3. ピアノ


 小さな蝋燭の灯りだけを背後にして、カミューはベッドの上で横臥しながら、先日手に入れたばかりの植物の本を眺めていた。だが実際はその鮮やかな彩りはただの模様でしかなく、琥珀の瞳はそれを透かすように遠くを見ていた。
 マイクロトフと喧嘩とも言えない諍いをおこしてから数日。あれから向こうはカミューを訪ねて来ることはなく、こちらからもまた訪ねて行くようなことをしなかった。互いに気まずいだけなのだと思うが向こうが本当はどう思っているのかは、実際には分からない。しかしどうあれカミューの方は気まずかった。
 しっとりとした手触りの重い本の頁が、カミューの指から一枚一枚すり抜けてパタパタと音を立てる。次々に視界の中に飛び込んでくる美しい植物の様々な姿の描きこまれたそれらが、背後からの蝋燭の揺れる灯火を受けてまるで風になびくかのように陰影を変えていた。

 謝りに行くべきだ。

 緻密に描かれた植物の葉を見詰めつつカミューは思う。葉脈の薄らと浮き上がる不規則でいながら何処か幾何学的な模様は、まるで実物のようだ。ふっくらと柔らかみのある曲線に添えられるように、淡く美しい紫色をしたその植物の花が描かれている。

 分かっている。あれは完全に自分が悪い。

 マイクロトフの言わんとしていることを把握していながら、彼の言った通りにはぐらかしていたのだ。唯一の恋人から誠の無い言葉だけしか返されない、その辛さを思うとカミューの胸は締め付けられるように痛んだ。
 だが先の自分の言動を撤回は出来ない。
 撤回せずにどうやって謝れば良いのだろうか。また別の嘘を重ねるのか、それでまたマイクロトフの誠意を裏切って、挙句にまた喧嘩をするのか。
 唾棄寸前のように顔を顰めてカミューは本を閉じた。
「違う」
 内心の迷いが思わず口をついて出てきた。
 本当はどうでもよかった。カミューの心はただ謝りたいだけだった。
 心にも無いことを言ってしまって済まなかったと。自分の言葉でマイクロトフの心を傷つけてしまって悪かったと。このまま仲違いを続けたままでいるのは、とても辛いと。
 正直、たった数日あの黒い瞳を覗き込めていないだけで、心が渇きに萎れて悲鳴をあげはじめている。やりかけの仕事も、何もかもを放り出してその腕を掴んで振り向かせたくなる。
 ことに、マイクロトフが絡むとどうしようもなく不器用に成り果てる自分を自嘲するように、カミューは口元を歪めると立ち上がった。



 翌日、朝からカミューは仕事の合間に暇を見つけては、マイクロトフを探して方々に顔を出した。
 城内を歩き回る赤騎士団長の姿は、若い騎士たちの話題を少しばかり集めたが、昼をすぎる頃には憂いを含んだその秀麗な面差しに、彼らに若干の不安さえ植えつけるまでになっていた。
 なにしろ昼を過ぎたあたりで、途中まで掴めていたマイクロトフの足取りがぷっつりと消えてしまったのだ。
 午前の訓練指導を見て回り、その後に執務室で昼食を取り、それからの居所が分からない。
 流石にこれ以上探し回るのも躊躇われて、窮したカミューは意を決して青の副長に訊ねて漸く、マイクロトフは図書部に向かったと知る事ができた。
 先日大量の図書が手に入り、部のもの達がその整理に大忙しだと言うから労いに出たらしい。ところがそれを聞いて駆け足に近い速さで行ったのに、そこにはもうマイクロトフの姿はなかった。
 見るからに悄然としていたのだろう。上に立つものとして情けないことしきりだったが、そんなカミューに図書部の青騎士が一人、マイクロトフは小聖堂だと控えめに教えてくれたのはありがたかった。
「ありがとう。だが、どうして小聖堂なんだろう」
 少し憂いを含みつつふわりと微笑んだカミューに、青騎士は口ごもり俯いたがややもしてその疑問に答えてくれた。
「その、本の中から楽譜が出てきたのです」
「楽譜……」
「はい。どうやら聖歌の旋律をピアノの独奏用に直したものらしくて、それに随分と興味を持たれたようで」
 そしてそれを携えてピアノのある小聖堂へ行ったらしい。

