ほんとうの話8


 扉が開かれた瞬間、ふぐっ! という呻き声と、バサッというシーツの翻る音と、ビタンというフリックの掌が入ってきたシーナの顔を覆う音とが一緒になって室内に響いた。
「な、にすんだフリック!」
 キャンキャンと子犬が吼えるような声が響く中、フリックの「あぁ…悪い」という声が重なる。さなか、カミューだけが薄らと微笑をたたえていた。
 整った容貌だけに琥珀の色濃い揺らめきも相俟って独特の迫力がある。
「これはシーナ殿、このような夜遅くのご到着さぞお疲れでしょう」
「あ、カミューさん…―――アレ、美女は?」
 きょろりとシーナが見回した室内に、美女の姿はない。ただ奥の寝台に盛りあがって見えるシーツが見えるだけで。カミューは殊更にっこりと笑い、ゆっくりとした口調で返す。
「お休みですよ。お静かに」
「え、でも」
 シーナの視界に映る白いシーツは、明らかにぴくぴくと動いていた。
 無理もない。扉が開く直前マイクロトフの腹にめり込んだカミューの踵の重みが、今彼を苦しめているのだろう。とっさの処置とは言え流石に当たりどころが悪かった。
 問答無用でかけられたシーツが隠しているが、腹を抱えて悶絶中なのは間違いなかった。
「彼女は、もう寝ています。お引取りを―――シーナ殿」
 微笑を浮かべながらも居丈高に言い放つカミューの、その身に滲む不穏な気配を感じ取り、大統領令息はやにわに怯む。こんな気配の相手には逆らうべきではないのだと、本能で悟っているに違いない。
「あ、そうだよなー。うん、今夜は退散するよっ。はは……は」
 後退り、側にいたフリックの胸倉をがしっと掴む。
「さっ行こうぜフリック!」
「なっ…! お、オレは―――シーナっ! おいっ」
 青雷を巻き込んで大袈裟に笑いながら部屋を出て行った。そしてカミューはその足音と気配がすっかりと扉の向こうから去って行くのを確認するまで微動だにせず、薄ら笑いを浮かべたまま立っていた。
 だが不意にその笑みを消すと、ひょいと肩を竦める。それから一転不機嫌そうに顔を歪めてこめかみを親指で揉み解しながら背後の寝台を振り返った。
「油断は禁物だなマイクロトフ。……マイクロトフ?」
 どうかしたかとシーツをめくると腹を抱えたマイクロトフが涙に滲んだ瞳で無言で訴えていた。あ、とそこで漸く己の所業に気付くカミュー。
「……痛かった、な。ごめん」
 顔の前に縦にした手のひらを持ってきて詫びる。
 思い返せば寸前に聞こえてきたシーナの、ある言葉に手加減を忘れていたらしい。マイクロトフのせいではないのに、それこそとんだ災難であった。

 しかし。
 起き上がろうとするマイクロトフに手を貸しながらカミューは鼻で笑った。
「噂になっているとはね……」
「カ、ミュー…?」
「だったら明日にでもわたしがマイクロトフと並んで街を歩くか……? いや、噂は恐ろしいものだからな。グレンシール殿との三角関係だなんて羽目に陥ればそれこそ目も当てられない。却下だ」
 敷布の上に座り込んだマイクロトフの傍ら、突っ立ったまま顎に指をかけてぶつぶつとカミューは呟いている。
「しかし相手はあのどら息子。閉じ篭った程度では万全では無いだろうし、いっその事大統領に引き取らせるか―――とすると…」
 心の呟きが口から出ているカミューほど珍しいものはない。
 普段はにっこり笑って腹の中で正反対の悪態を並べているような男である。それがこんな風に言葉にして出しているという事は、あえて聞かせたい意思があるからであり、つまりマイクロトフを問答無用でその企みに巻き込む心算があるというわけだ。
「カミュー……不敬だぞ」
 腹を擦りながら嗜める。
 一応ここは友好を結んだトラン共和国で、カミューがどら息子と呼ぶのはおそらく共和国大統領子息のシーナで、その大統領本人を何やら利用するような口振りは感心しない。
 するとカミューはふと言葉を止めて、マイクロトフをちらりと見下ろした。
「おまえも大概、ずれているね」
 一言こぼして今度はそれっきり黙りこんでしまった。そしてその夜は結局眠りにつくまでカミューはうんうんと考え込み、二人とも何を会話するでなく夜が更けていったのだった。



