氷の溶ける音


「ちょ、ちょっと待った!」
 緊張の高まった酒場。大慌てで大声を上げたのはシーナだった。彼は両手を広げて、上着の合わせに手をかけていたマイクロトフに駆け寄ってもう一度「待ってくれよ」と叫んだ。
「あんたがここで暴れちゃ洒落にならないって!」
 確かに、マイクロトフが立ち上がっただけで、三人の男達はそれまでの威勢は何処へ失せたか血の気の引いた顔で硬直している。
 マイクロトフはそんな男達を一瞥して軽く瞳を眇めた。
「……話にならんな」
「そう、その通り! だからまぁ座れって団長さん」
 細身のシーナが見事な体躯のマイクロトフの肩を叩いて鎮めているのはなんとも妙な図式ではあったが、マイクロトフはそれに反発するでもなく大人しく椅子に座る。だが、たったそれだけの事でその場の緊張感が緩んだのだから大したものである。
 シーナもほっとしたように肩を下ろした。
「暴力は良くないぜ。アニタさんもさあ、ぶっ飛ばしたい気持ちは分かるけどここは大人な態度で行こうよ、ね」
 へらへらとしたシーナの言葉ではあるのだが、アニタもそれに僅かだけ顔を顰めて「分かったよ」と傍にあった椅子を引き寄せて乱暴に腰を下ろした。

「でさ、俺から提案」
 シーナが場を仕切りなおすように酒場全体を見回した。そして最終的には注目の的となっている三人の男達へとその視線が注がれる。
「俺たちはあんたらに謝って欲しい。あんたらは謝りたくない。さあどうする? 俺はさぁ、あんたらが俺たちの言い分に納得してくれりゃあ良いんじゃないかと思うんだよね」
 年の割には底の見えないシーナの笑みに心なしか気圧されながら、男のひとりが声を上げた。
「おまえらの言い分だと? そんなもん、聞きたくもない」
「あれー? そんな事言っていいのかな。言っとくけど、俺もピコさんも、それにこのマイクロトフさんも、この本拠地じゃちょっとは女の子たちに影響力があるんだぜ?」
 ―――そこでどうして俺の名前が出るんだ。
 そう思わないでもないマイクロトフだったが、口を挟む隙がないので黙っている。
「アニタさんだって、大人の女性って事で憧れてる女の子たちが多いんだ。そんな俺たちと敵対して、あんたらこれからこの本拠地で女の子たちに相手してもらえると思ってんの?」
「……それは」
 気のせいでなければひどく情けない脅し文句のような気がするのだが、三人の男たちは一様に怯んで見せた。
「だろー? まぁほら、ちょっとの間だけ黙って座ってりゃそれで良いんだから。なあ」
 にこりと、実は女の子だけでなく老若男女問わず誑かすシーナの悪戯な笑みに乗せられて、男たちがおずおずと頷いたのはその直後だった。

 マイクロトフはそして、シーナがこれからなにを始めるのだろうと、少なくはない興味を抱いて見ていた。
 ところがだ。
「ほら、あんた。何傍観者決め込んでんだよ。今度こそ出番だぜ?」
 そのシーナの手が、気安げにマイクロトフの肩を叩いた。
「む?」
「団長サマってくらいだから、演説の一つや二つぶちかませるだろ。言ってやれよ」
 ちょっと待て。
「俺は!」
 ガタッと椅子を鳴らし再び立ち上がったマイクロトフに、シーナはにやりと人の悪い笑みを浮かべて寄越す。
「関係なくないよな。アニタさんの代わりに表に出ようってんなら、それが拳じゃなくて口で語る事になったって一緒だもんなー」
「シーナ殿、しかし俺は」
 カミューではあるまいし、自分の下手な言葉でこの男たちを改心させる自信など毛頭ない。それならよほど、シーナやその横に居るピコの方が適任ではなかろうか。
 そう思っているマイクロトフの心の内が、しかし彼らには手に取るように分かるらしい。シーナが訳知り顔でひらひらと手を振る。
「俺たちのコレはさ、女の子限定。この男前な顔と甘い声は、女の子にしか効き目がないんだよね。ま、それで不都合があるわけじゃないけどさ、どう考えたって今の状況じゃあんたが一番適任だと、俺は思うんだけど」
 そしてびしりと指を突きつけられてマイクロトフは言葉に詰まった。そしてそのまま酒場内を見回せば、誰もシーナの決め付けに異論を唱える様子がないではないか。
 ―――何故だ!
 一瞬で頭を抱えたくなったマイクロトフだったが、不意にくすりと笑う声がしてそちらを向いた。
 レオナだった。
 彼女は酒場の奥で、変わらず女店主然として構えていたが、よく見れば細長い煙管を片手に揺らしながら苦笑を噛み殺している。
「良いじゃないか、教えておやりよ団長さん」
「だが」
「別にそれほど構える必要はありゃしないよ。そうだねぇ、この馬鹿面どもをあんたの部下のさ、青騎士の人たちと思っておやりよ」
「青騎士の……」
 ふと俯いた所でアニタが手を叩く。
「ああ、そいつは良いじゃないか。団長として不心得な騎士たちに一発かますつもりでやんな」
 やんな、と言われても。
 とマイクロトフは三人の男たちを見た。
 仮に、彼らが青騎士だったとすれば果たして自分はどうしただろう。
 騎士たるもの、女性子供を守ってこそがその強さの本質であろうに、それを見下したり悲しませたりなどしようものなら、軽蔑するどころの話ではないだろう。もしそうなら。
「……俺は、情けない」
 そんな騎士がいたら、情けなくて堪らないだろう。
 そんなふうに、考え始めた時点で既にマイクロトフは自分が酒を摂取している自覚を意識からスカッと抜け落ちさせていた。酒にはめっぽう強いくちだが、潰れないのと酔わないのとはまた話が別なのである。



