手繰り糸3


 さて、人の口に戸は立てられないと昔から言うように、噂とは流行る風邪のように大きく広がっていくものだ。
 その日の夕方、一日の仕事を終えたカミューは最後の署名を済ませた書類を、些か乱暴に机上へと放った。ぱん、と軽快な音を立てて木製の机の上へと落とされた書類は、しかし不満を言うでもなく行儀良くそこへと収まる。
 だが、副官だけは上官の行儀の悪さに顔をしかめた。そんな副官に僅かな微笑を向けて、カミューは颯爽と部屋を出る。
 向かうはマイクロトフのところだ。
 あの男がいる場所は大抵決まっている。机仕事のない時以外は訓練場か部屋かのどちらかだ。とりあえず近いほうからと、カミューは私室へと足を向けた。
 ところが、無人の部屋を覗いてそのまま道場へ向かい、そこにマイクロトフの姿がないのにカミューは小首を傾げてしまった。きょとんとしたまま横を通りかかった青騎士をひとり呼び止めれば、マイクロトフはもうずっと前に道場から出て行ってしまったのだそうな。
 その理由というのが。

「ナナミさんと、アイリさんです」

 横から不意にハキハキとした声が割り込んできた。振り向けば橙色の胴着が眩しいワカバが、青騎士とカミューとの間に首を突き出して顔を覗き込んでいた。
「……これはワカバ殿。マイクロトフの行方をご存知なのですか?」
 吃驚して目を僅かに開きつつ、再度首を傾げたカミューに、ワカバは「それがねぇ」と腕を組んだ。
「他にも女の子が何人か道場に来たんです。それで鍛錬中のマイクロトフさんを、あっという間に取り囲んでしまって。ナナミさんとアイリさんが代表で聞いていました」
「何を、ですか?」
 ひやりとした気配を背筋に感じつつ、微笑を引き攣らせたカミューである。案の定。
「マイクロトフさんの恋人の事です」
 ああ、やっぱり。
 あのレディたちがその噂を聞いたとして、黙っているわけがなかったのだ。
 すっと、白手袋の人指しゆびの先を目元の窪みにあてて、カミューは眉間に皺を寄せた。
「それでせっかくの鍛錬を中断して、マイクロトフさんは追われるようにして出て行ってしまいました」
「ナナミ殿たちと、ですか?」
「いいえ、誰も飛び出していくマイクロトフさんの勢いについていけませんでした。でも皆さん、直ぐに後を追って探しにいかれましたけど」
 今頃はやっぱり何処かで捕まっているんじゃないでしょうか。
 生真面目にそう予想まで立ててくれるワカバに、青騎士も同調して頷いている。マイクロトフがレディ達に取り囲まれて困窮している―――容易に浮かぶその光景に、些か草臥れたような苦笑を浮かべてカミューは俯いた。
「分かりました、教えて下さって有難うございます。では、探して救出を試みるとしますよ」
 なんとも堪えきれない可笑しさに顔を歪めつつ、カミューはワカバと青騎士に礼を告げると道場を後にした。
 そしてナナミとアイリのむくれ顔がまた容易に想像出来そうだと、笑みを浮かべてカミューが向かったのは酒場である。いかな好奇心に満ちた少女達といえども、入り口でレオナに門前払いを食わされるに違いないのだから。
 案の定。
 酒場のカウンターで、肩肘をつきがっくりとしてグラスの酒を舐めるマイクロトフの背中を見つけた。
 いつも背筋の伸びた男にしては、なんとも珍しい姿である。
 酒場は、日暮れて間もないのに既に喧騒で賑わっている。その店内を目立たぬように足音を殺して歩み寄っていく。
「マイクロトフ」
 隠しても声には可笑しさがつい滲む。その微妙な違いを聞き取ったか、振り向いたマイクロトフは眉間に皺を寄せた如何にも不満げな顔をしていた。
「………」
 だが無言ながらも、マイクロトフは空いた隣の椅子を引いた。ごく自然な動きでカミューがその椅子に座ると、再び前を向いてしまう。
「今日は一日、疲れたろう」
 カミューが労うようにそう言うと、マイクロトフは黙って頷いた。
「事情は聞いたよ。大変だったな」
 短い言葉でも、マイクロトフにはそれで通じる。カミューがカウンター越しのレオナに酒を注文していると、横から吐息のような声が聞こえた。
「……どうだろう。結局俺は何も答えられなかった」
「どんな質問をされたんだい」
「抽象的なことばかりだ」
「たとえば?」
「……『どんな』と聞かれてもな、一言で形容できる言葉など俺は知らん」
「なるほど」
「かといって、名前を明かすにも不都合があるだろう」
「そうかな?」
「そうとも」
 そこでレオナがトン、とグラスをカミューの前に置いた。
「お待たせ。なんだい、色男が二人して溜息かい?」
 景気の悪い真似はよしとくれよ、とレオナが笑う。
「さしずめ、噂の恋人の話なんだろ」
「レオナ殿……」
 マイクロトフが困ったようにその名を呼ぶと、レオナは目を見開いて手を振った。
「嫌だねぇ、遠慮を知らない小娘じゃあるまいし、無理に聞いたりしないよ。安心して飲んでっとくれ」
 そしてカウンターの別の客の方へと移っていく。その背を見送りマイクロトフが再び肩を落として項垂れた。
「昨日今日と、ずっとこんなものだ」
 昨日はまだ事情を知らなかったので気づかなかった事も多かったが、今日は朝から妙に周囲の好奇心に満ちた視線を感じて、どうにも居心地が悪かったのだと言う。
 カミューはその背を慰めるように叩いて、もう片方の手でグラスを取るとマイクロトフのそれと軽く触れ合わせた。
「その内、収まるさ」
 在り来たりな言葉しか掛けてやれずに、カミューは取ってつけたような微笑を浮かべてマイクロトフの肩を撫でた。
「だと良いがな」
 酒を舐めながらポツリと呟く男にカミューは笑い、とにかく気にするなと励ますにつとめた。
 噂などというものは、気がつけば廃れているものだ。一時の気苦労さえ乗り切ればどうというものでもない。とはいえ、最初からそんな厚顔な器用さがあれば、そもそもこんな噂に煩わされることもなかっただろうが。
 それにしても、と思う。
 マチルダにいた頃には考えられなかった悩み事ではないか。
 カミューは知らずのうちに微笑を浮かべてマイクロトフの精悍な横顔を眺めていた。
 厳しい眼差しに険しい表情。普通なら、その辺の少女など恐れて声をかけるのも躊躇われるような男だろう。それが、どうだ。この同盟軍では恐れ知らずな少女ばかりだ。しかも、相手がマチルダの元青騎士団長だなどという肩書きを持っていたとしても、彼女らに躊躇いはない。
 それは、マイクロトフにとってとても良い環境の変化だと思うカミューだった。
「…なんだ。にやにやと」
 カミューの眼差しに気付いたのか、振り向いたマイクロトフが眉間に皺を寄せる。その皺に、思わず指を伸ばしながらカミューは首を傾げて口元にくっきりと笑みを刷いた。
「色男が台無しだ。もっと愛想良く振舞ってみればよいのに」
「なんだと?」
「そうすれば、きっとレディたちはおまえの恋人を噂するよりも、自分がその恋人になりたくて声をかけてくるだろうに」
 親友の欲目、或いは恋人としての欲目がそう言わせているのかもしれない。だが、マイクロトフは本当に魅力的な素晴らしい男だ。リィナが目をつけて誘惑しようとしたのも分からない理屈ではない。
 未遂に終わって、なによりだ。
「俺は一人だけで充分だ」
「……無欲だな」
「馬鹿を言うな。俺はこれ以上ないほど欲だらけだ」
「どんな?」
 柔らかな物言いだったろうと思う。対するマイクロトフもどこか静かな口調であったから。しかし、その男の瞳は常になく熱く揺れていた。
「マイクロトフ?」
「俺は―――」
 言い淀むような態度に、カミューは首を傾げる。そこにマイクロトフが新たに言葉を重ねようとしたとき、再びの闖入者が現れた。

