天使たち
壱
その日の朝は、カミューにとってなんとも爽快な目覚めであった。
朝が弱いと常に評される彼であるが、単に傍近いマイクロトフが図抜けた早起きで、それと比べられるから普通の目覚めであるのに、寝坊癖があるような誤解を受けているのである。
そもそもが、毎朝毎朝マイクロトフが起こしに来てくれるのはありがたいのだが、その時間は少々早過ぎるのだ。あくまでカミューの価値観をもとにであるが、まだまだ寝ていても構わないだろう刻限に「いつまで寝ている」と起こされるわけである。快適な満足の行く目覚めには程遠いのだ。
ところがこの日の朝は、強制的にではない自然な意識の浮上によってカミューはぼんやりと目覚めた。
常と違うその目覚めに、初っ端から違和感を感じつつもごそりと起き出す。
まだ覚め切らない眠気に乱れ落ちる前髪を掻き揚げながらも、カミューは「マイクロトフはいったいどうしたのだろう」と真っ先に案じていた。
朝と言えばあの男の顔から始まるのだ。
否応無く、いや、それはカミューにとっては幸せこの上ないのだが、毎朝毎週毎月毎年変わらず継続されてきたこの朝の習慣に突然穴があいたのである。なにがしかの理由でマイクロトフが長く遠出をする時を除いて、騎士団を離反し同盟軍へと加わった後も続けられてきたものが、である。
何の断りも無くこの朝の約束とも言える習慣が絶たれたのは、初めてだった。
何かあったかな、と考えてカミューはぼんやりと室内を見まわそうと首を傾けた。
昨夜は共に同じ寝台に寝たはずで、早々に朝錬に出掛けてしまったとしてもその名残が残っている筈である。そしてカミューがぐるりと視線を巡らせた時、座り込んだ寝台の端の毛布が盛り上がっているのにその時漸く気付いた。
なんだろう、と何の身構えも無くカミューは手を伸ばし、盛り上がった毛布を握り締め引き剥がした。
「…………………」
最初、犬かと思った。
黒い犬が潜り込んで寝ているのかと思い、だが直ぐに違うと理性が強くカミューの思考に呼び掛けた。
良く見ろ、犬じゃない。確かに艶やかなさらさらとした細い髪の毛は、濡れたように黒く獣のそれのように光沢を見せている。だが白い肌は、小さな手の指は、髪に埋もれた愛らしい顔は、人間の子供のものだろう。しかも、それはカミューの良く知るある人物の面影に酷く似ていて―――。
まさか。
まさかこの子供は……。
黙り込み目前で丸くなって眠るその幼子から視線を逸らせカミューは一瞬、ひどく真面目な顔でのたもうた。肌蹴られた毛布に肌寒さを感じたらしい当の幼子が、ごそりと身動きをしたのにも気付かずに。
「隠し子なんていったい何処にそんな甲斐性を置いてきたんだい、マイクロトフ……」
「カミュー…」
呆れたような切ないような、そんな声音の子供の声が聞こえてカミューは途端に吃驚して目を見開いた。ついできょろきょろと周囲を見回し、そこでぐいと寝着の裾を引かれてその方向へと目を向ける。そしてそこに半分ほど身を起こして、情けないような恨みがましいような目で自分を見上げてくる真っ黒な瞳を見付けた。
「君は……」
寸前まで寝ていた幼子とばっちり視線がぶつかってカミューはうろたえた。しかし己の服の裾を掴む子供の手の重みは確りと伝わってきていて、咄嗟に振り解こうとかその手を取ろうとか考える前に、慣れない子供という存在に直面したカミューの全身は石の様に強張ってしまっていた。
それ以上の言葉も出ず、ひたすらにカミューはうろたえていた。そしてそんな青年の目の前で、そんな態度をあらかじめ予想でもしていたかのように、その子供は大きく溜息をつきながら小さな肩をがっくりと落とした。その、あまり子供の取るようではない動作に、ふと固まっていたカミューの精神が我を取り戻した。
「君は、その」
何者なのか。
聞く前に、先ほど耳に入り込んでいながらさらっと聞き逃した子供の言葉を思い出した。
カミュー、と親しげに呼び捨てるその口調。
聞き馴染んだようで全く聞き馴染みのないそれ。
まさか、まさか、まさか。
最前カミューの思考を過ぎったひとつの仮定とは、また違う仮定が思考を埋め尽くそうとする。だがそれはどんな仮定よりもあり得難く、しかし一番納得のいくものだった。
カミューはそして呆然とそれを口にしていた。
「マイクロトフ、なのか?」
「ああ」
素っ気無いほどの応え。
子供にしては味気も可愛げもない。しかし、その応答こそが肯定の言葉になによりの真実味を与えていた。
そうして突き付けられた真実にカミューは咄嗟に頭を抱えていた。
「なんで?」
「俺が聞きたい」
憮然と子供は黒い大きな瞳に不満を浮かべて吐息を落とした。
