氷の溶ける音


 会議の終了後、執務室に書類を置いてそのままカミューは酒場へと向かった。
 ところがその入り口の前で、常にない雰囲気を感じ取って立ち止まる。
 そっと中を覗って見たのは、それこそ会議室のように静まり返った酒場。レオナの酒場はいつだってざわめきに包まれて陽気に騒然としているというのに。
 そして酒場の奥で、客たちの視線を一身に集めている男の姿を見つけて、カミューは片手で顔を抑えると密かに嘆息した。
「……なにをやっているんだあいつは」
 まるで講義のように、マイクロトフが客たちの視線と意識を集めて、何事かをとつとつと語っているのである。
 これはどうにも。
「入り辛いな……」
 白手袋に包まれた指先で顎をトンと叩いてカミューは呟く。
 マイクロトフのことは気にかかるが、少しばかり気疲れしている今、余計な注目など浴びて疲れたくないのが正直な気持ちだった。
「おい、なにしてる」
「わ」
 純粋に驚いて振り返れば、道場へ行くと言っていた筈のビクトールが直ぐそこに立っていた。意外な人物の登場に、思わずカミューは見開いた目で彼を凝視した。
「何だ。真ん丸い目してよ」
「いえ……、その」
 背後から近寄ってきたのに気付かなかったのも、いまだ収まらない胸の動悸の原因も、酒場の中に気をとられていたからだろう。
 カミューは左手で胸元を押さえて目を伏せた。
「静かなので、入るのを躊躇っていたのですが」
「ん? ああ、本当だな。何か面倒でも起こったか?」
 カミューの肩を押さえて傍らから入り口を覗き込み、ビクトールはふーんと声を上げる。その瞳は油断なく鋭い眼差しを走らせている。
 酒場では当然酒が入れば理性が薄らぐ。
 時に頭に血の上った荒くれどもが、諍いを起こして息を飲むような睨み合いに発展する事がある。素直に素手での殴り合いともなれば良いのだが、下手に武器など携帯していれば兵士などが来なければ収拾がつかない羽目に陥る事もあるのだ。
 それを案じての視線だろうが、次に彼の喉から押し出た声は呑気なものだった。
「なんだぁ?」
 素っ頓狂な声を出してビクトールが怪訝な顔でカミューを振り返る。
「ありゃ、なにしてんだ」
「わたしにも分かりません」
 微苦笑を浮かべながら首を振る。
「ここで待ち合わせを、してはいましたけれどね」
 遅れてやってきたらこの有様である。
「真剣な顔して、なーに話してやがんのかね」
「ここからでは聞き取れませんね」
 いくら静かでも酒場の奥の声は聞こえない。しかもなにやら神妙な声で話しているものだから、ちっとも聞き取れない。
「行ってみっか」
 と傍らでビクトールがポツリと呟いた。
「え?」
「ん?」
 目を瞠ったカミューに、ビクトールは顎を突き出して訝しげな表情をする。
「いや、わたしは……」
 カミューが慌てて身を引いた、その時だった。