「だいいちだ」
 マチルダ騎士団元青騎士団長マイクロトフは口を開いた。
「本来なら愛しむべき大切な相手を、いったいなんと心得る。あしらうだの上手い事やるだのと聞こえたがそれは本心なのか」
 立ったまま拳を握り締めマイクロトフは男たちを睨み下ろした。
「金や贈り物で好意を得るのも、甘い言葉や態度で相手の心を得るのも、それはそれで良かろう。だが……それは相手が愛しくてする事ではないのか」
 違うな。
 誰かが呟いた。振り返ればシーナがにやりと笑う。
「あんたらはさ、単に『女』が欲しいんだよね。可哀想になぁー、なんていうか身も心も燃え上がるような真剣な愛ってのを知らないんだろ」
 そうそう、とピコが頷く。
「大好きな娘(コ)がとびきりの笑顔を見せてくれた時の幸せを、君たちは知らないんだろうね」
 そして、その通りさ、とアニタがぎろりと男たちを睨む。
「どんな女にだって可愛いところがあるんだよ。特に好きな男の事を想ってる時の女ってのはね、本当に可愛くて守ってやりたくなるんだから」
 全くだ、とマイクロトフもまた頷いた。
 マイクロトフもまた彼らの言い分に対して、同感する点が大いにあるからだ。
 カミューの事を考えると胸が熱くなって、時々熱くなりすぎて訳が分からなくなる事もある。それにマイクロトフが拙いながらもそんな想いを伝えた時に見せる彼の笑顔のなんと眩い事か。その綺麗な笑顔にどれほど幸せを感じたか数え切れないくらいだ。
 握り締めたこぶしにも力も入ろうと言うものである。
 それに、だ。
 そんなカミューもまたマイクロトフに自分の想いを伝えてくれる時のあの可愛さといったらもう……―――。
「もしもおまえ達がこの先、そうした本当に大切にすべき相手と巡り合った時、さっきのような下らない付き合いしか知らなければ、きっと後悔するぞ」
 マイクロトフ自身、どうすればカミューを幸せに出来るのだろうかと何度も何度も悩み考えた事がある。時に自分のような不徳だらけの男が相手では、カミューのように素晴らしい男を真に幸せになどしてやれないと悔やんだ事もある。
 だがそれでもマイクロトフはカミューを想う気持ちだけは疑わずに、全力で愛してきた。
「間違っても、そんな愛する相手を掴み合いの喧嘩などという下らない諍いで悩ませたくはない筈だろう。大切に、慈しまねば……な」
 そしてマイクロトフはカミューを想って微笑んだ。
 千の言葉よりも遥かに雄弁なマイクロトフのその表情に、さしものシーナやアニタも言葉をなくした。ピコやレオナなどは「参った」と呟いて顔を赤らめるほどだ。




