12. 傷


 本来なら赤騎士団長カミューの眼差しを、正面から受けて怯まない者は滅多に居ない。エリスのような世間知らずの娘が、それほどの胆力を備えているわけもなく、彼女は自分が何に怯えているのかも分からぬまま、ぶるりと震えた。
 それほどこの時、カミューの瞳は冴え冴えと冷たくエリスを見据えていた。
「バル一味。あの者達が働いた悪事をあなたは知らないのでしょうが、些細な事でも関わっている事が表沙汰になれば、いかな名門オリオール家と言えど処分は免れられない。お父上も当然無傷では済まないでしょう」
 残念だと言い添えたカミューに、エリスの声が震える。
「おとうさまが……なんなのです?」
「身内から犯罪者を出した責任は重い」
「誰が、罪など……」
「まだお解かりではありませんか」
 カミューは笑い出したい気持ちでいっぱいだった。世間知らずも度を過ぎれば全く以て罪に等しい。事此処に至って、彼女はこの状態が拉致監禁に当たること、それに加担していることすら自覚していない。それはバル一味の犯罪を知っても変わらないのだろうか。
「人を殴って攫うのはれっきとした罪ですし、ついでに禁止薬物の不正な持込と流用も極めて重い犯罪なのですよ。使い方によっては毒ですからね」
「毒、ですか」
 きょとんと首を傾げる仕草が、今は苛立ちだけを呼ぶ。まだ解っていない。解ろうともしないのだ。それでもカミューは辛抱強く言葉を荒げる事なく説明した。
「あなたはこんな植物があるのを知っていますか? 普通は根だけを乾燥させ粉にし、痛み止めに使いますが、茎や葉は少量のみなら幻覚作用をもたらす植物を。けれどもこれの恐ろしいのは、それを大量摂取をすればひと一人の命を簡単に奪う猛毒になるところです。だから―――許可された医者と薬剤師しか扱いを許されていないものなのですよ」
「いったいそれが……おとうさまと、なんの」
 カミューは顔を顰めて奥歯を噛み締めた。この娘は本当に何も知らないのだとは解る。だが、だからと言って許されるものではないのだ。
「貴方はあまりに物を知らなさ過ぎるが、良家の子女としてそれは無用心でありあってはならないことだ。よろしいですか、今すぐに理解しなさい。貴方を唆した男とその一味が、このマチルダにおいてその植物を不正に用いて人を殺めているのだと。それが理解できたら彼らがわたしを殺しに来る前にこの縄を解きなさい」
「あなたは何を言っているの? どうしてあの人たちがあなたを殺すの」
「わたしが彼らの敵だから」
「分からないわ。あたなの言うことは少しも理解できません!」
 エリスが怒ったように叫ぶ。その癇癪めいた悲鳴は、まるで幼子のそれに似ていた。カミューは顔を顰めて目を伏せた。
「なら、もっと分かりやすい言葉で……言うには、やはり素性か…」
 不意に頭をがっくりと下げてカミューはぶつぶつと呟いた。そして一瞬の沈黙を過ぎた後、そろっと顔を上げてエリスを見た。
「せいぜい驚いて聞いて下さるとよろしいんですがね」
「……え?」

「わたしは本当はマチルダの騎士なんです。こんな格好をしているのは秘密の任務の為で、実際の所属は赤騎士団で、……あいつとは同期なんですよ」

 カミューの発言に少女の瞳が揺れに揺れた。しかしこれで理解してくれと言うのも無謀な話だろうなとカミューは言葉とは裏腹に思った。エリスにしてみれば荒唐無稽も良いところだ。信じられなくても無理はない。案の定、彼女はふるふると首を振った。
「騎士様を騙るなど、許されませんわ」
 涙を滲ませた瞳に強い疑念を浮かべてそう言ったエリスに、カミューは当然だなと溜息をついた。しかし情け無い話だがこれが今、彼女に見せられる最後の手札であった。そしてこれ以上の説得が無理となれば実力行使しか残されていないだろう。
「では、仕方ありませんね」
 出来れば最後までこの手は使いたくなかったなと独りごち、カミューは後ろ手に縛られているそれを、左手首が上に来るように肩を歪めた。利き手だけはどうあっても守らなければならない。そして、目を閉じる。
 本来ならば一刻も早く、この窮地から脱出しなくてはならないのだ。何故ならばカミューの喉元にはバル一味の毒針の先端が突きつけられているも同然の状況なのである。決断は早く、無謀と思っても行動に移さなくてはならなかった。