「おやもう一人の団長さんじゃないかい!」
 酒場の主のレオナの威勢の良い声が響いて、カミューはしまったと声なく呟く。
 しかしもう遅い。レオナはカウンターから身を乗り出して、白い手を差し出しておいでおいでと手招いている。
「な、なぁ、あれってこの団長さんの片割れだよな」
 酔客の誰かがそんな事を言う声が聞こえた。
「おう、そんじゃあ青い団長さんの言ってる『カミュー』ってのはこの人かい」
 次いで聞こえてきた言葉にカミューの眉根がぴくりと震える。
 いったい、人のいない所でどんな噂話をしていたのかと、カミューは僅かな不快感を覚えて、奥のマイクロトフを見た。ところが文句のひとつでもぶつけようかと思った当の相手は、何故だかこちらを見て嬉しげに笑っている。
 その笑みに、思わず腰が引けた。
「な……なんなんだ」
「カミュー!」
 慄きにかぶさるように名前を呼ばわれ、同時にガタガタッと酔客の群れが椅子や机ごと割れた。
 かと思えば奥からマイクロトフが真っ直ぐに歩み寄ってくる。
「マイクロトフ…? ここで、なにを……」
「おまえを待っていたのではないか」
 と、マイクロトフが間近に迫った途端カミューは漂ってきた酒精の香りに軽く目を瞠る。
「おまえ、どれだけ飲んだんだい」
「……さて」
 首を傾げて指折り始める男に、カミューは溜息をつく。
「待たせて悪かった。だが飲みすぎじゃないか?」
「そう言ってくれるな。勧められるのを断るのも悪くてな」
「うん?」
 言われて、マイクロトフのいた辺りを見やると幾つもの空き杯が並んでいる。
「皆、良い方ばかりだ。俺のような者の話を真剣に聞いてくれるのだ」
「おまえの話を……」
 よもや大真面目に戦術論など語っていたのではないかと一瞬考えたものの、酒場の顔ぶれを見て兵士と言うよりも職人や商人が多い事に気付いて、それは有り得ないとすぐさま自分で否定する。
 だったらどんな話だ、と思ったところでふと視界の端に、そろりと消え行く若者の背中を見つけた。
「シーナ殿?」
 つい呼び掛けた途端、その背が面白いほどにびくりと跳ね上がって振り返る。
「え? いや、あはははは! じゃ、俺はこれで!」
「待ちなさい」
 いかにも疑ってくださいと言わんばかりの態度に、カミューの声が一瞬で氷点下の響きを帯びる。
「いったい、何の話をしていたのか、今、ここで、直ちにお聞かせ願いたい、シーナ殿」
 嫌味ったらしいほどのゆっくりとした口調で訊ねたカミューに、シーナは凍りついたようにギクシャクとした動きで首を振る。
「俺は何も」
「なら何故逃げようとなさるのか、その理由を」
「そんな逃げるなんて」
「シーナ殿」
 幻聴でなければ、シーナの喉から「ひいっ」と悲鳴が零れた。そしてがばりと両手を卓上に置いて、若者は叫んだ。
「マっ、マイクロトフさんから恋人の話を聞き出しただけだから!!」
「え?」
「それ以外は決して何も! だって酒が入るとこの人、ベッタベタにのろけてくれるんだもん。普段のお堅い顔が崩れてそりゃこっちだって興味も沸くってもんじゃないか!」
 最後は何故か切れ気味である。
「のろけて……?」
 そして今度はカミューの首が、ぎこちない動きで傍らのマイクロトフを振り返る。
 端正な顔に浮かんだ穏やかな笑み。
 確かに、常ならば硬く横真一文字に結ばれている筈の唇は微かにほころび、目もとも厳しさが抜けて、実に緊張感のない顔をしている。だがそれがこの男の本来ならば奥に隠されているべき筈の、甘く優しげな部分を前面に浮き出しているのだ。
 滅多に表に出ないそんな表情。
 しかしカミューは毎日のように見ている、もうひとつのマイクロトフの顔だ。
 そしてそんなマイクロトフに対して、酒場の酔客たちは心なしか好意的な視線を向けている。
「……マイクロトフ」
「うん?」
 にっこり微笑み返される。
 その笑みにカミューは即座に白旗を揚げた。
 この状況でマイクロトフを叱ろうが何をしようが、きっと徒労に終わるだろう。それに、ただでさえ会議で滅入っている。余計な体力を消耗したくもない。
 カミューは深々と溜息をつくと、もう良いと言わんばかりに首を振った。
 そしてマイクロトフの腕を軽く叩く。
「すまないが、どうも今夜は酒を飲む気になれないようだ。そういう事だから、待っていてもらったがわたしは先に部屋に戻るよ。おまえは……」
「カミュー、どうかしたのか?」
「え?」
「……いや。そうだな、おまえが戻るのなら、俺もこのあたりで切り上げよう」
「しかし」
 と、カミューの声を掻き消すように酒場の奥からマイクロトフを引き止める声が上がる。
 酔漢たちが甘えたように「えー、団長さん行っちゃうんですかー」だの「もうちょっと色々お話聞かせてくださいよぅ〜」だのと非難の声を上げている。その勢いに押されてカミューは思わず一歩後ずさった。
 内容はともかく―――正直なところ、知るのが微妙に恐ろしいのだが、楽しく打ち解けていたのならそれはマイクロトフにって良い事に違いない。それを中断させてまで連れ帰るほど、独占欲を見せる気もなかった。
 カミューは小さく首を振ってマイクロトフに微笑んだ。
「おまえは、まだいると良いよ。ただし飲み過ぎないようにな」
「カミュー」
「わたしは、戻る。戻って寝る」
 そしてさっさと踵を返そうとした。
 ところがその肩をマイクロトフが掴んで引き止める。
「カミュー、ちょっと待て。目に―――」
「ん?」
 不意にすっと目の前に指先が伸びる。反射的に目を閉じると、ふと目の下にマイクロトフのざらついた指の腹が触れるのを感じた。
 軽く擦るように頬を撫でた指は、直ぐに離れていく。
 目を開けるとマイクロトフの指先に己の薄い色のまつ毛が乗っているのが見えた。
「ありがとう」
 その目の前でマイクロトフのその手がすいっと動いて、横にあった卓上の灰皿の上で指先を散らす。直ぐに何処へ行ったか見当もつかなくなったまつ毛を、カミューの視線はじいっと追っていた。
 だがその手が再び戻ってカミューの頬を、甲の側で軽く擦るのに、はっと顔を上げる。目前にはマイクロトフの妙に真剣にこちらを見つめる瞳があった。
「マイクロトフ…?」
 まだ顔に何かついているか、とカミューが首をかしげた時だった。