カミューは頭を抱えながらそんな所作に、なんて可愛げのない子供なのだろうと思いながら、しかしこれがマイクロトフ自身ならばいかにもそれらしい所作であるとぼんやりと納得していたのだった。
2002/03/26
弐
大きな姿見の中、映る姿は何処からどう見ても幼子のもので、しかしながらその口調はいたって無骨。
「五才……程度だろうか…?」
随分と大きめな服を何とか工夫して着こなした姿で、顎に指を掛け首を捻りながらそんな事を呟く。背後からそんな子供を覗き込みながらカミューはふむ、と頷いた。
「それくらいなのかな」
「にしては小さくねえか?」
横合いからぬっと首を突き出してきたのはビクトールである。
「俺は小さい頃は小柄だったのです」
振り返り子供が大きく首をそらして熊のような傭兵を見上げた。その小さな黒い頭にぽんぽんと手を置いてカミューが追憶に微笑む。
「そうそう、わたしと出会った頃はどちらかといえば小さい方だったね。それがいつの間にかあんなに……」
「へーそうなんだ?」
遠い目をし始めたカミューの横でニコニコと嬉しそうな顔で子供を見下ろすのはナナミだ。ここに居る中で一番子供に目線が近い。
「でも、マイクロトフさんて……可愛い子供だったんだなー」
後ろの方から感心した様にシーナが呟く。その傍らでホウアンが同意する様に何度も頷いた。
「ですねぇ。目が大きくて頭が小さくて……」
そして一同が一呼吸置いてほうっと溜息を落とす。
「可愛いなぁ…」
揃って吐き出された言葉に、まだ頭にカミューの白手袋を置いているマイクロトフは複雑そうな表情で眉をしかめた。
その態度に、可愛いと言われてもこの中身は無骨な二六歳の男には嬉しくないのだろうと、誰もが直ぐに苦笑を浮かべた。だがカミューだけは知っていた。これは照れているのである。なので助け舟を出してやる事にした。
「マイクロトフ、行こうか」
黒い頭をひと撫でして肩に触れると、ぴくんと黒い瞳が見上げてくる。そのじっと見詰めてくるつぶらな瞳。
う……っ…可愛い。
誰よりもその愛らしさに悩殺されている元赤騎士団長は突然襲いくる眩暈を必死に堪えた。寝起きの頭では唐突に突き付けられた衝撃の出来事に混乱をしてしまっていたが、改めて正気に返って見てみると、小さな子供になってしまったマイクロトフは、容姿も言動も(カミューにとって)なんとも愛らしい存在だったのである。
「どうしたカミュー」
行くんだろう? と背後で途端に起こった不満の声に、マイクロトフは早く立ち去りたいとばかりに、きゅっと小さな手でカミューの手―――厳密には人差し指だけを掴んだ。それでもう、限界だった。
「マイクロトフ…っ」
素早く膝をついたカミューの両手が、すかさず子供の両脇に差し入れられた。そして周囲があっと思うまもなくその小さな身体は赤騎士の手によって胸の位置まで抱き上げられていたのである。
「カミュー! おい!」
小さいながらも抱き上げられるなどまったくもって不本意なマイクロトフである。しかし抗議の声はついで訪れた温もりに遮られた。
「マイクロトフ……なんて可愛いんだ」
子供の小さな頬に、流麗な青年が頬擦りをする。
「カミュー〜〜」
マイクロトフの顔は既に真っ赤である。当然であろう。中身はれっきとした二六歳の男なのである。抱き上げられて衆目の中頬擦りをされるなど、いくら愛しい恋人からの接触でも恥ずかしい。しかしカミューはと言えば、さらさらと触れる子供特有の滑らかな肌と、柔らかな髪の感触。そして全力で抗っているだろうにカミューの拘束を少しも解けないあまりにか弱い様子にもうメロメロだった。
と、不意にそんな抵抗が止んだ。
がっくりと疲れたように脱力をしてカミューの腕の中でマイクロトフが沈黙をする。
あれ、とカミューだけでなくそんな馬鹿馬鹿しい二人を呆れ顔で見詰めていた一同までも首を傾げた。
「マイクロトフ…?」
「…降ろしてくれ」
ぼそり、とそれだけを言ってマイクロトフは項垂れた。その小さい顔は誰にも表情が伺えない。しかしそこから漂ってくる暗い気配に押されてカミューは実は朝から繰り返している己の失敗に気付いて青ざめた。そして慌ててその小さな身体を床の上に降ろした。
「済まないマイクロトフ」
屈み込んで幼いマイクロトフの低い視線に目を合わせると、カミューは俯いたその前髪を撫でた。しかし、その手を軽く叩き落とされる。
「俺を、子供扱い……するな」
大きな瞳が潤んだように揺れて真正面のカミューを睨みつけた。
朝から何度と無く繰り返された言葉。