 地下の部屋に、沈黙が下りる。
 カミューが顔を伏せて黙り込むと、エリスも何故か黙り込んだ。ところが。

 それから、ほんの数秒してエリスがふと目を瞬いた。そっと鼻を掌で押さえてきょろきょろと辺りを見回す。
「何かの、焦げる匂いが……」
 その呟きにカミューがにやりと笑った。しかしその額に、いつの間にかびっしりと汗が浮かんでいるのに気付いて、エリスが驚きに目を見張る。
「ど、どうかしたのですか?」
 顔色も悪いはずだった。だが、それは仕方のないことだった。
「自分で、縄を……解いて、いるのですよ……」
 言ったカミューの身体が一瞬大きく揺れた。と、突然縛られていた筈の両手が広がり、戒めから解けた手が前へと回る。エリスは短い悲鳴を上げて一歩後ろに下がり、その視線はカミューの手首に釘付けられている。
「あ……」
 見れば縛めていた筈のロープがぶつぶつと切れていてその切断部分は黒く変色していた。刃物も無くいったいどうやってと思う端から、その切断部分から立ち上る白い煙に息を飲む。
「……火…? でも、どうやって」
 カミューは顔を顰めながらも不敵に笑みを浮かべ、右手首に絡みついているロープを左手でもぎ取った。しかしその顔色はよくない。と、エリスが再び小さく悲鳴を上げた。
 カミューの左手首は真っ赤に焼けてひどい火傷を負っていたのだ。
「どうして? いったい何を!」
「静かにレディ。そう驚くものではありませんよ。これは、紋章の力です」
 言ってカミューは右手の甲に浮かぶ陰影をエリスに見せた。仄かに赤く染まったそれが、エリスの目の前で徐々に色を失っていく。
 カミュー自身もそんな右手を眺めおろしていたが、魔力の残滓が消えていくに従い、変わりに鋭い痛みが手首を締め付けるように襲った。
「ああ、こんな使い方は久しぶりだ、……つっ」
 左腕を震わせてカミューは息を詰まらせる。紋章の力に強弱をつける事は可能で、行使する範囲を狭めたり広めたりもある程度は出来る。たった今、それを左手首に巻きつくロープを限定にしたが、やはり紋章の炎は手首までも焼いてしまった。素早く右手で火傷に触れる袖をまくり上げるが空気に晒されて全身に震えがくるほどに痛い。本来なら冷水に突っ込みたいところだがここではそうもいかないのだ。
 カミューは息を整えて鼓動を沈めると、改めてエリスを見つめた。
「わたしはここから出ます。あなたはどうされますか」
 エリスは答えない。
「バル一味は兼ねてより我が赤騎士団が追っていた者共です。レディ・エリス……お父上をこの災いに巻き込みたく無いと思うのなら、今ここでわたしについてくることです」
 差し伸べた赤く爛れた左手を、エリスは涙に潤む瞳で凝視していた。





 一方、レニーの店から舞い戻ったマイクロトフに、赤騎士副長は青い顔をして「実は」と訴えた。
 来た時と同じく帰り道もまた全力疾走で街の注目を集めた青騎士団長だったが、常からの訓練の賜物か、乱れていた呼吸は直ぐに整う。それを見計らった副長が言うには、カミューから指示を受けて監視をつけていた一味の拠点に、人の気配が一切無いらしいのだった。