 翌早朝マイクロトフが目覚めると、カミューは苦しそうな表情を浮かべて枕を握り締めつつ眠っていた。その魘され寸前のような様子に思わず肩に手をかける。
「カミュー、起きろカミュー」
 ゆさゆさと揺さぶるとぎゅうっと閉じられていた瞼が薄らと開く。その下から覚醒しきっていない時特有のぼんやりとした瞳が覗いて、マイクロトフはそれをそうっと見詰めた。
「カミュー?」
 伺うように名を呼べば睫毛が数度上下に震える。
「……マイクロトフ」
 乾いた唇が名を呼び返して、途端にハッと琥珀が目覚めた。続けざまにガバッと起き上がり枕を胸に抱いた格好のまま一瞬石像の様に固まる。いつもと違うその目覚め方にマイクロトフは戸惑い思わずおろおろとしてしまう。
「カ、カミュー?」
 もう一度名を呼ぶとぴくりとカミューの肩が震えて、次いで吐息のような声がもれた。
「あ……あぁ、了解した」
 くしゃりと前髪をかき上げて枕を抱き込んでため息をつく。
「おはようマイクロトフ」
 常の笑顔は影も無く、疲れたような顔をしてカミューはマイクロトフを見上げた。そして頭のてっぺんからじぃっと足元までを見下ろしてまた髪を自分で掻き回す。それから「まだドキドキしてる…」とかなんとかぶつぶつと言って胸を押さえている。
「どうしたカミュー」
「一瞬、おまえがそんな姿になっているのを忘れていたんだよ。長い髪に驚いた」
「……なるほど」
 嫌な沈黙が部屋の中に沈みこむ。それを払拭するようにカミューは枕を漸く手放すとさっさと立ち上がった。
「思ったより早くに起きたかな。ちょうど良い、わたしは出掛けてくるよ」
 窓の外を見て眩しさに目を細めながらカミューは言い、うんと背伸びをする。マイクロトフはひょいと首を傾げて瞬いた。
「どこにだ」
「大統領官邸」
 着替えを取り出してひょいひょいと着替えながら気軽に答えるのに、マイクロトフが目を険しくする。
「何の用だ」
「いや、ほら。不安要素は少しでも取り除いておいた方が良いかと思って」
 万全には万全を期してね。
 にやりと笑うのがなんだか不穏で、思わずマイクロトフはその手を取った。
「お、俺なら大丈夫だぞ?」
 もしこの所為でカミューがこの国でとんでもない真似をしたらと思うとたまらなくなる。この男に限って下手な事はしないだろうが、しかし心配とは意識せずに湧いて出るものだ。
 ところがカミューはそんなマイクロトフの手にもう一方の手をそっと重ねて小首を傾げた。
「青騎士たちに、ばれたいかい?」
「ぐ」
「相手はあのシーナ殿だ。油断は禁物だよマイクロトフ」
 釘を刺されて一言も反論できない。そこへ畳み込むようにカミューが手を確りと掴んで迫る。
「良いからおまえは少しでも早く元に戻れるように念じるとかなんとかしておけ。あぁそうだ。絶対にこの部屋から出るんじゃないよ。朝食は一緒に食べて、それから昼までには戻るから。誰が来ても扉を開けるんじゃない、分かったな?」
「りょ、了解した……」
 ある種、気迫に満ちたカミューの様子に、こくりと頷いてマイクロトフは冷や汗をかく。
 どうもカミューの様子がおかしい。

 その所以が、グレンシール将軍との不埒な街の噂が原因であるとは、いつまで経っても気付けないマイクロトフだった。


つづく



たいへん、お待たせを。
あと一回くらいで終わります。
やっと終わります(笑)

2003/03/30

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