 ロックアックス城の敷地内に在る小さな聖堂は、教会ほどの広さはなく神父もいない。ただ騎士が自由に祈りを捧げるためにだけ作られた堂である。だがそこはそれ、信仰の場であるからとびきりの装飾と設えがしてあり、合唱用の小さなピアノも置いてある。もっともそれらが使われる事は滅多にはないのだが。
 本当に祈りが必要な場合は大聖堂を使う。この小さな聖堂は、些細な祈りのために時折騎士が訪れる時に使われるだけなのだ。必然、ピアノも滅多に歌うことはないのである。



 木立の中ほど。ぽっかりと木々が分かれて穏やかな日差しを受けて輝く小聖堂は、周囲は人気もないせいで街とも城とも違う静寂に包まれている。
 カミューはそっと両開きの扉を開いて、細く開けた視界を覗き込んだ。

 途端に澄んだ音がひとつ、響いた。

 何がと思うまま床面に落ちていたカミューの視線が、聖堂の奥に釘付けとなった。
 突き当たりにある祭壇の裏側、その天井に向かって緩やかな弧を描く壁の高所に小窓が四角く穿たれている。そしてその窓から、惜しげもなく取り込んだ外の陽光が白い射光となって祭壇全体を明るく照らしているのだ。  小さな小聖堂内は薄暗かったが、その陽射しの照らす場所だけがまるで切り取られたように白く輝いている。そしてその光が照らす床から、僅かばかりかろうじて逃れた先にピアノは置かれていた。

 また、澄んだ音が鳴る。

 白く木目の浮かびあがる床からの反射を受けて、ぼんやりとした輪郭を形作るピアノと一人の男。
 カミューは瞬間的に息をひそめていた。
 小さなピアノだ。しかし威厳のあるピアノだった。常に聖なる楽曲だけを奏でているからだろうか。ひっそりとそこに鎮座し何ものにも侵し難い気配を纏った楽器である。
 そんな楽器に対面しつつも決して引けを取らないマイクロトフの、その面差し。真っ直ぐに鍵盤を見詰めて、剣を振るうそれだとは思えほど流れるように動く指先の運びで、それを爪弾く。
 カミューはそして、澄んだ美しい音の、最後の一音が反響を残してすっかり消えてしまうまで、黙って入り口に立ち尽くしていた。