「見張りを常時置いてあったのですが、いつ奴らが出たのか皆目見当もつきません。どこかに脱出口があったのではと思われますが」
 今、総力を上げて捜索中だと副長は告げたが、やはり顔色は青いままだ。そんな彼の肩を叩きマイクロトフは「それなら問題はない」と告げた。
「カミューがずっと連絡を取っていた裏通りの者と話をつけてきた。彼らはあいつがその一味に襲われるのを見て、どこに連れて行かれたかまでを確認してきたらしい―――合図に騒ぎを起こしてくれると言うから、俺たちは取り敢えず大通りに目立たぬよう待機だ」
「は?」
「詳しい場所は教えてはくれなかったが、なかなか気の良い者達だな、彼らは。尤もあいつの魅力にでもやられたのなら……まぁ協力をしてくれると言うのだからここは従えば良い」
「い、いや、しかし」
「さぁ、行くぞ!」
 え、と副長は目を剥く。
「マイクロトフ様? お待ち下さい、ちょっと、あっ! マイクロトフ様!!」
 赤騎士副長の叫びも虚しくマイクロトフは勇ましくダンスニーを片手に出て行く。目指すは大通り。
 マイクロトフの疾走は、今夜ロックアックスで起きる大きな、だが密やかな騒ぎの、その始まりであった。





