13. 逆流
それは、フェリス一家を無慈悲に死に至らしめた忌まわしい毒粉であった。なんの落ち度もなく、またなんの罪もない一家を絶命たらしめたもの。それをこの男は、こんな風に笑みを浮かべて使ったのだろうか。
カミューの胸のうちに青白い高温の炎が点る。冴え冴えとした炎は静かに燃え広がり、指先までもを戦慄き震えさせる。受けた暴力の痛みなど、この震えに比べればどれ程のことではなかった。
カミューはきつく睨みつけると、いつの間にか流れた血で不快に濡れたこめかみを掌で拭った。その眼差しを真っ向から受けた男は、ひょいと目を見開く。
「死ぬ気はないか。まぁ当然だろうなぁ。だけどなぁ、死んでもらわねえと俺たちが安心してずらかれねえだろう?」
なあ、と同意を求めるような口振りでバルはまた笑った。
「てめえら騎士が何処まで俺達の事を掴んでるのか、ちゃあんとわかっとかねえと次の商売ができない。商品は何しろ唸るほどあるんだからなぁ」
手の中の包みを振りかざす。
それを見つめるカミューが静かに言葉を発した。
「まだ……それを使い続けられると思っているのか」
逃げ切られるのだと疑いもしていないのかと。カミューの示唆に男たちは笑って返した。
「確かになぁ、計画が狂ったのは確かだ。このロックアックスにゃもっと長居するつもりだったんだが。ったく、あの馬鹿がうるせえからつい殺しちまってよ」
フェリスの弟の事だろう。
「随分な言い草だ。最初から遺産を全て奪うために殺すつもりだったろう」
「いいや、態度次第では仲間にしてやってたさ。なのにびびりやがって、甥のガキまで死んだと知ったら暴れたんでな……奴ぁあの嫁に惚れてたに決まってる。あの嫁はそっくりのガキがいたくせに、若くていい女だったからな―――心中に見せかけるんじゃなかったら絶対に食ってたんだが」
最後の方は独り言のようにつらつらとこぼしてバルは苦く笑った。その顔に唾棄したい衝動を覚えながらもカミューはゆっくりと身を起こした。そうしてから男たちを見回す。
「おまえたちは、そこまでやっててまだ逃げられると思っている。他では知らないが、このロックアックスで騎士団がそれを許すわけがない。それにおまえたちはやりすぎたよ。現時点でわたしが城に戻っていなければ、まず間違いなく騎士団が動き出す」
この一晩でロックアックスを離れ騎士の追跡を逃れるのは難しいだろう。地の利は騎士にあるし都市同盟内で尤も関所の取調べが厳重なのはマチルダである。だがバルはそんなカミューの言を戯言と鼻で笑った。
「……はったりにしては底が浅いな。なあ、若輩の騎士一人なんて夜を過ごして朝帰りはざらじゃないのか、色男」
確かにね、とカミューは内心で笑う。
数年前まで朝帰りは日常茶飯事だったカミューである。しかし位階を上るにつれてその回数は減っていき、マイクロトフと想いを交わすようになってからは、そういった理由で城を空けることはなくなった。
が、如何せん風貌が語るのだろう。なんといってもカミューは若い。マイクロトフもそうだがこの二人がこの年齢で団長位を預かっているというのは、騎士団史でも類のない異例の人事である。マチルダの赤と青の双璧の噂は、他国にもよく知られてはいるし民衆たちの良く知る所でもある。だがいざ当人を目の前にすると誰もがその若さに驚くし、特にカミューなどはその麗しく甘い顔立ちで、これで猛者たちである騎士たちの統率が取れるのかと更に驚かれるのだ。
しかし、そんな自分の外見と内面を激しく裏切る事実を棚に挙げても尚、バルも底の浅い推理しかしないものだなと、カミューは今度は胸のうちで嘲笑った。
「わたしは任務中におまえたちの手でここへ連れて来られている。仲間が異常を知るのは当然とは思わないのか?」
「思わないな。これでも仕事は慎重にやってきた自信がある。てめえらがどれだけ必死で調べたところで、そもそもの証拠なんてな殆どねえだろ。とすればいっくら騎士団でも動く人数は限られるだろうなぁ。おまけにこの場所は誰も知らない。突き止められたねぐらはさっさと捨てたからな、調べられている間にてめえを始末してこの女を人質に街から出るくらいの時間は充分あるだろう」
そしてバルは腕の中のエリスに不自然なほど優しい笑みを向けた。
「ねぇエリスティナ・オリオール嬢。あなたのお父上はどれ程の金額を出してくれるでしょうねぇ」
