1. デート


 街をゆっくりと歩くのは好きだった。

 休暇の午後を一人でふらふらと歩きつつカミューは明朗に晴れた空の下、石造りのロックアックスの街を味わっていた。
 特に目的があるわけでもない。買い物の予定もなく、ただぶらぶらと城のある山手の方角から、城門のある街の下方へと段々に下って行く。大通りを行けば枝分かれした小路の方へも足を伸ばして、店先を冷やかし色んな品物を見詰めて過ぎ行くのは楽しい作業だった。陶器屋で綺麗な藍色の大皿を眺めたり、雑貨屋で物珍しい人形を穴が空くほど見詰めたり、ケーキ屋で上品な紳士が生クリームたっぷりのシューをさも嬉しそうに買い入れるのを横目に見たり、菓子屋で子供が母親にどうやってねだれば菓子が手に入るか真剣に悩んでいるのを微笑んで見たり―――。品物を見ると言うよりはそこにいる街の住人の様々な顔の方を重点的に見ているのかもしれない。
 今は騎士服ではない、赤騎士団長としての肩書きを脱ぎ去った顔でいる。服はロックアックス住民の平均的なもので、少し風が肌寒いのを良いことに帽子を目深にかぶり、マフラーを口元まで引き上げている。そうするとその派手な面差しからは意外なほどに、ふっつりと存在感が掻き消えてしまう。カミューは今、何の違和感もなくただの一般人として街の中に溶け込んでいた。
 印象的な目立つ金茶の髪は帽子に隠れ、微笑を湛える魅力的な唇も見えない。おそらく今のカミューを見ても、例えそれが彼の部下でさえ直ぐには彼自身だとは気付かないだろう。実際、存在感どころか気配すら消していたカミューである。もしかしたら街の人間も擦れ違ったことすら記憶に残らないかもしれない。その徹底振りはしかし、彼が独りで街に出るときの常だった。
 時には、団長ではなく騎士ですらなく、ただの独りとして存在していたい時がカミューにあるのだ。だがそんな彼を否応なく見破り、カミューをカミューだと知らしめる人物がたった一人だけいる。
 それは偶然にも小さな骨董店の軒先で、年代物の香炉をためすがめす眺め回していた時だった。不意に肩を叩かれてカミューは弾かれたように振り返った。そして、その驚きに見開かれた瞳に優しく語りかけた声は、慕わしい馴染んだ低いそれだった。

「奇遇だなカミュー」
 ごく自然な調子で微笑みかけられてカミューは一瞬の虚を衝かれ呆然と口を開く。それを黒い瞳が愉快そうに見た。
「まさかこんな場所で出会うとは思わなかったぞ」
 低い声音の口調とは裏腹に、その瞳の奥には紛れもない慕わしさと穏やかさが滲んでいる。その黒瞳を見て漸くカミューがほうっと息を吐いた。
「……驚かすんじゃない…」
「すまん。で、カミューは買い物か」
 苦笑と共に詫びるマイクロトフに、カミューも微笑を浮かべる。
「そう言うおまえは見回りか―――部下はどうした」
 通常騎士団長たるもの、単独で城下の見回りはしない。
 もっとも、そもそもマチルダの騎士団長たるべき者は城下の見回りはしない。迂闊な行動に説教のひとつもしてやりたいところだが、我が身を省みるととてもではないがそんな立場ではない。例え私的な時間で変装をしているとはいえ、カミューも騎士団長のくせに部下には内緒の単独行動である。
 それでもマイクロトフの方にも好ましからざる行動をしているとの自覚があるのか、カミューの視線を真っ直ぐに浴びて、気まずげに黒瞳を揺らした。
「俺一人だ。今は休憩時間だからな」
「奇特な奴だな、まったく」
 カミューは笑いながらマイクロトフの腕を叩いて帽子のつばを少しだけ上に押し上げた。
「どうする。少し付き合うかい?」
「ああ、暫くは時間がある。おまえが良ければ一緒に」
 深く頷くマイクロトフにカミューはつい嬉しげな顔をして頷き返して、はっと我に返ると辺りを見回した。幸い、目立つ青騎士団長の装いだけに目を取られてカミューの方に注視する者はいなかったようだ。別に誰に見られたとて構わないが微妙に胸をくすぐる気まずさがある。
「なら、行こう。この先の本屋に用があるんだ」
「何か買うのか?」
「注文していた本が届いたと連絡があってね。老店主一人の店だから、城まで届けてもらうわけにもいかなくて」
 言い訳のように早口に伝えてカミューはさっさと歩き出した。それを、慌てるでもなく悠々とマイクロトフが追う。歩幅の関係か、直ぐに隣へと並び不自然で無い距離を保って歩くのはもう慣れたものだ。
 しかし街の人々は、青騎士団長の隣を歩く見覚えのない装いの青年が実は何者であるのか気付く事は無く、親しげな態度にただ首を傾げるばかりだった。それを知ってか知らずかマイクロトフは常と変わらない態度でカミューに語りかける。

