ほんとうの話
マリーの宿屋は大きく幾つもの部屋が用意されており、彼らが話を持ちかけるまでもなく気前の良い女主人は水臭いといって知り合い価格で案内をしてくれた。
そして通された二人部屋でマイクロトフは萎れて寝台に腰かけた。その傍らカミューは部屋に備え付けてある茶器のセットを持ち出して甲斐甲斐しく茶を淹れていた。
「やれやれ、やっと人心地ついたね」
セイカ辺りの釜で焼かれたと思しき美しい藍色の茶器が澄んだ音を立てる。それを静かに卓へ置いてカミューは茶の香りに目を細めた。
「トランの茶は良いね」
薄い琥珀色の茶は鼻の奥を擽る微香を立ち上らせている。
「ほら、マイクロトフ。温まるよ」
そっと差し出された茶器を受け取りマイクロトフは一口啜る。すると途端にホッとした安堵が胸へと落ちた。どうやら口の中がカラカラに渇いていたらしい、随分と緊張していたようだ。
「美味しいか?」
こっくりと頷いてまた一口含む。マイクロトフは熱い茶がするすると喉を滑り落ちて体の内側から緊張を解してくれるのを目を閉じて感じた。するとカミューの吐息が聞こえた。
「やっと、落ち着いたかな」
「カミュー…?」
「ずっと気を張っていたろう。まぁ無理もないが」
視線を向けるとカミューは苦笑を浮かべて、両手を目の前で握り合わせていた。
「全く、普段のお前らしくもなく考え込んでばかりで。元から考える前に動く性質なんだから無駄な事はしないが良いと言うのに」
「カミュー?」
マイクロトフはどうした事かと咄嗟にはカミューの言葉が飲み込めなくて目を丸くする。するとカミューは手を下ろしてふんわりと微笑んだ。そしてつと俯いた。
「せめてわたしが冷静でいられたら良かったのに、すまなかったな」
何故詫びるのかマイクロトフにはその理由に見当がつかない。ただひたすら困惑顔でカミューの顔をじっと見ていると、カミューは困ったようにまた微笑んだ。
「フリック殿には落ち着いているようにみえたようだが、これでもかなり驚いて、混乱していたんだよ。おかげでお前を不安にさせてしまって」
すまなかった、ともう一度詫びてカミューはがっくりと項垂れた。マイクロトフは両手に温かな茶器を包んだまま、目前に垂れた金茶の髪を見つめる。正直、まだカミューの言うことが分からなかった。まだ自分はこの事態にどうして良いか分からず、正常な理解力が失せたままでいるのだろうか。
「……カミュー…?」
「でもわたしの気持ちも分かって貰いたいね。突然おまえが苦しみ出した時は目の前が真っ暗になった」
え、とマイクロトフはまたもや言葉をなくす。だがカミューはそんなマイクロトフには気付かずに項垂れたままぶつぶつと続けた。
「心臓が止まるかと思うくらい心配したのに、城に戻るのは嫌だとか元気な声で怒鳴るし……原因が分かれば分かったで馬鹿馬鹿しくて涙が出そうになった」
「………」
「でも、おまえが無事で良かった。まだ傷を負ったりしたのなら手当てのしようもあるが、毒にでもあたれば門外漢のわたしには手の施しようがないからね。大したことがなくて、本当に、良かったよ」
一言ずつ区切って噛み締めるようにそう告げてからふわりと顔を上げたカミューの瞳は僅かに潤んでいて、マイクロトフは突然胸を締め上げられたかのような息苦しさを覚えた。
「カミュー……俺はおまえにとんでもない心配を与えてしまっていたのだな。すまない……」
「謝る必要はないよ。結局わたしは、おまえが無事ならそれで良いんだからね」
そう言って優しく微笑みかけてくれるカミューに、マイクロトフは申し訳ない気持ちと同時に、そこまで案じてくれる有り難さを感じて、嬉しいやら落ち込むやら大変だった。しかし最終的には、無事で良かったと微笑んでくれるカミューの優しさが何よりも胸に染みて、気付けばマイクロトフは思いのままに手を伸ばしていた。
「カミュー」
茶器を置いて、ぎゅうっとカミューの身体を抱き締める。普段と感触が違うのはまあ仕方がないこととして―――腕をいっぱいに伸ばしてその背中を抱いて、愛しい温もりを確かめる。すると躊躇いがちにカミューの手がマイクロトフの背にも回された。しかし。
「マイクロトフ……胸が…」
耳元でぼそりと聞こえた声にマイクロトフはハッとして離れる。すると僅かに頬を赤らめたカミューが両手をさ迷わせて途方に暮れたような顔をする。
「女性としては、恵まれた体型だなマイクロトフ」
「そ、そうか…」
言われても自覚のしようがないのでマイクロトフは俯いて黙り込む。と、そこへ更にカミューの言葉が投げられた。
「それにしても感触が随分と違うから、何だか浮気でもしているみたいだよ……」
「な……っ、浮気!」
「慌てるなよ。おまえなんだとは頭では解っているんだけど、身体の方が追いつかないんだ」
そしてカミューはじっと己の掌を見詰めて首を傾げた。
「……何だか柔らかいし、細いし……全然マイクロトフと違うし…」