甘い声音にエリスは青褪めていた顔色をいっそう白くさせ、カタカタと震えだした。
「下衆な真似を」
吐き捨てたカミューにバルはにやりと歯を見せた。
「折角の上玉だ、見逃す馬鹿はねえだろう? てめえを始末した後は都市同盟を出て……そうだなぁ、ハイランド辺りに潜んでじっくりオリオールから金を搾り取るさ」
勝ち誇ってバルはエリスを左腕に抱き込んで、顔をいやらしく笑みに歪めた。
「残念だったなぁ若造。マチルダ騎士団も動かすんならもっと手練を寄越せば良かったのにさ」
そうすれば俺達を捕まえられたかもしれないと言う。その言葉にカミューは笑った。貴様が騎士の何を判じると言う……? 内で吐き捨てた心が震える。だがもういい、何も我慢することはない。今知りたい最低限のことだけは分かった。彼らには有力な後ろ盾もなければ、逃げ出す確かな当てもないことを。
「バル」
名を呼んで琥珀の視線をひたとその男に定め、カミューは微笑を浮かべたまま右手を僅か閃かせた。まるで舞踊のようなその一閃に、男たちの視線が何気なく吸い寄せられる。その耳にそれまでとは響きの違う声が浸透していった。
「だからおまえは愚か者だと言うんだ―――あぁ、その剣は落とさないように確りと持っているが良い」
バルの後ろに控えていた男に左の指先を向けたカミューは、そして呪文を詠った。
「深淵より召喚せし生きたる炎よ、聳えて壁と成れ―――『ほのおの壁』」
ふわりと紗幕が降りたような感覚の後、微笑みを幻惑のような炎が覆い隠した。途端に絶叫が、カミューとバルとを挟む空間に迸った。
カミューを取り囲んでいた男達が一斉に炎に焼かれて床に倒れて悶絶する。そしてその上を飛び超えるひとつの影に気付いたのは、少し離れてユーライアを抱えていた男だけだった。仲間達の絶叫を背後に微笑を湛えた炎の使者は、薄らと笑みを刷いたまま呆然とする男からユーライアを受け取った。
「わたしの剣だ」
ひっそりとした、それでいて明確な言葉が聞こえたのを最後に、男は首筋に重い衝撃を受けて意識を途切れさせた。
バルは突如室内に燃え盛った炎に一瞬呆然としたものの、次の瞬間どさりと重いものが落ちる音を聞き、振り返りそこに手下が失神しているのを見つけた。だがその時点でもう既に立場は逆転していたのだ。
「遅い」
間近で聞こえた声にバルの強靭な心臓が跳ねる。
「レディは返してもらうよ―――」
左腕に熱が生まれた。否、熱が出て行くのを目の当たりにしてバルは絶叫を迸らせた。
ユーライアの白刃が血を吸って滑らかに光る。バルの左腕を切りつけたそれを喉元に突き付けながら、硬直の前にある一瞬の緩みをついてカミューはエリスを強引に男の腕から引き剥いで背に庇う。華奢な娘の身体はいとも容易く、小枝のように騎士の背に移った。
「動くな」
そこまでが一瞬の出来事だった。
そして炎を免れた者が正気を取り戻す前に、カミューの凛とした声が響く。
「命が惜しければ動くな。見ての通りわたしは紋章を操る。貴様らを骨すら残さず一瞬で焼き払うなど造作も無い」
それから、とカミューはユーライアの切っ先を僅かに揺らめかせた。
「誰か一人でも妙な真似をすれば、おまえの命を即座に奪う」
カミューの静かな言葉に、切っ先を喉元に突きつけられたバルが目を剥く。
「だ、誰も動くな! いいな、動くんじゃないぞ!」
バルの悲鳴じみた命令を確認してカミューは軽く口元に笑みを浮かべた。それから剣を左手に移し変え、右手を閃かせてバルの襟首を掴むと歩くように促す。
「我々が外に出るまでの質になっていただこう」
バルにしてみれば、この優男の何処にそんな力がと思えるほどの強引さで、カミューはバルを前に歩かせる。その手の甲には今や隠される事なく赤い陰影が色濃く浮かんでいる。余計な真似をすれば直ぐにでも発動できる状態に、全員が息を飲んだ。
しかしカミューにとっては、こんな背水のような策は見苦しい事この上なかった。エリスさえいなければ一人でさっさと脱出でもしていただろうが―――。
「あなたは右側を歩きなさい、剣の邪魔になる」
利き腕ではない左でも充分に剣を操ることのできるカミューである。火傷の為に手首の捻りは甘くなるが、威力は充分だ。エリスを壁と自身との間に挟み、ゆっくりと男達を牽制しながら進む。バルも己の襟首を掴む手に宿った紋章が恐ろしいのか、抵抗らしい抵抗は無かった。
