14. 真実
エリスのあまりに蒼白な顔色と呆然とした様子に、カミューは彼女をそっと促して屋外へ出るために歩き出した。彼女は抗わずに付いてくる。
カミューはそして地下であろうその場所で、出口が何処にあるのかを探りながらも進み、漸く外に出るとすっかりと夜だった。しかも街の大通りに面した立地だったことに驚く。日暮れてもなお、道行く人々は多く、賑やかな場所である。
そしてそんな所に、数人の赤騎士が物々しく控えていた。
皆直ぐにでも剣を抜けるように鞘止めを外して殺気立っていた。しかし建物から出てきたカミューの姿を認めるなり、一様に情け無いほどにほっと安堵に滲む表情になったのに、つい苦笑する。
しかも夜中である上に、事情が事情のために大騒ぎには出来ない所為か、静かにカミューの無事を喜ぶ姿がなんとも言えずカミューはただ黙って彼らの働きを労う。
そんな中、カミューはエリスの躊躇う気配を感じて軽く思案する。だがそんな時だ。
「カミュー様」
一人の赤騎士がカミューの服が散々な有様であるのに目をやって己の騎士服の上着を差し出した。一瞬、どうしようか迷ったものの流石にこの格好は酷過ぎるかと思い、素直に頷く。途端にその赤騎士が嬉しそうに笑うのが、またなんだか可笑しかった。
「すまない、借りるよ」
鉤裂きに血と埃とにまみれた上着を脱ぎ捨てて、カミューは赤い騎士服を肩に羽織った。そして振り返ると、驚いたように目を瞠るエリスと目が合った。そして首を傾げた。もはや言わずもがなである。
「信じて頂けましたか?」
苦笑混じりで問い掛けるとエリスは唇を震わせてさっと俯いた。
「カミュー様と、仰いますのね……。わたくし、そのお名前を存じておりますわ。だって、マイクロトフ様と同じくらい、有名ですもの」
確かに、騎士だとは言ったが名乗りはしなかった。流石に、マイクロトフとのあんな場面を見られているのに、己が赤騎士団長だと告げることに咄嗟に躊躇いが浮かんでしまったのだ。それでも、もうそんな躊躇などどうでもよくなってしまった。
「わたくしは……」
顔を上げたエリスは意外なことに悪戯っぽく笑みを浮かべていた。だがその瞳には涙が潤んでいる。
「結局、私は何も分かっていなかった。それが今、ともて情けなくて恥ずかしい。あれほど理解しなさいと仰られていたのに、私は今頃漸く気付いて……さぞかしお腹立ちでしょう」
言って再び俯いたエリスの足元に、ぽたぽたと水滴が落ちた。
「もう、もう二度とお目にかかりません―――直ぐにでもこの街を去ります。二度と、ご迷惑などかけないように……」
「レディ、それではわたしがあいつに叱られてしまう」
え、とエリスが顔を上げた。
「もとより、レディを幾度も泣かせるなど不覚の極み……本当に恐ろしい思いをさせてしまいましたね」
これでこの街を嫌いになどならないと良いのですが。そう言ったカミューにエリスは涙に濡れた頬を笑みに変えた。
「いいえ。わたくし、この街がとても好きになりました。こんな事になってしまって後悔ばかりですけれど、でも最後に見えた真実はわたくしにはとても優しかった……この上着は、あの方達がかけて下さったの…」
エリスは言って、赤騎士たちの中に紛れるようにして居る幾人かのレニーの手下達を見た。その横顔には最初にあった彼らへの嫌悪などまるでなかった。その様子から、この娘は基本的に人を信じやすいのだろうとカミューは思った。素直に善良に育てられたのだろう。だとすればこんな陰謀に巻き込まれたのはむしろ気の毒に過ぎた。
けれども彼女はマチルダでも名家の出であり、将来的には地位ある男の妻になるべき教育を受けてきている筈なのである。だからカミューはあえて厳しい眼差しを向けた。