みるみるうちに情けない面持ちに変わって行くカミューを、マイクロトフの方こそ情けない気分で見る。改めて己の身体を省みれば、大きく膨らんだ胸が邪魔をして腹が見えないが、腕や足は比べるまでもなく細い。もしかしたらカミューよりも細いかもしれない……いや、細い。
己の現状をまざまざと思い知ってマイクロトフはがっくりと項垂れた。そういえばダンスニーが重くて重くてならなかった。片手で振り回せたものがなんと言うありさまだろう。
「マイクロトフ、すまない。おまえを落ち込ませるつもりはなかったんだが」
青ざめていくマイクロトフを思いやってか、カミューが労わるような声音でそっと語りかけてくれる。だが今はなんの慰めにもならなかった。
マイクロトフはがばりと立ち上がるとカミューさえも振り返らずに部屋を飛び出していた。
「マイクロトフ!?」
酷く慌てた声が背中を追うが、マイクロトフはそのまま宿を飛び出して、グレッグミンスターの街へと逃げ出していた。
人の流れに逆らって走っていると、いつの間にか周囲の景色が寂れた薄暗い通りへと変わっていたのにマイクロトフが気付いたのは、漸く落ち着いて立ち止まり顔を上げた時だった。
グレッグミンスターはトラン共和国の首都であり、かつての赤月帝国の時もそうであったように、歴史のある古い街である。三年前の解放戦争のおりに荒廃の憂き目にも合ったが、やはり大きい街は直ぐに人が戻り復興した。美麗な装飾の見事な噴水のある大通りは、帝国主義だった頃と変わらず、石畳の美しい景色を見せている。だが人口の多い街には当然ながら日の当たり難い場所もあるのだ。マイクロトフはいつの間にかそんな場所に来ていたのだ。
壮麗なグレッグミンスターの大通りとは打って変わった、入り組んだ細い路地。高い壁に穿たれた窓は、大通りのそれとは違いどれも薄汚れて真っ暗な屋内は伺えない。石畳はひびが入り剥がれて、蝶番の壊れた裏口らしい木戸が風に吹かれてきいきいと不気味な音を立てていた。
そして通りの隅の方、本当に一年中陽光の射さないような場所に蹲っている人々―――。
マイクロトフは奥歯を噛み締めてそんな人々を見渡した。
トラン共和国の大統領レパントは有能な政治家として名高い。帝国としての制度が根から崩れ去り、荒れに荒れた国内をたった三年で良くぞここまでと言えるほどに復興させた。それでもどんな優れた政治家がいようとどんな国にでも暗部は存在するのだ。
貧困層というのはロックアックスの街にもあった。
そこにどっぷりと首まで浸かっているらしい男が一人、マイクロトフに気付いて顔を上げた。濁った目が見えているのかいないのか分からない視線を向けてくる。その視線に囚われていると、不意に肩を突かれた。
「なにしてる」
耳の後ろで聞こえた耳障りな声にハッとして振り返ると、見知らぬ男たちがそこにいた。誰もがこの路地の住人らしい装いと顔をしている。
「紛れ込んだか。さっさと失せねえとひん剥くぞ」
唸るような声音で脅してくるのをマイクロトフは険しい目で見返す。だが無意識に腰へと伸びた手が、そこに何もないのにさ迷って漸く息を飲む。ダンスニーは置いてきている。どっちみち剣帯はこの身体には大きすぎて使えないが、それでも持って出なかったのは失態だ。
「なぁあんた。金持ってんだろ。綺麗な格好してる」
「ちょっとくれよ。そしたら何もしねえで表通りまで送ってってやるよ」
男たちが口々にもごもごと訴えながら半歩ほど近づいた。その気配に押されるようにマイクロトフが一歩後退るとまた半歩と迫ってくる。
ここは向き合うよりもさっさと逃げ出したほうが得策かと、素早く背後に視線をやるが、何時の間にやら他の者たちも現れ出てきて、マイクロトフたちを取り囲んでいた。そのまるで幽鬼のような足音のない出現に驚くよりも焦りが生まれる。
「ほら、早く出せよ。なぁ姉さんよ」
「………!」
と、そこでマイクロトフはまたも己の現状を思い知らされて愕然とする。そうだった。今の自分は騎士のマイクロトフではなく、ただの女性だった―――。
「女の一人歩きは危険だって誰も教えてくれなかったのか? それもこんな汚い所によ…」
男の一人がからかうようにそんなことを言ったのに、マイクロトフの頭にカッと血が上る。
「誰が女だ!! 俺は違う!!!」
反射的に叫ぶが、男たちは怪訝に眉をひそめるだけだった。
「はぁ…? あんた何言ってんだ」
「もう良いじゃねえかよ。さっさとひん剥いちまおうぜ」
「そうだな」
顔を真っ赤にした凛々しい出で立ちの女性を、男たちはわらわらと取り囲む。そして一斉にその手が長くつややかな黒髪に伸びた瞬間、信じられない光景が路地裏のその場所で繰り広げられた。
つづく
ギャグ…?
えー青も赤も情けなさいっぱいですね
取り合えず次回はもうひとりの地奇星さん登場か!?
2003/01/13
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