7. 目撃者
準備中の札を無視して、頑丈な作りの木戸を開けると途端に埃っぽい匂いが鼻をつく。
それでもカミューは口元まで覆っていたマフラーを顎の下までずらして店内を見回す。すると、カウンターの奥に座ったままで、首から上だけを振り返って小さく手を上げる人影に気付いた。
「レニー」
この男が、この居酒屋のなんであるかは詳しく知らない。もしかしたら店の持ち主なのかもしれないなと思いつつ、他に人の全くいない店内を奥へと進んだ。深夜の営業時には無い静けさが足音を際立たせ、軋む床板を靴底に感じさせる。
だが近寄ってみれば男の手にはグラスがあり、なみなみと琥珀色の液体が揺れていた。
「昼間から酒か……?」
しかしレニーの顔つきは酔っているそれではない、今し方飲み始めたばかりのようでカミューは怪訝に思った。
不真面目な男だが少なくともこれまでのやり取りの中で、この男は常に素面でカミューに接していた筈だった。酒を飲むのは情報をカミューに伝えてから、用は済んだとばかりにいつもカミューも無理やりに誘って陽気に酒を呷る。それがどうした事だろうと不審に思って見ていると、レニーは軽くグラスを揺らしてにやっと笑った。
「悪ぃな。今日は少しばかり飲みてえ気分でよ」
「……いや、構わないが」
沈んだレニーの言葉に何かあったのだろうなと思い、気遣うように黙って隣に腰を下ろした。それからカミューはここへ来た用件を思い出して懐を探った。
「レニー、早速なんだが今日は礼を言いに来た。おかげで奴らの事がかなり分かって助かったよ。気を悪くしないでくれると良いんだが、これは謝礼だ。受け取ってくれ」
カミューが懐から取り出したものをカウンターに置くと、レニーは物憂げにそれを見てからギョッと目を瞠った。たった一枚の紙片で折りたためば掌に収まるほどのものだが、それの持つ力は正真正銘の本物である。レニーが前から欲しがっていたのを知ってカミューが用意したもの。
「お…まえ、これぁ……」
「うん、半年分しか無いんだが大広場での出店権利だ」
商人なら誰でも欲しがる、週に一度だけ開かれる街の中心部である大広場での青空市場。そこに露店を開く権利はしかしおいそれとは手に入らない。
「どうやってこんなモンを……―――」
唾を飲み込んで権利書を凝視するレニーにカミューは笑みを浮かべた。
「つてを頼ってね、ロックアックスを離れて出店権利を手放す商人を見つけた。裏から手を回して残っていた半年分の権利譲渡の手続きをしたんだが―――現金の方が良かったか?」
「とんでもねえ! いや、ありがてえ……!」
慌てて首を振ってレニーは恐る恐る権利書を手にした。
「ああ、心配しなくとも本物だから」
「分かってるよ……なんてこった……」
「情報の見返りとしてはまだ足りないかもしれないがね―――」
カミューの求めた情報の為に、レニーがかなりの人手を割いて調べてくれたのを知っている。蛇の道は蛇、とは言うが流石のことで、騎士では入手困難なそれらを彼らは見事にさぐり出してきてくれたのだ。
しかしこの一枚の権利書もレニーの才腕のふるい方次第で紙屑にも黄金にも変わる。そしてカミューには、レニーがきっとこれを黄金にさせるだろう心積もりがあった。下手をすれば現金などよりよっぽど価値は高いのだ。
レニーと言う男は確かに裏の顔を持っているが、実のところ表通りの幾つかの店の経営者でもあるのを、カミューは既に知っていた。交易にも手を出して随分と手広く商売をしているその辣腕ぶりは、感心すら誘う。
抑え切れない興奮を瞳に浮かべて手の中の権利書を見詰めるそんな男をカミューは満足を覚えながら見やり、「ああ、それともうひとつ」と付け加えた。
「それからレニー、申し訳ないが会うのはもうこれっきりになると思う」
「―――なんだと!?」
と、吃驚するほどの大声でレニーが振り返る。その、権利書を見せた時以上の反応にカミューが目を瞬かせていると、そんな自身に気付いたのかレニーは「いや……」とそっぽを向いた。奇妙な態度に首を傾げつつカミューは事情を説明する。