「この街の男は基本的に女性には紳士的なんですよ。でもレディ、真実の全てが人に優しいとは限らないのですよ?」
敢えて言わなくてもいいかもしれないとも考えたが、カミューは口にした。
「バルの事はお忘れなきよう。ああした悪はどのような時代にも、どのような場所にもいるのですよ」
途端エリスの瞳に打ち沈んだ色が宿る。それに出来るだけ優しく微笑みかけながらカミューはふと耳に届いた怒声に気をそらした。
「……あれ、は」
傍らでエリスも気付いたらしく小さな声をあげる。二人の視線の先には大暴れし過ぎて赤騎士に抑え込まれている男がいた。豪快な顎鬚と野太い声は見知ったそれだ。だが男の方は憎憎しげにカミューたちを見るとケッと唾を吐いた。
「すかしやがって! 何見てんだコラ、ぶっ飛ばすぞ!」
近くの騎士によさんかと嗜められる。だが男は歯を剥いて二人を睨むのをやめなかった。そんな態度にエリスは戸惑いを隠せずにおろおろとしていたが、カミューはたまらず、ふっと軽い笑い声を洩らした。
「それでも、時に嘘が優しいこともある。『互いに知らぬ振りを約束する』あの男はまったく、何処までも義理堅い……」
ハッとつぶらな瞳が瞬いた。そして、おずおずとではあったが、その小さな顎がこくりと頷いたのである。
「わたくし……わたくしは……」
「お父上の元にお戻りなさい。そこで、また色々と学び直されると良い」
「―――……わたくし…」
「部下に送らせましょう、そして今日見聞きしたことはどうぞ内密に。後日赤騎士団よりお話を聞きに伺わせて頂きますが」
よろしいですか? との言葉にこくりと頷く。
それではお気をつけて、とカミューが微笑むとつられてかエリスも漸く笑顔を見せて深く頭を下げ、今度こそ何も言わずにカミューの元から去って行ったのだった。
*
マイクロトフが大きく息を吸い込んだ時、そこに手向かうものは誰一人居なかった。
滾る血のままにレニーの制止も聞かずに単身乗り込んだものの、そこにカミューを追い詰める男の姿を見つけて理性の糸が切れたらしかった。そうマイクロトフが気付いたのは倒すべき相手が居なくなってからのことだった。
最初に男の腕を切り落とし、カミューの頭を撫ぜた。そこまではまだ、辛うじて理性が残っていたような気がする。だが奥の部屋に入った途端、焼け跡のそれに似た匂いに思考を焼かれ、取り敢えず向かってくる者には剣を向け、そうでない者も殴り倒してとことん床に沈めた。そして漸く頭が冷えてから、慌ててカミューを探して来た道を駆け戻った。
いったい何処へ行ってしまったのかと、赤騎士たちを捕まえて問うたびに指差す方向へと走る。そしてややもせず。赤騎士の鮮やかな色を纏っている姿が目に飛び込んできた。それは見慣れぬというにはあまりに懐かしい、平騎士の騎士服の上着を羽織った姿だった。
マイクロトフが立ち止まったと同時に、街灯の下に浮かぶ血や埃に汚れた顔がふとこちらを向く。その瞬間ふわりと風が吹きぬけて肩に羽織っただけの上着が煽られふわりと浮いた。刹那その下に隠されていた満身創痍の有様が見えて血の気が引いた。
琥珀が真っ直ぐに見詰めてくるものの、マイクロトフが無言で歩み寄るにつれ、その表情が怯えたように曇っていく。
「カミュー」
だが名を呼んだ途端にふっとカミューの身体に張り詰めていた緊張が抜けるのが分かった。マイクロトフは伸ばした手でそろりと身体の異常を確かめていく。
肩、腕、脇腹、腰。時々痛むのかびくりと慄く様が痛々しい。だがそれも打撲ばかりでさして大きな傷がないことに安堵する。手酷くやられたようなのは分かるが、これでもカミューは歴戦の戦士である。身を庇う術も充分に身につけている。
「何処も、怪我は無いな……?」
「うん」
