6. 変装


 その日、青騎士団長マイクロトフの機嫌は地の底を這っていた。部下の誰もその理由を知らない。
 日課の早朝訓練の時から無言の圧力を周囲に及ぼしていたので、朝から青騎士団では妙な緊張感に包まれていた。部下たちは皆首を傾げながらも、これ以上団長の機嫌を損ねないようにと気を配るだけで精一杯だった。
 ところが。
「おい、団長はどちらへ行かれたのだ」
 青騎士団の騎士隊長の青年が、団長執務室がもぬけの殻であるのを知って、そこにいた団長付文官にそう問い掛ける。途端にその文官が眉根をひそめて立ち上がった。
「中にいらっしゃらない?」
 文官の静かな問い掛けに騎士隊長は「あ、ああ」と頷いた。その直後。
「正門、厩舎、裏門、御用門に通達!」
 そこに居た年嵩の文官長が鋭く部下への命令を発する。と同時に四名の文官が一斉に足早に部屋を出て行く。それから文官長が騎士隊長の横をすり抜けて執務室へと踏み込んだ。
「失礼。ああ、窓から出て行かれたか……」
 開け放たれていた窓は換気のためなどではなく、青騎士団長のお出かけ用脱出口として使われたためだったようである。そして各通用門に駆け付けた文官たちがそこで団長の痕跡を認めた場合は、そこから行方を追跡するよう手配されるのが、そんな猪突猛進な団長を抱えた青騎士団の常の対応である。
 そして僅かの後、報せを受けて待機していた副団長のもとに第一報が届けられた。
「は……仮装していた…?」
 首を傾げる一同の疑問を知ってか知らずか。
 当の青騎士団長はその時、ロックアックス城からグングンと離れて、街のとある場所へ向かって足早に駆け抜けているところだった。





