手繰り糸


 同盟軍には雑多な人種が集っている。
 ロックアックス育ちの生粋のマチルダ騎士であるマイクロトフなどにしてみれば、それこそ出会ったこともないような、考えもつかないような思想や主義、信仰を持つ人たちがいるのだ。
 予測もつかない出来事に巻き込まれてしまうことだって、あるだろう。



「カミュー! 誤解だ! これは違う! 違うぞ!!」

 深夜の同盟軍本拠地で、そんな男の絶叫が響いた。




 カミューは独りレオナの酒場で溜息を零していた。
 赤い騎士服を見事なまでに着こなす秀麗かつ優雅な元騎士団長の憂い顔を、酒場の客はもとより店員すらうっとりとした眼差しで遠巻きに見つめている。
 当の本人はそんな視線などまるで気にしたふうもなく、ぼんやりと立てた肘に上体を僅かに預けながら小首を傾げて、酒の入ったグラスを揺らしていた。
「おぅ、カミュー」
 そこへ、夜も更けて漸く酒場にやってきた傭兵が声を掛けた。
「ビクトール殿」
「お、なんだ。似合わねぇ悩ましい顔してんなぁ。どうしたよ」
「悩ましいってなんですか」
 くすりと笑ってカミューは目線で目の前の空席を勧めた。
「でも確かに悩みは尽きませんね」
「なんだ。戦略でシュウとやりあったか?」
「そんなことは日常茶飯事ですから、別段―――」
 言葉を途切れさせてカミューは、ちょうどビクトールに注文を取りに来た店員を前に、グラスに残り少なかった酒を呷ってしまうと、追加を頼んだ。
「ビクトール殿も既にお聞き及びでしょうに」
「まぁな」
 カミューの目の前の皿からつまみを取り上げて、ビクトールがにやりと笑った。
「昨日の大騒ぎだろ? 今朝にはもう皆知ってたぜ」
 その言葉にカミューは白手袋に包まれた手のひらで、そっと顔の片側を覆った。
「まったく、この城ときたら下世話な連中ばかりで……」
「まぁそう言うなよ。だからって皆ただ興味本位で騒いでるばかりじゃねえんだぜ? 誰もマイクロトフが本当に連れ込んだなんて思っちゃいねえよ」
「だと良いんですがね」
「なんだよ。おまえさんだって、奴を信じてんだろ? あのお固い団長殿が親友と一緒に使ってる部屋に女なんざ連れ込むわけないってよ」
 直ぐに店員が持ってきた酒のグラスを受け取って、ビクトールがグラスを持ちながらカミューを指差した。
「当たり前ですよ」
 その指先から視線を逸らせてカミューは眉根を寄せる。その脳裏に思い出されるのは、昨夜の大騒ぎだった。

 夜遅くまで軍師に頼まれた仕事をこなし、カミューは疲れ果てた気分で宛がわれていた自室の扉を開いた。そこは、この本拠地に来て直ぐマイクロトフと二人で使うようにと与えられた部屋だった。
 だが、扉を開いて飛び込んできた光景に、疲れも何も吹き飛んだ。
 入って右側にある寝台にマイクロトフが横たわっていた。そこまでは良い。ただ、カミューを言葉も出ないほどに驚かせたのには、そこにもう一人、長い黒髪の女性までもが横たわっていたことだった。
 唖然とするカミューの前で、先に身じろいだのは女性のほうだった。
「ん……あら…?」
 ひょいと顔を上げてカミューを見たのは、なんと旅芸人一座のリィナだった。
「カミューさん。お帰りなさい」
 常の衣装じみた服装から、ショールを剥いだ格好でリィナが上体を起こす。その長い髪がさらさらとこぼれ、耳元の大きな輪のピアスがゆらりと揺れた。
 そして毛布を退けてリィナが完全に起き上がると、その向こうに横たわるマイクロトフの姿が完全に露わになる。彼は、その逞しい身体を惜しげもなく蝋の灯火に照らし出していた。
 その剥き出しの肩にリィナの手がそっと触れる。
「マイクロトフさん。カミューさんが帰りましたよ。だからわたくし、そろそろ失礼しますわね」
 軽く揺り動かされてマイクロトフがくぐもった声を漏らした。
「ん…―――」
「お起きになりまして? ほら、カミューさんです」
「カミュー…?」
 そして不意にマイクロトフの手が持ち上がり、自分の肩に置かれたリィナの手を上から掴んだ。
「あら……」
 ふ、とリィナが口元に笑みを浮かべ、ちらりとカミューを見て微笑んだ。だが、その気配にマイクロトフが目を開けた途端、掴まれていた手が勢い良く放り出される。
「きゃっ」
 短く悲鳴をあげて、リィナが驚いたように目を丸くする。だがそれ以上に、起き上がったマイクロトフの顔は驚愕に満ちていた。
 ちなみにカミューは最初からずっと扉の取っ手を握って固まったままだ。
 そして深夜の絶叫に繋がったわけである。

