、唐突に開かれた。
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続きます、ごめんなさい!
てかエロを書こうと思ったのにどうしてこんなに長々と?(笑)
2008/01/01