「本と言えばカミュー。元青騎士だった男が息子の結婚で移り住む事になってな。その蔵書を青騎士団に譲ってくれる次第となった。機会があれば見に来ると良い」
「もしかして、元第五中隊長の……か?」
「知っているのか」
「ああ……そうか、マチルダを離れるのか…。いや最近彼の御子息の結婚を噂に聞いたから、もしやと思ったんだけどね」
 噂に? と目で問うマイクロトフにカミューはこくりと頷いた。
「赤の第七中隊長が彼のご子息と友人なんだ。慶事が続くと言っていたのを思い出した」
 その中隊長の妹が先日待望の第一子を出産したらしくて、彼にとっても甥になるその小さな命は目に入れても痛くない存在だと言う。そんな事をつらつら思い出しながら、カミューは再び青騎士の元第五中隊長の蔵書に思いを馳せた。
「彼の蔵書ならさぞかし見事なものだろうね。是非覗わせてもらおう」
「見事、なのか?」
「知らないのか……? 交易所に通っては書物だけを、しかも飛びっきりの本ばかりを選りすぐっていた青騎士殿と言ったら彼しかいない」
「それは、知らなかったな。僅かとは言え、あの方が騎士団を辞するまで共に青騎士団にいたと言うのに……」
「まぁ、おまえが騎士団長になる前に去った方だ。知らなくとも無理はない」
「だが赤騎士団のおまえが知っていたのに。有名だったのだろう?」
「偶然だよ。何度か彼には交易所で悔しい思いをさせられたのさ」
 本に対する造詣が深く、また独自の情報網を持っていたらしく、良い本が交易で流れてくると直ぐに出向いて手に入れていたと言う。しかし、決してそれを己の本棚に封じ込めて手垢ひとつつけないような蒐集家ではなかったらしい。望めば誰でも自宅に招き入れてその大切な筈の本を好きに読ませてくれていた。
 それにしても、それらを騎士団に寄付するとはまた思い切ったものである。
 歩きながらカミューは腕を組む。蔵書の管理は始めがものを言う。その元青騎士が確りと蔵書録を作っていれば良いのだが、そうでなければ青騎士の図書係は大変だろう。だが、とも思う。
「ドゥエガーの本はあるだろうか」
 ついぽつりと漏らしてしまう。
「なんだと?」
「いや、ないだろうな。あれはマチルダでは手に入り難い本だからな……」
 内容が内容だけになぁ、とカミューはぶつぶつと呟く。
「いや、まぁ良いか。蔵書が整って落ち着いた頃にまた邪魔する。それまで楽しみにしておくよ」
 と、話しているうちに本屋の近くまで辿り着いた二人である。しかしカミューはふと考え込むとマイクロトフの顔をちらりと見上げて奥歯を噛んだ。
「なぁ、マイクロトフ。おまえ表で待っていてくれるか。直ぐに用を済ませるから」
「構わんが……どうかしたか」
「いや、まあ―――直ぐ戻るよ」
 単純に目立ちたく無いだけのカミューである。
 騎士服を着込んだ時は、公人としてどれだけ注目を浴びようと髪一筋ほども気にならないのであるが、私服姿で今のように気配を消して全くの一般人として過ごしている時は、何故だかカミューは己に向けられる視線が煩わしくなる。外側から人々を見るのにはどんな時も興味深くてならないが、自分が見られるのはどうやら嫌いらしい。
 カミューは曖昧に答えてマイクロトフを店から少し離れた通りに残すと、独りさっさと店内に入り込む。真っ直ぐに店の奥に進むと店主の老人が白髪に覆われた頭を反らせるかのように顔を上げた。店内の天井高くまで壁を覆う本棚に、並ぶ本たちの背表紙。古色蒼然としたそれらに引けを取らずにこちらも随分と古びた顔をしている。
 皺の奥に光る白っぽい瞳がゆらりと揺れた。
「これは騎士殿、お久しゅう」
 静かに告げて目線だけで礼を取る老店主にカミューも微笑んで返す。
「例の本が手に入ったと」
「うむ、少々待ちなされ」
 老店主はゆらりと煙が立ち昇るかのような仕草で伸び上がると、背後の本棚に手を伸ばした。そして迷わずに一冊を取り出す。
「植物の本でしたな」
「ええ」
「代金はまた騎士団の方に?」
「いえ、今日は即金で」
 言いつつカミューは懐から財布を取り出すと、予め伝えられていた金額分きっちりとポッチを並べた。結構な額である。だが店主も別段驚きもせずに平素の通りに受け取るとそれをしまった。
 それを見届けてからカミューは老店主が紙袋に収めた本を受け取り、ふと身を屈めた。
「最近、良い本の噂はありませんか」
「……あると言えばありますな。ただの植物ならまだ良いが、薬草の本が出回っている。それも性質の良く無い薬草だ。学の無い者ほどそう言う本を読みたがるから困ったものだな」
「それは―――」
 カミューは一瞬躊躇してからくっと唇を噛んだ。老店主の言わんとしている内容に知らず青褪めるのを堪えてでもいるのか、小脇に抱えた本を掴む指先が震えた。
「またその薬草関係の本、行方が分かりましたらご一報願えますか」
「うむ」
「宜しくお願いいたします」
 そしてカミューは軽く頭を下げると薄暗い店から明るい通りへと一息に飛び出した。