 マイクロトフの大声に、寝ていた本拠地の住人たちは飛び起きて、なんだなんだと様子を見に集まってきた。その隙にリィナはするりと出て行ってしまい、カミューは集まった野次馬を散らすだけで再びどっと疲労が蘇ってきた。
 その後ろでマイクロトフは混乱しながら事の次第をただただ喚くばかりだったのだが、落ち着いてから改めて聞き直してみればどうという事でもなかった。
「いつの間にか眠っていたんだそうですよ」
「リィナが側にいながらか?」
「ええ、そこなんですよね」
 マイクロトフの話によれば、仕事を終えて歩いているとふと妙な香りが漂ってきたのだという。匂いのもとを辿って行くと、そこにはリィナが微笑んでいたらしい。
 あまりに良い香りだったから何だと問えば、リィナはグラスランドの香を焚いているという。そこから話が弾んで、その香を少し譲ってもらえることになり、焚き方を教わるために部屋に招いて話を聞いていたのだが、いつの間にか寝ていたらしい。
「らしくねぇなぁ」
 あのマイクロトフが、他人の気配を身近に寝入るなど想像もつかない。剣の腕もなかなかの武人である男が、たとえ同じ軍の仲間の前であれ、それほど無防備になるわけがないのだ。
 そのうえ、女性が苦手と有名なマイクロトフが、である。
 ビクトールが激しく顔を顰めているのに、カミューも再びの憂い顔で目を伏せる。マイクロトフの言葉に疑う理由はないのだが、どうにも居心地の悪い出来事だ。
 だが、そこでふとビクトールが声をひそめた。
「おい、ちょうど良いじゃねぇか。本人に聞こうぜ」
「え?」
「ようリィナ! こっち来ねぇか」
 突然の大声にカミューがハッと顔を上げれば、リィナがちょうど酒場に入ってきたところだった。呼ばれて振り返った彼女は、こちらと同じく驚いたような顔をして、それから何を思ったかふぅっと笑みを浮かべた。
「あら、ビクトールさんにカミューさん。お二人がご一緒だなんて珍しいことですわね」
 リィナは手招かれるままに、二人の向かいの席へと座る。
「……御用は、昨夜のことですかしら?」
「分かってんなら話は早いなぁ」
 ビクトールが手を揉み合わせてにやりと笑う。
「マイクロトフが相手じゃちっとも要領を得ねえもんだからよ。おまえのほうから聞かせてもらおうと思ってな。昨日の夜、実際何があったのか教えてくれやしねえか」
「それは構いませんけれど、女性の口から言うには少しばかり憚ることですわね」
 ニッコリと笑ってリィナは何故だかカミューをちらりと見遣る。心なしか挑発的に見えるその微笑に思わず顎を引いたカミューだったが、続く彼女の言葉にそのまま息が止まった。
「わたくし、あの素敵な団長様を誘惑してみたんですの」
「ああ!?」
 ちょっと待てよおい、とビクトールが身を乗り出した。
「おまえなぁ…いくらなんでもあの団長さんは手を出すには向かねぇ相手だって分かってんだろうよ」
 見るからに堅物。真面目で一本気で、女性は苦手。同盟軍ではもはや誰でも知っている元青騎士団長マイクロトフの評判だ。しかしリィナは含み笑うとそうかしら、と首を傾げた。
「わたくしには、あの方は情熱的な方に映りましたわ。きっと力強く愛してくださるんじゃないかしらと思って」
 ふふ、と。まるで妖艶な熟女のように笑うリィナの言葉に、カミューは思わず片手で目許を覆った。
 ―――確かに、ね。
 思わず思い出してカミューは赤らみそうになる己の顔を何とか掌で隠そうとした。
 リィナは流石の洞察力である。

