ほんとうの話


 男たちの目に、マイクロトフは掻き消えたように映った。
 実際にはすとんと姿勢を低くして、己を取り囲む男たちの輪から飛び出したに過ぎなかったのだが―――。マイクロトフはそして男の一人の背後に回ると渾身の力を込めてその首に手刀を振り下ろす。更に、がくんと男が崩れ落ちるのを横目に一歩後退すると、漸くマイクロトフの動きを掴んだらしい手前の男が振り返る前に、また姿勢を落として左足を軸にして右足を旋回させると反動を利用してそのすねを砕いた。
 マイクロトフには容赦する気が微塵もなかった。女を―――女ではないが―――多勢で取り囲んで金を無心するような輩など、手加減するのも馬鹿馬鹿しい。そもそも騎士として剣や馬術の他にも格闘術も習得しているのである。身体が細く小さくなっても、重さとパワーの代わりに軽さと鋭さを得た分、多少勝手は違ってもたいした障害にはならなかった。
 男たちはといえば、続々と倒れた仲間の姿に唖然と凍りつく。それもそうだろう、美しい黒髪の背筋の良く伸びた品のありそうな女かと思えば、瞬く間に二人を地面に沈めてしまったのだ。
 だが男たちも日常的に危険な生業に身を浸しているだけはあり、我に帰るのは早かった。
「こ、こいつっ!」
 伸びてきた手をかわして、身を捩りざま肘を男の脇に食い込ませた。流石にそれだけの動きでは助骨までは折れなかったらしいが、それでも男が地面に蹲って動かなくなったのでよしとする。そして両足を踏ん張って仁王立ちになると男たちをきっと見据えた。
「このまま立ち去るならば、見逃す」
 毅然と言い放ったマイクロトフに、男たちはしかし頷きはしなかった。顔を赤黒く紅潮させて、雄叫びと共に再び襲い掛かってきたのである。マイクロトフは舌打ちをしてまたそんな男たちから退いた。
 だが間一髪で逃れたかと思われたはずが、その長く伸びた髪が邪魔をした。その豊かな毛先をむんずと掴まれてマイクロトフの身体が引き戻される。頭骨を攫われるような痛みに呻いてマイクロトフは地面に両手をついた。
「くっ……!」
「馬鹿にしやがって!! 二目と見れねえ面にしてやろうかこの女ァ!!」
 激昂した男たちはそしてマイクロトフを取り囲み、その汚れた足を振り上げた。やられる、と思って咄嗟に庇うように両腕で頭を抱え目を閉じる。だが―――。
 マイクロトフの一番近くに立っていた男が絶叫を上げてもんどりうった。ふうっと目を開けて見やれば男は全身をびくびくと痙攣させて髪の先や指先、つま先から白い煙を立ち上らせている。まるで雷にでも打たれたかのようだとマイクロトフがぼんやりと思った時、不意に視界が翳った。
「全員捕らえろ」
 静かな声が届き、続いて重々しい足音がばらばらと響き、マイクロトフの周囲にいた男たちが喚きながらも取り押さえられていく。いったい何事かと引き倒されたショックから漸う正気を取り戻したマイクロトフが顔を上げると、そこにはトラン共和国の兵士たちがいて狼藉者たちに縄をかけているところだった。
 そして陽光を背にして、ゆっくりとマイクロトフに近づいてくる一人の男がいた。彼はやはりゆっくりと膝をつくと手を差し伸べてきた。
「立てますか」
 先ほどの声と同じだが、厳しさは消えてただ穏やかさだけが残っている。しかしそこで漸くその声に聞き覚えがあるのを思い出してマイクロトフはハッと顔を上げた。
「グレンシール殿!」
 間近に見上げたその金色の髪も濃い翠の瞳も間違いがない。だが対するグレンシールは手を差し伸べた格好のまま不思議そうに首を傾げていた。どうやらマイクロトフが誰だか分かっていないようだ。
「俺です。お忘れですか、同盟軍のマイクロトフです」
「元、マチルダ騎士団の……」
「そうです!」
 意気込んで頷くが、グレンシールは首を傾げたままである。ぼうっとした翠の瞳は何を考えているのか読み難いが、疑っているようには見えない。もっとも、信じているようにも見えないのではあるが―――。
 グレンシールは暫く無言のままそんな瞳でマイクロトフをじっと見詰めていたが、ふとその整った唇を開いた。
「なぜこんな場所に?」
「……迷い込みました」
「一人でここへ?」
「皆は、マリー殿の宿に滞在を」
「では送りましょう」
 ふむ、と軽く頷くとグレンシールはマイクロトフの手を取り立ち上がらせる。そしてその肩を軽く叩くと歩くように促した。
「いや、しかし……」
 周囲の兵士たちも当惑顔である。マイクロトフも一人で戻れるので別に送ってもらう謂れはなく、ただうろたえるばかりだった。しかしグレンシールはさっさと歩き出す。
「将軍……!」
 焦ったような兵士の呼び掛けにグレンシールはやはり何を考えているのか分かり難い瞳で振り返ると、ひょいと肩を竦めた。
「アレンには内密にな」
 五月蝿いから、と聞こえたような聞こえなかったような。マイクロトフは当惑するままにグレンシールに引き摺られるようにして路地裏から出たのであった。