 そして静寂を破ったのは、カミューの無粋な靴音だった。
「謝りに来たんだ」
 聖堂に踏み込んで直ぐ。小さな声でも、聖堂内では反響が作用して大きく響いた。
 そんな自分の声が耳に戻ってきて、カミューは顔を伏せた。
 静けさを割り裂く自分の声は、ピアノの美しい音とは裏腹に、酷く無様に感じた。
 けれど、俯く自分にマイクロトフの視線が痛いほどに集中しているのを感じて、ほうっと吐息に混ぜて囁くように声に出していた。
「ごめん……」
 漸くそれだけを告げて、カミューは目を閉じた。
 これだけを言うのになんと時間と手間がかかる事だろうと、我ながら呆れつつ自嘲の溜息を押し殺して口元を掌で覆った。最初の、あの一言を発した時から自分が悪かったのは自覚していたのに。
 そして掌を握り込み、ピアノよりも少し手前の床を見つめながら口を開いた。
「マイクロトフは最初からずっと誠実だったのに、酷いことを言った。すまなかった」
 意地も矜持も要らぬとばかりに隅へと追いやってカミューは言葉を選ぶ。このまま、心ばかりが離れてしまうのだけは嫌だったのだ。
「なんの話だ」
「見合い……の話」
「あれか」
 俯いたままカミューはこくりと頷いた。するとギッと椅子の軋む音がして視線の中にマイクロトフの足が見えた。
「あれなら、断った」
「……っ」
 ハッと顔を上げた先に、ピアノの前でこちらを向いたマイクロトフがいた。その黒い瞳がじっとカミューを見据えている。
「カミューの言う事の意味は分かる。俺は有力者との繋がりが確かに薄い」
 だが、とマイクロトフは真っ直ぐにカミューを見詰めるまま言葉を繋げた。
「見合いは一切しない。お前がどう思おうと、俺にとって不実だからだ。それに一瞬でもおまえから目を離したくないと、そう思う俺の我侭があるからな」
 言ってマイクロトフは鍵盤から手を離し、ピアノに蓋をすると立ち上がった。
「カミューは?」
「……え?」
「おまえには、我侭を言いたいことは無いのか」
 椅子の足が床を引き摺る音がする。続いてコツコツと、聖堂特有の反響で足音を響かせてマイクロトフが歩み寄ってくる。
「俺はあるぞ。他にも沢山、我侭がある」
 言いながら間際に近寄ったマイクロトフが、両手を上げてカミューのこめかみを両側から捉えた。そして俯いていたものを強引に上向かされる。
「カミューを知りたい。嫌われたく無い、離したくない。ずっと愛し続けていたい。俺は―――」
 マイクロトフの手がこめかみをすべり、カミューの後ろ首で交差する。そのまま抱き寄せられるのを抵抗もせずに受け入れると、ぐっと強く抱き締められた。
「俺は、嫌だったんだ」
「…マイクロトフ……」
「カミューが何を言いたいのか分からなくて、疑いたくないのに、おまえの言葉は俺を裏切るばかりで……嫌だったんだ」
「ごめん」
「謝るのは、違うだろう、あの時おまえは本当は別に考えがあってあんな事を言ったんだ。謝る理由など無い筈だ」
 抱き締められたままの、密接したところからマイクロトフの声が振動と共に響いて聞こえてくる。カミューは小さく身じろいで首を振った。
「謝るのはおまえを傷つけたからだ。わたしはあの時、おまえの気持ちを分かっていたのに、建前だけを並べ立てて本音をひとつも告げなかった」
 本当なら他にもっと言い方があったはずだったと。そしてカミューはマイクロトフの背に手を回して、その服の布地を少しだけ握り込んだ。
「正直に言うとね、おまえには見合いをやっぱりして欲しいと思う。それはわたしがおまえの心を疑わないからだ。おまえの心がわたし以外に向かない事をわかっているから、敢えて政治的な繋がりの為に、見合いの席につけば良いと思う」
「……俺にはそこまで割り切れるほどの聞き分けの良さは無い」
 不満げに返ってきた声にカミューはくすりと笑う。
「……うん。そんな融通の利かないところは、好きだよ」
 言ってからそっと見上げると赤く染まったマイクロトフの首が見えた。
「でも見合いを断ってしまったのなら、それはそれで構わないよ。それがおまえの誠実の証というのなら、わたしはやっぱり嬉しく思うから」
「結局、カミューはどちらでも良いと言うのか」
 神妙な声でそう聞いてくるマイクロトフに、カミューは額を擦りつけながら頷いた。
「そうだね。結局のところおまえの傍にわたしがいられるのなら、どうでも良いと言うのが本音かな」
 だったらあの夜の諍いは何のためだったんだと怒るだろうかと思いつつ打ち明けたが、マイクロトフは黙ってカミューを抱く腕に力を込めただけだった。
「マイクロトフ……?」
「俺が傍にと望むのは、カミューだけだ」
「うん……?」
 マイクロトフの声は低い。常のそれよりずっと押し殺したような声で、まるで喉を締められているような感じでカミューはどうしたのだろうと瞬いた。すると、苦しく訴えるように言葉が心情を告げた。
「おまえがそれを望まなくなるまで、俺はだからおまえの傍にあり続けたいと願っている」
「………」
 強く抱き締められているから顔が見えない。だが、声だけで充分。カミューは自分の言葉がどれ程マイクロトフを不安に沈めたのか思い知ってきつく目を閉じた。どうすれば癒せるだろう。どうすれば、自分の素直な想いを伝えられるだろう。
「マイクロトフ、愛しているよ」
「カミュー」
「好きだよ。おまえの声も眼差しも、心も、全て」
 カミューはそしてそっとマイクロトフから身を離して、静かな光を湛える黒い瞳を見た。それから軽く微笑みを浮かべてマイクロトフの腕に触れ、袖を辿り手指に辿り着く。
「おまえの、この指が好きだ。広い掌に相応しく長い……鍵盤の上を走る器用な指だな」
 揃えた指の関節辺りに口付ける。
「おまえを探してここに来て、ピアノに向かい合うおまえを見た時、息が止まるかと思うほど見惚れた」
 手を握り頬を寄せながらカミューは歌うように囁く。
「静かで美しい旋律を紡ぐ姿が神聖で一枚の宗教画のようだったよ。だけどおまえは間違いなくわたしの恋人で。この手でわたしに触れてくれる」
 マイクロトフは戸惑うように瞳を揺らしながら、カミューの言葉を黙って聞いている。その顔にギリギリまで自分の顔を近づけて、カミューは軽く唇を合わせた。
「離れはしないよ。こんなにも愛しているのに、他の誰にこの場所を譲ると言うんだ―――」
 告げた想いは、すかさずマイクロトフの唇に吸い込まれた。