 この日は風も弱く冬の太陽が斜めから地上を広く照らし出し、久方ぶりの陽気に街を行く人の数も多かった。思わず目深に被ったフードを取り外して微風に髪を梳きたい気分に駆られるカミューであったが、陽光を浴びて金茶色になるであろう髪色はこの地ではそれなりに目立つ。しかもこれから行こうとする裏通りに置いては注目を引くのは必至である。
 密かにレニーとの繋ぎを得て、昼間にあの居酒屋での何度目かの会合を取り付けていたカミューは、執務の僅かな合間を縫って再び例の装いで街に出ていた。
 そして寒さに少しばかりの忍耐に口を歪めつつ歩いていた。ところが。
 漸く裏通りの一角に辿り着き、日陰になったその路地に足を踏み入れようとした時に、不意に腕を取られて強引に振り向かされた。ハッとしてカミューは身体を強張らせ、不覚にも捕らわれた隙を悔いつつも剣を求めて片方の腕を滑らせた、が。
「カミュー! おまえはあれほど言ったのにまだこんな真似を!」
「しっ…、目立つな」
 驚きよりも何よりも、耳を殴りつけるような怒声に慌ててその口を掌で覆いカミューは素早く周囲に視線を飛ばす。幸い誰の注目も浴びずに済んだらしい事に、はーっと胸を撫で下ろしてカミューはマイクロトフの口を閉ざしたままがっくりと項垂れた。
「どうして、マイクロトフ…おまえ」
 こんなところに居るんだ、と問い掛けて後をつけたなと思い至って小さく唸る。それから改めてマイクロトフの格好を見れば、全く下手な変装でよくも巡回中の騎士に見咎められなかったものだと呆れた。薄っすらと汗をかいているところを見ると、カミューを追ってここまで走ってきたらしい。
「今すぐ戻れマイクロトフ」
「カミューも一緒ならば」
「…マイクロトフ……」
 わたしを困らせないでくれと、カミューは片手で顔を覆って溜息を落とした。これから会いに行こうとしているのは裏通りの顔であるレニーだ。何度も通って漸く顔馴染みになって、今日こそ重要な話をするつもりでいたのだ。それを中止にはできない。
「わたしはこれからある人物との約束がある」
「誰だ」
「赤騎士団の問題だから言えない」
「……ではその誰かを、おまえの部下は知っているのか」
 知らないな。
 胸のうちで呟いてカミューは視線をそらせた。そもそも今回のレニー絡みの単独行動を部下たちは全く把握していないと言って良い。薄々感づいているくらいはあるかもしれないが。
 無言でいるとマイクロトフの表情が険しくなっていく様が見て取れた。
「お前がどうしても自分で動きたいというのなら、それはもう構わん。だが部下にまで秘密にして調べる何がある!」
「静かにしろと言っているだろう。この辺は物騒なんだ」
「答えろカミュー。万が一、後ろ暗い理由があると言うのなら俺は許さんぞ」
「馬鹿にするな」
 キッと睨みつけるとマイクロトフはにやりと笑った。
「なら良い。だが、分かっているだろう―――誰にも知らせずに一人で動くのは危険だ」
 何かあってからでは遅いんだとマイクロトフは再度訴える。カミューは叱られた子供のような情け無い顔をしてそんな言葉を胸の内で反芻した。そして出た結論が。
「おまえが知ってるから良い」
 言い捨てて、これ以上は話をしていても無駄だとばかりに踵を返す。
「直ぐ戻るから、おまえは先に―――うわ」
 マイクロトフを置いて歩き出そうとしたその腕を再び取られて、ぐいっと後ろに強く引かれる。何がと思う間もなく、カミューの身体は反動で半回転して広い胸の中に抱き込まれてしまった。
「マイクロトフ…っ」
 離せ、と叫ぼうした筈が、顎を掌で押さえ込まれた瞬間視界いっぱいに影が落ちて口を塞がれる。
「ぐ……」
 呻き声は最後の抵抗だった。利き腕ごとがっちりと抱え込まれて顎を固定されたまま突然深い口付けに見舞われて、カミューの全身は驚きに硬直した。
 いったいここを何処だと思っている!
 カミューの心の叫びを他所にマイクロトフの熱い舌がぬるりと滑り込んで、口中を遠慮なく愛撫する。呼吸さえも絡めるような深さから次第に口の端から唾液が零れていくが、何よりも快感を直接刺激するような口付けに意識が徐々に霞がかる。
「……ん…ぅ」
 鼻から洩れる甘えたような声がまたカミューの意識を別の方へと引き摺り落として行くようだった。レニーとの約束の時間や、ここが路地裏の片隅であるのだとか、マイクロトフは彼を知る者が見ればそうと気付かれてしまう格好なのだとか。
「あ―――は、ぁ……」
 それでも最後の理性が今すぐマイクロトフを突き飛ばせと命じる。カミューは顔だけでも逸らそうと自由な方の腕を突っぱねて漸く新鮮な呼吸を大量に吸い込んだ。しかし、その時にはもう足腰が萎えている。
「こ、の……ばか…っ」
「カミュー」
 罵るが優しく名を呼ばわれて逆撫でられかけた心が一瞬で凪いでしまう。相変わらずその胸の中に抱き込まれた格好のまま、カミューはがっくりと項垂れて唸った。どうも少しは手の内を明かさないと駄目らしい。
 あのな、と切り出してカミューはぽつぽつと告げた。
「これから会う男は、レニーと言ってこの辺りの顔だよ……心配は要らない。実際、今日を限りにもう会わないつもりだったんだ」
 それだけを白状すると漸く僅かだけ拘束の腕が弛んだ。しかし未だ膝が笑う状態では離れる事は出来ず、反射的に縋り付いてさえしまう。無様な己にカミューは軽く眉をひそめつつ少し熱を持った唇を舐めた。
「わたしはその男とフェリスの名で会っている」
「フェリス―――?」
「鎮まらない亡霊の名さ」
 首を傾げるマイクロトフにカミューは微苦笑を浮かべて、縋る手に力を込めた。
「心に疚しい者が聞けば亡者が墓から蘇ったとでも思うかな。まぁそれも今日限りだ……もうこの名を使うのはやめておくよ」
 わたしの名は、カミューだ。囁いて伸び上がると今度は自分からマイクロトフの唇に軽く口付けた。
「だから今だけは目を瞑っていてくれ、頼むよ」
 ねだるような眼差しを向けるとマイクロトフは苦虫を噛み潰したような顔で暫く考え込んだが、結局頷いた。
「無茶だけはするなよ」
 くどいほどに念を押してカミューをやっと解放すると、やはり最後にそれでも心配でたまらないとでも言うかのように、頬に手を這わせてもう一度口付けをかわした。



 それから未だ名残惜しげなマイクロトフをさっさと追い払い、カミューは唸りながら唇を拭った。そして身繕いをして気まずく頬を仰いだ。
 あの男限定で簡単にのぼせる自身が恨めしい。
 まだ見張っているのではなかろうなと油断なく周囲を伺い、もうその気配が無いことに漸く安堵すると、少し入った場所にあるレニーの店の扉を叩いた。



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大変お待たせ致しました。

2007/11/03

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