 そしてグレッグミンスターの通りをグレンシールに連れられて歩いていると、否が応にも注目を浴びた。グレンシールはこの国では有名人である。トラン六将軍の一人と言えばこの国で知らない者はいない。加えてこの容姿に若くしての地位と名誉。その顔は知られ過ぎていた。道行く人々が、グレンシールの顔を見るたびに丁寧にお辞儀をしていく。そしてその隣を歩くマイクロトフの顔を不思議そうに、また興味深そうにして見ていくのである。
 マイクロトフは何だかいたたまれずに、ただひたすら拳を握って歩いていた。すると不意にグレンシールの低い声が耳に忍び寄ってきた。
「トランへは仲間の誰と、来ました」
「え、ああ……盟主殿と、カミュー。それからビクトール殿とフリック殿と、あとはクライブ殿です」
「へぇ……それは懐かしい面々だな」
 頷き呟いたグレンシールの瞳が僅かながらきらりと揺らめいたのを、マイクロトフは気付かなかった。
「あぁ、確か傭兵のお二方とクライブ殿は、トランの解放戦争に参加しておられたか」
 グレンシールの言葉にこくりと頷く。そしてちらりと横を歩く将軍の顔を見上げた。すると翠の瞳がちらりとマイクロトフを見下ろして、僅かにまぶたが伏せられた。
「途中参加ですが」
 言われた言葉にマイクロトフは一瞬きょとんとする。だが直ぐにハッとして目を見開き、そしてその黒い瞳を色濃くさせると顎を上げてぐっと睨むように見詰め返した。
「グレンシール殿……あなたは、後悔でもしておられるのか」
「………なんのことです」
 声音に少々剣呑さが含まれてしまったのはどうしようもなかった。グレンシールのその言い方があまにり突き離したようなものだったからだ。まるでその事実を貶しているような、そんな感じがしたのだ。
 そして対するグレンシールの静かな声に、マイクロトフもゆっくりと息を吐くと穏やかさに努め、目を逸らさずに言った。
「最初から解放軍に与せず、それどころか戦ってすらいたと言うのに、半ばから帝国を裏切るようにしてその解放軍に加わったことです」
「良くご存知ですね」
「無論の事。三年前のあなた方と今現在の我々は似たような立場でしょう」
 知りたくなくても誰かが教えてくれる。それでなくても隣の国なのだ。団長と言う立場上知っていて然るべきである。
 そして言い切ったマイクロトフの強い眼差しを、グレンシールは暫くじっと見詰めていたのであるが、不意にその翠がふわりとほころんだ。
「……グレンシール殿?」
 それが微笑だと気付いたのは、その名を呼んでからだった。
「マイクロトフ殿」
 穏やかに呼び返されて、マイクロトフは何故だか今はじめてグレンシールと目を合わせ、そして名を呼ばれたような気がした。だが、事実その通り、グレンシールは今の今までマイクロトフの名を一度たりとは口にしなかったのであった。
「マイクロトフ殿は、いつお会いしても変わられませんね」
 と言っても顔を合わせたことはあっても、これと言って深く言葉を交わしたことはない。それでも既知のようにそう言われて、マイクロトフは緩く首を傾げた。するとグレンシールの瞳が笑みに細くなり、翠が影に濃くなる。
「我々はあなた方を歓迎しますよ。ああ、マリーさんの宿が見えてきた」
