Age of lonelines 1
ロックアックス。
洛帝山を望み、背後にはそれに連なる山脈を抱える石の街。整然とした街路に、不自然なく据えられた針葉樹の並木。この街を作り上げた人々の感性の良さと、いかにこの街を愛し育んできたかかが分かる風景である。
青年は時折この小高い丘に登り、そんな街を見下ろすことがある。
何かにひどく疲れた時や、気が滅入ってならない時。そんな時はいつも独りになりたくて街から離れ、こんな場所からその街を見下ろして、自分と、今の自分を取り巻くあらゆる環境を完全に切り離してみる。
そうして心に浮かぶものは。
―――この街に居るのは、本当に正しいのだろうか?
そんな迷い。
―――この街に来たのは、最良の選択だったのだろうか?
そんな惑い。
だが青年は心の中でそれを強く否定した。
否、自分は望んでこの街を訪れ、そして望むべく騎士団へと身を投じた。何を迷う事がある。ましてや惑っている暇などありはしない。
いつも、いつの時も青年はこうして街を見下ろしながら心を新たにするのだ。
立ち止まってなどいられない。ただ目指す高みまで一心に進むしかないのだ。それに何よりも自分にはもう故国に帰るべき場所などないのだから―――。自らにそう言い聞かせて。
ロックアックスの街並み。その整然とした大通りを進む若き騎士が三名。赤い騎士服が二つ並び、その後ろを青い騎士服が一つ続いて歩いている。彼らは注視を浴びていた。
何故ならばその先頭を颯爽といく洗練された立ち居振る舞いの、男性にしては美しく整った容貌の青年に街の娘たちはこぞって熱い視線を寄せるからだ。
「……おまえと歩くと落ち着かない」
青年の傍らを歩く赤騎士がそんな事を言ったが、言われた本人は素知らぬ顔で前を向いてただ歩く。赤騎士のカミュー。将来を嘱望される有能な若者である。
「一度手でも振ってやれよ」
見ものだろうぜと赤騎士が言うのにカミューは少しばかり目を細めた。
「とんでもない」
短く答えるやや低めの掠れがちの声は、先日風邪を引いたからだと言う理由らしい。それでも染み入るような穏やかな口調は変わらない。
「そんな事をしようものなら、ほら―――そこの男が不実だとか言ってうるさいよ」
「不実だ? 手を振るのがか?」
カミューの言葉の先、黙り込みながら数歩遅れて二人の赤騎士の後を歩くのは、青騎士のマイクロトフ。ひたすら寡黙にしていたのだが、カミューの発言に振り返った赤騎士に顔を顰めた。
「俺に聞くな。別に手を振るくらいどうと言う事は無い」
低く響く硬い声にカミューの柔らかな笑い声が重なった。
「嫌な顔をするくせにな」
「しない」
憮然としてマイクロトフはカミューを睨んだ。するとカミューはにやりと笑って足を止めてそんな男を振り返った。
「そうか? なら―――」
カミューはマイクロトフから視線を逸らせ、そんな彼らを興味深そうに見ていた近くの娘に微笑みを浮かべてみせた。柔らかく、蕩けるような掛け値無しの笑みである。途端に娘が顔を赤くして俯いてしまった。
「カミュー……」
押し殺したようなマイクロトフの声にカミューが肩を竦めて傍らの赤騎士にちらりと一瞥をくれた。
「な?」
「ああ、本当だ」
赤騎士はマイクロトフを見てから自分の眉間に指を添えて苦笑を浮かべる。しっかり寄った眉間の皺はカミューの予言通りだった。
「この通りだから、わき目もふらず帰らないと」
「俺たちは務めで街に出てきたんだ。用が済めば迅速に城へ戻るのは当然だろう」
説くようにそんな事を言うマイクロトフに、カミューはただ微笑を浮かべ、傍らの赤騎士は珍しいものでも見るかのような目で両手を上げて降参の態度をとった。
「うわ、さすがマイクロトフだな」
「どう言う意味だ」
怪訝に問うマイクロトフに、赤騎士は掌をひらひらと振って答えた。
「そのまんま。おまえはそれで良いんだろうけどな―――よく、カミューと仲良くやってけるよな」
その時ふとカミューの微笑が色を変えたが、それは一瞬のことで赤騎士もマイクロトフも気付かなかった。それどころかまるで何事もないように余裕のある笑みでそんな赤騎士を見る。
「マイクロトフの良さを知っていれば、付き合いが続くのは当然だな。真面目で熱血で青くて世慣れてなくて、本当に時々殴りたくなるくらい騎士馬鹿だけどね」
「…カミュー、それは俺を誉めているのか貶しているのかどっちだ?」
「聞きようによっては誉めているだろう? ほらまた眉間に皺だ」