長くなりそうなので半分まで。
青の演説は更に続きます。
赤に向ける青の想いの深さなどを語って下さるでしょう。

2005/10/16



 ところがそんな元青騎士団長の言葉に聞き入っていた酒場の面々だったが、諭されている当の男たちは不満顔だった。
 そして一人が立ち上がる。
 確かこの男は他の二人と違って、金や物で女性を釣るつもりもなければ、笑顔や甘い言葉で女性を誘うつもりもない男だ。その癖、女性同士が自分を取り合って喧嘩するのは羨ましいとか言っていた、マイクロトフにしてみれば一番苛立ちを誘う男だった。
 彼は酷く不機嫌な態度を隠しもせずにマイクロトフを斜めに見上げた。
「良い気なもんだよな」
 男は不貞腐れたように口を開いた。
「はっ、地位も名誉も身分もある男が何言ってんだよ。しかも実力もあって男前ときてる。嫌味くせえったらねえぜ」
 ひがみだ。
 ひがみ以外の何ものでもない発言である。
 それに対して、確か甘い言葉で云々と言っていた、顔立ちだけはそこそこ良いもう一人の男が遠慮気味に「おいよせよ」と小さく声を上げるが、男は聞こえないかのように更に声を張り上げる。
「あんた騎士団長様なんだって? はっ! あんたみたいに恵まれた男が言ったって説得力なんかねえんだよ! さぞや劣等感なんてもんにはご縁がないんだろうなぁ、羨ましいぜまったくよ」
 男が泡を飛ばして吐き捨てるのを聞きながら、マイクロトフは男の言葉が思いのほか己の胸を深く貫いたことに、呆然とした。
 それから不意に符丁のようにふっと思い浮かんだのは何故だかカミューの事だった。そして一瞬後にその理由に思い至る。
 カミューは誰よりもこんな誤解を受けやすい男だった。
 外見の姿と、内面の姿と。

 本当は、違うのに。

 マイクロトフの瞳に力が篭る。
 その瞳の強さに、立ち上がっていた男は更に続けようとした言葉を飲み込んだ。
「……な、なんだよ」
 一転して怯んだ様子で半歩後退するのを、マイクロトフは座った眼差しでじいっと見詰めた。そして、その精悍に引き結ばれていた口がゆっくりと開かれた。
「―――俺が立派に見えるか」
 男は答えない。ただ、ごくりと唾を飲み込んで視線だけは挑戦的にマイクロトフを睨み返していた。
「誰一人守れず、マチルダを離れる事でしか自分の成すべき事を出来ないでいるこの俺が、そんなにも大層な人間に見えるのか」
 マイクロトフにしてみれば珍しい自嘲めいた言葉に、密かにアニタの眉根が寄せられる。それはしかし酒場の連中の殆どが似たり寄ったりで、シーナですら何も言わずに黙って耳を傾けていた。
「騎士団長か。もはや俺はそんなふうに呼ばれるに相応しい男ではない。故郷を捨ててきた俺には地位も名誉も身分もありはしない」
 残るのはただ、エンブレムに誓ったはずの誇りを失ってしまった虚無感と、後にしてきたマチルダに対する日々自身を苛む悔恨だけだ。
 もっと他に正しい道があったのではないかと考えられずにはいられない、どうしようもない自分がいるだけなのだ。
 こんな男など情けなくて、普通の男よりも余程みっともなくて格好悪いだろう。立派で大層な人間に見えるとしても、本当はまったく違うのだ。
 それなのに。
「どれだけ多くの騎士たちを巻き込んだかしれん。既に何の力もない俺を、だが彼らはそれでも慕ってくれる。こんなどうしようもない男を彼らはまだ団長と呼ぶのだぞ」
 マチルダにいた頃よりも、遥かに重みを増したその肩書き。
「だったら俺は、もう二度と、捨てるわけにはいかんだろう。失くしてしまう訳にはいかんだろう。だから俺は」
 だから。
「俺は、頑張るしかない」
 言って、マイクロトフは目を伏せた。
「周囲からどう見られようと、俺の内実は変わらん。だが、変えようと努力する事の結果は、違ってくるだろう」
 一度捨ててしまったものでも、失くしてしまったものでも、最初から作り直すことは出来る。相応しくあろうと努めることは出来るのだから。
 カミューが、そうであるように。
「全ては本人次第だ。人のことをとやかく言う暇があれば、少しは自分を磨く努力をすれば良い。そうすればその努力に気付いてくれる者が必ず現れる」
 マイクロトフがカミューの本質を知ったように。
 柔和で秀麗な彼の、本当は少し不器用でどこまでもひたむきな情熱を抱く彼の、その絶え間ない努力と忍耐を知ったように。
「おまえに比べれば後ろの二人はまだマシだ。少なくとも努力をしているからな」
 マイクロトフはふと立ち竦む男の背後を指差した。
「方法は決して褒められたものではないが、物や言葉で女性の気を惹こうと『努力』はしている。ただ、それが真に愛する相手に限られるのなら、言うことはないのだがな」
 そしてマイクロトフはふっと口元を綻ばせた。
「言っておくが俺は女性を相手に上手く対応できたためしがない。その点で言えばとても羨まれるような立場にはないぞ。それどころか、いつも好きな相手には迷惑をかけ通しで怒られてばかりだからな」
 恋人にするには少々難のある男だと、自覚がある。
 それでも。
「……それでも。俺自身がどんなに情けない男であっても、俺は、俺の相手を想う気持ちだけは疑わん。それから、相手が俺を想ってくれる気持ちを信じている。だからこそ、不実な真似はしてはならんのだ」
 お互いに、お互いの全てを知ってそして愛し合っているのならそれこそ余計に。
「相手の心を裏切るような振る舞いは、相手だけではなく自分の心もまた傷つけてしまうものだからな」
 そう考えたなら、男たちの会話の何処に腹を立てたのか漸く分かったマイクロトフである。
「これはたとえ相手が恋人でなくとも同じ事だ。誰に対してでも誠意ある態度を取るのは人として最低限の礼儀だろう。おまえたちのしていることは、女性全員を酷く侮辱している」
 こんな事を、あの女性にやたらと甘く親切な恋人が知ったら、どんなに怒るか。
「本当に良き人と巡り合いたいと願うならば、即刻そんな馬鹿な真似は止めることだ。俺の知る限り、大抵の良識ある者はお前たちのような連中を嫌うからな」
 そうなれば不幸なことである。
「……気の毒に。本当に愛する人間と共にあれる幸福を、おまえたちはそのままでは一生知ることはないのだからな」
 カミューが傍らにいてくれる奇跡を。
 その手に触れて温もりを感じていられる安堵を。
 琥珀の瞳がマイクロトフを映して微笑む時の喜びを。
 その身体を抱きしめた時の胸が一杯になるほどの充足を。
「これでもかという程に幸せを感じるあの気持ちを知らんとはな……」
 実に気の毒極まりない。