「我ながら、散々世話になって置いて薄情だとは思うんだけどね。奴らに対する手駒が揃い始めたから、後はもう最後の詰めに入ろうかと思って」
「そう、なのか……けどよ、言っとくが俺は最後までだって手を貸すぜ? 知ってんだろ? 幾らでも動かせる奴らはいる」
親身になってそんな申し出をしてくるレニーに、カミューは苦笑を浮かべて肩をすくめた。
「あぁ……だけど、そこまでの借りを作ってもわたしにはもう返す術が無いよ」
笑み混じりにそう応えるとレニーはくしゃりと髭面を歪めた。
「礼なんか、要らねえ―――俺はただ……」
「レニー、これ以上は巻き込めないんだ」
いや巻き込みたくないなとカミューは訂正する。
「勝手な言い分だとは思うが、関わってくれるのはここまでにしてくれると有り難い。頼むから、これっきりこの件は忘れてくれ」
今回の事で動いてくれた手下達にもそれは徹底してもらいたい。そうでなければ余計な飛び火が移りかねないのだ。何しろ、最終的な詰めには赤騎士団を動かすのだから。
「フェリス……」
偽りの名で呼ばれるまま別れなければならないことに、僅かばかりの心の痛みを感じてカミューは目を伏せた。だがレニーは「そうか」と小さく呟いてにかっと以前に見た人懐っこい笑みを浮かべた。
「詳しくは聞かねえって最初っから決めてたからな、事情は知らんままにしておいてやるさ―――気をつけてやれよな?」
「あぁ……すまない、有難う」
この男の持つ温かな人情には少なからず救われたし、こんな一件が関わっていなければ或いは友情も育めたかも知れない。だが所詮最初から偽りを纏って近づいたカミューには、そんなものは望めないのだと分かっていた。そもそも、この街の中では二人の立つ場所は遠く離れすぎている。
カミューが騎士でなかったら、レニーが裏通りの人間でなかったら、そんな仮定はたてるだけ無駄である。本当にこれっきり、互いに関わらないのがその互いの為であるのだ。自らを納得させてカミューは席を立った。
「それではレニー。深酒はするなよ」
「ああ。だが今日はアンタとの別れを惜しんで一晩中でも飲むだろうさ」
「いつもどおり、陽気に飲んでくれ」
微笑みを残してカミューは店を後にした。
そしてやや足取りも重くカミューは、もうこの付近にも立ち入らないほうが良いだろうと、寂れた昼間の風景を見回した。思い返せば不用意に顔馴染みが増えてしまっていた。専らレニーとばかり顔を合わせていたものの、その手下の何人かには素顔を見られてしまっているのだ。
店を出るなり再び口元まで引き上げたマフラーを掴んで、気付けば少しだけ気落ちしている自分に気付いてカミューは苦笑した。
正直、こうした裏通りの怪しさや危なさが決して嫌いではなかった。身分を遠くに追いやり正体不明のあやふやな立場になって、ろくに名前も知らない輩と気の抜けない会話を繰り広げる。その根無し草のような拠り所のなさがどこか居心地良かったのだ。
自分にはマイクロトフと言う、安らぎの場所があるのに……とカミューは視線を足元に落とす。
いつか、を考えるのを忌避とする自分がいる反面、そのいつかをどうしても描いてしまう自分もいるのだ。そして、仮にそのいつかが訪れてしまった時の自分が、今回少しだけ姿を見せていたのを心の何処かで理解していた。
カミューはだが、ここに来る直前に自身を抱いた腕の確かさを思い出して、そんないつかの自分を追い払うように首を振った。まったく我ながら本当に……と埒もなくぼやいてくしゃと前髪をかき上げる。
さっさと城に戻ろう。そして騎士団長の服を着て、部下達にこれからの事を指示してそれから―――。
思考を切り替えて、冷たい風に身を竦ませながらも歩き出した。だが何処までもそんなカミューを引き止めようとする何かがあるらしい。「あの」と小さく呼び止める声に、最初はそれが自分に対してなのだと気付かずにいた。ところが二度目はやや強く呼ばわれて立ち止まる。
なんだとちらりと背後を伺うと、女が一人立っていた。
「あなたは……」
驚きに思わずカミューが呟くと、女は―――先日レニーたちに絡まれているのを助けたレディのうちの一人、エリスがゆっくりと頭を下げた。