 ふわりと視界が薄っすら陰りを帯びる。
 なにが、と思った時には既に、マイクロトフの唇が軽くカミューのそれを掠めた後だった。

 しん、と静まり返った酒場。
 視界の端にシーナの驚嘆顔が見えた。
 カミューは内心で「あぁ…」と嘆息しながら苦笑を零す。
「マイクロトフ、おまえ、今自分が何処にいるのか忘れていただろう」
 トンと拳でその胸を押すように叩いてやると、漸くカミューの頬から手を離してマイクロトフが喉奥で笑うのが分かった。
「ああ、つい―――酔ったのかもしれん」
 ゆっくりとした口調で今更なことを言うのに、カミューは思わず肩を揺らして笑った。
「なら仕方がないな。酔っ払いはもう寝なくては」
「ああ、だから俺も部屋に戻る。良いな?」
「分かった。一緒に帰ろう」
 カミューが漸く頷いたことに満足したのか、マイクロトフも大きく頷くと肩越しに酒場の奥を振り返った。
「そういう事だ。俺はどうやら酷く酔っているらしい。すまんが先に失礼する」
 その言葉に答えたのは、逃げる機会を失って壁に張り付いたままのシーナだった。
「ははは、なるほど『酔って』るんだ……なるほど、なるほど、どーぞどーぞこっちは気にせずに」
 きびきびとした動作にもその顔にも、酔いを微塵も感じさせないが、つまりマイクロトフは『酔って』いるのだ。しかし、つまりそう言う事だ、と悟ることが出来たのはこの酒場の中で何割の人間だっただろう。

 そしてマイクロトフとカミューが揃って酒場から出て行った直後。
 マイクロトフの『酔い』の意味を的確に受け取っていた内の一人のアニタが、呆れ返ったように鼻で笑う。
「まったくさっさと帰れってんだから。のろけ話ばっかり聞かせる男なんて願い下げだわ」
「ま、良いんじゃないかな? 顔色の冴えない恋人を放って自分だけ酒を飲む男なんてのは、もっと願い下げなんじゃない?」
 と、横から笑い混じりに訊ねるピコにアニタはふんとそっぽを向く。だが直ぐに。
「まぁねぇ」
 ぺろりとグラスの酒を舐めてにやりと笑う。
「なぁにがあったか知れないけど、あんな赤騎士団長殿も滅多に見ないもんねぇ。寂しそうな顔しちゃってさ、あの憂い顔で独り者なら慰めるふりして押し倒したいところだったけど」
 冗談とも本気ともつかない口調のアニタに、周囲の男どもが思わず顔を引きつらせる。
「でもまぁ、なんだってのあれは。ちょーっと唇舐められたくらいで、嬉しそうな顔しちゃって」
「舐め……たって言うか、あれはねえ」
 あはは、とピコが笑う。角度的に酒場の奥にいた連中には見えていなかっただろう。もしかしたらマイクロトフがカミューに何事か囁いたように見えたかもしれない。
 しかしその後に顔を上げたカミューの表情は、酒場にいた大勢が目撃していた。その鮮やかなほどの表情の変化を、マイクロトフがもたらしたものだと、誰もが分かった。
「いやしかし、好いた相手を心底思う男としては、妥当な態度じゃないかな?」
「暑苦しいわよ」
「確かに。マイクロトフさん、素であれだろ? すごいよなー見習いたいよなー」
 シーナが氷入りの酒を眺めてニヤニヤと笑っている。
「氷も溶けるくらい情熱的に口説いちゃうなんてさ、理想だろ?」
「相手によるわよ。アンタじゃ逆に情熱的過ぎて相手に信用されないわね」
「わ、ひどいやアニタさん」
 そしてひとしきり笑いあって酒を楽しむアニタたち。

 その直ぐ側の卓を囲んで―――男たちが三人。



「お、おれ………男でも良いかも」
「ば、ばか。そう言うことじゃないだろ、男でも心をこめて口説けば、ああいう色っぽい顔が見れるって言うか」
「いや、それも違うだろ? とにかく好きな相手は大事にしろって事で、そうしたら男でもいけるんだって」

 いやだから違うから、と突っ込む者は誰もいなかった。
 真っ赤な顔をして、自分たちでも何を言っているか分かっていないだろう、そんな商人たちの手元。
 冷たい雫を纏わせたグラスの中で、氷の溶ける音がカランと鳴った。



end



第三話から随分と、間が空いてしまいました。
結末をお待ち下さっていた方には申し訳なかったです。
でもやっと完結! ありがとうございました!

さて実は途中で筋がかなり変わってしまいまして、タイトルと本文の内容が大きく外れるところでした。
(ちなみに最終話の更新にあたって1〜3話を少しだけ修正しています)。
最終的にはちゃんと元の筋に戻せて良かったのですが、その後の青赤なんて、読みたいですか?
読みたいですよねぇ……私も読みたいです。
と言うわけで、コチラへどうぞー。 → 覗き見

2006/06/18

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