しかし、おまえも、との小さな応えに頷こうとした刹那、マイクロトフは夜目にもはっきりと分かる火傷に顔つきを険しくした。
「この手首はどうした」
「自分でやったんだ。縄を解くのに―――」
「紋章だな…。全くおまえは無茶をする……」
「なんだ、褒めてはくれないのか」
「馬鹿が―――痛むか」
「それなりに」
痛むだろう。流石に火傷だけあって触れて労わるのは躊躇われ、マイクロトフはカミューの肘の辺りを掴んで、怪我の状態を見た。赤く腫れたそこは今は少し乾いて白っぽく皮膚が浮いている。ひどい火傷だった。
しかしカミューはさり気無くマイクロトフから己の腕を引き離すと、にこりと笑った。
「……平気だ」
「カミュー」
やせ我慢が透けて見えたがマイクロトフはそれ以上の追求を辞めて、ほっと息をついた。
「他にはないな」
「うん」
頷くとカミューは「安心したか?」と小さく訊ねてきた。マイクロトフが唇を引き結んで頷くと「そう…」と呟いて不意に俯く。
「カミュー?」
「うん……、マイクロトフ―――来てくれて、有難う」
告げながらカミューの手が逆に袖を手繰り、軽く身体を引き寄せたかと思うとその額がマイクロトフの肩に伏せられた。
「おい?」
「ごめん、暫くこのまま」
「………」
彼が消え入るような声で願うのを、マイクロトフは黙って受け入れた。すると、少し経ってカミューの気弱な声がぽつりと打ち明けだした。
「反省したよ。死ぬつもりはなかったけど、おまえが来なかったらどうなっていたんだろうな……あの時、咄嗟に諦めかけたことを謝るよ。すまなかった」
あの時、とはいつのことだろう。思い出せずにいると微かに笑う気配がしてカミューが説明する。
「女性を盾に取られて動けなかった」
ああ……。そう言えばあの女性は何者なのだろう。あの後、姿を見ないが―――まあ誰も何も言わないので大した事ではないのだろう。それよりもどいつがバルという男なのかが未だに分からない。見つけたら叩き切ってやるつもりだったというのに。
「最近、色んな事があって考えなくても良い事を沢山考えていた気がするんだが……だけどマイクロトフ、結局あの時頭に浮かんだ事が全てだったよ」
「なんだ?」
「マイクロトフがいれば良い。他は、要らない……おまえだけが、わたしの全てだよ」
顔は伏せられたまま、見えなかった。声も小さくて冷たい風に紛れて消えてしまいそうだった。だがそれは確かにマイクロトフの耳に聞こえたのだ。
「カミュー……」
マイクロトフは自分の肩に伏せるカミューの頭を、そっと撫でた。そして。
「なぁカミュー、こんな状況でそんな素直なことを言われると、今すぐ抱き締めてキスしてやりたくなってたまらんのだが」
言ったらカミューが掴んでいた袖越しに腕の肉をぎりっと捻り込んだ。
「……っ!」
「人が真剣に告白をしているのに、おまえと言う男は……」
低い、如何にも機嫌を損ねたらしい声音にマイクロトフは慌ててカミューの髪を撫で梳いて宥める。
「わ、悪かった。しかしなカミュー、それは俺にとっては告白とは言えない」
「……なに?」
「口に出して言われると物凄く嬉しいが、ちゃんとおまえの心は分かっているからな―――だからカミュー、素直になるならこんな場所ではなくてもっと……っ!!」
またもやぎりりっと捻り込まれて悲鳴を押し殺す。しかしマイクロトフはその顔に笑みを浮かべたまま、カミューの髪を撫で続けていた。
「怒るなカミュー、腕の肉が千切れそうだぞ」
「………」
「そもそも礼を言われる必要もないんだ。言っただろう、俺はおまえから目を離したくないとな。当然のことをしたまでだ」
「マイクロトフ…」
「おまえは放っておくと、とんでも無い場所へ迷い込むからな。しかも俺と違って、複雑で分かり難い場所ばかり選ぶからおかげで―――ああ、そうだ迷子だ」