とはいえ、本来の二六歳の成人男性としての睨みならばさぞかし迫力もあったろうが、低い位置から精一杯に睨みあげてくる大きな目は相対するものに罪悪感を覚えさせても、可愛げ以外の何も感じさせなかった。
「マイクロトフ……」
弱り果てて口篭もるカミューに、マイクロトフは消沈したように肩を落としてくるりと踵を返した。そして去って行く小さな影を一同は気まずく見送ったのだが、ただカミューだけは一拍置いて我を取り戻したかのようにハッと顔を上げると、その背を慌てて追ったのだった。
2002/03/28
参
朝、いつもと同じに目覚めた時、既にマイクロトフの身体は変調を来していた。
最初はやけに眠気がひどく、目覚めたというのに身体が重くておかしいなと感じた。本来ならマイクロトフの目覚めとは爽快で、だるかったりしんどかったりなどということは無いのだ。だから首を傾げて起きあがった。しかし、見える世界が違うことに気付いた。
おかしい。
そして視界に映った自分の手に気付く。
マイクロトフは呆然としながらその自分の手を見詰めた。
「夢か…?」
いや、違う。
夢と現実の区別くらいつく。
しかし、やけに身体が重たくて、眠たくて。
「夢でも……不思議じゃない…」
こんな嘘みたいな状態。
呟いてマイクロトフはぽさっと敷布の上に身を伏せた。
そして襲いくる眠気に瞼がゆらゆらと揺れる。そんな霞む視線の向こうには穏やかな眠りの只中にある愛しい恋人の寝顔があった。
「……ミュー…」
起こして、現状を説明して、なんとかこの不思議な状態の打開策を……―――。
そしてカミューの目覚めに繋がるのである。
それから二人してホウアンの所へ行き、それまでに擦れ違った人々がぞろぞろと医務室までついて来たのである。
原因は直ぐに知れた。
ホウアンの言う所とある伝染病らしい。感染率は著しく低く、潜伏期間に多少の個人差はあってもいったん発病してしまえば直ぐに治癒すると言う。またそれが体に及ぼす害と言えば微熱と倦怠感程度のものらしい。なので大抵の者はその病にかかった事すら気付かずに完治してしまうという。ただ稀に身体が幼児化する症例があるという。
滅多に発症しないゆえに幻の病とも呼ばれるそれを目の前にしてホウアンは医師としての好奇心を刺激されたのか物珍しげな目でマイクロトフを撫でたり抱き上げたり。途中でカミューが取り上げなければ何処まで調べられたかしれない。
取り敢えず身体が幼児化する以外に害は無く、風邪と同じで三日ほどで元に戻るというので一同はホッと胸を撫で下ろし、何の憂いも無く幼いマイクロトフの愛らしさに意識を集中させる事が出来たわけだが、当の本人にしてみればたかが三日といえどされど三日。たまったものではなかった。
なのに、カミューまでもが可愛いなどと言う……。
「マイクロトフ……お願いだからこっちを向いてくれないか」
ただでさえ見かけが子供なのだから精神だけは大人げありたいものだが、如何せん常から融通が利かない性質である。駆けるように部屋に戻って寝台へと上り、窓辺に頬杖をついて外を意味もなく眺めおろした。後から追って部屋に入ってきたカミューを振り返ることもせず。
「マイクロトフ…」
カミューにしてはひどく心許無い声を背中に聞きながらマイクロトフは抱えた膝に顔をうずめた。どうやら外見が幼児化すると仕草もまた幼くなってしまうのかもしれない。だがそんな己のさまなどまるで気にした風もなくマイクロトフはむっつりと黙り込んでいる。
そんな小さな丸い背中すら可愛いと思っている元赤騎士団長はもう終わってしまっているのかもしれない。
「マイクロトフー……」
声に僅かだが震えが混じった。よもやそれが頬が緩むのを堪えてのものだとは知らずマイクロトフは吃驚して振り向いた。
「カミュー?」
「あ、マイクロトフ!」
途端にぱぁっと瞳を輝かせるカミューにマイクロトフはがっくりと肩を落とす。
「もう……良い。今日は、寝る……」
毛布を引き寄せてマイクロトフはちんまりと丸くなってしまう。
「え? ちょ…」
慌てたカミューの声ももうどうでも良い。そもそも微熱はずっと続いているのだ。それに本来の身体とは違うままならなさも多少の疲労を呼んでいる。実際ころりと横になってしまえば途端にとろとろと眠気が忍び寄ってきた。
そしてカミューの「まぁ、寝る子は育つと言うし……」などと言う少し間違っている見解を最後にマイクロトフはまだ昼間だと言うのにすっかりと寝入ってしまったのだった。
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2002/04/05
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