手繰り糸2


 その翌日にはすっかりマイクロトフの恋人の噂が、デュナンの畔に建つ城に広がっていた。
 早朝に道場に訪れたマイクロトフは、部下の青騎士たちの様子が普段と違うのにすぐ気付いた。何やら人の顔をちらりと窺っては、目が合いそうになるとさっと視線を外してしまう。
 何かあったかと顎をさすったのは最初の方だけで、会う騎士会う騎士その殆どにそんな態度をとられたのでは、怪訝に思うなという方が無理な話だ。
 合同訓練を始める前に、マイクロトフは腰に手を当てそんな部下らを睥睨した。
 言いたいことがあるのならはっきり言えと、ここでそう言わずにおれないところがマイクロトフである。
「おまえたち。さっきからなんのつもりだ」
 明らかに不機嫌だと渋面で構える青騎士団長に、部下たちは息を飲んだ。誰もが一言も発さずに、むず痒いような痛いような空気の中で直立不動でいる。
 答えられるわけがない。
 この元青騎士団長が女性関係について、対なす元赤騎士団長とは比べられないほどの不得手者な筈なのを誰もが知っている。その手の話で冷やかそうものなら本気で怒り出してしまうので、マイクロトフに対して女性のことでからかえるのは唯一カミューくらいのものなのだ。
 だが、誰もが喉の奥に重みを抱えていたのは間違いない。
 そんなだからこそ、この敬愛する団長に恋人が、などという噂話が気になって仕方がないのである。できるのなら、今ここで本人の口から真偽の程を教えて欲しいくらいなのだ。
 二日前の夜。マイクロトフの寝台にリィナが、という話は既に有名なものだ。
 同室のカミューが戻ってきてそれを目撃したというのだから、ちょうどその時見張り番をしていた騎士たちのその衝撃たるや物凄かった。「あのマイクロトフ様が寝床に女性を!」なんてものである。やっと堅物な男にも春が来たのかと騒いだのも束の間、当の本人が友人に対して誤解だと大声を張り上げたために、恋人でもなんでもないのだとすぐに知れた。
 だががっくりしたところに、昨日の夜そのリィナが傭兵部隊のビクトールにマイクロトフに恋人がいるらしいと教えたと言うのだ。しかもその場にはカミューもいて、否定も肯定もしなかったのだとか。
 これは気になる。
 気になるが、面と向かって問えるほどの勇気の持ち主はいなかった。
 結局気まずいままに早朝訓練は終わってしまったのだが、マイクロトフは釈然としない。だがそれも部屋に戻って、未だ夢見心地の恋人の寝顔を見るなり、その生真面目な表情が僅かに緩む。

「カミュー」
 こめかみにそっと手の甲で触れて、子供のような暖かな体温に目を細める。
「起きろ、もう朝だ」
 髪の色と同じ明るい色の眉を親指の腹でなぞると、目蓋がぴくりと震えた。ほんの少し前までは、こんなふうに同じ部屋で起居するなど思いもよらなかったが、いざ騎士団を離れて信念の赴くままに剣を振るえるようになったとしても、変わらずカミューが傍にいることが嬉しかった。
 こうして、穏やかに眠るカミューを優しく起こしてやることが出来て、本当に良かったと思う。
 二日前の夜は、とんでもない事態に陥ったものだが、今はもう通常通りの平穏な朝が訪れている。
 それにしても―――あんなに焦ったのは久方ぶりのことだった。

 昔、まだマイクロトフが一介の騎士であった頃に、同僚の騎士に浮気癖のある男がいた。許婚がいるにもかかわらず浮気を繰り返す男の話に、相手の女性に対して不誠実だと眉をひそめていたものだったが、当時の男が語った修羅場の話に、今更ながら納得してしまう。
 浮気相手との現場を見咎められ、息も絶え絶えになり冷や汗だらけになって、しどろもどろで弁明をしてしまって、それは大変だったとその騎士は同僚相手に愚痴っていたのだが、まさしく同じ体験をしてしまった。
 勿論、マイクロトフには浮気の心当たりなどない。しかし、目覚めた時に恋人以外の若い女性が同じ寝床におり、それを恋人が目撃した、となれば心当たりがなくとも焦る。
 誤解を恐れてマイクロトフは大声で弁明せざるを得なかったのだが、カミューはただ笑って「分かっているから」と深夜の大声を逆に諌めてきた。
 しかしそんなカミューの様子にホッとしたのも束の間、マイクロトフはふとしたことに気付いた。
 思い出すのはやはりあの頃の浮気癖のある騎士の話だ。
 そんなにも浮気を繰り返して、よく許婚に婚約を破棄されないものだと周囲が呆れていたのだが、男はそれは当然だよと言ったのだ。
 曰く、謝り倒して何でも言うことを聞くからと宥めすかして、数日間にもわたって花束を贈り、漸く許してもらったのだと言ったのだ。それで許す方も許す方だと思うが、そんな周囲の声に、その騎士は得意げに、それは向こうも自分に惚れているのだから、などと言っていたのだ。
 おまえこそそんな相手に惚れているのなら二度と浮気なんかするなと、周りから拳を貰っていたが、それでも何故かその騎士は幸せそうに笑っていた。
 今ならあの騎士の笑みの理由が分かる。
 好きな相手が、自分の浮気に怒る。それはいわゆる相手が自分に向ける独占欲の発露であるのだ。嫉妬というものなのだ。
 本当に惚れた相手が、自分に対してはっきりと独占欲を示してくれるのは、なるほど確かに嬉しかろう。
 ―――カミューは、涼しい顔をしていたのだが。
 ふと、そこでそんなふうに考えてしまうマイクロトフである。
 恋人が自分以外の人間と寝床を共にしていたのに、疑いもしない。
 いや、むしろ信用してくれているのだと思えば、それはそれで心から嬉しく思う。だがその反面、恋人ならば少しは取り乱すものなのではないか、と。
 思ってマイクロトフは、いかん、と首を振った。
 カミューは大切な恋人だ。
 誰にそうとはっきり宣言できずとも、彼以外をマイクロトフが愛することはない。それはカミューにとっても同じことだ。
 こんな世の中だからこそ、妙な感情に振り回されていてはいけないのだ。日々のささやかな幸せにこうして目を細めるだけで、充分ではないか。