二度とこの辺りには立ち入るなと言ったはずの忠告を無視してそこに佇む姿に呆れ、しかも今日は供もなしで一人でいるのに不審を覚える。いったいこのご令嬢は何を考えているんだと溜息を吐きたくなったカミューに、エリスは小さく「先日はどうも有り難うございました」と告げた。
「それを言いにあなたはここに?」
責めるような口調になってしまうのは当然だろう。
先日の時よりも随分押さえた格好をしているが、やはり滲み出る育ちの良さは隠しきれない。その微妙な仕草や髪や肌の艶にどうしても表れてしまう。カミューのように目鼻だけしか見せないならともかく、エリスはその豊かな長い髪を惜しげなく背中に流している。
この辺りでこんなに美しい長い髪を持つ女など、目立つのを通り越して奇異ですらあった。そしてこの女性は、そんな事を気付きもしない無知さをこうして見せ付けるのだ。
「いえ、ただ偶然……でも、あなたを見掛けて―――それで……」
何か喉に詰まっているかのような喋り方も相俟って、カミューは苛立ちを覚える。
「なんです?」
ただ見掛けたからと行ってこんな場所に再び入り込み、あまつさえ声をかけてくる愚かしさを、分かっていないのだろうか。いったいどうしてくれようかと思案しかけるカミューだったが、不意にエリスが何かを決したように顔を上げてこちらを見詰めるのに、はたと瞬く。
「わたくし、エリスティナ・オリオールと申します」
え、とその名前を聞き返しそうになりながら、記憶の中で直結したそれに声を上げそうになる。カミューは驚きを隠しも出来ずに緩く口を開け、エリスはそしてそんなカミューの反応に哀しげな微笑を浮かべる。
「やっぱり……ご存知ですのね」
存外に厳しい声のエリスにカミューは内心で舌打ちをした。これはレニーたちと関わった以上に厄介な偶然である。
オリオールと言えばマイクロトフに縁談を持ち掛けた地方領主その人で、エリスティナといったらその縁談相手の娘当人ではないか。しかもエリスの言った「やっぱり」とは何をさしての言なのか、考えたくも無いカミューである。
そんなカミューの胸の内も他所に、エリスはまた躊躇いがちに口を開いた。
「わたくし、ずっと以前から父におまえは立派な騎士の妻になれと、そう育てられてきました」
何を語りだすやらとカミューは困り果てる。だが下手に口を挟んで更に厄介なほうへと事態が転ぶのはもっと困る。
「このロックアックスに来る事が決まった時、父は言いました。わたくしの相手はあの青騎士団長のマイクロトフ様だと……」
カミューはその時の父娘の情景をつい想像させられて、苦く奥歯を噛んだ。こんな話など聞きたくも無い。
「そして初めてこの街へ来たその日に、わたくしは偶然にもマイクロトフ様のお姿をお見かけしたのです……城門に立っておられる騎士様たちとは少し違う、立派な騎士服はとても人目を引いていて、わたくし一目で分かりました」
目立つのは確かだ。人々はごく自然に彼の為に道をあけるし、要所に立つ騎士たちはその姿を認めるなり畏敬の念を以て背を正す。殊更雄々しい青騎士団長の装いはそんな彼を他から際立たせこそすれ、見逃す要因にはなり得ないだろう。
「誰もがあの方をご存知でした。近くにいた方に確認の為に訊ねても、皆が口を揃えてマイクロトフ様を褒め称えて…」
些か誇張気味のそれを本人は面映く思ってはいるが、人の口に戸は立てられない。カミューがふっと笑うとエリスが言葉を切って、そんなカミューの顔を僅かばかり凝視した。
「……やっぱり間違い無いわ。あの時マイクロトフ様と一緒に歩いていたのは、確かにあなたです」
静かな口調で綴られた言葉にカミューの眉がぴくりと動く。
「親しげに言葉を交わしてらしたわ」
どこか呆然と、記憶を泳ぐような口調のエリスにカミューは何時の話なのだろうと思考を素早く検索する。もしも彼女が見たのが騎士服姿の自分なら、今の格好の説明をどうすれば納得させられるかと。だがここ最近互いに騎士服姿で街を並んで歩いた記憶が皆無であるのを思い出してハッとする。と同時にエリスがまたぽつりと呟いた。
