凍 る 熱


 煌々と燭台の炎が照らす寝台の上、青年はもうこれ以上は無理だとでも言うように何度も激しく首を振った。執拗に責め続けられるそこはもう痺れたような感覚しかなく、足は時折痙攣して震えている。
「あぁ…やぁ……」
 口の端からは飲み下し切れずに溢れた唾液が、ぬるく軌跡を描いて喉元まで伝う。そのだらしの無い様も今は限りなく淫靡に見せて、相対するものの情欲を否応無く煽るものだった。そして敷布を握り締めて居たかと思われた指先が、震えながらそれを解いて空へと伸ばされる。普通なら、誰もがその手を取らずにはいられないだろう。
 だが現在青年を快楽に苦しめている男の瞳、暗く冷酷で、もがくように目前へと差し出される手も握り返す事は愚か、逆に邪魔だとでもいうようにその手首を取って敷布へと押し付ける。
「あっ、あっ……マイクロトフ…ぅ……」
 青年の眦から涙がとめどなく零れ流れる。薄らと羞恥に染まった目元や濡れた瞳は、そんな目の前の男を求めて、愛してやまないと訴えている。その目を、男の広い掌が塞いだ。
「ん…ど……して…っ」
 遮られた視界に途端に不安を訴える。
「カミュー…」
 初めて、男が低い声で呼んだ。そして、繋がったままの腰を緩く突き上げた。
「―――苦しいだろう?」
「んん…っ」
 掌をじわじわと濡らす涙。
「もう、やめたいか?」
「……ぃ、や……―――も、っと…」
 赤い舌が覗き、掠れた声が切なく望みを告げる。淫らな懇願だ。
 マイクロトフはそんなカミューを嘲笑するように見下ろすと、その目を覆う掌を白い首筋に添わせた。
「おまえの欲は限度が無いな、全く。いっそ…殺してやろうか?」
「ぅ……ん…」
 頚に絡ませた指に力を込める。だが、カミューはそれに抵抗らしい抵抗をしない。それどころか薄らと笑みさえ浮かべた。
「…に、なら……」
 マイクロトフになら。
「カミュー……」
 眉を顰めてマイクロトフはカミューの頚から手を離した。
 そしてその細腰を両手で掴むと唐突に荒々しく責め立てた。
「あっ、あっ、アアア―――!!」
 許容量を超えた快楽に無我に至り、カミューはただ意味を成さない嬌声をあげる。そして訪れる失墜の時、高みへと一気に押し上げられたかと思えば急速に堕ちていく意識の中、ふとその視界が真っ赤に染まった。
「……ぇ…?」
 目の縁にねっとりとした温かみが落ちた、そんな感覚。
 意識が失せるその間際、カミューは血の匂いを嗅いだ気がした―――。










 カミューにとって孤独はつらい。寂しさが少しずつ胸の中を削って行くような気がして、徐々に胸に見えない虚が広がって行くような心境になる。

 昔は、そんな胸の虚は自分にとって当たり前の事で、それが塞がることなど考えもせず、気付きもしなかった。だが―――マイクロトフが現われて、己でさえ知らなかった胸の虚を、ゆっくりとその情で埋めていって、温もりで包み込んで、守ってくれて。
 そんな全てを理解した時、涙が出て。
 信じられなくて。
 嬉しくて。
 幸せで。

 だがあの日の頃から。
 マイクロトフがカミューにそれまでの情を向けなくなってから、また再び胸に虚が空き始めた。
 そこを吹きすさぶ冷風に、身も心も冷えて行くような心地だった。
 だから温もりを求めずにはおられない。
 ほんの僅かでも救われる。
 かりそめでも、満たされる。





 マイクロトフ。
 求めて、手を伸ばして―――それでも振り払われる。
「邪魔だ」
「マイクロトフ」
 切なく名を呼べば、男は振り返ってカミューを睨みつけた。
「おまえの相手をしている時間など、俺にはない!」
「少しで、良いから…」
「出ていくんだ」
「いや…だ……」
 俯き、それでも頑なに首を振ってカミューは自ら襟元をくつろげた。
「脱ぐ…よ? なんでも、する……―――だから…っ」
「言ったはずだ。俺にはそんな時間は無いと」
 苛立ったようなマイクロトフの声に、びくりと身を竦ませながらもカミューは服の合わせを開き下衣を緩めていく。
「カミュー!」
「どんな事でもきくから…っ……わたしに、触れ…―――」
 そうしてカミューの上着が肩から滑り落ちたその時、乾いた音が響いた。
 マイクロトフに頬を叩かれたのだと気付いたのは、衝撃に床へと膝を付いた時だった。
「…出ていけ」
 低い恫喝する声がぞわりとカミューの肌を粟立たせる。それでもカミューはマイクロトフを見詰め上げた。
「うん…殴っても構わないんだ……傷付けても、良い…から……抱いて欲しいんだ」
 そしてカミューは微笑んだ。
「不様だろ……? 分かっている。それでも、おまえ無しじゃ生きていけない―――ずっと触れられずにいたら、気が…狂う」
 その微笑みが、震えた。
「おまえがわたしを嫌いになっても……わたしはもう、駄目なんだ―――ごめん、迷惑でも……どうにもならないくらい……」
 震えた声が落ちると同時に、その瞳から透明な涙が滑り落ちた。