「おお! マイクロトフ!」
 待ってたぜぇ、と店中に響き渡るような大声で割り込んできたのは傭兵のビクトールだった。
 大げさな仕草で腕を広げ、カウンターに並ぶ二人のもとへ歩み寄ってくる。思わず身を引きがちになったマイクロトフとカミューに他意はなかった。
 昼間はなかなか擦れ違わねぇもんだからよ、と両手を揉み合わせながらどっかりとカミューの横に座ると、ビクトールは片手間にレオナに酒を持ってこいと命じながら、カウンターに肘をつくとぐいっと身を乗り出してきた。
 そして。
「単刀直入に聞くが、おまえの恋人ってなぁ、誰だ」
「ビクトール殿……」
 唸って額を押さえたのはカミューのほうだった。
「レディ達よりも性質が悪いですよ」
「あん?」
「大人気ないと申し上げているんです。会うなりそれはないでしょう」
 マイクロトフを置いて自分が応対するつもりのカミューに、ビクトールはだってなぁと悪びれず向こうのレオナに酒を注文しつつ口を尖らせた。
「気になるじゃねぇかよ」
「だからってそのまま聞きますか」
「んだよ、あんたが教えてくれないからだろうが」
 だったら本人に聞くまでだよなぁ?
 早々に届いた酒を煽りながら、横目で笑う。なるほど、自分に正直な男のようである。カミューはそして、傭兵から目を逸らすと反対側のマイクロトフをちらりと見遣った。すると。
「………」
 黙り込んだマイクロトフは何故だか不機嫌そうな顔をしていた。
 どうしたんだい、と声を掛けそうになった、そんなカミューの腕をまた別の手が引いた。ぎょっとして振り向くといつの間にやらそこにはアニタがいた。千客万来、というよりも気安い人物の集った同盟軍ならではなのだろう。
「あ…こ、これはアニタ殿」
 女剣士は、既にどこかで一杯引っ掛けてきたのか、いかにも酔っ払いの目をしてカミューをじっとりと見ていた。



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終わらなかった……。

2004/09/21