「……ん…」
 小さな吐息がこぼれ、マイクロトフはそこではっとした。指先をカミューの髪に差し込めば、目蓋が震えて朝陽を吸い込んだようなカミューの瞳が開く。
「マイクロトフ……」
「起きたか、カミュー」
 さらり、と髪を撫でてマイクロトフは身を屈めるとカミューの目許に口付けた。すると、まだどこか寝惚けた調子でぼんやりと眼を動かす。その様子にふと笑むと、同じように笑みが返った。
「今日も良い天気だぞ。早く着替えて朝食に行こう」
「そのようだね。これなら、外のテラスで食べても良いかもしれない」
 起き上がりながら窓の外を眺めてカミューが頷く。ハイ・ヨーのレストランは広く、屋内だけでなく空の見通せるテラスもある。気候の良い日にはその端のテーブルが指定席になるカミューだ。
「今朝は何を食べようかなぁ」
 メニューの豊富なレストランでは、毎日違う料理を楽しむことも出来る。それこそ、料理人として天才的な手腕を誇るハイ・ヨーは各国の独特の調理や味付けの研究に余念がないため、こんなデュナンの南にいながら、ロックアックスの家庭料理が楽しめるのだ。
「やっぱりパンかな……」
 呟きながらてきぱきと支度をするカミューを、マイクロトフはやはりなんとも言えない幸福な気持ちで待っていたのだった。



 ところが、行った先でのレストランでもマイクロトフは不本意な視線を浴びる羽目になっていた。
 当然落ち着かない。案外、鈍感に見えてそうしたところには敏いマイクロトフである。流石に一般人に向かって、道場で部下たちに怒鳴ったように視線の真意を問い質す真似は出来ない。むっつりと眉間に皺を寄せて皿をフォークで突付いていた。
 そこでカミューがふと小さく笑った。
「マイクロトフ、眉間」
 白い手袋に包まれた指先で、ちょいと己の眉間に触れて見せたカミューに、マイクロトフは何を言われたかすぐに悟る。
 慌てて眉間ごと額を押さえてテーブルに肘をついて唸った。
「注目の的だな。まぁ、昨夜に予想はしていたが、流石におまえがここまで興味を持たれるとは思っていなかったな」
 予想の範疇外だった、と呟くカミューにマイクロトフが揉み消しかけた眉間の皺を改めて深く刻んだ。
「どういう事だ。昨日に何かあったのか」
「ん? あ……いや、まぁ、ね」
 カミューは苦笑を浮かべて困ったように首をかしげた。
「事情は後で説明するよ。でも、怒ってくれるなよ?」
「聞いてから考えよう」
「ま、発端はおまえだがな」
「なに?」
「あぁ、良いからさっさと食ってしまえ。それでいったん部屋に戻ろう」
 なんだか投げやりな口調で言うと、カミューは手元のサンドイッチに食いついた。



 そして、早々に朝食を終えて部屋に戻ったカミューの話に、マイクロトフは青褪めたり赤くなったり大変だった。特にリィナの媚香云々の辺りでは暑くも無いのに汗を拭っていたほどだ。
 その姿を気の毒にな、と思いつつカミューは昨夜のことも教えてやったのだ。つまり、ビクトールが妙な思い込みをしたのだと。
「いや、まさかその場でわたしがおまえの相手だよ、とは言えなくてね」
 ちなみに、どうもリィナに気付かれたかもしれない、というところは黙っておいた。
「ともかく、おまえが無意識にリィナ殿を退けたものだから、本命が居るのだろうと勘繰られて、それが皆に知れ渡ってしまったんだよ。もしかすると今後、噂好きな者がおまえに本当の所を聞いてくるかもしれないな」
 マイクロトフは黙り込んで難しい顔をしている。やはり困ったように首を傾げてカミューは笑みを滲ませた。
「……あまりに対処に窮すれば、わたしが相手だと言っても構わないからな」
「む―――いや……」
 惑うようにマイクロトフは視線を僅かに泳がせたが、すぐにその瞳はカミューを真っ直ぐに捉えて、笑みに細められた。
「大丈夫だ。……たぶんな」
「そうかい?」
 笑いながら、なんだか不安だなぁと囁くカミューにマイクロトフは眉を跳ね上げる。だがその頬に手を伸ばして、カミューはふと静かな眼差しでその瞳を見つめ返した。
「まぁ―――今回の事は、リィナ殿の誘惑を無意識に退けたと聞いて、それだけでわたしはとても嬉しくなってしまったんだけれどね」
 その所為で二人の関係が周囲に暴かれてしまう可能性を孕んでしまったとしても。
 なんとも単純な男心だなぁと微笑むカミューに、マイクロトフはただ首筋を赤らめたのだった。



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今回のお話は、お察しの通り騎士たちが同盟軍に参入して直ぐの頃のお話です。
まだ二人の関係はビクトールにもちらりとも知られてないんですよね。
ばれる時が楽しみです(笑)

2004/08/07