 顔を正面に戻したグレンシールの指差す先に、見慣れた街角が見えた。途端にマイクロトフはホッとして、そんな自分に慌てた。どうやら無自覚だったが非日常に落とされ、慣れない街に飛び出してそれなりに緊張をしていたらしい。
「どうかしましたか」
 傍らからグレンシールが問い掛けてくるのにマイクロトフは苦笑を浮かべて首を振った。
「いえ、送って下さって有難うございまし……―――」
 頭を下げかけたマイクロトフの声が途中で途切れる。宿の正面通りから、こちらへと一直線にぐんぐんと突き進んでくる人物を見つけたからである。あれは、と口を開きかけた所で、傍らのグレンシールが一歩前に進んだ。
「アレン」
 静かな声が向かってくる人物にかけられる。すると相手は間近に来て漸く立ち止まりキッとグレンシールを睨んだ。炎を孕んだような黒い瞳が燃えるようである。反動でマントがふわりと揺れたが優雅さはなく厳しさを感じた。
「女と姿をくらました挙句に何をこんな場所でうろついてる!」
 始めから喧嘩腰の口調にマイクロトフは面食らう。だがグレンシールはそんなアレンの言動に慣れているのか、動じた様子もなくそんな男を相変わらずの表情で見ていた。それどころか何か感心したように頷いている。
「早いなアレン」
「何がだ!」
「マイクロトフ殿とあの場を離れたのつい先ほどだが」
 グレンシールの言葉になるほどと思う。あの場所からここまでは歩いてそう長くもかからなかったが、マイクロトフト共にグレンシールがあの場を去ったと知っているのならば、あの場の兵士から聞いたに違いなく、ならば先にここに到着しているアレンとはいったい……。
 だがそう考え込むマイクロトフを、アレンが怪訝な表情を浮かべて見下ろした。
「マイクロトフ殿だと? ならこの女は誰だ。下らん言い訳は許さないからな」
 さあ言い訳をしろ、とでも迫っているようなアレンの言い草にグレンシールはその瞳を軽く細めた。
「アレン」
「なんだ」
「驚くな」
「何をだ」
「マイクロトフ殿だ」
 グレンシールの手はマイクロトフを確りと紹介していた。その動きにつられてアレンがまたマイクロトフを見る。暫くじっと凝視されて居た堪れなかったが我慢してその目を見返した。
 すると、アレンが憮然と不機嫌な顔をして首を小さく振った。
「言い訳は許さん」
「なぜそう思う」
「だってあり得ないだろうが」
「アレン……根拠もないのに言い切るのはよせ。おまえの悪い癖だ」
「おまえは信じるとでも言うのか」
 これを、と指差されてマイクロトフは眉を顰めた。
 だが。不意に、アレンの向こうで静かに佇む人影に気付いた途端にさぁっと血の気が引けて行く。
「……カ、ミュー…」
 喘ぐように漏らした声を聞き留めて、グレンシールとアレンがふとマイクロトフの方を伺うが、それよりもこちらをじいっと感情のない顔で見ているカミューの方が気になる。
 あれは、完全に怒っている顔だ。
 マイクロトフは背に冷や汗が伝うのを感じた。


つづく



わーいわーい、グレとアレですよー。
グレンシールの方はまだ人物像が掴めるんですが
アレンは難しいです
それにしても彼らの一人称ってなんでしょう……

2003/01/23

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