 昨夜、マイクロトフがカミューに対して誤解だと叫んだのは、何も親友と同室の部屋に女性を連れ込んだ事を言っただけではない。
 親友としてだけではない、もう一面の恋人であるカミューに対して、これは浮気ではないと叫んだのだ。尤も、誰も二人の関係を知らないので、そうと受け取った者は皆無だっただろう。
 それにしても、流石の同盟軍だ。
 あのマイクロトフを誘惑しようと思う女性がいるなどとは―――。
 だがそうやって密かにうろたえているカミューの前で、リィナは更なるとんでもない発言を重ねた。
「でも、駄目でしたわ。せっかく気分を良くして差し上げる香を焚いたのに……どうやらもう既にあのマイクロトフ様に情熱的に愛されている方がいるみたいですわね」
 そこで、リィナの目がちらりとカミューを見た。
「………」
 何故そこで見る。
 ―――まさか。
 赤らみかけた顔が一転して白くなっていくカミューである。目許に当てていた掌を硬直させたまま、さっさと向こうを見てしまったリィナを凝視する。
 だが一方ではビクトールが何やら大喜びで手を叩いているではないか。
「おい、そいつは本当かよ! あの真面目ばっかりだと思ってた団長様に恋人か!?」
 そして固まったままのカミューの肩を掴んで大きく揺さぶる。
「なぁおい! 進んで教えろとは言わねぇが、ちったぁこそっと教えてくれても良かったんじゃないかよ。あの御仁の恋人ってないったいどんな相手だ?」
 まさかマチルダに置いてきちまったのか、それともこっちで見つけたのか。大人しい女性なのか、それとも元気な娘なのか。ビクトールは既に酔っ払っているのか、一人で次から次に好きなことを喋っている。
 だがその矛先が突然にカミューからリィナへと移った。
「なぁ、おまえは聞いてないのか?」
 するとリィナはまたもカミューをちらりと見てから、薄く笑った。
「何も―――ただ、違う、とだけ。失礼な話ですわよねぇ。女性のほうからお誘いしているのに、まるで毛虫のように邪険に払われたんですのよ?」
 それから彼女はふん、と怒ったように鼻を鳴らした。
「ですから教えて差し上げられるのは、あの方の恋人は私とは似ても似つかない方なのかも、ということだけですわ」
「そんなもんか? あ、だけどよ。それじゃあおまえ、マイクロトフと一緒に寝てた理由がつかねぇだろうがよ」
 それもそうである。マイクロトフがリィナを拒絶したなら、そこで別れれば良い話である。だが彼女は事も無げに言った。
「それは、焚いた香の所為ですわ」
「ん?」
「誘惑するには難しそうな方でしたので、少しばかり朦朧とする調合の香を……。きっとその恋人とわたくしの区別などつかなかった筈ですのにね。ですがそのうち寝てしまわれたので、わたくしせめて邪険にされた意趣返しにそっと添い寝を―――」
 したんですのよ、とリィナは微笑んだ。
 ぞくり。
 その笑顔に、ビクトールまでもが顔を強張らせた。
 あのマイクロトフでは仕方がないかもしれないが、矜持の高い美女を振る時はうまくやらねばならないということなのか。
「それであの絶叫かよ。あの御仁も気の毒によ」
「まったくですわね。でもこれっきり、次はどんな素敵な殿方をお誘いしようかしら」
 ね? とリィナは最後にまたもカミューをちらりと見遣って、ゆっくりと席を立つと、店の奥へと行ってしまった。その背を見送ってビクトールが深々と息を吐く。
「女ってのは怖いもんだよなぁ」
「………ええ」
 躊躇いがちに頷いて、カミューはそれでもリィナを嫌いになれない自分に気付く。
 香を焚くにしろ、酔わせるにしろ、男女の間で相手を誘惑するには別段卑怯なことではないと思える。だいいちリィナは相手が靡かないと知れば、きっとそのままアッサリと見限るだけだろう。言葉どおり、今後マイクロトフに手を出す真似はしないだろう。
 その点では一安心、なわけだが。
 ―――もしかして、二人の間柄がばれたか。
 リィナは何も言わなかったが、それでも思わせぶりな発言のせいで、ビクトールの関心を引いてしまっている。
「なぁ、それにしてもあのマイクロトフに恋人がいたってのは、まったく驚きだったぜ。あ、もしかしておまえさんも知らなかったとか」
 なぁなぁ、どうなんだよ。
 下世話な噂好きの筆頭のような男が、遠慮なくカミューの肩を押してくる。
 ―――どうする?
 とりあえず目の前の酒を飲み干してから考えようと、カミューはグラスを握り締めた。



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今更三周年企画を。
放置するには勿体無いお題ばかりなので。

2004/07/20