 そして全てが動き出すかに見えたその頃、カミューの差し伸べた手を、エリスは結局取らなかった。いや、取れなかったと言うべきか。地下室の扉が唐突に開き、先程の男達が入ってきたからだ。
 エリスの困惑混じりの迷いは問答無用は断ち切られ、有無を言わさず腕を取られて男の一人にがっしりと拘束されてしまったのである。
「何をなさるのです? 離してください!」
「悪いなエリス嬢。これ以上はのんびり世間話もできねえんでな」
 エリスを捕まえた男が、良く見れば誠実そうな面差しとは裏腹な粗野な口調で告げる。直感的にこの男がバルだろうとカミューは思った。
「乱暴な真似はよせ」
 鋭く言うと男はせせら笑った。そしてカミューの自由になった両腕を見て愉快そうに眉毛を押し上げた。
「随分と余裕だな? 驚いたよ、どうやって縄を解いたんだ」
「縄抜けが得意でね。おまえは誰だ」
「知ってるだろう? おれ様がバルだ。しつこく求愛してくれた割りに顔も知られてなかったとはなぁ」
 言葉の端々に腹が立つ。カミューは誠実を裏返して一転軽薄に成り下がった男を冷ややかな眼差しで睨みつけた。エリスも流石に青褪めて二人の会話を息を殺して聞いている。
「なんだ。わたしの熱い眼差しに気付いてくれていたのなら、訪ねて姿を見せてくれれば良かったのに」
「騎士は嫌いでなぁ。しかも赤い奴はさ、害虫みたいに飛び回ってうるせえったら無かったぜ」
 騎士とまでばれていたようである。だがカミューの身分まではどうだろう。黙って睨みつけていると、驚いているとでも勘違いしたかバルはけらけらと笑った。
「バレバレなんだよなぁ。あんたの名前、聞いたぜ。フェリスだってな、良く言うぜ。まったくあの赤騎士の兄貴がよくもその名前に反対しなかったもんだ。本当の名前はなんだ?」
「教えてやる義理は無いな」
「残念、振られちまったよ」
 おどけた調子で言うのに、背後の男達が笑った。そんな彼らの反応にカミューは些かも感じるところはなかったが、エリスは違ったようだ。
「あ、あなた達何を笑っているの!」
 涙を潤ませているエリスは、どうやら本当にカミューが赤騎士なのだと知ってさっきまで血の気が失せていたのだが、今は怒りで真っ赤になっている。だが掴まれていた腕を捻り上げられて悲鳴をあげた。
「エリス嬢、少し大人しくしてな?」
 それからバルはそのエリスを腕の中に抱え込むようにすると、数歩後ろに下がった。
「さて教えて貰おうか。俺達の事をどれほどまでに知っているのかをさ」
 入れ替わるように背後の男達が前に出て、カミューを取り囲むようにした。
「縄を解いたのはちと厄介だが、結局丸腰だ―――下手な抵抗はやめときな? でなきゃ、ほらてめえの立派な剣が物言うぜ?」
 バルの指す先、また別の男がニヤニヤと手に持っていた剣を掲げた。見間違うはずもなくそれはユーライアだった。瞳を眇めて愛剣を確認したカミューは、己を取り囲んだ男達を素早く見回した。どれも手に拳を作り、ある物は角材を握っている。
「成る程ね……古典的だな」
 カミューの呟きに、バルは笑って一言を発した。
「やれ」
 そして振り下ろされる角材を、身を引いて避ける。一拍遅れてエリスの悲鳴が室内を満たし、バルの「静かにしやがれ」と怒鳴る声が聞こえた。だがハッと彼女の方へ視線を向けようとするも、今度は別方向から男が殴りかかってくる。それをかわしながら反対に拳をその鳩尾に叩き込んだが、空気に触れた左手首がそれだけでジリジリと痛んだ。
「おい、左腕を庇ってるぞ、そこを狙え」
 バルが指図する。
 舌打ちしながらカミューは左手を軽く握り込んだ。使えなくはないが、いちいち痛みに身体が震える。しかし左腕か命か、天秤にかければその重さの差は歴然としていた。
 そして左側を狙って襲ってきた男を、ひねりを加えて左手の拳で打ち払った。
「くそっ!」
 悔しがる声に嘲笑を浮かべたカミューだったが、不意をつくようにその背に振り下ろされた角材をかわしきれずに、その衝撃に前のめりになる。だが辛うじて踏み止まって体勢を立て直す。しかしその隙をつけば良いのに、次の一撃が来ない。
 不審に思ってカミューは背の痛みに息を詰めながら己を取り囲む男たちを見上げた。どれもこれもが、にやにやと薄笑いを浮かべている。
「このわたしを、いたぶるつもりか」
「ご名答」
 誰かが答えた。と同時に今度は一斉に角材が振り下ろされ、再びエリスの悲鳴が響いた。
 カミューの耳奥にはしかし、彼女の悲鳴よりも頭部を打つ鈍い音が重く響いた。角材の直撃を受けて視界が揺れて、吐き気がこみ上げる。
「おいおい、大丈夫かよ?」
 嘲る声と共に、今度は腹部を強かに蹴り上げられた。だがそれでも膝をつかないカミューに、焦れた男の一人がその足に角材を振り下ろす。掬い上げられるように打ち付けられて、カミューの身体は容易く床に倒れた。
 そしてそこに再び蹴りが見舞われる。今度こそ胃液を吐いてカミューは床に這い蹲った。
 すると途端に幾つもの足がカミューを容赦なく蹴り付け始めた。
 だが直ぐにバルの制止の声が飛んだ。痛めつけるというには半端な暴力である。と言っても背中や腕や足はズキズキと痛み、服は埃に汚れ所々裂けて血が滲んではいるのだが。それでも頭を庇っていた腕を外してカミューがゆるゆると顔を上げると、バルがにやりと笑う。
「あんまり面倒な真似はしたくねえ。さっさと白状すりゃ、直ぐ殺してやる」
「………」
 無言のカミューにバルは頷く。
「だろうなぁ。白状するわけねぇって思ってたからよ、特別に用意したぜ」
 言ってバルが差し出したのは薄い油紙に包まれた何かの粉末。咄嗟にカミューは目を瞠り蒼褪めた。
「これを使えば直ぐに夢心地で、何も考えなくても白状したくなるさ」
 陽気なと言ってもいい程のバルの口調に、しかしカミューは射抜くような鋭い眼差しを向けた。
「それか……」
 それが、フェリス一家の命を奪い尽くした毒か。
「苦しんで死ぬのと、夢見ながら死ぬのとどっちが良い? 選ばせてやるよ」
 毒の粉末を片手にバルは、いっそ甘やかとでも言うべき笑顔を浮かべて見せた。



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本文中の私的ボロ赤ポイント。

2008/02/24

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