ふと思い出した言葉にカミューが「え?」と肩から顔を上げた。そして視線の合った琥珀の瞳にマイクロトフは可笑しさを堪えながら言ってやった。
「実はおまえは迷子扱いだ。なかなか戻らんから赤騎士が探しに出て、そこで偶然、ごろつきどもの喧嘩を見つけて仲裁に入ったところ、これもまた偶然違法な毒薬を見つけた、という筋書きになる」
一気に伝えた事柄は、一味のところへ踏み込む直前、レニーと赤の副長とマイクロトフとで大慌てで取り決めた筋書きだ。だがそこに勝手をして散々皆に心配をふりかけたカミューの意思は当然ながら無い。
「迷子だって? わたしが?」
冗談だろう? とでも言いたげな表情に、しかしマイクロトフはしっかりと頷いてやった。よもや襲われて攫われたとは報告できない赤騎士団苦肉の策だ。バル一味を取り押さえるために動かした人数は決して少なく無いのだ。尤もいくら迷子だと報告書にしたためたとしても、誰も額面通りには受け取らず勝手に裏事情を作ってくれるだろうが。
何しろカミューと華やかな噂ほど親密なものはない。だが真実を知っているものにして見れば、実に愉快である。
「ああ、おまえが迷子だ、カミュー」
たまらず吹き出してマイクロトフは再びカミューの乱れた髪を直してやる。そして納得のいかない表情でされるがままでいるのをまた笑って、更に続けた。
「だからレニー殿たちは一度は連行させてもらうが、毒物事件でうやむやにしてさっさと解放する。もともと彼らには何の罪もないのだからな」
客人扱いで城への招待である。縄だけは外せないのが難点ではあるが。マイクロトフのそんな説明に、カミューは不意に嬉しそうに微笑んだ。
「マイクロトフ、いつの間に仲良くなったんだ」
「レニー殿とか?」
「わたしは彼らと懇意になるのに随分と時間と手間をかけたのに」
くすくすと笑うのにマイクロトフはだが低く唸ってこめかみを掻いた。
「実はおまえの行方を追って、この格好のまま彼らのところに飛び込んでしまった」
「それはそれは、驚かれただろうに」
「うむ。だがレニー殿は知っていたらし―――あ」
「あ?」
しまった。思い出してしまった。
マイクロトフはレニーにカミューとの口付けを見られていた事実に、つい馬鹿正直にうろたえてしまう。当然ながら目の前の琥珀は不審に彩られていった。
「マイクロトフ……何か隠し事かい?」
「いや、別に」
「別に?」
にっこりと微笑まれてマイクロトフの中の嘘つきな人格が膝をつく。
「見られていたんだ、その、俺がおまえを追いかけてレニー殿のところへ通っているのだと聞きだした時」
怒るだろうか。いや怒るだろう、とドキドキしながらマイクロトフは白状した。しかし。
「ああ、何だそうだったのか」
カミューの態度は実にサッパリしたものだった。事実、エリスにも見られていたと知らないマイクロトフには、不思議でたまらない。
「カミュー」
「ん?」
「見られていたんだぞ?」
「ああ、仕方ないな。あんな場所にいた我らも悪いから」
「そ、そうだが……カミュー?」
しかし恋人は柔らかく微笑みを浮かべてマイクロトフの弱り果てた頬を撫でた。
「帰ろうか」
「あ…?」
ぽかんとするとカミューはくすりと苦笑を洩らした。
「ここでは素直になるなと言ったのは、おまえだろうに」
言われた言葉の意味をマイクロトフが理解したのは、直後の事だった。
next
このお話の修正は全体的に主に台詞部分になります。
今回はエリス嬢の台詞を少し変更。
本の中ではもっと馬鹿っぽかったような気がします。
2008/05/24
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