「―――…マイクロトフ…愛している……」

 ひっそりと静寂に響いた言葉。
 マイクロトフは無言でそんなカミューを見下ろしてた。だが。



 不意に伸びた武骨な指先が、慰撫するかのような動きでカミューの少し赤くなった頬を掠めた。
 だがそんな感触に驚くより前に、顎を持ち上げられて深く唇を合わせられていた。
「ぅん…っ」
 口内を荒く浸蝕して来る舌の動きに、熱くうねるような情動がカミューの身体を犯していく。
 飲み下せない唾液すら掬うようなマイクロトフの舌の刺激は、それだけでカミューの欲を煽る。ひく、とそんなカミューの膝が震えた。
「ん、はッ……んん…」
 呼吸を求めて喘ぐが、逃がさぬとばかりに顎を捉えられていてどうにもならない。そのうちに目尻から涙が滲み、視界が歪む。そして霞み始めた思考もあとはただ快感だけを追う。
 ぞろりと上顎を舌先で嬲られ、きつく舌を絡めるように吸われる。唇を噛まれ、そして内側を舐められたところでカミューは限界を訴えた。
「あ…ぅ……―――」
 くちづけだけでいかされて、そしてぐったりと脱力する。その身体がふわりと抱き上げられた。
「マイ…クロトフ……? ―――つっ」
 前触れもなくどさりと寝台へと放り出された。
 だが、マイクロトフはそんな衝撃で顔を顰めるカミューに冷たく背を向ける。
「おまえが出ていかないのなら、俺が出ていく」
「や、待っ……」
 だが扉を開けて出ていこうとするマイクロトフを追おうにも、余韻に震える膝が言う事を聞かない。それにこんな情欲に濡れた姿では外には出られない。
 バタン、と乱暴な音で扉が閉り、それにまたカミューがビクっと身を竦ませる。そして不意に感じた肌寒さに己の身体を抱き締めた。
 扉の向こう、遠ざかっていく男の足音が聞こえなくなるまで、カミューは寝台の上で俯きながらそんな身体を震わせたのだった。










 翌日の事だった。
 マイクロトフが、突然ミューズとの国境へ出向いたと聞いてカミューはうろたえた。
「そんな事は、聞いていないが…」
「はい、突然の事で」
 報告する青騎士も困惑したような表情である。
「全く、相変わらず無鉄砲な男だな」
「それではカミュー様も何もご存知ではないのですね?」
「あぁ……知らないよ」
 胸に冷やりとしたものを感じながらカミューは答えた。青騎士は「そうですか」と答えながらも小さく笑う。
「まぁ、マイクロトフ様のこれはいつもの事ですから、直ぐに戻っておいででしょうが」
 マイクロトフの無茶な行動には対応し慣れている青騎士団である。
「そうだな」
 カミューも笑って頷いた。
「あいつが不在の間、また副長殿が大変だろうなぁ。お見舞い申し上げると伝えておいてくれるかい?」
「承知致しました。それではこれで」
 そうして辞去していく青騎士の背を見送りながら、カミューはその秀麗な面差しに憂いを浮かべた。
 ミューズにでも行ったのだろうか。だが何をしに?
 一団の団長たるものが無責任な行動を―――そう考えるよりも先に、マイクロトフが不在という事実に途端に心が冷えて行く。
「…マイクロトフ……」
 ぽつりと呟いてカミューは遠くミューズの方角に顔を向けた。

 ―――いつ、戻るのだろう。





 ところが、マイクロトフはそれから三日経っても、一週間を経ても戻らなかった。
 青騎士団は動揺を隠せずにいたが、出ていく際にマイクロトフが通常通りに過ごせと副長に言い置いていったらしく、さほど混乱するでなく日々の執務をこなしていた。
 それでも団長がこれほどその座を空けているのは異常である。
「マイクロトフはまだ帰ってこないのか」
 焦燥を抑え切れずカミューが声を荒げると、青騎士団の副長は言葉もなく俯いた。
 呼び戻せないのかと問うても、連絡がつかないと言う。
 何処に居るのだと聞けば、探していると。
 どんな理由で出かけたのかとさぐれば、何も答えない。
 カミューは信じられない思いでそんな青騎士たちから目を離した。

 そして、カミューの焦燥がよからぬ想像を駆り立て始めようとしていた頃―――マイクロトフがロックアックスから姿を消してから十日も経とうかという、その朝だった。





 報せが、届いた。





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2004/01/01