凍 る 熱


 報せは、ミューズのホウアン医師からだった。

 目の前に立つ青騎士団の副長を、執務机越しに見上げながらカミューは眉を顰めた。副長の目は赤く充血し潤んでいる。その顔は怒ったような形相だった。
「お聞き下さいカミュー様」
 その声も怒ったような声音だった。
 だがカミューも感情の窺えないような、ひどく冷たい声で応えていた。
「信じないと言っただろう」
「カミュー様!」
「信じないっ!!」
 ドンッ、とカミューの拳が机を殴る。
 勢い立ち上がったカミューは荒く息をつき副長を睨みつけた。
「誰が……信じるものか……っ」
「事実です。マイクロトフ様は―――」
「うるさい!!」
 叫んだカミューの耳に、再びその報せが齎される。

 ―――マイクロトフ様はお亡くなりになりました。

「やめろ」

 ―――ご病気で。

「いやだ」

 ―――最後は静かに息をお引取りになったようです。

「うそだ」

 虚ろな眼差しでカミューは潰えるような声をもらす。
「信じない―――そんな馬鹿なはなし―――」
 だが副長は無情にも首を振る。
「ご遺体はもう直ぐこちらへ、このロックアックス城へと着きます。マイクロトフ様はこのマチルダにとって偉大なる英雄であられましたから、国葬を……カミュー様にはその際、我がマチルダの代表として立って頂きとうございます」
 まだ一部の者しか知らないが、明日にでも公表されるこの事実に、英雄を悼んでデュナン新国からはおろか遠くトランからも使者が来るに違いないだろうから。
 副長は震える声音ながらもそんな事務ごとをすらすらと述べていく。
「マイクロトフ様亡き今、このマチルダにとっての支配者はカミュー様ただお一人です。どうか、その責任をご自覚下さい。そして―――お認め下さい」
 厳しい副長の言葉に、カミューの瞳から感情がすうっと消えた。
「カミュー様…?」
 ふわ、とカミューの手が上がってそれ以上を制す動きを見せた。そしてただ一言。
「許さない」
 ひらりとその掌が翻る。
「マイクロトフは、生きている」
「カミュー様?」
 副長の顔色がそれまでと変わる。よもやカミューの気が触れたのかと、狂気を目の当たりにした常人の瞳で上官を見ている。
 だがそれに答えたのは静かなほどに冷え切った琥珀だった。
「あいつの死を知る者はまだ、少ない。そうだろう……今言ったな、あいつは、偉大な英雄だ。再興したばかりのマチルダの民に不安は与えたくない」
「し、しかしそれでは」
「マイクロトフは団長職を辞退する。もうこの国ですべき事は何も無い。だから―――わたしと二人で、グラスランドへ発つ」
 副長の顎ががくがくと震えた。しかし。

「この国の歴史に、あいつの死は刻まない」

 カミューの静かな声に、震えが力みのそれへと変わる。
「…はい」
 押し殺したような声で御意を示し、それきり何も言わずに深々と頭を下げて副長が出ていく。
 取り残されてカミューは、己の発した言葉の意味を改めて思い直しながら―――自らの頸にそっと触れた。

「…マイクロトフ?」

 おまえは。



 その先に何を言おうとしたのか自分でも分からず、カミューは途方に暮れた。

 ただ、その問いに返る言葉はもう無いのだと、漸く漠然と理解しただけだった。










 それから一晩を経てマイクロトフがロックアックスに戻ってきた。

 ひっそりと、出て行った時と同じく誰の注目を浴びるでもなく、沈黙のままに城内へと運び込まれて、地下の冷えた氷室へと置かれた。
 白い顔。
 眠るような顔に苦しみの翳りは無い。静かに、との言葉は真実だったようだ。
 カミューはその黒髪に触れて変わらない指先の感触に目を伏せた。
 涙は出ない。
 しかし瞼が熱い。

「おかえり、マイクロトフ」

「これからは、ずっと一緒だ」

「隠し事も、もうしない」

「実はね、わたしはグラスランドに帰るつもりだったんだ。おまえを置いて、ひとりで」

「おまえが心変わりをする前から、考えていた。だから心が二つに裂かれるような気分だったよ」

「罰かな、と、思った。おまえがわたしに冷たくなったのは、そんな自分への因果かと」



 指導者は二人も要らないから。
 誰よりも信頼する愛すべき人に、後を託そうと考えて。
 せめて別れの朝まで笑って共に居たかった。
 彼の変心は、だから。
 そんな、身勝手への罰か。
 だが。



「違ったんだな。おまえも、隠し事を―――」



 どこで、擦れ違ったのだろう。
 だが最後まで、互いを想っていたのが真実だったらしい。



「今なら、分かるよマイクロトフ」

「……おまえはずっとわたしに、優しかったんだな」



 まだ鮮明に蘇る、この頸を締めたマイクロトフの指の感触。
 耳に深く忍び寄った甘い囁き。



「おまえになら、良いと―――言ったのに」

「何をされても良かったよ」



 失望も嫌悪も沸かなかった。
 どんな仕打ちをされようと、決して。
 もしかしたら変わらない心を感じ取っていたのかもしれない。



「でも、こんな風に何も言わずに去ってしまうのは……」



 流石に。
 だがそれこそ自分がしようと思っていた仕打ちで。



「わたしが悪かったよ」

「だから、マイクロトフ」

「もう二度と、偽らないし、離れないから」



「一緒に、行こう?」



 応えは沈黙。
 だが、カミューにはその時、聞こえた気がした。



 ふわりと微笑む。
 変わらない笑顔で、一人―――誰よりも愛しい相手に向ける慕わしい眼差しで。



 ああ、行こう。





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2004/01/01