いつか取れなくなるぞ、とカミューはするりと手を伸ばしてそんなマイクロトフの眉間を指先でトンと軽く突いた。だがその手を引く前に強い力に阻まれる。すかさず掴まれた手首にカミューは「あれ」とマイクロトフを見据えた。
「おまえ、結構動きが素早くなったなぁ」
「ぬかせ、この皺の一番の原因が」
「あぁもう痛い、離せ」
「駄目だ。さっさと城に戻るぞ」
そうしてマイクロトフはカミューの手首を取ったまま大通りを歩き始めた。当然、引かれるままに歩かざるを得なくなり、渋々カミューは歩を進める。そんな二人を見て、まるで取り残されたような赤騎士がぽつりと呟いた。
「……不思議な奴らだよな」
見た目も性格も主義主張も違うのに、こうして二人でいるのが実に自然なのである。本当に不思議だともう一度呟いてから赤騎士はどんどんと遠ざかって良く二人を慌てて追ったのだった。
そうして若い彼らにとって漸く『帰る』という意識でもって足を踏み入れるようになってきたロックアックス城に戻るなり、カミューはマイクロトフの手を振り払った。
もう一人の赤騎士がさっさと自分の持ち場へと戻り姿を消してからのことである。
「いつまで馬鹿力で掴んでいる…」
指先に少し痺れを感じてカミューは眉を顰めた。
「まったく…」
「だが寄り道もせず真っ直ぐ戻ってこれた」
「あぁその通り。おかげで今日は早く休めそうだ。取り敢えずわたしは報告に行って―――」
「カミュー」
赤くなった手首に顔を顰めてさっさとマイクロトフに背を向けて行こうとするカミューを、だが慌てたような声が遮った。
低いのに確りと耳に届く通りの良い声である。
出会ってから年を重ねるごとに益々魅力的になっていく友人の声がカミューは好きだった。同期や下期生の中には密かに憧れている者も多いだろう。だがその声が一番多く呼ぶ名は「カミュー」だと誰かが揶揄した通り、いつも彼は「カミュー」を呼ぶ。カミューもこの声に名を呼ばれるのはことさら気持ちが良いのでそれは構わないのだが、最近それが少し辛くなってきている。
他に人がいればそうでもないのだが、こうして二人きりになると途端に居心地悪く感じるのだ。
「なぁカミュー」
ぼんやりとしているうちにマイクロトフはカミューを覗き込むようにしてもう一度名を呼んだ。咎めるようでいながら案ずるような声音で。
「……なんだ?」
だがカミューは微笑を浮かべるとそんな男を見つめ返した。
黒い瞳は逸らされる事なく見詰めてきている。その眼力の強さに怯まず、こんな心の憂鬱など微塵も感じさせないように振る舞うのはカミューにはもう慣れ切ってしまった事だ。
「この前、また何処かに姿を消していただろう。非番だからといって行き先も告げずにふらっと姿を消すのは感心せんと前にも言った筈だが」
真面目に案じて忠告をしてくれる。カミューに、こうして真正面から意見をぶつけてくれるのは同期ではこのマイクロトフという男だけだ。その得難い存在をありがたがりこそすれ疎ましく思うなどいつか天罰が下りるだろう。
しかし気付けばいつもの如く、はぐらかすような言葉を返していた。
「あぁあれな。ついうっかり伝え忘れていたんだ」
軽薄な笑みに軽薄な言葉。自分で自分が嫌になるのはこんな時だ。
「おまえはいつもそれだ。うっかりが続けばいつか大事に繋がるぞ。日頃から気をつけろ」
何故、この男とこんな自分が親友などであるのだろう。そう思った途端に自分の浅ましさに目の前の友人を正視できなくてつい俯いた。
「うん、気をつける……いつも、ありがとう、マイクロトフ」
思いがけずぽろっと零れ出た素直な言葉と態度に、マイクロトフもそうだがカミュー自身も驚いていた。
「どうしたカミュー」
呆然としたような声にカミューは慌てて顔を逸らす。
「…目に、ごみが入った。水場で洗って来るよ」
目に指をやりながらぼそりと呟いてカミューは僅かに後退りする。
「カミュー? いや、俺が言いたかったのはこれだけではなくてな」
「あぁこれはかなり痛い。急いで洗わないと」
一刻も早くマイクロトフから距離を取りたくて、踵を返すと背を追う声に振り向きもせず足早に進む。そんな自分がひどく卑小で滑稽に思えた。
こうして、つい先日街を見下ろして立て直した筈の心が早くも挫け掛けるのだと、感じずにはいられないカミューである。
そしてマイクロトフと別れたカミューは、告げた通りに水場へと来ていた。
冷たい水で顔を洗う。
もう、冬と言っても良い頃だ。水に触れた指先も濡れた頬も、氷を当てたように凍える。