 聖堂から戻って、そのままマイクロトフはカミューを抱き伏せた。カミューもそれを歓迎するように、されるがまま素直に受け入れる。そうする事が今の互いには必要だと、確認しあうまでもなく理解していたのだろう。一頻り呼吸を混ぜ、交わしあった後で驚くほどに満たされた自身に気付いた。
 この数日ろくに顔も合わせなかった、その埋め合わせもあったのだろう。それでもそれ以上に心と情を交わす行為は二人を安息に導いた。

 重ねた枕の隆起に背を凭せ掛けて仰向けに横たわるカミューの、その身体の上にマイクロトフがうつ伏せに覆い被さっている。ちょうど鳩尾の辺りに掛かる吐息に苦笑を漏らしつつ、カミューは力の抜けたように延ばした手で、そんな男の短い黒髪を撫でていた。
 今回の事で、何気なくマイクロトフの弱さを垣間見た気がした。
 マイクロトフと言う男のことを、いつの時も強く前だけを向いた目をした、必ず全てを掴み取る手を持っているのだ、と。そんな風にいつしか思い込んでいたのかもしれない。だがよくよく見れば、彼の心は人と変わらず傷付くことも知っていて、時にその弱さに絡め取られて嘆く脆さもあるのだ。
 カミューはしかし、そんなマイクロトフの別の顔に失望する事はなかった。
 かえって愛しさは募り、己の手で精一杯癒してやりたいとすら思った。自分の持つ全てを掻き集めて、それでも足りない分はこの世界中に散らばる優しい労わりの想いをまた掻き集めて、そうやって集めたものを残らず全て、この男に与えてやりたいと思った。
 大丈夫、大丈夫。
 いつの間にか腹の上で静かな寝息をたてはじめた姿を優しく見詰めおろしながら、カミューは飽くことなくその髪を撫で続けた。
 眠ってくれ。
 大丈夫、わたしはおまえを愛しているよ。



 マチルダのロックアックスの城奥深く。
 二人の騎士団長たちの晒される事の無い秘めやかな想いは、互いの中だけで昇華された。他の、誰にも知られる事の無い大切な想いである。
 だが、これでこの一件が片付いたわけではなかった。
 相変わらずカミューの中には表に出る事の無い叫びがあり、マイクロトフの中には不安が渦巻いていた。
 その全てが氷が溶けるように消えてしまうのはもう少し後の事である。それは赤騎士団長カミューが、密かに調べていたある事件の解決と時を同じくするのだが、今の二人はまだそんな事を知る由もなかった。



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こちらは『ピアノを弾く青をこよなく愛する会』のために挟んだ話だったりします。
当初ピアノを弾く青はいなかったんですが、書いてみるとなかなか良い感じでした。

ピアノを弾く青をこよなく愛する会 (外部リンク)

2007/03/10

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