このまま何もなく一味を確保できれば良いのだが、一人では如何ともしがたい。しかしせめてバルだけでもと考えた甘さは、直ぐにカミューの立場を変えた。その僅かの油断をすかさず突かれた。
再びの逆転。細い廊下の中ほどで、突如バルの右手が蛇のように伸びてエリスの細い首を掴んだ。
「ぁ…!」
エリスの悲鳴は締め上げられた喉に消える。
「このまんま喉潰されたくなきゃ、この手ぇ離せ! 女見殺しにしたかねえだろうが!」
切羽詰ったバルの声と同じくその手もぶるぶると震えている。エリスは今にも気を失いそうな苦しげな表情で、その華奢な首は簡単に折れてしまいそうだ。カミューはその食い込む太い指を見るなり、反射的に手を離していた。
「バル……!」
「さすがは騎士様だな、お優しいねぇ!」
引き攣った笑いを何度もこぼしてバルはエリスの首を掴んだままじりじりとカミューから後退さっていく。
「生憎だったな若造! 最後に笑うのはやっぱりこの俺様だ!!」
左手に剣を、右手には発動準備の整った紋章を持ちながらも何も出来ない。剣を翻す間に、呪文を唱える間に、バルの指はエリスの喉を潰すだろう。
そしてバルが高笑いの最中、残してきた仲間を呼ばわろうと大きく息を吸い込んだ。
これまでかと、せめてエリスだけでも助かれば良いと思いながらも、もしもそうなってしまった暁には、とちらりと過ぎった仮定の未来に胸が痛んだ。
だが、自分が最後まであの顔だけを思い浮かべていられたらそれで良いと―――魂になっても傍にいられたら……そう念じた時。
再びの絶叫が迸った。
バルの聞くに堪えない悲鳴の中で、ドサッと肉塊がエリスの足元に落ちる。その断面からは夥しい量の血が飛び散り、レディのドレスを汚した。それを、カミューは信じられない気持ちで見ていた。
何故。
バルの腕を一刀両断した剣はダンスニー。
男の上腕から血飛沫の降り注ぐそこから、エリスの身体を乱暴と思えるほどに引き摺り退けたのは屈強な身体。
僅かな体重移動で空気を孕んだ青い裾は紛れも無く青騎士団のそれ―――。
「マイクロトフ!」
思いも寄らない人物の介入で頭が真っ白になったカミューに、マイクロトフは一瞬、目だけで微笑んだ。しかしそれも直ぐ厳しげなものにとって変わり、その手に握られた抜き身のダンスニーが翻る。
「一味は奥だな?」
呆然としながらこくりと頷くと、横をすり抜けざまカミューの頭をぽんと軽く叩いて行く。
「おまえは表に出ていろ……あとは俺達に任せてな」
ついでにそう告げてマイクロトフは一人ずんずんと奥へと向かって行く。おい? とまだ驚きの抜けない状態で呆気に取られていると、今度は賑やかな連中がやってきてそんなマイクロトフの後を追いかけていった。
見ればレニーの手下達で、その内の何人かは魂の抜けたようなカミューを表へと促し、失神寸前のエリスを支え起こしている。どうしてマイクロトフが彼らと? とまたも混乱に陥ってカミューは言葉を失ったままだ。すると目の前、一人だけゆっくりと歩いて来る人影があり、それは間近まで来ると人懐っこい笑みを浮かべて言った。
「この街で俺の目が届かねえ悪党は無いって言っただろう?」
「……レニー…」
「ははは、驚いてやがる」
にっかり笑うその髭面が、唐突にカミューの理性を呼び戻した。
「どうしてここが」
しかしレニーは答えずカミューの姿をまじまじと見て、その目を優しく和らげた。
「ひっでえ有様だなおい。あとからあんたの手下も来るから、ちゃんと手当てしてもらいな。俺たちはそれまでにあの熱い兄さんと不届きモンをぶっ飛ばしといてやるからよ」
「だがレニー」
「なぁに心配いらねえよ、ほらあのお嬢さんも連れていって、な」
そこで漸くエリスの姿が目に入ってカミューは息を飲む。可哀相に腕を切られたバルの凄惨に苦しむ様を目の当たりにして血の気を失っている。確実な解放手段には違いなかっただろうが、だからもう少し女性に対しての気遣いを覚えろと言うんだ、などと呆然としながらも胸の内で無骨な男を罵った。
しかしカミューのその顔は泣き笑いのような表情を浮かべていた。
next
アクションて言うのは書くのが本当に難しいです。
そして印刷物ではページ数の都合で出来なかった行間を空けるという事をしまくりです。
さて、残りもうちょっと。
もう少しお付き合いくださいね。
2008/03/16
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