「カミュー?」
 視界いっぱいに青い衣が翻る。
「マイクロトフ」
「どうかしたか」
「いや―――」
 カミューは吹き込む冬の冷たい風に首をすくめた。それからふと庇うように伸ばされた腕の影に微笑んで見せる。
「何でもない」
 肩口に伸びた腕に嬉しげに手を添えてカミューはちらりと坂の上にそびえる石造りの城壁を見上げた。
「帰ろうか。そろそろ休日はお終いだ」
「……何かあったのか」
「何でもないよ、マイクロトフ。ああ良い本が手に入ったんだ」
 美しいだろう? と紙袋から本を半ばほどまで取り出して表紙を見せる。白蝋紙に包まれて、何気ない緑の植物がひとつ真ん中に描かれているその本。中にも綺麗な植物の絵が描かれているんだ、とカミューは自慢げに言う。本質的には図鑑に分類されるべきものだが、それよりは美術書に近いそれは、カミューがずっと探していた本であった。
 ただ純粋に喜んでいる、その気持ちが伝わったのかマイクロトフも嬉しそうに微笑んだ。
「良かったな」
「ああ、また良い本が手に入ったら知らせてくれると……楽しみだよ」
「そうか」
 歩き出したカミューにまた大きな歩幅で追いつくと横を歩く。知らず赤騎士団長の顔に戻っているその秀麗な面差しを横目に、マイクロトフはしかしそれきり何も言わずに城までの道程を進む。

 街をゆっくりと歩くのは好きだ。こうして傍らに愛しい人が並ぶ時は尚更。
 マイクロトフがそう考えているのをカミューは知っているのか。だが騎士団長となってからは滅多に無いその機会を、時折こうして見出す喜びは二人共にあるものだった。
 カミューのこの変装に近い出で立ちで街を出歩く奇妙な癖を、だからあまり強く嗜める事も出来ないマイクロトフであった。
 こんな事になるのなら、もっと早くからやめろと止めていれば良かったのにと、マイクロトフが悔やむのはもっとずっと後のことである。



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まずは冒頭です。

2007/02/25

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