「あなたは一度マイクロトフ様を残して、少し離れたお店に入って……出てきたときには手に紙袋を。その中身をあの方に見せてらしたわ」
あの時だ。
カミューが書店の老人から植物の本を受け取ったあの日。
「並んで歩いてそれはもう親しげに……」
だがそこまで言ってエリスは突然泣きそうに顔を歪めてカミューを睨んだ。
「縁談は断られてしまいました。マイクロトフ様は父に『今はそんな考えは無い』と仰られたそうです。でも……でも本当の理由はあなたなのでしょう?」
勇気を振り絞っての問い掛けだろう。しかしカミューはそれを他人事のように聞いていた。
「父もわたくしもそのお言葉を疑わなかった。でもそれはさっきまでの事でした」
ああ、やはりな……とカミューはエリスの先程からの言動に薄々見え隠れしていた懸念が当たっていた事を知った。
「あなたがマイクロトフ様に縁談を断らせた理由だったのですね。さっき、本当に偶然にあの方を見かけて、わたくしどうしても気になってお話だけでもしたくて、追いかけました。そうしたら、あなたがいて……」
その先は言わなくとも分かる。エリスも流石に憚るものがあるのだろう。それ以上は口を閉ざしてぎゅっと唇を噛んだ。だがカミューがずっと何も言わない事にまた泣きそうに瞳を潤ませて続けた。
「間違っているわ。どうしてですの? こんな事、マイクロトフ様にとって将来の妨げになるとご存知でしょう?」
エリスの訴えにカミューは薄らと口元に笑みを刷く。なるほどそう言う事を言いたくて態々出てくるのを待って呼び止めたのか。
「お願いですからわたくしとの縁談を認めて欲しいのです。そして身を引いて欲しいのです」
結論を言ったエリスのその勇気と誠実さには拍手を送りたいくらいだ。しかし、解っていない。いったいカミューがどれ程の決意でもってマイクロトフの傍にいるのか―――尤も、解っていなくて当然ではある。そんな事は当のマイクロトフだけが解っていてくれたら良い。
カミューはひとつ息を吸い込むとにっこりと空々しいほどの笑みをエリスに向けた。
「失礼だが、わたしには貴方が先程から何を仰っておいでなのか解りかねる」
突然のカミューの切り返しに、一瞬ぽかんとしたエリスだが直ぐにさっと頬に朱を上らせて反論した。
「か、隠したいお気持ちは分かります。ですがわたくしは貴方がマイクロトフ様に建物の影に隠れて迫っているのを見たのです。その……口付けまでして……」
言い淀みつつもはっきりとそう言葉にしたエリスだったが、カミューはふと顎を上げると見下ろすような眼差しを差し向けた。
「見間違いでしょう」
手をぱっと開いて冗談のように笑顔を浮かべると、エリスは今度こそカッと顔中を赤くして急いで言い返した。
「そんな事はありません」
「或いは幻覚か」
「なんです? 幻覚……?」
「このマチルダの一角を担う青騎士団長が、この男であるわたしと……まるで空言のようですよレディ。そんな事は嘘でも軽々しく口にしてはなりませんよ」
宥めるように言うと、そこで初めてエリスの瞳に動揺が生まれた。しかしその唇は何度も「でも、でも」と繰り返している。
「レディ、あなたが何を見て何を考えたとしても、その縁談は現実にもう断られたものなのでしょう。諦めなさい」
「でもそんなの……!」
「早く家に帰りなさい。あの時一緒にいた……そう、マリナ嬢はどうされたのです。こんな場所に一人でいるのは良くない」
尚も言い募ろうとするのを遮って、話はこれまでだと言葉に厳しさを含ませるとエリスはびくっと震えた。カミューはそして短い溜息の後に踵を返した。
「残念ですが今日は大通りまでは送って差し上げられない。気をつけて帰りなさい、もう二度と会う事もないでしょうがレディの無事をお祈りしますよ」
言い残してカミューはそのままエリスをその場に足早に行く。そして今度こそ呼び止める声もなく、カミューはこの薄暗い路地裏から出たのだった。
next
ご令嬢の正体でした。
2007/12/02
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