水を滴らせる髪さえも、まるで神経が通っているかのように冷たさを感じるようだったが、その冷たさは掻き回され乱れた気持ちを鎮めるには都合が良かった。
カミューは水場のふちに両手をついて、上体を深く折り曲げる形で暫く動かずにいた。ぽたりぽたりと垂れた前髪の先から雫が落ちる。その軌跡を眺めながら胸の内で自らを激しく非難した。
―――最悪だ。
突然身を翻した自分の態度をマイクロトフは不審に思ったろうか。いや、大丈夫だ。何かを感付かせるような下手な真似はしなかった筈だ。
自分の行動を思い返して胸に安堵を覚えつつも、カミューはそんな己が虚しくてならなかった。
―――何をしているんだわたしは。
前髪を払い上げて水気を飛ばすと、脱いで置いてあった白手袋を手に取りあげる。僅かに湿気を含んだ肌に引っかかってすんなりと着けられないそれを、それでも丁寧に両手にはめると不思議と気持ちが整った。
そうして水場に一人立つ青年は何処から見ても騎士然として、誰も彼がそうして胸中で自分を責め嘲っているようには思わないだろう。
カミューは現在赤騎士団において中隊長の任にあった。
これは二十二歳という若さでは異例の地位である。だが数少ない戦歴でもその活躍は誰もが認めるところであり、その知能、剣技、礼節など騎士としての優秀さは同期の中でも群を抜いている。当然の地位と言えた。
カミューとて現在の階位が不相応だとは思っていない。
しかし、そんなカミューの存在を妬み疎ましく思い、足を引っ張ろうとする輩がいるのはどんな世界でも通じる哀しい常識であった。
迷い、惑っている場合ではないのだ。
早く誰の姑息な手も届かぬ高みへと昇るのだ。そして、そうして地位を固めて漸くこの街に己の確固たる居場所が生まれるに違いない。カミューは思い、まだ濡れて雫を落とす髪をもう一度掻き上げた。
―――今はだから、余計な事を考えている時ではない。
それに、慰めならば望めば与えてくれる存在が数多ある。
街に下りれば虚しくても一時的にとはいえ安らぎを与えてくれる温もりがある。
異郷育ちの孤立無縁の身には、例えば他の騎士たちが安堵を求めて家族の元へ帰るように、その代替に女性を求めるだけだ。
それがどんなに罪作りだろうと今はそれに縋るしかない―――そんな自分の弱さを思って、カミューは苦笑を浮かべて顔を濡らす雫を手の甲で拭い払った。
あぁ、こんな事が知れたなら彼には嫌われてしまうかもしれないな。
女性に愛想を振り撒くだけで顔を顰めるような男だ。ただ慰めを欲するためだけを理由に女性と親交を深めているのだと知ったら、どんな反応をするのか。
少しだけ想像をしてみてカミューは苦笑した。
顔を真っ赤にして怒るだろうか。
不実だ、と責めるだろうか。
それも良い。
実際カミューはマイクロトフに責められるのはそう悪い事では無いと思うのだ。彼の場合、怒りはすなわち本気に結び付く。心から考えてくれるからこそ火を吹くように怒り、責めるのだ。
だからカミューはマイクロトフに怒られるとどうにも嬉しくてならなかった。
しかしそれは以前までのことであって、現在は少し事情が変わってきている。今、マイクロトフに有無を言わさず責めたてられたら立ち直れそうにないのだ。
余裕が無いのだ。
心は、穏やかな日々を望んでいる。
変わらずマイクロトフと他愛の無い言葉を交わし、稚気めいた悪戯をしかけて、その愛すべき誠実さをからかい、思うままに馬を繰り剣を取り―――。
だがそんな事をしていると上へは昇れない。
ここでの自分の居場所が作れない。
敵は何処にでも居るものだ。油断はすなわち敗北を示す。
だが。
だがそれでもいつの日か、今と変わらず傍にいられるのなら。
予想もつかない未来の日に、同じようにあの眩しい存在が直ぐ傍に居てくれる保証が得られるのなら、どんな苦労もしてみせよう。
彼の隣に立つ事を許され続けるのなら、どんな高みにも上り詰めてみせよう。
冷えた空気が溜まる水場の中ほど。
温度など感じてもいないような表情で青年は立ち竦んでいた。だが不意に伏せられていた瞳が正面を向き、その琥珀に宿る意志が決意に揺らめいた。
そしておもむろに青年は全身を検め、何処にも隙がない事を確かめると迷いの無い足取りでその場を離れたのだった。
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『Age of lonelines』はENIGMAの楽曲です。
2004/03/01
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