「すごく、幸せなのに……」

 呟いて、マイクロトフは緩やかに首を振った。
 そして酒場に落ちる沈黙のひと時。

 うっとりと呟く声は、甘く痺れるような低音の魅力に満ちていた。
 そして精悍な面差しに浮かぶのは有無を言わさぬ、禁欲的な色気。

 酒場の誰もがそんな元青騎士団長に、見惚れていた。



「……で」

 呆然としながらも口火を切ったのは誰だったか。
「つまりだよ―――まぁ、この人の場合はちょっと『アレ』だけどさ? とにかくちゃーんと女の子を大切にしてあげれば、まぁ少しはこんな感じに幸せになれるってことでさ」
 アレってなんだ? な感じはサクっと無視して、シーナが場を取りまとめるように両手を振り回しながら言葉を探す。
「いや、実際、ここまでって言うのは稀なんだろうけどさ」
 などと肩を竦める横で、ピコが「そうそう」と話を合わせる。
「こんなに真正面から惚気られるのも滅多にないけど、君たちも頑張ればそういう相手を見つけられるかもしれないだろ」
 少し顔が赤いのは気のせいか。そして椅子に座ったまま引き攣った笑みを浮かべていたアニタが、ゆったりと足を組み替えながら掌をひらりと振った。
「まぁ良い男が恋人にメロメロになってる話なんざ馬鹿馬鹿しくって聞いてらんないけどさ、言ってることは悪かないわね。たった一人も幸せに出来ないような男なんてのは、誰だって願い下げだし。せいぜい男を磨いてくれたら少しは酒の相手もしてやろうかって気になるからね」
 そして三人が三人ともマイクロトフを見遣り、緩く笑みを浮かべてから男たちを振り返った。
「分かったか? な、ちょっとは分かったんだろうな、あんたら」
「これを見本にとは流石に言わないけど、結局は男を磨けってことだから」
「これでまだグダグダ抜かすなら、今度こそ表に出て土の下に沈めてやるからね」
 三人の笑み混じりの恫喝に、男たちは言葉もなくただ、頷いたのだった。



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えーっと。
かなり惚気た、とは思うんですが、まだ足りないですか、どうですか。
シリアスなのかコメディなのかちょっと分からんですね自分でも。
次は再び赤さん視点。

2005/10/30

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